ルペルカーリア(2014)
隆→リリバレンタイン
「リリアンセ・ン・セ!」
よく通る低い声が自分の名前を呼んだのでリリアンは出来る限り顔をしかめて振り返った。
ギリシャ彫刻のような見事な体躯を持つ男が壁に寄りかかってリリアンを見ている。湖に沈んだ森のような不思議な深緑が笑みの形に歪んでいた。右手に本を持ち、嫌味なほど長い足が廊下に投げ出されて女の通行を阻害していた。
「西野、なんのよう?」
「隆弘だ。わかんねぇ英単語があるんだが、教えてもらえねぇか?」
口の片端を歪めた青年が差し出したのは文庫本。シェイクスピアの『ソネット集』だ。リリアンが眉をひそめる。
「お前帰国子女だろ。わかんないわけないじゃん」
「おいおい、俺が日本にきたのいつだと思ってんだ? 忘れちまった単語のひとつやふたつあるぜ」
「……イセリタに頼めよ」
「なんだよセンセー、忙しいのか?」
ギリシャ彫刻の笑みが挑発的なものに変わる。ヒラヒラと文庫本をかざした男を睨みつけたリリアンは、数秒しても隆弘の表情が変わらないことを確認して諦めたようにため息をつく。
「……どこだよ?」
隆弘が本を開いて差し出してきたのでリリアンはなにも考えず本のページをのぞき込む。ソネット集18番。
問題の箇所を確認するために女が顔をあげる。
「これのどこ?」
リリアンの目の前に影が差し込んだ。澄み切ったコバルトブルーが目の前にある。あれ、と思った瞬間唇に暖かいものがふれた。
「……!?」
キスされたと理解したのが1秒後で、咄嗟に目の前の男を突き飛ばした直後、相手は二回りも年下の学生であることを思い出す。
軽くリリアンから距離を取った男は突き飛ばされて拒絶されたというのに平然としていた。リリアンの顔が熱くなる。震える指で隆弘を指すも彼はまったく動揺した様子がなかった。それどころか挑発的な笑みを浮かべている。
リリアンがせめてなにか文句を言おうと口を開くも、でてくるのは意味のない単語ばかり。
「なっ、なっ、なっ!」
酸欠の金魚よろしく彼女が口をパクパクと開閉していると、ギリシャ彫刻が喉の奥でククッ、と笑った。
「ウソだぜ。わからねぇ単語なんざねぇよ」
男の言葉にリリアンの頭が沸騰する。怒りをそのまま声に変換しようと思ったが、彼女の口は金魚のようにぱくぱくと情けなく動くだけだった。
――それが、2月7日のことだった。今日からちょうど、一週間前のことである。
◇
バレンタイン当日の学校はとても浮出しだっている。男子はソワソワして落ち着かないし、女子はキャワキャワと可愛らしい歓声をあげてはしゃいでいた。女子同士で友チョコの送りあいなんていうのは毎年恒例で、特定の男子の机やらロッカーやら下駄箱やらに菓子がごまんと詰め込まれているのも、やはり毎年恒例だった。
リリアンは華やかな雰囲気を醸し出す学校をゆうゆうと歩いていた。手にはビニール袋を下げている。放課後なのでこれから一仕事終えれば帰るだけだ。校長室のドアに手をかける。彼女がドアをあけると同時に一枚の紙がヒラヒラと宙を舞い、廊下に落ちた。
「……なんだ?」
拾い上げると、美しい薔薇の意匠が印刷されたメッセージカードであることがわかる。裏をひっくりかえしてみると表の模様に負けず劣らず美しい筆記体でメッセージが綴られていた。
Shall I compare thee to a summer’s day?
Thou art more lovely and more temperate
君を夏の日に喩えようか。いいや、君の方が美しく、穏やかだ。
ウィリアム・シェイクスピアのソネット集18番。筆跡に見覚えはなくとも誰からのメッセージなのかすぐにわかる。リリアンは思わず、深いため息をついた。
わざわざ英文のソネット集を見つけ出し、さらにリリアンに18番のページを見せて、キスがどういう意図なのかわからないが一連の流れを印象づけるためだというのなら大成功だ。
いまリリアンの顔は、怒りとは別のもので非常に熱い。
「く、くそっ、あのキザ野郎! ホモ臭いメッセージおくりつけやがって!」
照れ隠しに多少勢いをつけてドアをあける。とにかく書類をすべて机に置こうとして、赤い薔薇が1本おいてあるのに気がついた。
薔薇は送る本数で意味が違ってくる。
1本の薔薇は『あなただけ』
今度こそ盛大に舌打ちしたリリアンは、乱暴に書類を机に置き、薔薇はあとで花瓶に活けることにして――とにかくデパートでみかけて買ってきたチョコレートリキュールを、目的の相手に渡してきてしまおうため足早に校長室を後にした。