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シリウスが挙げた条件は三つ。
一つ、公式行事でのシリウスの代理出席。
二つ、夜会などへの出席。
三つ、王妃権限の放棄。
正に何の権力も無い飾りであった。
代わりに、シリウスはアシュリーに対しての対価を三つ支払うと約束した。
一つ、決められた条件外でのアシュリーの服装や振る舞いの自由。
二つ、毎月王妃に支払われる公費にプラス二十パーセントの上乗せ。
三つ、十年後に一切を放棄して良く、また国王所有地の約五パーセントの譲渡である。
しかもその下賜される土地が貴重な魔石が採掘される王家秘蔵の土地であった。
それだけの財産が手に入ればアシュリーも何ものにも囚われずに生きていく事も可能かもしれないと思った。
排除される事が嫌ならば何らかの形で頂点に君臨するしか今は方法が無いと暗にシリウスに指し示された格好であった。
その時に残るのは栄華か虚無か。
アシュリーには想像も及ばなかったが。
そうして同時にアシュリーはもう一つの答えを見つけた。
「シリウス陛下はその十年という契約の後隠居でもされるおつもりですか?」
「流石に鋭いな。今私には後継となる者を育てている。継承順位はけして高くは無いが、意思を継げる者はいる。ローダ」
シリウスが短く呼ぶと、庭の隅に控えていた黒衣の男性が寄って来た。
「初めてお目にかかります。ローダス・ドラグロアと申します」
一礼をし、上げた瞳は不思議な輝きを灯していた。
「ローダは先代国王の末弟の三番目の子だ。つまり私の従兄弟にあたるが、継承順位は七番目だ。まだ課題は山積みではあるがな。非常に見込みのある男ではあるが、母方が身分が低くてな」
シリウスは足を組み替え言った。
ローダスは視線を落として黙礼した。
見た所の年齢でシリウスは三十前後。
ローダスは二十代前半の様だが、纏う雰囲気は非常に似ていた。
だが、一つ大きく違う点をアシュリーは見つけていた。
シリウスは好奇心の色を宿した少年の様な瞳をしている。
対してローダスは凪いだ海の様だ。
両者共に独特の魅力がある。
「アシュリー様。この酔狂な提案に従って頂けたならば、このローダス・ドラグロアは必ず約束を果たすと誓いましょう」
「ローダ、ロー。堅苦しい言葉はよせ。我らはこれより同志となるのだから」
ローダスの畏まった言葉をシリウスが制した。
「私はまだ引き受けた訳ではございませんが」
アシュリーが意地を張る。
シリウスは皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「だが、もし君を只の人間として扱う者が居るとすれば、それはローダか私くらいだ。違うか?君には魅力がある。惹きつける魅力が。世間はきっと放ってくれはしないだろう。そうした時にきっと私との制約が盾になるだろう」
アシュリーは答えを出さずに黙した。
そうして短い問答は終わり、アシュリーはシュタイン家へと帰っていった。
シリウスの言葉を反芻し、じっくりと考えるのだった。
♢
アシュリーが去った庭。
ローダスがシリウスに尋ねる。
「彼女は呑んでくれるでしょうか?」
「ああ、間違い無くな」
事も無げにシリウスは答えた。
「貴方も底意地が悪い。狙われた彼女が哀れに見えます」
「言葉が過ぎるぞ。だが、私も分かっている。性分なのだ」
「手に入れずにはいられないのですね」
一陣の風が吹く。
「見たか?あの純真無垢な魂を。アシュリーは厄介な性分を嫌っている様だが、それは何者にも染まりたくないと言っているのと同義だ。果たして私の側に居て、いつまで持つだろうか。私は矛盾した気持ちを今抱えているのだ。何者にも染まらぬ様アシュリーを鳥籠の様なこの城の奥深くに仕舞い込んでしまいたい気持ちと、余す事無く私で染めて塗り潰してしまいたい衝動。二つが拮抗しているのだ。我ながら業が深いな」
「悪趣味ですね」
ローダスが溜め息を吐いた。
