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アシュリー・シュタインは物心付いた時からその底知れない違和感に苛まれていた。


アシュリーは侯爵家の令嬢として生を受け、何不自由無い生活を送っていた。

一般的な貴族令嬢として女性としての教養である教育を受け、元来の整った顔立ちが幸いし、思春期を迎える頃には様々な貴族令息からの求婚が後を絶たなかった。

しかし、アシュリーにとってはその何もかもが苦痛だったのだ。

自身の与えられた部屋。

窓辺に佇みシュタイン家の庭を見下ろす。

花々が咲き乱れ、計算された庭はシュタイン家の自慢の一つでもある。

その庭には侯爵家の夫人。つまりアシュリーの母が自ら品種改良し、アシュリーの名を冠したピンクの花弁の中央が淡い薄緑色の蔦薔薇が特に自慢だった。


「アシュリー様、今日の夜会ではこちらをお召しになるように奥様が仰せです」


側仕えのメイドであるリンが言う。


「気分じゃない」


アシュリーはチラリとも視線をくれずに窓の外を見たまま返す。


「そう仰らず。素敵なドレスですよ。アシュリー様のスレンダーな体型にとても似合ってますし」


リンは慣れているのか淡々と準備を進める。


「はっきり言っていい?」


アシュリーが視線をリンに据えて不機嫌そうにする。


「ドレスなんか金輪際着たくない」


「ではメイド服でも着ますか?」


リンが苦笑しながら言うと、アシュリーは立ち上がってリンに近付く。

小柄なリンに背の高いアシュリー。

リンを見下ろすアシュリーの瞳は切なげな色を浮かべる。


「リン……。私の気持ちは分かっているでしょう?」


「さて、何の事でしょう。アシュリー様、これではお支度出来ませんよ」


リンが作業をしていたテーブル。

そこにリンの両脇を挟むようにアシュリーは手をついた。

仰け反るリンの腰にアシュリーは腕を回す。

二人の近付いた距離にリンは息を飲んでから咳払いをする。


「アシュリー様。もうこんな事はおやめくださいませ。私、来月結婚するんです」


「まさか!」


「本当です。執事のマルクスと。直に子も生まれる予定なんです」


アシュリーはふらふらとよろめく。

額に片手を当て大袈裟に動揺する。


「嘘だ!リン、嘘だと言って!」


リンはアシュリーの態度に溜め息を吐きながら言う。


「アシュリー様。貴女の()()は恋情ではありません。身近にいる者に慈悲を与えるのはアシュリー様の美点です。しかし、勘違いしてはいけませんよ。私もアシュリー様も女同士ですから」


