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短編集

百の夢が重なり、一つの「おはよう」になった

作者:
掲載日:2026/01/31

 まぶたの裏で、百の空が燃えていた。


 ある世界では、小学校の先生だった私の前に、かつての教え子が高校卒業と同時に現れて、迎えに来てくれた。 

 ある世界では、奴隷剣闘士の私が好きな人と戦い、勝利したあとで命を絶った。

 ある世界では、近未来の崩壊寸前の世界で、彼女と暮らしていた。

 ある世界では、ファンタジーの世界で、彼女と冒険をした。

 ある世界では、外国で彼女と一緒になっていた。

 またある世界では、子供の私が大好きなお母さんにマッサージをしていた。


 全部、私だった。

 全部、私の「綾」という名前を呼ぶ、彼女がいた。

 世界が違っても、呼ばれ方が違っても、私はその声に生かされてきた。

 優しく、時に残酷に、あるいは不器用なほど真っ直ぐに注がれた

 百通りの(物語)が、今、激流となって脳裏を駆け抜けていく。


 それは整理されていない情報の塊なんかじゃない。

 確かに私が生きていた証。

 触れて、愛されて、愛して、時には失ってきた、

 百通りの「可能性」だった。


 全部、私だった。

 私の名前「綾」を、優しい声で、時には切ない声で、必死に呼んでくれる彼女が、そこにいた。

 世界がどれだけ違っていても、呼び方が少し変わっていても、あの声だけはいつも同じだった。

 耳の奥で響いて、心臓を直接叩くみたいに、私をこの世界に繋ぎ止めてくれる。

 その声があったから、私はここまで生きてこれたんだ。


 優しく包み込むような温もりで、時に残酷なほど鋭く突き刺さって、あるいは不器用すぎて笑ってしまうくらい真っ直ぐに注がれた、


 百通りの人生《物語》が、今、頭の中で激流みたいに駆け巡っていく。

 それはただの情報の塊なんかじゃない。

 どれも、紛れもなく私が生き抜いてきた時間だ。

 肌が触れ合った感触、唇が重なった熱さ、涙が頰を伝う塩辛さ、別れの瞬間に胸が引き裂かれる痛み……。


 全部、全部、本物だった。

 触れて、愛されて、愛して、時には永遠に失ってしまった、

 百通りの「可能性」が、私の血肉となって、今も脈打っている。


 綾。

 その一言が、脳髄を震わせた瞬間、世界がぱちんと弾けた。

 それを「ただの夢だった」と片付けるには、心臓が痛いほど、本当に痛いほど、激しく脈打っていた。


 胸の奥が締め付けられるみたいに、ずきずきと疼いて、息をするたびにその痛みが全身に響く。

 百の世界で味わった、あの感情のすべてが、今、私の血肉になって流れている。

 喜びも、切なさも、触れた瞬間の熱さも、失う瞬間の冷たさも……全部が、血管を駆け巡って、私を現実の中に強く引き留めている。


 ふらりと立ち上がって、キッチンへ。

 裸足の足裏にフローリングの冷たさが染みて、少しだけ現実味が増す。

 蛇口を捻ると、勢いよく水が噴き出して、手のひらを叩く。

 コップに汲んで、喉に流し込む。

 冷たい水が、喉の奥を滑り落ちる感触が、はっきりと鮮やかすぎて、逆に愛おしくなるくらい。

 今、それが現実だって、嫌でもわかってしまう。


 その時、背後から、ふわりと気配がした。

 振り向かなくても、わかる。

 肌がざわつくような、胸の奥が震えるような、あの懐かしい存在感。

 夢の中で何度も、何度も、私を呼び止めてくれた気配。

 優しくて、温かくて、でもどこか切なくて……一番、私の心を掴んで離さない、あの匂いと温度。

 私は息を、ゆっくりと吐いた。

 肺の奥に溜まっていた、夢の温もりが、少しずつ現実と混ざり合う。

 でも、完全に消えない。

 むしろ、その気配が近づくにつれて、百の記憶がまた温かく疼き始める。


「まだ、終わってないよ」


 声は、一つなのに。

 優しい春の風みたいな温度も、冬の夜の凍えるような冷たさも、夏の陽だまりみたいな熱さも、秋の落ち葉みたいな優しさも……百のすべてを、たった一つの響きに詰め込んで、私に届いた。


