ラフレシア
東南アジア地方に咲くラフレシアという花は、その大きさと臭さにおいて世界的に有名である。なんでも密林の中に赤い肉片のような花弁をでろんと広げ、腐肉のような香でハエをおびき寄せて受粉を行うという。
田丸のことを考えていたら、ふとこの花が頭に思い浮かんだ。
ここしばらく田丸のためにボクの精神は乱されっぱなしだ。いや、正確に言うと田丸という人間自体にではない。彼女の分泌するおぞましい臭いがボクの思考を狂わせているのである。
田丸はだみ声で、毛深い腕で半そでをパンパンに腫らし、鼻の上までニキビをつくった脂ぎった暑苦しい女だ。おまけにいじめの首謀者になるくらい陰湿で、性格まで極めつけのブスときている。
ボクの最も嫌悪する女性のタイプ。の、はずだったのだが……。
あれは座っているだけで汗が吹き出るくらい蒸し暑い日だった。チャイムが鳴って少女達の輪がほどけ、三々五々に席に戻っていった時。田丸がボクの横を通り過ぎた。
その瞬間、彼女のせいで起こった気流の乱れとともに、ボクの鼻にあの臭いが届いてきたのだ。
それは男でもめったに無いくらいの腋臭。
臭い、と思う間も無くズ……ンと胸が締め付けられボクの下半身に熱いものが走った。
思わず、彼女の背中を視線が追う。
残り香が鼻に届く。
信じられないことに、ボクは大きく息を吸い込んでいた。
目の前に閃光が走り、後頭部の裏側が疼き始めた。
どこか懐かしい太古の闇に果てしなく落ちるような快感。
まるでその香りがもたらす甘い幻想を失うのを恐れるように、ボクは目を閉じた。
教室の窓から無常の風が吹きこみ残り香を払うまで。
「ああ、ダメだ」
集中力には自信があったボクが、参考書をあいても頭に入らない。あれから田丸の臭いが頭から離れないのだ。
この衝動は何なのだろうか。
他の男子にそれとなく聞いてみても、あの臭いに快感を感じるものはいないようだ。
恥ずかしいことに、ボクは人目を避けて彼女の臭いをこっそり嗅ぎまわるようになっていた。
口実をつけては田丸の近くに立ったり、誰もいなくなったことを確認してこっそりと下駄箱の靴に鼻を寄せたり……。暑い日はラッキーだ。別に彼女の近くに行く必要は無い。彼女の臭いは10メートルくらい先から漂ってくる。
「くっさあい」
ある時、腐敗臭に似た香りが教室の中に漂ってきたことがある。
「ガス漏れ?」
女子の間でちょっとした騒ぎになったのだが、ボクはその正体がすぐわかった。
慣れ親しんだ、異常発酵の香りが鼻をくすぐる。
本人は、その原因を知らないとでも言うように「ガス漏れ?」と騒いでいるが。
田丸だ、田丸のおならに違いない。
この強烈な刺激。昨日は、また何を食べたことやら。
まるで、拡散する汚れた空気を惜しむかのようにボクは大きく何回も鼻呼吸した。
ただ、毎日毎日よりいっそう強い刺激を体が求めてくる。
思い余って田丸の近くで足がもつれたフリをして汗臭い背中に倒れこんだときには、その快感の強烈さに失神するかと思った。
田丸の臭い。
それは、臭さを通り越したおぞましい魅惑。
理性ではない、いてもたってもいられないくらいその臭いを無尽蔵に求めてしまうのだ。あの臭いが鼻腔を通過するとき、ボクの全身は電気が走ったように痺れ疼く。それこそ、時間の許す限り、嗅いで嗅いで嗅ぎまくりたいという衝動に支配される。
あの太い胴に巻かれたスカートの中はきっとこんなもんじゃない、もっと濃い気体が停滞しているに違いない。スカートを揺らさないようにそうっともぐりこんだ瞬間、田丸が産生した香りの分子がボクの鼻の粘膜を凶暴に襲う。そして、そして……ああ。
想像するだけで、手が震えて息が荒くなる。
いけない。このままではあの禍々しい香のせいで犯したくも無い犯罪を犯してしまうかもしれない。
ボクは一つの決心をした。
タバコを止める時、徐々にそのニコチン摂取量を減らしていく治療法があると聞いたことがある。最初はタバコに手を出さないくらいのニコチン量、そして徐々に徐々にニコチン製剤を減らしていき、離脱する。
ボクが正気に戻るためにはこの方法しかない。あの臭いに絡めとられないために、ボクは死に物狂いの努力をしなくては。
そのためには、まず田丸の臭いが必要だ。
「た、田丸」
きわめて平静を装ってボクは独りで下校する彼女に近づいた。先ほどまで迷っていたが、彼女の体臭が鼻に届いてからはもう理性など無くなっていた。
「何、遠藤くん」
立ち止まってこちらを向く田丸。いぼがえるを思い出すその顔にボクは一瞬ひるんだ。
ボクは目を瞑って、思いっきり鼻に田丸の臭いを吸い込む。
「ハンカチを僕のと取り替えてくれないか」
「いいけど、なんで……」
「悪いけど、このことは黙っていてくれ」
ボクは彼女の手からハンカチをひったくると、そのまま何も言わずに香典返しのハンカチを押し付けると逃げるように走り去った。
