堕ちた聖女
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プロローグ
神殿での行を終え、ひと息ついたミーナスに、クローバー聖女の一人、ニコルが声をかける。
「お疲れ様。頂きもの、お一つどうぞ」
ニコルは金色の髪を揺らし、ミーナスにぽんっと、リンゴを投げる。
「あ、ありがとう……」
珍しいことがあるものだ。
日頃、出自が低位貴族のミーナスには、ろくに挨拶もしない侯爵令嬢だが。
艶やかなリンゴは、疲労したミーナスには嬉しい贈り物である。
ありがたく一口齧る。
飲み込んだ瞬間、微かな違和感がミーナスを襲った。
まずいと思った時には遅かった。
意識を手放したミーナスが、それを取り戻した時、彼女は一糸まとわずに、見知らぬ男性と共にベッドの中に居た。
◇式典◇
ひっそりとした結婚式であった。
新郎は近衛騎士団長。
新婦は元聖女。
本来ならば、王宮のそうそうたる面々が揃うはずの挙式である。
だが、つきまとう醜聞のため、新郎の父と新婦の母のみが二人を見守った。
「イリオス・スペンダー伯。貴殿はミーナス・フェルン子爵令嬢を、終生愛すると誓いますか?」
イリオスは一瞬、間を取り答える。
「……誓います」
ミーナスも同様に、誓いを告げる。
続いて誓い固めのキスとなる。
イリオスは短めのミーナスのヴェールを上げ、彼女を見る。
湖面を思わせる彼の蒼い目は、すぐに伏せられる。
交わした唇は、やけに冷んやりしていると、ミーナスは感じた。
イリオスの父スペンダー伯爵が、労わるようにミーナスを見つめた。
ミーナスの母は、ハンカチで目尻を押さえた。
それぞれの親に挨拶を済ませ、二人は馬車に乗る。
新居は王都の中心から離れた、馬車で一刻ほどの閑静な場所にある。
スペンダー伯爵が、二人のために建ててくれた。
「君を……」
ガタガタと走る馬車の中で、不意にイリオスが言う。
「君を愛することは、ない」
ああ、それで、先ほどの誓いの言葉を言うのに、一瞬の間があったのか。
「心得て、おります」
感情を表すことなく、ミーナスは答える。
その後二人とも無言のまま、馬車は新居にたどり着いた。
◇陰謀◇
ロガリア王国は、王都に王宮と神殿が並ぶ。
王国の守護神は、女神キニージュ。
狩猟する乙女の姿で現れる女神だ
女神の加護は、王国に『聖女』という存在をもたらした。
聖女は女神キニージュの持つ、七つの宝玉のいずれかを持ち、十二歳から十七歳まで神殿で生活をする。
世俗的な欲望を封じ込め、ひたすら神に仕える聖女は、ロガリア王国においては王族に次いで権威を与えられている。
還俗すれば、数多の縁談に恵まれる。
聖女の血脈を受け継ぎたいと、多くの貴族は願っている。
そして時には、王太子や王子に嫁ぐものもいる。
ミーナス・フェルンは神託を受けた十二歳の時に、七つの宝玉のうち、六つを持つと認められた。それは歴代聖女の中でも最高の資質である。彼女の持つ宝玉とは、「癒し」「完治」「清浄」「祓い」「解呪」「結界」である。
記録によれば、七つ全てを内包した聖女は、存在していない。
宝玉を一つでも有していれば、神殿の聖女となれるのだ。
神殿は歴代最高の聖女を国民の前に出し、一層の信仰心を煽ろうとした。
ただし残念ながら、ミーナスの外見は、至って凡庸なものであった。
多くの聖女が持つ、プラチナブロンドの髪も、宝石を思わせる青や碧の瞳も、彼女は持ち合わせなかった。
神官たちは協議し、ミーナスと同時に聖女の認定を受けた少女三人と合わせて、聖女の職務を与えることにした。
幸い三人の新聖女たちは、高位貴族の子女であり、麗しい容姿を備えていたのだ。三人とも、「癒し」の宝玉を有する。神殿に訪れる多くの人々には、それだけでも十分だ。
ミーナスを含め、四人の聖女たちはクローバー聖女と呼ばれ、神殿の内外で与えられた役割を果たした。
もっとも、圧倒的な『聖なる力』を発揮するのはミーナス一人。
次第に残りの三人は、ひたすら笑顔を振りまくだけの存在となった。
神殿でのミーナスの生活が三年を過ぎる頃、ロガリア王国の国王が病に臥せる。
王宮付の医者たちが何人集まっても、なかなか良くならない。
そこでミーナスが呼ばれた。
ミーナスの持つ宝玉の一つ、「完治」に望みをかけたのである。
一ヶ月ほど、ミーナスが国王の側で祈り続けた結果、原因不明の病は完治した。
国王は感激し、ミーナスと第二王子との婚約を結ぶ。
ミーナスが十七歳になり還俗したら、第二王子と結婚することが決まった。
それを面白く思わない者たちがいた。
まずは国王の主治医たち。既得権の喪失を恐れた。
王太子予定の第一王子。第二王子に『聖女』という権威を与えたくなかった。
ミーナスと一緒に役割の一部を果たしていた、三人の聖女。自分たちの方が爵位も見た目も、第二王子に相応しいと思っていた。
何よりも、ミーナスと婚約した、第二王子タレスが彼女を忌避した。
ミーナスのありふれた外見に、タレスは心惹かれなかった。
ミーナスを排除しよう。
しなければならない。
自分たちの幸せを守るために!
