汐見ヶ浦の白昼夢
御厨博士からの手紙が届いたのは、梅雨の終わりに近い、ひどく蒸し暑い夕刻のことだった。
薄紫色の夕暮れが部屋を染め、開け放たれた窓からは生ぬるい風が吹き込んでいる。私の机の上には、一通の分厚い仔牛皮紙の封筒が置かれていた。宛名はない。ただ「汐見ヶ浦 御厨」という文字が、薄気味悪いほど滲んだ墨で記されているだけだった。裏返すと、ダニに不格好な翼が生えたような、青黒い八本足の甲虫の蝋印が押されている。私は微かに指を震わせながら、ペーパーナイフでその封を切った。
便箋には、たった三行だけ、こう書かれていた。
『速水君、装置が、出来た。来られたし。御厨』
私はその文字をじっと見つめたまま、まるで何かに操られるように、無意識のうちに傍らの旅行鞄へと手を伸ばしていた。
この手記は、その後、私が汐見ヶ浦で目撃したことの覚え書きである。十九世紀の科学史を専攻するいち助手に過ぎない私が、恩師である御厨聖一郎博士の狂気と、彼がどのようにして『この世の理』を壊し、満ち足りた顔のまま自ら作り出した怪物に食われて果てたかを記す、唯一の記録だ。
翌日、私は鞄を提げて汐見ヶ浦の無人駅に降り立った。青い海と淡い空の下、ペンキの剥げた木造駅舎がぽつんと建っている。崖際の細い道を下っていくと、湾曲した小さな漁村の全景が見えた。
縁台で煙管をくゆらせる老女、土間で眠る魚屋、路地を走る二人の子供。一見すると長閑な漁村の風景だが、奇妙な違和感が拭えなかった。人々の距離が異様に離れているのだ。空間に対して人が少なすぎる。まるで白昼夢の中を歩いているような、輪郭のぼやけた光景だった。
ふと立ち止まり、空気を嗅ぐ。遠い雷雨の前に漂うオゾンの匂い。あるいは、古い理科室の薬品棚の奥底に沈む、あの埃っぽい薬品の匂いがした。
断崖の上に、古く朽ちかけた白壁の屋敷が建っていた。玄関に立ち、声をかけようとしたその時、内側から軋む音を立てて戸が開いた。
暗がりに立っていたのは、御厨博士だった。頬は無惨に削げ落ち、目の下には深い翳りが刻み込まれている。かつて大学で教鞭をとっていた頃のふくよかな面影は微塵もなく、異様に痩せこけていた。しかし、その双眸だけが、病的なまでにギラギラと異様な光を放っていた。
「速水君。よく来た。よく来たね。さあ、上がりたまえ」
博士は私の手を強い力で握りしめた。骨が軋むほどの痛みが走る。
「君は来る。君だけは、来る。怖がっていることと、来ることとが、君の中では矛盾しない。それが君の美質なのだ」
早口でまくしたてながら、博士は私の袖を引いて薄暗い廊下の奥へと進んでいく。両側の障子は開け放たれており、そこには常軌を逸した部屋群が広がっていた。
緑や薄紫の液体で満たされた無数の標本瓶。その中の一つでは、何かが呼吸するように蠢動している。別の部屋では、床一面に数十台のボルタ電池が敷き詰められ、無数の銅線が蛇のように這い回っていた。さらに奥の部屋では、本来位牌が納められるべき仏壇の中に、蜂の巣のように密集したガラス管が詰め込まれていた。
「先生、これは……」
「予備だよ、予備」博士は振り返りもせずに答えた。「満ちていないと起動しないんだ。条件がね、この家全部で、ようやく一つの条件を満たすんだから」
突き当たりの分厚い樫の扉。博士がそれを押し開けると、粘度を持ったような奇妙な光と空気が溢れ出してきた。
そこは元々和室だったようだが、畳と床板は完全に剥がされ、むき出しの土の上に巨大な装置が据えられていた。
中央にそびえ立つのは、高さ六尺にも及ぶ継ぎ目のない硝子の円筒。その中には金色の液体が満たされ、生き物のようにゆっくりと脈打っている。頭頂部には青銅の枠に張られた斜めの鏡が据え付けられており、そこには本来の部屋とはわずかにずれた天井の梁が映り込んでいた。
「月鏡だよ。月の潮がこれを通じて落ちてくる。そして電流を通す。すると……」博士は愛おしげに円筒を撫でた。「生物が、無生物から、生まれる」
「クロスの実験の、延長ですか」
私の問いに、博士は顔の筋肉をひきつらせて笑った。
「延長ではない。完成だよ。生物と無生物のあいだにある、この世の理。その薄い紙が透けるところに、正確な電流を通す。すると、向こうからこちらへ、何かが滲み出てくる。生物でも無生物でもない、第三のものが。この世の、染みだよ」
博士は私の両肩を強く掴み、狂信者のような瞳で私を覗き込んだ。
「今夜、月齢は十五。満潮と地磁気の極大が一致する。速水君、君には、私の最後の実験の、証人になってもらいたい」
夜が来た。すべての雨戸が閉ざされ、屋敷は深い闇に沈んだ。机の上に置かれた小さな蝋燭の火だけが、頼りなく揺れている。私は正座し、息を殺してその時を待った。
