一夜の終わり
追手を振り切った俺たちは、白鹿亭の前まで辿り着いていた。
宿の灯りが、夜道を歩き続けて強張っていた視界にじんわりと染みる。
「……はぁ」
思わず息を吐く。
どうやら、本当に撒けたらしい。
ノアも同じように立ち止まり、軽く肩で息をしていた。
「ここまで来れば、ひとまず大丈夫そうね」
「ああ……」
胸に手を当て、呼吸を整える。
「さっきの水の防壁、助かった。ありがとう」
正直、あれがなければ魔術師の一撃は避けられなかった。
素直にそう思う。
「こちらこそ」
ノアは小さく微笑んだ。
「魔法も使わずに、よくあそこまで動けるわね。身体強化の術式も使っていないのに」
「子供の頃、教会で生活魔法の基礎を習ったきりだからな。戦闘用の汎用術式は知らないんだ」
嘘ではない。
教会で学んだのは、火起こしや水の浄化、簡単な保存魔法程度だ。
一応、奥の手が無いわけではない。
だが――固有魔法に探りを入れてきているノアに、それを話す気はさらさらなかった。
「なるほど」
ノアは少し考えるような表情をしてから、肩をすくめる。
「それでも、酒場の荒くれ者を相手にしてるだけはあるってことかしら。何はともあれ、助かったわ」
「紆余曲折あったが、ここが白鹿亭だ」
俺は宿の看板を指さす。
「部屋も綺麗だし、朝食もうまい。今日はゆっくり休んで――」
そう言いかけた瞬間。
右頬に、軽い痛みを感じた。
無意識に手を当てると、指先にわずかな血の感触。
どうやら、避けたつもりの弓師の矢が、頬をかすめていたらしい。
戦闘の興奮が冷めた途端、一気に痛みが主張してきた。
「あら……」
ノアが俺の傷を見て、眉をひそめる。
「頬を怪我しているわね。ごめんなさい、気付かなかった」
そう言って、彼女は一歩近づいた。
「少し、じっとしてもらえる?水回復ーー」
ノアの手のひらから、水が生み出される。
透き通った水が、意志を持つように形を保ったまま、俺の頬へと近づいてきた。
ひんやりとした感触。
染みるかと思ったが、不思議と痛みはなく、むしろ熱が引いていく感覚があった。
「……」
数秒もしないうちに、違和感が消える。
「これで治ったわ」
「驚いたな」
俺は頬を触りながら言った。
「水属性で回復魔法が使えるのか。回復魔法は光属性の特権だと思ってた」
「ええ。これが私の固有魔法よ」
ノアはどこか誇らしげに、だが控えめに答える。
「欠損の再生までは無理だけど、ちょっとした傷ならいくらでも治せるわ」
「貴重な固有魔法を持っていて、羨ましい限りだ」
そう言うと、ノアは一瞬だけ口角を上げた。
「そんなことないわよ」
そして、こちらを見る。
「あなたも、希少な精神干渉魔法が使えるんでしょう?」
カマをかけてきた。当初の目的は忘れていないようだ。
「だから言っただろ」
俺は即座に返す。
「俺が使えるのは、ただの睡眠導入だ。そんな高尚なものじゃない」
「あら、引っかからないのね」
「当たり前だ。使えないものは使えない」
少し間を置いて、俺は冗談めかして続けた。
「ノアも疲れたなら、寝かせてやろうか? 疲れがよく取れるらしいぞ」
「あはは」
ノアは小さく笑った。
「遠慮しておくわ」
そして、真面目な声になる。
「今日はありがとう。あなたへの疑いが完全に晴れたわけじゃないけど……悪い人じゃないことは分かったわ」
「それで十分だ」
そう答えると、ノアは懐から何かを取り出した。
差し出されたのは、紐の通った小さな木の板だった。
飾り気のない、素朴なものだ。
「帰る時、これを肌身離さず持っていて」
「なんだ、これは?」
「対魔管理局の仲間が作った連絡札よ」
ノアは簡潔に説明する。
「この札に魔力を通すと、特定の相手に連絡が取れるわ。今は私と繋がっている」
「それと」
彼女は少し間を置いた。
「五分程度だけど、あなたを守る水の防御を貼ることもできる。さっきの連中が、あなたを狙わないとは限らないから。助けが来るまでその防御があなたを守ってくれるはずよ」
「……それは助かるな」
俺は木札を受け取った。
「ありがたくいただこう」
ノアはそれを確認すると、軽く頷き、宿の中へと向かった。
二つ結びの銀髪がふわりと舞う姿をつい目で追ってしまった。
ノアを見送った俺は――来た道をそのまま戻るのは、さすがに気が引けたので、少し遠回りになる別の道を選んで家へ向かう。
幸い、その道中で誰かに襲われることはなかった。
家に着くと、シャワーを浴び、ベッドに倒れ込むように横になる。
言われた通り木札は首にかけ、肌身離さず持つようにしている。
身体の疲れが、今になって一気に押し寄せてきた。
「……」
目を閉じながら、思う。
明日からも、今まで通りの日常が続けばいい。
そんな祈りを胸に抱いたまま、俺は深い眠りに落ちた。
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