数日後の放課後、帰宅していると同級生で幼馴染の相川がボクを追ってきた。彼女は頭も良くて、清楚な美人だ。中学までは幼馴染の気安さで良く彼女とは話していたが、付き合っていると噂されたためボクが距離を置いたことから最近は会話が無くなっていた。
思いつめた目をしている。
「ねえ、遠藤君」
「な、何?」
何時にない真剣な表情の相川にボクはたじろぐ。
「田丸さんのことが好きって本当? すごい噂になってるわ」
「ま、まさか」
「ハンカチを強奪されたって、彼女が自慢してたわよ」
真実なので、言い返す言葉が無い。それにしても、いずれ奴が言うとは思っていたがこんなに早く皆に知れ渡るとは。
「ねえ、好きなの?」
潤んだ目の彼女に見つめられると、悪い気はしない。中学時代には無かった感情がわいてくる。
「好きなわけ無い」
ボクのはっきりした断言に彼女は微笑んだ。しかし一転して彼女の顔が曇った。
「変な噂を聞いたの。田丸さんって小さい頃誘拐されたことがあるんですって」
「へえ、小さい頃は可愛かったんだな」
「いいえ、今よりもっと不細工でヒキガエルみたいだったって」
人の悪口など言うタイプではない相川の敵意むき出しの言葉にボクはぎょっとした。
「で、警察が逮捕した時、若い男が恍惚としながら布団の中で田丸さんを抱きしめて臭いを嗅いでいたらしいわ。前科の無い真面目な男だったらしいけど」
ボクの手から鞄が落ちる。
そうか、やはりあの臭いに反応するタイプの人間がいるのだ。
……そして、多分ボクも。
「気をつけて、田丸さんから離された男は自殺したらしいわ」
小さい頃さえ、そうなのだ。
性分泌腺が発達した今、その威力は増している。
「ありがとう、もう近づかない」
うれしそうに手を振って去る相川。本当にいい娘だ。
だけど、あの獰猛な快感を呼び覚ます臭いは彼女には無い。
ボクはポケットからおもむろにあのハンカチを取り出した。鼻に押し当てて息を吸い込む。壁に背を持たれかけながらボクは小刻みに震えていた。
ハンカチを徐々に嗅がなくする作戦は早くも潰えていた。
散々に終わった期末テストの後、田丸が教室で声をかけてきた。
「ねえ、遠藤君いっしょに公園で打ち上げしない?」
田丸の遊び友達は、飲酒をしたりしてクラス内でも問題があるものが多い。打ち上げはきっとお酒を飲むのだ。噂の相手に声がかかったということで、教室中の耳目がボクに寄せられるのがわかる。ふと見ると思いつめた目で相川がこちらを向いていた。
むし暑い公園。
酒によって田丸の臭いは、何時にも増して濃厚になるだろう。
ゴクッ。
ふと、田丸と目が合った。
彼女は勝ち誇ったいやらしい微笑みを浮かべていた。
もしや、彼女にはわかっているのだ。己の臭いの奴隷が一人誕生していることを。
「い、行ってみようかな」
消え入るような声でボクが言った瞬間、相川が顔を背けて教室を出て行くのが見えた。
公園にシートを引いて、男女入り乱れて車座になって座る。
最初は高校生らしい当たり障りの無い会話だったが、酒が入るにつれてだんだん男女のもつれ合いが激しくなってきた。いつの間にか田丸がボクの横にしなだれかかっている。むせるようなあの香りにボクはもう抵抗する気力を無くしかかっていた。
「気をつけて、自殺したらしわ」
ふと、相川の言葉が脳裏に蘇った。
ダメダ、離れるんだ。
理性の叫び。ボクは田丸を押し返した。
「と、トイレに行く」
顔を洗って返ろう。もう、これ以上ここに居てはいけない。
しばらくしてボクは覚えのある臭いがボクの背後を追って来たのに気がついた。
あの醜悪な怪物だ。
公衆トイレから少し離れた場所に立ち木で暗闇が出来ている場所がある。実は有名なスポットで、あそこで彼女と事に至ったという武勇伝を何度も聞いた。
蒸し暑い中、奴の分泌作用はさらに活発化している。
ボクの魂を鷲掴みにして、理性から引きちぎる。獰猛とでも言いたくなるような香り。
臭いが贄を求めて、背中から首筋を包み、そして鼻腔に滑り込む。
ボクは、逃げるようにトイレに飛び込んだ。
便器の蓋の上に座って、ボクは頭を抱えた。
ボクはこの臭いがもたらす恍惚がある日突然消えることを本能的に知っている。
解放されるのは、いったい何時なのか。
今なのか、それとも関係を持ってからなのか、泣いている子供を挟んで怒鳴りあっている最中なのか。
ああ、それなのに今のボクはこの臭いの誘惑に抗えない。
トイレから出たら、きっと田丸があの木陰で勝ち誇った笑みを浮かべて待っている。
ボクは無言で歩み寄り、前に立つ肉塊を抱きしめる。
べっとりくっつく脂性の皮膚。
そしてボクはきっとあの首筋に顔を埋め、禁断の臭いに包まれるのだ。
腐ったような、懐かしい香り。
心がざわめいて、頭の芯が愛撫されるように疼く。
田丸の臭いをゆっくりと吸い込みながら、ボクはラフレシアの中で花粉まみれになりながら陶酔するハエのように、暗い闇の蜜の中にうっとりと堕ちていく……。