「お前も何れ分かるだろう。無関心を貫いていられるのも今の内だ。だがその時には手遅れだ」
シリウスは冷め切った茶を飲むと席を立つ。
アシュリーはきっとシリウスを受け入れる。
そんな確信に胸を踊らせた。
日々煩雑な国王の為さねばならぬ義務の中、あれ程までに切実な人間としての要求を訴えた者はかつていなかった。
価値観に縛られる生き方に否と言った人間はいなかったのだ。
人々はいつも目の前に敷かれた道を歩く事に精一杯なのだ。
その中でアシュリーが言った本心は酷く野生的で人間の本能に従った言葉であった。
この世界に言葉が生まれ、大まかな概念が生まれた時から人々は縛られずにいられ無かったのだ。
偉大なる学者や賢者と呼ばれた者達ですら本能に抗い、先人の敷いた道から逸れる事はしなかった。
只の個として人格を尊重する世界になるには余りに人類は智達である。
それを覆す為には幾らの進歩が必要なのか。
余りに壮大な話であった。
性。
それも生き物の本能なのだ。
種を残すという原始的な本能だ。
生き物の本能と、人間として浅はかな知恵を得た者の本能。
在るが儘に生きるとは何と無情な事なのだろうか。
シリウスは出会ったばかりのアシュリーを思い描き、苦笑した。
♢
「陛下は、それで何と?」
エドワルドが冷や汗を拭いながらアシュリーに問うた。
アシュリーは父の書斎でテーブルの向かいに座る父母を見た。
父エドワルドは落ち着かない様子を取り繕いもせず、身を乗り出している。
対して母アレキサンドラは長椅子に腰を深く据え、結果を受け入れるつもりの様だ。
「私を王妃として迎えたいと仰せでした。唯、私が王妃になったからといって家門の箔はつくでしょうが、何がしかを計らってくれる程甘いお方ではございません。しかし、かと言って断れる状況でもありません」
「まあ、そうでしょうね。貴方、諦めましょう。陛下は妾もいらっしゃらないらしいし、まあいいんじゃないかしら?」
アレキサンドラの言葉にエドワルドは唸って考え込む仕草をした。
内心では分かっているのだろうが、ポーズとして雰囲気を演出しているのだろう。
アレキサンドラもそのエドワルドの態度に呆れた視線を向けている。
「従う他無いわね。でも娘をこんなに早く嫁がせる気なんて無かったわ。せめてアシュリーが十八までは一緒に暮らして居たかった。貴女の成長が生き甲斐だったのよ」
珍しく沈んだ声の母をアシュリーは見る。
目尻に皺が浮かんでいた。
あの若々しく美しかった母。
幼い頃からの記憶を引きずっていたのか、母の老いを今まで感じる事も無かった。
こんな形で知る事になろうとは。
アシュリーは鼻の奥がツンと痛む感覚を味わった。
「それで具体的には日程はどうなるんだ?」
エドワルドが水を差す様に聞いてくる。
「さあ。まだ分かりませんが、陛下の事ですからこちらが返答をすればすぐにでもとなるのでは無いかと思います。尋常では無いくらい頭の切れるお方な様ですから。きっと即断即決の方だと思いますが」
「ああ、王家に輿入れなどどうすれば良いのか。私は分からんぞ」
次の心配事を見つけたエドワルドはかなり情緒不安定な様子で、アシュリーとアレキサンドラは目を合わせて僻遠した。
アシュリーは翌日半日掛けてシリウス宛に手紙を認めた。
家庭教師であるロザリオ子爵夫人に書式や作法を入念に確認してから出した。
子爵夫人は夫であるロザリオ子爵が外交官を長年務めていた兼ね合いもあり、多岐に及んで博識な人物であった。
又、アシュリーの母方の実家であるカルバス伯爵家所縁の人物でもある。
いつも何事にも動じないロザリオ子爵夫人ではあるが、件のシリウスとの件については腰を抜かす程驚いていた。
見た事も無いロザリオ子爵夫人の形相に、アシュリーはほんの少し平静を取り戻したのだった。
そうして手紙を出した夜。
夜半、リンが訪ねて来たのだった。
「アシュリー様、夜分遅くに申し訳ありません」
ちっとも申し訳無さそうではないリンの態度にアシュリーは、はて、と首を傾げた。