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王の印が封蝋された手紙が届いたのは夜会の翌日である。
シュタイン家は上に下にの大騒ぎとなった。
特に慌てたのは矢張り家門を代表する今代シュタイン家の当主であるアシュリーの父、エドワルドだ。
銀の盆に乗った手紙を前に震えている。
エドワルドとは気の小さい男なのだ。
対して母、アレキサンドラは非常に肝の座った女性である。
男勝りなアレキサンドラは見事にエドワルドを尻に敷いてあれこれ領地領民の為に奔走している。
そのアレキサンドラもまた珍しく難しそうな顔をして手紙を睨んでいる。
アシュリーは重々しい空気に両親を交互に見て溜め息を飲み込んだ。
「アシュリー。手紙の内容を話してもいいかしら?」
口火を切ったのは母アレキサンドラだった。
アシュリーは頷いた。
「今代国王のシリウス・フィリップス王は名だけは知っているわね。いつも夜会でも玉座の前にはベールが付けられているからお顔を拝見する事も珍しいのだけど」
アシュリーは頷いた。
正しくアシュリーはこの国の王であるシリウスを見たことは無かった。
夜会に王が姿を見せる際も天幕の向こうに居るだけであったし、そもそも先代王のルーズベルトからの戴冠式も略式であった。
王太子時代も長く隣国に留学していた為、非常に謎に包まれた人物なのだ。
「それで……、何と?」
アシュリーが恐る恐る尋ねると、アレキサンドラは溜め息混じりに答えた。
「アシュリーを妻に迎える。そう書かれていたわ。貴女、シリウス陛下と面識があったのかしら?」
「いいえ。お会いした事もましてや、お声を掛けて頂いた事すらございませんが」
アシュリーは困惑を滲ませながらそう答えた。
「そうよねえ。貴女が社交界に出る年頃からは更に頑なになられたのかほぼ夜会に出席される事も無かった筈よ。この前の王城で開かれた夜会で久々に出席されたのだけど、ついぞお姿を拝見出来なかったもの」
「お断りは……」
「出来る訳無いだろう」
エドワルドが即座に反応する。
「困ったわね。うちは侯爵家とは言っても末席も末席だもの。釣り合いが取れないわよ」
三者三様に思う所はあるが、矢張り親子なのだろう。
頭を抱えて暫し沈黙した。
「手紙には更に続きがあった。明日、アシュリーに一人で王城に訪ねる様書いてある」
「そんな。急過ぎやしませんか?」
アシュリーは冷や汗を垂らしながら言う。
「そうよね。幾ら陛下とは言え余りに急なのよ。寛容な方と聞いていただけに驚いたわ」
「だが我々には従う他無いぞ。アシュリー、任せたぞ」
エドワルドは最早自暴自棄なのかアシュリーに丸投げの体だ。
「そんな!困ります、お父様!」
「そうは言ってもこればかりは仕方が無いわよ。精々恥をかかない程度に支度して頂戴」
アレキサンドラの声で打ち切りとなった。
アシュリーは呆然としたまま放り出された形だ。
突然の手紙。
半ば強制的とも言える結婚の話。
更には手紙の翌日に王城へ招く。
幾ら何でも横柄だとアシュリーは思った。
きっと禄でもない人物に違いない。
そう考えると今更ながら腹が立ってきた。
アシュリーは何よりも人に決め付けられたり左右される事に我慢ならない性格だった。
そんな性格が災いし、生まれながらの性別という鎖を厭うている人間に、この仕打ちは何よりも屈辱的であった。
しかし跳ね除ける程突き抜けた馬鹿では無い。
変に利口な己がまた嫌であった。
自室に着いて窓辺の椅子に腰掛ける。
怒りに震える手を握り締めてやり過ごす他無かった。
♢
ーーー翌日。
王城に着いて番兵に名を告げるとすぐにシリウス王のプライベートガーデンに案内された。
綺麗な庭である事は間違い無いが、少し物悲しく感じる不思議な風情がある庭だった。
これだけ大きな国の中枢を担う王の庭にしては質素過ぎるからかもしれない。
庭の端。
丁度一望出来る場所にテーブルと椅子二脚が準備されていた。
