百の夢が重なり、一つの「おはよう」になった
まぶたの裏で、百の空が燃えていた。
ある世界では、小学校の先生だった私の前に、かつての教え子が高校卒業と同時に現れて、迎えに来てくれた。
ある世界では、奴隷剣闘士の私が好きな人と戦い、勝利したあとで命を絶った。
ある世界では、近未来の崩壊寸前の世界で、彼女と暮らしていた。
ある世界では、ファンタジーの世界で、彼女と冒険をした。
ある世界では、外国で彼女と一緒になっていた。
またある世界では、子供の私が大好きなお母さんにマッサージをしていた。
全部、私だった。
全部、私の「綾」という名前を呼ぶ、彼女がいた。
世界が違っても、呼ばれ方が違っても、私はその声に生かされてきた。
優しく、時に残酷に、あるいは不器用なほど真っ直ぐに注がれた
百通りの夢が、今、激流となって脳裏を駆け抜けていく。
それは整理されていない情報の塊なんかじゃない。
確かに私が生きていた証。
触れて、愛されて、愛して、時には失ってきた、
百通りの「可能性」だった。
全部、私だった。
私の名前「綾」を、優しい声で、時には切ない声で、必死に呼んでくれる彼女が、そこにいた。
世界がどれだけ違っていても、呼び方が少し変わっていても、あの声だけはいつも同じだった。
耳の奥で響いて、心臓を直接叩くみたいに、私をこの世界に繋ぎ止めてくれる。
その声があったから、私はここまで生きてこれたんだ。
優しく包み込むような温もりで、時に残酷なほど鋭く突き刺さって、あるいは不器用すぎて笑ってしまうくらい真っ直ぐに注がれた、
百通りの人生《物語》が、今、頭の中で激流みたいに駆け巡っていく。
それはただの情報の塊なんかじゃない。
どれも、紛れもなく私が生き抜いてきた時間だ。
肌が触れ合った感触、唇が重なった熱さ、涙が頰を伝う塩辛さ、別れの瞬間に胸が引き裂かれる痛み……。
全部、全部、本物だった。
触れて、愛されて、愛して、時には永遠に失ってしまった、
百通りの「可能性」が、私の血肉となって、今も脈打っている。
綾。
その一言が、脳髄を震わせた瞬間、世界がぱちんと弾けた。
それを「ただの夢だった」と片付けるには、心臓が痛いほど、本当に痛いほど、激しく脈打っていた。
胸の奥が締め付けられるみたいに、ずきずきと疼いて、息をするたびにその痛みが全身に響く。
百の世界で味わった、あの感情のすべてが、今、私の血肉になって流れている。
喜びも、切なさも、触れた瞬間の熱さも、失う瞬間の冷たさも……全部が、血管を駆け巡って、私を現実の中に強く引き留めている。
ふらりと立ち上がって、キッチンへ。
裸足の足裏にフローリングの冷たさが染みて、少しだけ現実味が増す。
蛇口を捻ると、勢いよく水が噴き出して、手のひらを叩く。
コップに汲んで、喉に流し込む。
冷たい水が、喉の奥を滑り落ちる感触が、はっきりと鮮やかすぎて、逆に愛おしくなるくらい。
今、それが現実だって、嫌でもわかってしまう。
その時、背後から、ふわりと気配がした。
振り向かなくても、わかる。
肌がざわつくような、胸の奥が震えるような、あの懐かしい存在感。
夢の中で何度も、何度も、私を呼び止めてくれた気配。
優しくて、温かくて、でもどこか切なくて……一番、私の心を掴んで離さない、あの匂いと温度。
私は息を、ゆっくりと吐いた。
肺の奥に溜まっていた、夢の温もりが、少しずつ現実と混ざり合う。
でも、完全に消えない。
むしろ、その気配が近づくにつれて、百の記憶がまた温かく疼き始める。
「まだ、終わってないよ」
声は、一つなのに。
優しい春の風みたいな温度も、冬の夜の凍えるような冷たさも、夏の陽だまりみたいな熱さも、秋の落ち葉みたいな優しさも……百のすべてを、たった一つの響きに詰め込んで、私に届いた。
その瞬間、涙腺の奥が熱くなった。
でも、泣かない。
今は、この温かさをちゃんと受け止めて、前に進みたいから。
私は静かに、玄関の方へ足を向けた。
夢で見つけた誰かじゃない。
これから、この現実で、私がちゃんと見つけて、ちゃんと愛していく「その人」のところへ。
玄関のドアノブに、そっと手をかける。
指先が触れた瞬間、金属の冷たい感触が皮膚を刺すように伝わってきて、震えがぴたりと止まった。
百の夢の中で、私は何度もこのドアを開けてきた。
毎回、心臓が喉まで跳ね上がるような期待と、開けた瞬間に訪れる虚しさの繰り返し。
でも今は違う。違うんだ。
開けた先が、血と煙の匂いが充満した戦場だったこともあった。
部屋で、温かな腕に抱きしめられたこともあった。
