海まで急げ
「私、実はアイドルになりたいんです」
マスターに出してもらったジュースを飲み終え、しばらく話していると、桜内さんがいきなりそんなことを言い出した。
「ああ、それであの本を買おうとしてたんですね」
「はい。今日ここの近くでアイドルのオーディションをするので、少しでも参考にしようと思いまして」
そう言えば、確か姉貴が言ってたな。
そのせいで俺はこうやって外でブラブラすることになったんだっけ。
まぁ、オーディションの打ち合わせのおかげで桜内さんに会えたんだからいいか。
「へぇ、そのオーディション受かればいいですね」
何人受けるかも、何人受かるかも分かんないけど、桜内さんなら受かるだろ。
「そうなればいいんですけど………噂によると倍率50倍以上らしいんです。受かる人数も7人だけですし。私自信全然なくて………」
「うわぁ、7人の50倍って、350人も受けるんですか?」
「はい。そうなると思い………」
「いや、それどころじゃありませんね」
「「マスター!?」」
またしてもいきなり現れたマスターに俺も桜内さんも同時に驚く。
ホントに突然現れる人だな、おい。
「そのオーディション、当日参加OKだったはずです。当日参加も含めると下手すれば100倍になる可能性もあるかと」
「……………マジですか?」
おいおい、それだと一体何人受けることになるんだ?
大体そんなに大人数のオーディションってどこでやるんだよ。
この小さな町にそんな大がかりなことできる場所なんてあったか?
こんなことだったら姉貴に詳細聞いておけば良かったな。
「これはただの噂でしかありませんが、可愛いだけでは駄目らしいですよ」
「どういう事ですか?」
「もちろん容姿端麗であることも条件ですが、なんでも今回はアイドルの売り出し方が普通ではないらしくてですね。普通では考えられられない試験をやるんだとか。まぁ、どんな内容かは知りませんがね」
「そうなんですか………」
桜内さんは『はぁ~』と大きく溜息を吐く。
それはそうだろう、ただでさえ高い競争率なのに、それが更に高くなるんだもんなぁ。
「まぁ、とにかく受けないことには受かりませんからね。お客さんもお綺麗ですし、頑張ってみてはどうですか?」
「そうですよ、桜内さんなら絶対受かりますって」
いくら競争率が高くて試験が普通じゃなくても、やっぱり可愛い人を合格させるはずだ。
桜内さんレベルの人が7人以上いるなんて思えないから、普通に考えれば問題ないだろう。
「私も芹沢さんみたいに可愛ければ自信持てるんですけど………私、可愛くありませんから………」
「そんなことないですよ!桜内さんは可愛いですって!」
思わず大声で言ってしまって、周りの視線を集めてしまう。
しかも、今気付いたけど、俺女の子になんて事言ってんだよ。
これじゃあまるで桜内さんに告白してるみたいじゃんか。
桜内さんも顔を真っ赤にして俯いちゃってるし。
桜内さんがあまりにも自信を持ってないからつい言っちゃったけど、これってやばくない?
「あ、あの………せ、芹沢さん?お、お世辞は嬉しいんですけど………その……」
「いや、これは別にお世辞じゃなくて………」
本心なんだけど、これを言ったらまた可笑しなことになりそうだな。
何かいい言葉はないかと考えていると、マスターが助け船を出してくれた。
「お客さん、そろそろオーディションの締め切りが終わりますが、行かなくてもよろしいんですか?」
「………え?」
「時計はあちらです」
マスターが指差した方向を見ると、時計は12時半を示している。
「オーディションの受付終了は1時でしたね、確か」
なるほど、受付終了が1時ってことは、後30分か。
………これって、やばいんじゃない?
オーディションをどこでやるかは知らないけど、場所によっては30分じゃ行けないからな。
「マスター、オーディションってどこでやるの?」
「確か、海でやるって聞きました」
「マジで?」
「マジで」
それじゃあもう間に合わないじゃん。
ここから海まで歩いて行ったら1時間くらいかかるから無理。
タクシー呼ぶにも時間がかかるし、電車は海の近くで止まらない。
やばい、どうしよう?
「芹沢さん、どうしましょう?このままでは間にあいませんよね?」
「どうしましょうって言われましても………」
情けない事にどうしよもないんだよな。
今からすぐに車が出せればいいけど、そんなに都良くは行かな………。
「車、出しましょうか?」
いと思っていたんだけど、このマスター今何て言った?
「あ、あの、もう1度言ってくれませんか?」
おずおずと桜内さんが聞く。
「ですから、お送りしましょうかと言ったんです。このままでは間にあわないでしょう?」
「それはそうですけど、いいんですか?」
「問題ありません。で、どうします?」
「どうしましょう?芹沢さん」
「いや、俺に聞かれましても………」
オーディション受けるの俺じゃねぇし。
聞かれても答えようがないんだよな。
「あ、そうですよね。すみませんでした」
桜内さんはそう言うとペコリを頭を下げてくる。
「そんなことはいいので、どうするか決めた方がいいですよ」
「は、はい。………えっと、それじゃあ、お願いしてもよろしいですか?」
「そうですか。では、車の準備をしてきますね」
マスターはにやりと笑うと店の外に歩いていく。
どうやら、ホントに送ってくれるみたいだ。
初対面なのに、どれだけ親切な人なんだよ。
「あの、芹沢さんにも付いてきてもらっていいですか?1人では不安なので」
「別にいいですよ、それじゃあ行きましょうか」
そう言うと、俺は桜内さんの手を引っ張って歩き出した。
今思えば、この軽率な返事が後悔を産むことになるんだよな。