円筒の前に立つ博士の右手には、銀の懐中時計が握られていた。
「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ……」
異様に早いテンポで呪文のように呟き続けると、博士は懐中時計を閉じた。屈み込み、両手で二本の銅線を握る。一度だけ、彼はこちらを振り返った。その目は、かつての穏やかな恩師のそれに立ち返っていた。微かに頷き、博士は銅線を円筒の端子に接続した。
音はなかった。
しかし、室内の空気が一瞬にして激しく膨張した。私は思わず耳を押さえた。奇妙なことに、蝋燭の炎が真横に倒れたまま、消えることなく燃え続けている。
円筒の中の液体が内側から強烈に発光し始めた。見上げると、斜めに張られた月鏡には、ありえないほど巨大な満月が映し出されていた。
「来い、来い、来なさい。私の、可愛い、染み」
博士が両手を広げて叫ぶと、液体の底に白い霞が現れた。それは急速に凝集し、形を成していく。八本の細い脚。半透明の発光する胴体。米粒大だったそれは、みるみるうちに握り拳大に、そしてついには円筒を満たすほどの大きさに膨れ上がった。
「ああ、ああ、ああ……!」
博士は涙を流し、満面の笑みを浮かべた。
次の瞬間、音もなく円筒の硝子が空気に溶けるように消滅した。
むき出しになった「染み」は、すでに仔牛ほどの大きさに成長していた。顔も口もないが、頭の中央にある縦の裂け目から青い光が漏れている。八本の脚がそれぞれ全く別の原理で動いているような、おぞましくも滑るような歩みで、それは博士へと近づいていった。
「おいで、私のものよ。私は、お前の、父だ」
博士は両手を広げたまま、逃げようともしなかった。
染みの頭部の縦穴が、ゆっくりと開いた。中には赤黒く脈打つ粘膜が見える。博士は静かに目を閉じた。
「ああ、いい。僕は、この実験に、満足している」
染みの裂け目が、博士の頭から肩までを音もなく呑み込んだ。下半身だけが外に投げ出された状態で、博士の歓喜に満ちた声が響いた。
「目的を達成した中で死ぬ。こんなに意義のある人生があるかい」
やがて全身が呑み込まれた。半透明の怪物の体内で、御厨博士の輪郭がゆっくりと溶け、崩れていく。私はその冒涜的で美しい光景に魅入られ、指一本動かすことができなかった。
突然、染みが振り返り、私を見た。
その瞬間、壁が異様な音を立てて裂け始めた。廊下から、仏壇の部屋から、標本瓶の部屋から、次々と大小の染みが這い出してくる。無数の青い光が暗闇に交錯し、屋敷全体が悲鳴のように軋んだ。そして、あらゆる方向から、溶けてしまったはずの御厨博士の声が響き渡った。
私は弾かれたように我に返り、真横に倒れていた蝋燭を掴んで走り出した。手にした瞬間、炎はふっと上を向いた。
中庭へ転がり出ると、屋敷の隙間という隙間から青い光が漏れ出し、瓦を突き破って巨大な半透明の脚が蠢いているのが見えた。私は夢中で崖道を駆け下りた。
ふと立ち止まり、海を振り返る。
水平線の半分を占めるほどの、おぞましいまでに巨大で黄金色に輝く月。その縁を、無数の「染み」が群れをなして這い回っていた。
背後の崩壊音が不自然に止んだ。
振り返ると、屋敷から漏れていた光が消え、建物の輪郭そのものが透け始めていた。柱も、壁も、床も、すべてが夜の空気に溶けていく。後には、生ぬるい海風に揺れる夏草の群れだけが残された。
私はふらふらと歩き、屋敷のあった跡地の中心で膝をついた。無意識に土を掘り返すと、指先に硬いものが触れた。金色を帯びた、小さな硝子の粒だった。私はそれを拾い上げ、ポケットの奥深くへとしまい込んだ。
見上げると、月はすでに、見慣れた通常の大きさに戻っていた。
数日後、私は大学の研究室で古い書類の束を繰っていた。
しかし、どこを探しても「御厨聖一郎」という名は見当たらなかった。私が提出した過去の論文の指導教員の欄も、すべてが不自然な空白になっている。博士は最初から存在していなかったかのように、この世の記録からきれいに拭い去られていた。
夜になり、私は自分の部屋の机に向かっていた。
あの日から、この手記を書き進めている。ふと思い立ち、引き出しを開けた。
そこに入れておいたはずの、あの金色の硝子の粒はなくなっていた。
代わりに、引き出しの木の底板には、八本の細い線が放射状に鋭く刻み込まれていた。
粒は溶けて消えたのか、それとも、自ら歩いて出ていったのか。私にはわからない。ただ、すべてが空気に溶けて消える瞬間までは、はっきりと覚えている。自らが創造した虚無に呑み込まれる瞬間の、博士の恍惚とした微笑を。そして、巨大な黄金の月の縁を這い回っていた、無数の染みたちの群れを。
私はペンを置き、窓の外に浮かぶ青白い月を、ただ静かに見上げていた。