 その瞬間、涙腺の奥が熱くなった。

 でも、泣かない。

 今は、この温かさをちゃんと受け止めて、前に進みたいから。

 私は静かに、玄関の方へ足を向けた。

 夢で見つけた誰かじゃない。

 これから、この現実で、私がちゃんと見つけて、ちゃんと愛していく「その人」のところへ。


  玄関のドアノブに、そっと手をかける。

 指先が触れた瞬間、金属の冷たい感触が皮膚を刺すように伝わってきて、震えがぴたりと止まった。


 百の夢の中で、私は何度もこのドアを開けてきた。

 毎回、心臓が喉まで跳ね上がるような期待と、開けた瞬間に訪れる虚しさの繰り返し。

 でも今は違う。違うんだ。


 開けた先が、血と煙の匂いが充満した戦場だったこともあった。

 部屋で、温かな腕に抱きしめられたこともあった。

 二度と戻れない、優しくて切ない過去の続きだったこともあった。


 けれど、今は違う。

 この扉の向こう側に、私を呼ぶ「一番好きな声」の彼女が、確かに生きて、息をして待っている。

 その確信が、震えていた指を少しずつ落ち着かせてくれる。


 私はゆっくりと、ドアを押し開けた。

 重い木の扉が軋む小さな音が、静かな朝の空気に溶けていく。

 一気に差し込んだ眩しい朝の光が、目を細めさせる。

 まぶたの裏が白く焼けるみたいに明るくて、涙腺の奥が熱くなった。


 同時に、春の匂いをたっぷり含んだ柔らかな風が、頬を優しく撫でて、髪を軽く揺らしながら流れ込んでくる。

 甘い花の香り、新緑の青い匂い、土の湿った匂いが全部混ざって、肺の奥まで鮮やかに染みてくる。

 夢の中の風はいつもどこか薄くて、触れても実体がないみたいだったけど、これは違う。


 生きている風。現実の、温かみのある風。

 そして、視界がぱっとひらけた。

 家の前の、いつもの変わらない景色。


 アスファルトの道、隣の家の低い塀、少し色づき始めた木々。

 全部が、昨日と同じ、ありふれた日常のまま。

 その真ん中に、彼女が立っていた。


 夢の中で見たどの姿とも違う。

 豪華なドレスも、いにしえの古風な衣装も、学校の制服も、何一つ身に着けていない。

 この世界の、今の季節にぴったり溶け込む、ありふれた服を着た彼女。


 薄手のニットが風に軽く揺れて、ジーンズの裾が朝の光を優しく反射している。

 そんな何気ない姿なのに、私の胸は痛いほど締め付けられて、息が浅くなる。


 百の夢で出会った彼女たちは、どれも本気で私を愛してくれた。

 でも、今目の前にいる彼女は、それらすべての愛を優しく受け止めて、ここに立っている。

 現実の、重みのある、息づかいを感じる、かけがえのない彼女。

 その実在感が、百の記憶を一気に呼び覚まし、心臓を強く叩く。


 彼女がゆっくりとこちらを振り向いて、私を見つけた。

 その瞬間、瞳の中に、私の知らない。でも、ずっと待ち望んでいたような温かな光が宿る。


 朝陽を浴びてきらりと輝くその目が、私だけを真っ直ぐに捉えて、離さない。

 心臓が、どくん、と大きく跳ねて、息が一瞬止まる。

 百の夢で何度も感じた視線なのに、今は違う。

 これは、現実の、生きていて、永遠に続く視線だ。


「……おはよう、綾」


 その一言が耳の奥で優しく響いた瞬間、胸の中にあった百の記憶が、

 静かに、けれど誇らしげに整列した。

 まるで長い旅の仲間たちが「よくここまで来たね」と労ってくれるように、

 すべての可能性が一列に並んで、私の背中を温かく押す。


 彼女はまだ知らない。

 夢の中で、私たちが何度も唇を重ね、肌を重ね、愛し合って、時には涙を流したことを。

 彼女にとっては、これから始まるのが初めての恋なんだと思っている。

 愛おしくて、胸の奥が熱く疼く。

 でも、私の中では、もう百回分の愛が、静かに、確かに息づいている。

 私は一歩、外に出た。

 足が少し震えて、地面が遠く感じるけど、夢を全部連れたまま、新しい「私」として。

 百の物語を背負って、それでもこの現実を選んだ私として。


「おはよう。……待っててくれたの?」


 声が、少し震えた。

 喉の奥が熱くなって、言葉が掠れる。

 彼女は不思議そうに首を傾げて、でも、私が一番好きな柔らかくて、少し照れたような笑顔で笑う。

 その笑顔を見ただけで、胸の奥が溶けていくような甘い疼きが広がる。


「うん。なんとなく、今日はずっとこうしていたい気がして」


 それは、運命なんて言葉じゃ足りない、百一回目の奇跡。

 心の中で、百の声が一斉に優しく囁くみたいに、温かさが全身に広がる。

 私は彼女の手を取る。

 まだ知らないことばかりの、でも世界で一番愛しい人の体温が、そこにあった。

 指先が触れた瞬間、夢の中の記憶がフラッシュバックする。

 今は違う。本物の熱さが、手の平全体にじんわりと染みてくる。


 差し出された彼女の手に、自分の指をそっと絡める。

 夢の中で何度も触れた気がしていたけれど、実際に触れる彼女の手は、想像よりもずっと柔らかくて、驚くほど熱かった。

 皮膚の温もりが指の間から伝わって、心臓の鼓動まで同期しそうになる。

 この熱さ、この柔らかさ、この現実感全てが、私を優しく震わせる。


「……あ。綾の手、ちょっと震えてる」


 彼女がいたずらっぽく目を細めて笑って、繋いだ手にぎゅっと力を込める。

