はじまり
「ほらほら!はやく食べないと遅刻するやろ!」
「ん~ たべれんもん」
「また~。ほら、海苔で巻いてやるけ食べんね!」
幼いころの私は食事というものを苦手にしていたようだ。特に、米を食すということが苦手でよく母を困らせていた。この日も母がせっせと一口大の海苔巻きを小さな茶碗に作っては私の口に運んでくれていた。
五つ年の離れた姉はすでに食事を終え、友人と連れだって登校済みだ。
「忘れ物は?」
「…ない」
「体操着もった?教科書入っとる?」
「入れた!」
「忘れとってもお母さんもっていかんけね?」
「はーい」
「気を付けていっておいでー!寄り道せんで帰るんよ!」
「はーい!いってきまーす!!」
毎朝の光景。とかく私は忘れ物が多かった。この日もそう。これだけ確認されていたにも関わらず、だ。
友人と連れだって登校し、席につき教科書を机に移す。そしてはたと…「あ、国語の教科書忘れた…」
当時は名札の裏に必ず十円玉を一枚入れていた。これは決してこのためではなく、緊急時用だったのだが…。
「あ~お母さん?あのね?」
「今日は何を忘れたんね?」
「国語の教科書」
「もっていかんっち言ったよね?」
「う~ ちゃんと用意したんやもん」
「入ってなかったら用意したうちにはいらんやろ!今から直ぐ行くけん、校門のとこにおんなさい!! 」
「はい!」
これが小学校六年間、そして中学校のさすがに二年位までだったか続いたのだ。 今思い返しても母には頭が下がる。
この頃は、登校途中には顔見知りのご近所さんや毎朝見かけるおじさん おばさんとお喋りしたりしながら、帰りにはご近所のお婆ちゃんから夕飯の一品を託されたりしながら、本当に周りの大人に守られて育っていた。
みんな、暖かく見守り、しかってもくれていた。
ある休日のことだ。久し振りに家族揃って祖父母の家にいき、昼食をとることになった。
「ほら、今日はカレーライスやけん いっぱい食べり」
「ばあちゃん、カレーライスからい?」
「…辛いかもしれんね?」
「からいのやー!!」
「そんな言うんやったら食わんちゃよか!!」
祖父が腕によりをかけて作ってくれたカレーライスだった。後にも先にも祖父に怒られたのはこの時だけだ。
後に祖父に「あの時は怖かった~」と話したら苦笑いしながら「そっか?」とだけ。それだけだが、何だか心がきゅっとした。祖父と二人だけの秘密みたいで嬉しかった。
調度この時期だったか、巷で酸性雨という言葉が使われはじめていたのは。
テレビからは「明日は朝から雨の予報です。酸性雨に気をつけてしっかりと傘を準備しましょう。」
今では酸性雨のさの字すら聞かないが、この頃はよく話題にあがったものだ。
「傘もった?」
「あ、忘れとった!」
「持っとかんと頭がはげるよ!ちゃんと傘さして帰ってくるんよ!」
「あ~い」
こんな感じだ。 高校進学あたりくらいにはあまり話題に上がっていなかったようだが、その頃からは所謂都市伝説的に「温暖化」という単語がでてきはじめていた。