名誉と権威を守るために!
こうして、ミーナスは罠に嵌められる。
◇新婚◇
スペンダー邸に迎えられたミーナスは、部屋へと案内された。
持参した平服に着替えると、部屋まで夕食が運ばれて来た。
派手ではないが、落ち着いた調度品と、バランスの良い食事。
シーツがピンと張ってあるベッド。
いずれも今までのミーナスの生活には、なかったものだ。
冤罪で神殿を追放され、子爵家に迷惑をかけた。
健康を取り戻した国王の温情がなければ、身一つで国外追放になるところであった。
王命により、イリオス・スペンダーとの婚姻となった。
イリオスは第二王子直属の近衛騎士だった。
王命を承ることで彼は出世した。
イリオスに悪いことをしたと、ミーナスは思う。
イリオスは騎士としては痩躯だが、剣術の腕は騎士団でもずば抜けていると聞く。
長い黒髪を後ろで縛り、伏し目がちで寡黙なイリオスは、聖女たちにも人気がある。
おそらくイリオスには、心に決めた女性がいたであろう。
何も、醜聞まみれの偽聖女など、娶らなくても良いだろうに。
『愛することはない』
きっと、イリオスの精一杯の自己主張だ。
彼が王命を受けてくれたから、ミーナスは踏みとどまれた。
この母国にも。
真っ当な人間としても……。
恩は返す。
必ず。
ミーナスは湯浴み後に、ベッドサイドで祈りを捧げていると、ためらいがちなノック音が聞えた。
イリオスはミーナスの横に座り、膝の上に置かれたミーナスの手を取る。
「少し、話をして良いか?」
「はい」
イリオスは視線を上げて、ミーナスを見る。
「その……。辛く、ないのか?」
「何がでしょう?」
「愛してもいない男と夫婦生活を送ることだ」
ミーナスは顔をゆっくり横に振る。
「私は、イリオス伯に助けられましたから」
「後継ぎを、作らなければ、ならないが」
「承知しております」
二つの影が一つに重なり、再びほどけていく頃には、夜明けを告げる鳥が鳴き始めていた。
◇騎士団長の想い◇ side イリオス
朝になってから、俺は頭を抱えた。
妻となった女性は、『初めて』だったのだ。
神殿からも王宮からも、彼女の悪評は聞こえていた。
聖女の立場を利用して、金を巻き上げている。
癒しの施術と言っては、男と肌を重ねている。
国王陛下を術にかけ、騙した。
初めは噂を笑った。
ミーナスは、他の聖女たちよりも地味で、まとう雰囲気は誰よりも清々しいものだった。
しかし決定的だったのは、王宮別邸の一室で、下級騎士と同衾しているところを他の聖女たちに見つけられたことだ。
王宮は騒然とし、彼女は聖女の名を剥奪され、第二王子との婚約も破棄された。
その後国王よりミーナスとの婚姻を命じられた時には、さすがに焦った。
いかに元聖女とはいえ、そんな身持ちの悪い女との結婚はしたくなかった。
「そなたには、騎士団長になってもらう」
出世と引き換えの結婚だと、親には言った。
反対されるかと思ったが、意外にも父は頷いた。
「彼女の悪評は、わたしも知っている。だが、真実を語るのは、お前の目で、確かめてみてからで良い」
父も長らく国王付の騎士を勤め、王宮での醜聞を見聞きしていた。
人を見る目は鍛えられている。
父が反対しなかったので、俺は少々安堵した。
俺自身の目で、か。
そう言えば、たまに王宮内で、聖女の四人組、クローバー聖女を見かけたっけ。
三人の聖女たちは、薄化粧して、ニコニコと愛想良かった。