二度と戻れない、優しくて切ない過去の続きだったこともあった。
けれど、今は違う。
この扉の向こう側に、私を呼ぶ「一番好きな声」の彼女が、確かに生きて、息をして待っている。
その確信が、震えていた指を少しずつ落ち着かせてくれる。
私はゆっくりと、ドアを押し開けた。
重い木の扉が軋む小さな音が、静かな朝の空気に溶けていく。
一気に差し込んだ眩しい朝の光が、目を細めさせる。
まぶたの裏が白く焼けるみたいに明るくて、涙腺の奥が熱くなった。
同時に、春の匂いをたっぷり含んだ柔らかな風が、頬を優しく撫でて、髪を軽く揺らしながら流れ込んでくる。
甘い花の香り、新緑の青い匂い、土の湿った匂いが全部混ざって、肺の奥まで鮮やかに染みてくる。
夢の中の風はいつもどこか薄くて、触れても実体がないみたいだったけど、これは違う。
生きている風。現実の、温かみのある風。
そして、視界がぱっとひらけた。
家の前の、いつもの変わらない景色。
アスファルトの道、隣の家の低い塀、少し色づき始めた木々。
全部が、昨日と同じ、ありふれた日常のまま。
その真ん中に、彼女が立っていた。
夢の中で見たどの姿とも違う。
豪華なドレスも、いにしえの古風な衣装も、学校の制服も、何一つ身に着けていない。
この世界の、今の季節にぴったり溶け込む、ありふれた服を着た彼女。
薄手のニットが風に軽く揺れて、ジーンズの裾が朝の光を優しく反射している。
そんな何気ない姿なのに、私の胸は痛いほど締め付けられて、息が浅くなる。
百の夢で出会った彼女たちは、どれも本気で私を愛してくれた。
でも、今目の前にいる彼女は、それらすべての愛を優しく受け止めて、ここに立っている。
現実の、重みのある、息づかいを感じる、かけがえのない彼女。
その実在感が、百の記憶を一気に呼び覚まし、心臓を強く叩く。
彼女がゆっくりとこちらを振り向いて、私を見つけた。
その瞬間、瞳の中に、私の知らない。でも、ずっと待ち望んでいたような温かな光が宿る。
朝陽を浴びてきらりと輝くその目が、私だけを真っ直ぐに捉えて、離さない。
心臓が、どくん、と大きく跳ねて、息が一瞬止まる。
百の夢で何度も感じた視線なのに、今は違う。
これは、現実の、生きていて、永遠に続く視線だ。
「……おはよう、綾」
その一言が耳の奥で優しく響いた瞬間、胸の中にあった百の記憶が、
静かに、けれど誇らしげに整列した。
まるで長い旅の仲間たちが「よくここまで来たね」と労ってくれるように、
すべての可能性が一列に並んで、私の背中を温かく押す。
彼女はまだ知らない。
夢の中で、私たちが何度も唇を重ね、肌を重ね、愛し合って、時には涙を流したことを。
彼女にとっては、これから始まるのが初めての恋なんだと思っている。
愛おしくて、胸の奥が熱く疼く。
でも、私の中では、もう百回分の愛が、静かに、確かに息づいている。
私は一歩、外に出た。
足が少し震えて、地面が遠く感じるけど、夢を全部連れたまま、新しい「私」として。
百の物語を背負って、それでもこの現実を選んだ私として。
「おはよう。……待っててくれたの?」
声が、少し震えた。
喉の奥が熱くなって、言葉が掠れる。
彼女は不思議そうに首を傾げて、でも、私が一番好きな柔らかくて、少し照れたような笑顔で笑う。
その笑顔を見ただけで、胸の奥が溶けていくような甘い疼きが広がる。
「うん。なんとなく、今日はずっとこうしていたい気がして」
それは、運命なんて言葉じゃ足りない、百一回目の奇跡。
心の中で、百の声が一斉に優しく囁くみたいに、温かさが全身に広がる。
私は彼女の手を取る。
まだ知らないことばかりの、でも世界で一番愛しい人の体温が、そこにあった。
指先が触れた瞬間、夢の中の記憶がフラッシュバックする。
今は違う。本物の熱さが、手の平全体にじんわりと染みてくる。
差し出された彼女の手に、自分の指をそっと絡める。
夢の中で何度も触れた気がしていたけれど、実際に触れる彼女の手は、想像よりもずっと柔らかくて、驚くほど熱かった。
皮膚の温もりが指の間から伝わって、心臓の鼓動まで同期しそうになる。
この熱さ、この柔らかさ、この現実感全てが、私を優しく震わせる。
「……あ。綾の手、ちょっと震えてる」
彼女がいたずらっぽく目を細めて笑って、繋いだ手にぎゅっと力を込める。
その小さな手のひらが、私のものより少しだけ小さくて、
でも驚くほど力強く、私の指を包み込んでくれる。
その力強さに、涙腺の奥が熱くなるけど泣かない。
今は、ただ笑っていたいから。
「ねえ、綾。どこに行きたい?」