 その小さな手のひらが、私のものより少しだけ小さくて、

 でも驚くほど力強く、私の指を包み込んでくれる。

 その力強さに、涙腺の奥が熱くなるけど泣かない。

 今は、ただ笑っていたいから。


「ねえ、綾。どこに行きたい?」


 覗き込んできた彼女の瞳に、朝の光が反射してきらりと光る。

 その輝きが、私の胸の奥まで届いて、優しく刺さるみたいに温かい。

 夢の中の「あの子」たちは、いつもどこか遠くを見ているような、儚くて危うい影があった。

 触れても、掴みきれなくて、いつか消えてしまいそうな、そんな儚さ。


 けれど、目の前の彼女は違う。

 しっかりと地面を踏みしめて、足元に根を張るように立っていて、私だけを真っ直ぐに見つめ返してくれる。

 その視線に、百の夢で感じたどんなものよりも強い、確かな存在感がある。

 この視線は、逃げない。

 消えない。ずっとここにいてくれる。


「……どこでもいいよ。あなたが隣にいてくれるなら」


 口にしてみると、それは百の夢のどれよりも甘くて、気恥ずかしい響きを持っていた。

 自分の声が少し掠れて、頬が熱くなるのを感じる。

 こんなストレートな言葉、昨日までの私は言えなかったのに、今の私は言えてしまった。

 心臓がどくどくと鳴って、恥ずかしさが胸いっぱいに広がるけど、後悔なんてない。


 むしろ、この言葉を現実で言えたことが、嬉しくてたまらない。

 彼女は一瞬、ぱちくりと目を丸くして、それから林檎のように頬を染めて笑った。

 その頬の赤みが、朝の光に透けて、すごく可愛くて。

 彼女の笑顔が、こんなに近くて、こんなに鮮やかで、私の視界を全部埋めてしまう。

 夢の中の笑顔はいつも少し遠かったけど、今のこれは、触れられる距離にある。


「……ずるいよ、そういうこと急に言うの」


 彼女の声が、少し甘く掠れて、私の耳に絡みつく。

 繋いだ手に、さらにぎゅっと力が込められる。

 その小さな力が、私の指を強く握り返してきて、胸の奥が熱く疼く。

 その瞬間に、私の胸に詰まっていた「百の記憶」は、静かに、美しい背景へと変わった。

 百の物語は、私をここまで連れてきてくれた大切な一部。

 消えたり、薄れたりしない。

 全部、優しく色褪せた絵のように、私の心の奥に飾られて、これからの私たちを照らしてくれる。

 これからは、彼女と作る「たった一つ」の現実が、私にとってのすべてになる。


「行こう」


 どちらからともなく足を踏み出す。

 行き先なんて、歩きながら決めればいい。

 肩がぶつかるたび、服越しに彼女の体温が伝わってきて、ふわっと甘い匂いが混じる。


 アスファルトの硬さ、時折すれ違う車の音、繋いだ手のひらから伝わってくる一定の鼓動。

 彼女の鼓動が、私のものと少しずつ重なっていくみたいに感じる。

 そのすべてが愛おしくて、私はもう、振り返る必要を感じなかった。


 夢の中で交わしたどんな理想的な瞬間よりも、今、隣で指を絡めている現実の方が、私の心を強く、優しく、深く揺さぶる。


 百の物語を経て、私はようやく知ったのだ。

 私が本当に欲しかったのは、完成された幸福な夢なんかじゃない。

 あの夢たちは、どれも美しくて、完璧に近かった。

 でも、そこにはいつも「終わり」があって、胸にぽっかり穴が開くような寂しさがあった。


私が本当に欲しかったのは、不器用で熱くて一寸先もわからない現実の中で、彼女の手を離さずにひたすら進んでいく時間だったんだ。


 転びそうになったら支え合って、疲れたら少し休んで、笑い合って、また歩き出す。

 そんな、予測不能で、でも確実に続く時間。


 心臓がどくどくと鳴って、手のひらが汗ばんで、息が少し乱れるような、

 生きている実感が詰まった時間。

 夢の中で出会った、たくさんのあなた。

 そこで交わした、たくさんの愛。

 優しいキスも、激しい抱擁も、涙まじりの告白も、全部本物だった。

 その全部が、今の私の背中を優しく、強く押してくれている。


 百の声が、心の奥で静かに囁いてくれるみたいに。

 百の物語は、私の可能性だったのかもしれない。

 どの世界でも私は誰かを愛し続けてきた。

 そして今、この現実で、彼女と共にいる。


 百の可能性の中から、たった一つの彼女を、迷わず選んだ。

 私は彼女と一緒に歩んでいこう。

 どんな明日が来ても、手を繋いだままで。

 これが、私たちが選んだ、百一話目の物語。


 名前も知らない明日へ向かって、

 私たちはただ二人だけの足跡を、現実の街に刻み始めた。


 アスファルトに響く靴音、風に混じる彼女の匂い、繋いだ手の温もり。

 そのすべてが、私の新しい世界の始まりだから。

毎日100話百合短編小説を書こうと思って、昨日実は100話目でした。

今日101話目でいったん一区切りにしようと決めてこの作品を書きました。

もしよかったら読んでください。


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このような話を書いてほしいなどリクエストがあれば書きたいと思います。


皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!

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