おまけ「第七夜と第十夜について」
先ず夢十夜は、夏目漱石自身が見た夢と言う体で書かれた物語であり、「こんな夢を見た」と言う序文が多い。しかし、その「こんな夢を見た」は後ろの話になるにつれ、少しずつ使われなくなり、話の内容も現実味を帯びたものになってくる。ではそれはなぜなのか。
私が思うに、これらは全て夏目漱石自身が日々考えている事であり、何度も妄想しているが故に、徐々に夢と現実との境が曖昧になっているからだ。
また、この「夢十夜」に収録されている物語の多くは夏目漱石の「西洋嫌い」と「これからの自身の展望」を物語っている。顕著に表れているのは第七夜と第十夜だと思う。
第七夜は漱石が大きな船(蒸気船)に乗っており、そこで色々な人を見ているうちに船に乗っているのが嫌になり、飛び降りる。しかし、それに対し後悔をする。という流れだが、この船は日本を表している。「どこに行くんだかわからない。」という一文や、「西に行くんですか」という問いなどから分かる通り、この日本は西洋化をどんどんと行っている。
しかし、この船に乗っている水夫は「身は波の上。舵枕。流せ流せ」とはやし立てており、船の行方をはっきりと理解していない。漱石自身も「何処へ行くのだか知れない。只黒い煙を吐いて波を切って行く事だけは確かである」と考えており、それに対して「自分は大変心細かった。」と感じ「こんな船にいるより、一層身を投げ捨ててしまおうか」と思うようになる。つまり、日本を捨てどこか別の国に行こうかと考えているのである。
この後、漱石は船の上をぶらぶらと徘徊して色々な人間を見る。
天文学者……この人は金牛宮の頂にある七星の話をした後、星も海のみんな神の作ったものだと云い、神への信仰を促している。しかし、漱石は黙っているだけで反応を示すことはない。これはつまり、西洋化する日本の結末を(すでに西洋化している)西洋人に聞いても見当はずれの事を言うだけで、自分の求めている答えを教えてはくれないという漱石の落胆を示している。
サローンの男女……この二人は、一見観衆に音楽を聞かせているように見えるが、その実は二人以外に無頓着である。そして、船に乗っている事すらも忘れている。これは、西洋化だと張り切っている日本人がその周囲の人間にもそれを勧めているが、二人は周囲の人間のことなど考えていない。では、何をしているのかと言えば、それすらもわかっていない。そういう、何の目的もなく政府の欧化政策に便乗した国民を示している。
そして、その結果漱石は船から出る決意をして飛び降り、後悔をする。これは、漱石が西洋と言うものに期待をして留学をしてみたが、結局何も得られるものはなく、その上その西洋にさえ見捨てられてしまった。西洋には何か自分の求めているものがある筈だという淡い期待すらも現実を見たことで知ってしまい、こんなことなら日本から出て行かず、西洋を目の当たりにしなければよかったという後悔を指している。
次に、第十夜。最後に庄太郎は女(西洋文化)に騙されて、その結果死んでしまう。そして、それを見て健さんは「だから余り女を見るのは善くないよ」と言う。これは、あまり西洋に憧れてしまうと痛い目を見るぞと言う漱石自身の持論だろう。ところが、その持論を持つ健さんは「庄太郎のパナマ帽が欲しい」と言っている。そして、パナマは健さんの物になってしまう。これは、漱石自身も西洋文化にやはり憧れを持っている為に、「いつかは自分も西洋かぶれになるのだろう」と言う予想をしていると考えられる。
この様に第7夜・第10夜を見るだけでも漱石が、西洋化をする日本と自身の将来を憂いていたことが伺える。そしてそれも夏目漱石の作品の前期と後期の転換期に書かれた作品だと考えれば、その後に書かれた「こころ」で先生が明治の人間として殉死している理由も見えてくるのではないだろうかと考えた。