覗き込んできた彼女の瞳に、朝の光が反射してきらりと光る。
その輝きが、私の胸の奥まで届いて、優しく刺さるみたいに温かい。
夢の中の「あの子」たちは、いつもどこか遠くを見ているような、儚くて危うい影があった。
触れても、掴みきれなくて、いつか消えてしまいそうな、そんな儚さ。
けれど、目の前の彼女は違う。
しっかりと地面を踏みしめて、足元に根を張るように立っていて、私だけを真っ直ぐに見つめ返してくれる。
その視線に、百の夢で感じたどんなものよりも強い、確かな存在感がある。
この視線は、逃げない。
消えない。ずっとここにいてくれる。
「……どこでもいいよ。あなたが隣にいてくれるなら」
口にしてみると、それは百の夢のどれよりも甘くて、気恥ずかしい響きを持っていた。
自分の声が少し掠れて、頬が熱くなるのを感じる。
こんなストレートな言葉、昨日までの私は言えなかったのに、今の私は言えてしまった。
心臓がどくどくと鳴って、恥ずかしさが胸いっぱいに広がるけど、後悔なんてない。
むしろ、この言葉を現実で言えたことが、嬉しくてたまらない。
彼女は一瞬、ぱちくりと目を丸くして、それから林檎のように頬を染めて笑った。
その頬の赤みが、朝の光に透けて、すごく可愛くて。
彼女の笑顔が、こんなに近くて、こんなに鮮やかで、私の視界を全部埋めてしまう。
夢の中の笑顔はいつも少し遠かったけど、今のこれは、触れられる距離にある。
「……ずるいよ、そういうこと急に言うの」
彼女の声が、少し甘く掠れて、私の耳に絡みつく。
繋いだ手に、さらにぎゅっと力が込められる。
その小さな力が、私の指を強く握り返してきて、胸の奥が熱く疼く。
その瞬間に、私の胸に詰まっていた「百の記憶」は、静かに、美しい背景へと変わった。
百の物語は、私をここまで連れてきてくれた大切な一部。
消えたり、薄れたりしない。
全部、優しく色褪せた絵のように、私の心の奥に飾られて、これからの私たちを照らしてくれる。
これからは、彼女と作る「たった一つ」の現実が、私にとってのすべてになる。
「行こう」
どちらからともなく足を踏み出す。
行き先なんて、歩きながら決めればいい。
肩がぶつかるたび、服越しに彼女の体温が伝わってきて、ふわっと甘い匂いが混じる。
アスファルトの硬さ、時折すれ違う車の音、繋いだ手のひらから伝わってくる一定の鼓動。
彼女の鼓動が、私のものと少しずつ重なっていくみたいに感じる。
そのすべてが愛おしくて、私はもう、振り返る必要を感じなかった。
夢の中で交わしたどんな理想的な瞬間よりも、今、隣で指を絡めている現実の方が、私の心を強く、優しく、深く揺さぶる。
百の物語を経て、私はようやく知ったのだ。
私が本当に欲しかったのは、完成された幸福な夢なんかじゃない。
あの夢たちは、どれも美しくて、完璧に近かった。
でも、そこにはいつも「終わり」があって、胸にぽっかり穴が開くような寂しさがあった。
私が本当に欲しかったのは、不器用で熱くて一寸先もわからない現実の中で、彼女の手を離さずにひたすら進んでいく時間だったんだ。
転びそうになったら支え合って、疲れたら少し休んで、笑い合って、また歩き出す。
そんな、予測不能で、でも確実に続く時間。
心臓がどくどくと鳴って、手のひらが汗ばんで、息が少し乱れるような、
生きている実感が詰まった時間。
夢の中で出会った、たくさんのあなた。
そこで交わした、たくさんの愛。
優しいキスも、激しい抱擁も、涙まじりの告白も、全部本物だった。
その全部が、今の私の背中を優しく、強く押してくれている。
百の声が、心の奥で静かに囁いてくれるみたいに。
百の物語は、私の可能性だったのかもしれない。
どの世界でも私は誰かを愛し続けてきた。
そして今、この現実で、彼女と共にいる。
百の可能性の中から、たった一つの彼女を、迷わず選んだ。
私は彼女と一緒に歩んでいこう。
どんな明日が来ても、手を繋いだままで。
これが、私たちが選んだ、百一話目の物語。
名前も知らない明日へ向かって、
私たちはただ二人だけの足跡を、現実の街に刻み始めた。
アスファルトに響く靴音、風に混じる彼女の匂い、繋いだ手の温もり。
そのすべてが、私の新しい世界の始まりだから。
毎日100話百合短編小説を書こうと思って、昨日実は100話目でした。
今日101話目でいったん一区切りにしようと決めてこの作品を書きました。
もしよかったら読んでください。
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