騎士団の連中も、「ニコルさん、カワイイなあ」とか「ルリアナ様と握手した」とか騒いでいた。
ミーナスは、いつも一人遅れて、静かに歩いていた。
化粧気なしで、平凡な髪型で、すれ違うと俺みたいな者にも、軽く頭を下げて行った。
俺は聖女たちの中で、彼女が一番好ましいと思っていた。
だから、悪評を聞いた時、正直がっかりしたのだ。
しかも、聖女が男と寝たなんて。
先に目覚めた俺の横で、微かな寝息を立てているミーナス。
華奢な肩に毛布をかける。
初めてだなんて、思ってもいなかった。
俺自身、決して身綺麗に生きているわけではない。
されど、豊富な女性経験を持ってもいない。
初めての夜伽は、痛みがあっただろう。
もっと、優しくすれば良かった。
「ゴメンな……」
俺はミーナスの髪を一房取り、口づけを落とす。
結婚式での口づけよりも、唇は温かかった。
◇新婚生活◇
イリオスは七日ほど、休暇を取っていた。
「本当なら、結婚休暇は一ヶ月くらい取れるけどね」
イリオスは、ベッドの中でミーナスを抱きしめながら言う。
ミーナスは朝夕の食事を、イリオスと共に摂るようになった。
無口な男性かと思っていたが、イリオスは少しずつ話をしてくれるようになる。
人見知りなのであろう。
聖女として職務を遂行していた時は、とにかく時間に追われていた。
移動中、あるいは立ったままで、堅いパンを無理やり飲み込むのが常だった。
それがここでは、ゆっくりと食事が出来て、食後にはお茶が用意される。
パンの柔らかさに最初は戸惑うミーナスだった。
「何か、したいことはあるか?」
「あ、その、御守りを……作ってよろしいでしょうか」
「構わないが、御守りって……」
「だ、旦那様の、ご無事を祈って……」
騎士たちは、ゲン担ぎで剣の鍔や鞘に小さな御守りを付けていることが多い。
神殿でも売っていたことを、イリオスは思い出す。
「ええ、神殿での御守り作りは、聖女の仕事の一つでした」
聖女らは、加護の宝玉の色と御印を描いたり、刺繍したりした物を売っていた。
売り上げの一部は小遣いになるので、自分の名を入れたりする者もいた。
「そうか。では、一つ、お願いする」
休暇とはいえ、イリオスは剣の手入れや剣技の訓練を欠かさず行い、自室で机に向かって何かの仕事をしている。
ミーナスは使用人に教わりながら、簡単な家事を手伝ったり、イリオスのための御守り作りをしたりする。
ミーナスには、こんなおだやかな時間が新鮮である。
神殿にいた時よりも、祈りが深くなった。
聖女ではなくても、女神キニージュの息吹が感じられる。
この生活を守りたいと思う。
居場所を与えてくれた、夫イリオスの心身を、守りたい。
イリオスに仕える邸の人たちを、守りたいのである。
おそらく、あの人たちは、もう一度ミーナスに牙を向ける。
そろそろ神殿には、綻びが出る頃だから。
そうなったら、イリオスにも必ず飛び火する。
自分だけなら良い。
彼が傷つくのは嫌だ。
ミーナスは、持参してきた裁縫道具と、祈りを乗せやすい天然の石を出し、御守りを作成した。選んだ石は七色。本来、女神が与えるすべての宝玉の色である。
「そろそろ、休まないか。夜も更けてきた」
自室で一心不乱に御守りを作っていると、イリオスがやって来た。
頬を紅く染め、ミーナスは頷く。
結び合う指先は、朝まで離さなくなった。
ミーナスが夫のための御守りを仕上げる頃、神殿と王宮に、何かが蠢き始めた。
お読みくださいまして、ありがとうございます!!