けして粗末な造りでは無いが、豪華とは言え無い質素なものだ。
余り華美なものは好かない質なのだろうかとアシュリーは推し量った。
椅子に腰掛けるとすぐ様茶が出された。
口を付ける気にもならず辺りを伺っていると背後から声が掛かった。
立ち上がって振り向くとそこには夜会で会った美麗な男性が居た。
「良い。座ってくれ」
驚いて挨拶も忘れているとそう言われて決まり悪く座った。
アシュリーはこれ以上の失態をしないように注意深く次の言葉を待った。
「今日は余り喋らないのだな」
アシュリーの様子に揶揄い混じりに言われた。
「……本日はお招きくださり光栄でございます。アシュリー・シュタインと申します。先日も、そして本日もご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
アシュリーが着席したまま非礼を詫びるとシリウスは笑った。
「そんな事は良い。名乗らなかったのは私だ。煩わしい事が嫌いでな」
シリウスはそう言いながら片手を上げ、給仕の者らを下がらせた。
「突然の事に驚いただろう?だが君の様に素晴らしい人間を早々放って置く程世の中も愚かでは無いだろう。誰かに奪われては敵わないと気が急いてしまったのだ。許せ」
「買い被り過ぎでございます」
アシュリーが謙遜するとシリウスが首を振った。
「君は私が会った数多の人間の中でも一番神秘的だ。普通の人間は肉体と精神が鎖で繋がれた様に従順に在るが儘を受け入れる。しかし君はそれに抗おうとする稀有な存在だ。素晴らしいでは無いか」
シリウスはテーブルに肘を突き、アシュリーを覗き込む。
「私の様な人間はきっと他にも居る筈です。唯、少数なのです。いつでも大衆は声の大きい者を優遇し、小さな存在を否定する事に躍起になるのですから。丁度良い見せ物なんでしょう。悲しい事に」
いつもそうだ。
人々は他人と自分を区別したがる癖に異分子は徹底的に排除したがるのだ。
血を分けた肉親ですらそうなのだから想い人であったリンに受け入れてもらえる筈もなかったのだ。
ましてや一度言葉を交わしただけのシリウスには分かるまい。
アシュリーは僅かな悲嘆を感じていた。
「まあ、そう言った人間が多勢だろうな。この国はそう言った面では未熟なのだ。無知な人間程他人を簡単に否定するのだ。だから私は私の代でこの国に教養と知恵の種を蒔きたいのだ。恐ろしく気の遠くなる話だ。だが、その種は必ずいつかは芽吹くであろう。そうして更に遥かな時を経ていつか大木になる。そうなった時、君はきっと真の意味で自由を手に入れるだろう」
真剣な面持ちのシリウス。
まるで夢物語である。
だが、途方も無くロマンのある夢物語だとアシュリーは思った。
「私が生きてる内には叶わないんですか?」
アシュリーが挑む様に伺うとシリウスはニヤリと口端を上げた。
「だから仮初めの自由を与えよう。ひとまずそれで手を打ってくれないか?」
「仮初めの自由とは?」
アシュリーが問うとシリウスは頷いた。
「君が好む格好をし、君の心のままの言動を受け入れよう。城の者は誰も君を咎めはしないと約束しよう。心の赴くままに生きれば良い」
「それで陛下にどの様な得があるのでしょう」
アシュリーの再びの問いにシリウスは不敵に笑った。
「私は余り人前に立つ性分では無いと噂くらいは聞いたか?」
アシュリーは母との会話を思い出して頷いた。
「煩わしい事が嫌いなのだ。余り多くの者に顔が割れては厄介ごとに巻き込まれる遠因にもなり兼ねない。だが国には象徴が必要だ。民を導く象徴がな。君にそれを頼みたい」
一国の主ともなれば政治上の暗殺など様々な命を狙われる可能性があるという事だろう。
だからその上で張りぼての盾を作りたいという事なのだろう。
アシュリーという張りぼてを。
「勿論君の安全は保証する。なんの権力も持たず、実家の後ろ盾も弱い王妃であれば正しく象徴にしかならんからな。初めは勘繰られるだろうが、そこさえ凌げば問題はあるまい」
シリウスはそう言った。