リンの言葉にアシュリーの思春期を迎えたばかりの繊細な心は粉々に砕け散った。

アシュリーとて出来る事ならば普通でいたい。

だが、無理なのだ。

アシュリーが望む普通はアシュリーには訪れない。

どうしても己を女性という枠に当てはめて生きて行く事を受け入れられないのだ。

かといって男性として生きて行く事も受け容れ難い。

性別という(ことわり)に縛られて生きて行く事に大きな違和感を感じざるを得ないのだ。

この階級社会であるドレスティナ王国では女性はどうしても男性に左右されて生きて行くしかない。

やれ立派な家紋に嫁げだの、世継ぎを早く産めだの。

そういったアシュリーからすると瑣末な事情に振り回されて生きて行く事がどうしても受け入れられないのだ。

そんな事実に気付く年齢になる頃にはアシュリーは程々に絶望感を味わっていた。

そんな折にいつも側で見守っていてくれたリンがアシュリーの唯一の心の拠り所であった。

そのリンにアシュリーの気持ちを真っ向から否定された上に、自身がいつも感じていた違和感を躊躇なく踏み躙られた。

これはアシュリーにとって最も堪え難い事であった。

アシュリーは親しくしていたリンにまで拒絶され、大きな孤独に包まれた。

そんなアシュリーの内面など気付かぬリンに、夜会の支度を施される。

アシュリーは虚無だった。

誰に何を言ったとしてアシュリーの気持ちを察してくれる者はこの世に一人も居ないという事実を突きつけられたような気がしていた。


慌ただしく支度を為すがままにされ、父母とは別の馬車に押し込められた頃には自分の身に起きた心境の移り変わりを正しく受け止めるには不十分な時間であった。


王城のホールは大層煌びやかだった。

ひらひらと舞う取り取りのドレスのフリルやレースの波。

重なり合うように舞い踊る紳士淑女たちに眩暈を覚える程の吐き気がした。

自分がどちら側になる事を拒否するという事は、拒否した側から拒否をされるという事なのだ。

ならばどちらかに傾いてしまえばいい。

それが簡単に出来れば生きやすいのかもしれない。

思春期の若木の様な心は年齢を重ねたからこそ出るしなやかさを兼ね備えてはいないのだ。


アシュリーは呆然と立ち尽くし、まるでベールを一枚隔てた様な自分の関われない世界を唯見守っていた。

給仕が差し出すグラスを淡々と受け取り、今まで呑んだ事も無いくらいのアルコールの量を摂取した辺りでホールを出た。

王城の中庭に辿り着いた辺りで強かに酔って熱くなった頰を爽やかな夜風が冷やした。

アシュリーは熱い溜め息を吐いて、噴水の縁に腰を下ろした。

細く長い指先を水面につけて遊ばせる。

水鏡に映ったアシュリーの表情はまるで生気の無い亡霊の様だった。


「見惚れているのか?」


唐突に響いた言葉に驚き振り向く。

そこにはまるで絵画から抜け出てきた様な美丈夫が月明かりに照らされて佇んでいた。


「驚かせたならすまない。君はそこで何を?」


唇に淡い微笑を刻む男。

まるで現実味の無い光景であった。

綺麗すぎるのだ。


「少し……、月の微睡みに浸っておりました」


アシュリーは幾ばくかの逡巡の後、曖昧な答えを返した。

すると美麗な男は目を細める。


「月の微睡み……ね。ロッガスからそんな台詞が出るとは」


男性はくつくつと笑いを堪えている。

ロッガスとはドレスティナ王国に古く伝わる神話に登場する酒神だ。

つまりアシュリーはロッガスに例えて男性にからかわれたのだ。


「ホールで黙々と呑んでいたのが見えたからつい気になって付いてきたのだ。案外平気そうで安心した」


男性はアシュリーの白けた表情を察して言い訳めいた言葉を連ねた。


「平気などではありません」


アシュリーはどうせ今夜限りの縁であるし、既に醜態を晒した相手であるから本音が口を突いて出た。

酒で口が滑った所為もあるかもしれない。


「それは酒を浴びる程呑む程に君を追い詰めた理由の事か?」


男性が一歩アシュリーに近付く。

不思議と警戒心は湧かなかった。

知らない相手だったからかも知れない。

先入観が全く無い相手だったからだ。


「ええ。私は考えるのです。女にもなりきれない。男にもなれない中途半端な存在なのです」


男性は顎に手を当て考える仕草をする。


「幼い頃からそうでした。己の性に対する違和感を拭い切れないのです。こんな考え、きっとお笑いになる事でしょう」


アシュリーが冷笑を浮かべると、男性は頷いた。


「君は自分を型にはめられる事を厭うているのか?」


「そうです。私は一体何者になれるのだろうかと答えの出ない問答を繰り返しているのです」


「それは大層生き難いだろうな。今まで当たり前に自分の性別を享受して生きてきたが。うん、それは私には計り知れない感覚だな」


男性は再びアシュリーに向けて数歩歩み寄る。

アシュリーの心理的に受け入れられる距離を測る様に。


「当たり前に受け入れて生きられる人々はそれだけ自分の核がしっかりしているという事でしょう。私の様な半端な人間はその様な芯が無いのです。唯生きているだけで煩雑な事を考える事に終始している様な人間にはまともに生活する事さえままならないのです」


アシュリーは水面に視線を落とし自嘲気味な笑みを零した。


「だから()()は美しい。ドレスを纏っていても貴方はまるで女性という価値観に縛られない。ーーーもし。貴方に自由を約束する存在が現れたとしたら貴方は何もかもを差し出すのだろうか?」


男性が更に距離を詰めてアシュリーの座る噴水の縁に腰を下ろして向かい合う。

アシュリーは男性を真っ直ぐに見つめて一拍の間を作る。


「そうですね。そんな酔狂な存在が現れたとしたら身を委ねてしまうと思います」


男性はアシュリーの返答に満足げな笑みを零して立ち上がった。


「いいだろう。アシュリー・シュタイン、また会うとしよう」


そのまま王城の方角へと振り返らずに消えて行った。

アシュリーは名も知らぬ人物が自身を知っていた事に些か嫌な予感が過った。

しかし、彼の言う様に二度と会う事は無いだろうと気持ちを切り替えた。


そんなアシュリーに青天の霹靂が訪れるのは翌日の事である。







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