第29話 男との戦い
「おやぁ?まさか、そこにいるのは、K-6Aじゃないか?」
その声に、窮地でも動じなかったクロアの表情が、歪んだ。
声のした方向に目線を向けると、そこには、白衣を着た痩せぎすな男が立っている。
ぼさぼさの黒い髪の毛は耳にかかる程度まで伸びており、頬はこけている。
分厚い眼鏡の奥の眼には、ぎらぎらとした好奇心が宿っており、控えめに見ても、狂人だ。
その男は、クロアをじっとりと見つめた後、興味を失ったように目をそらす。
そして、次に、捕らえられている赤い女と青い女を見る。
「ああ・・・K-8A、K-8B。おまえたちも、失敗だったか。」
男は、そう言う。
その瞬間、赤い女と青い女の表情が、恐怖に歪む。
男は、そのまま、周囲をぐるりと見渡す。
その目線が、20人ほどに分かれているエミーリアで、止まる。
警戒して、同時に身構えるエミーリア達。
男は、ゆっくりと手を両手を動かし、突如、手のひらをたたいた。
それを警戒し、びくりと体を震わせるエミーリア達。
それを見た男は、笑みを深くする。
「おやぁ?反応が、一人一人違いますね。群体レギオンですか。いいですね。」
そう言い、男は、どこからともなく、注射器を取り出す。
「そうですね。脳が、無限に手に入りますね。」
男がそういった瞬間、捕らえてきているアルバトレルスの幹部らしき女が、叫ぶ。
「逃げて!」
その声とほぼ同時に、男が異様な速度に加速する。
そして、エミーリアへと迫る。
その速度に、エミーリアは、反応できていない。
男は、そのまま、エミーリアに薬剤を注射し、捕らえるつもりなのだろう。
だが、俺が、それを許すはずがない。
エミーリアと男の間に、割って入る。
驚いたことに、男は俺の速度に反応し、注射器の目標を変え、突き立てようとしてくる。
それを許すほど、俺は甘くない。
咄嗟に、開放を5まで引き上げる。
途端に、世界が遅くなる。
注射器を握った腕に向けて、拳を放つ。
男の手首と注射器が砕けた音がしたが、気にしない。
エミーリアに手を出そうとしたのだ。これくらいの痛みは負ってもらおう。
男の、砕けた手首に、一瞬、赤い光が走る。
次の瞬間、俺は、顔面に重い衝撃を感じた。
そして、景色が高速で流れる。
背中に衝撃。
そして、轟音とともに、視界が一気に暗転する。
意識はある。
体に痛みはない。
視界の暗転は、瓦礫に埋まっただけだろう。
だが、気にするべきは、そこではない。
吹き飛ばされた。
吹き飛ばされ、壁に叩きつけられ、崩れた壁に埋まったのだ。
頭に感じた衝撃は、強かった。
この威力。
あの速さ。
予想外である。
開放5で、反応すらできなかった。
これは、開放10でも、勝てないだろう。
ああ、久しぶりだ。
俺が、10以上の開放を必要とする相手など、先の大戦以来だ。
さっきの一撃からすると、20くらいなら、倒せるだろうか?
「開放、20。」
開放を一気に引き上げる。
身体の奥底から湧きだした力が、指先まで行き渡る。
感覚が鋭敏になり、周囲の状況が、見なくてもわかる。
エミーリアが、叫んでいるのが、聴こえる。
男が、勝利を確信した、いやらしい笑い声を上げているのが、聴こえる。
エミーリアに、手を出させるわけには、いかない。
感情のままに、瓦礫を跳ね除けるように、立ち上がる。
瓦礫に、重さはない。
正確には、重さを、感じない。
瓦礫の中から立ち上がった俺を見て、そこにいる全員が、唖然とした表情をしている。
いや、男だけは、嬉しそうだ。
「おやぁ?無傷?・・・いい素体ですね!」
男はそう言うと、両手を開いて飛び掛かってくる。
砕いたはずの手首は治っているようだ。
速い。
男の動きは無駄が多く、全く戦い慣れていないことがわかる。
だが、速い。
ただただ、身体能力のみで速いのだ。
飛び掛かってくる男の、顎を蹴り上げる。
吹き飛んでいく男のメガネが、ビルの蛍光灯の明かりを反射する。
数歩、よろけるように後退した男の腹に、えぐり込むように拳を一発。
男は、一瞬身体をくの字に曲げ、苦悶の表情を浮かべながら、数歩よろける。
思ったよりも、防御力はあるようだ。
今のは、吹き飛ばすつもりで殴ったが、よろけるだけだった。
というよりも、この殴り心地は、知っている。
この、殴っても芯が無いような、妙な硬さ。
その事実に至って、思考が、スッと冷静になる。
今まで何度か見た『赤い何か』に侵された者を殴った時の感触である。
男は、ダメージなどないかのように、襲い掛かってくる。
速い動きだ。
だが、所詮、素人の動きである。
俺には当たらない。
大ぶりなパンチを躱し、腹部に拳を一撃。
下がってきた顎に、アッパーを。
伸びきった体に、蹴りを。
男はよろけ、完全に無防備だ。
男には、一撃入れるたびに、それなりにダメージが入っているはずである。
しかし、そのたびに、赤い光が迸り、ダメージが無くなる。
男の表情は、不敵な笑みから変わらない。
何発入れても、効いていないようにすら思える。
男を掴み、頭から床に叩きつける。
ぐしゃりという音がして、首が変な方向に曲がる。
しかし、赤い光が迸ると、首の方向は元に戻っており、ダメージは消えたように見える。
男が凄まじい力で暴れたので、無理やり押さえつける。
その時、男の背骨が折れた気がしたが、これもどうせ治るのだろう。
そう思った瞬間、背中から赤い光が溢れ出し、折れ曲がっていた背中がしゃっきりする。
「があああああああああ!!!」
突如、男が獣のような叫び声をあげる。
その瞬間、男の筋肉が隆起し、力が強くなる。
思わず拘束が外れる。
男は、転がるように俺から離れていく。
そして、数m離れたところで、立ち上がり、不気味な目でこちらを見る。
「はぁ・・・はぁ・・・。予測よりも・・・数段・・・強いですね。」
男はそう言いながら、再び、両手を広げて構える。
そこから、襲い掛かってくる。
何とも素人臭い構えだ。
隙だらけである。
だが、そこから繰り出される攻撃は、決して素人の速度ではない。
その攻撃に、カウンターを合わせる。
ぐしゃりという感覚がして、男の顔がつぶれたのがわかる。
赤い光が走り、男の顔が治る。
「くそがあああ!!」
男が、がむしゃらに腕を振り回し始める。
その動き一つ一つに、丁寧にカウンターを合わせていく。
そのたびに、男の身体はどこかが砕け、潰れ、弾ける。
そのたびに、赤い光が迸り、治っていく。
そのまま、5分ほど経過しただろうか。
動きに合わせて拳を放ち、顔面を砕く。
これで、20回目くらいだろうか?
一体、どれだけダメージを与えれば、こいつはエネルギー切れを起こすのだろうか。
今の状態は、かなり不毛である。
俺のスタミナは全然問題ないが、しかし、このままただ殴り続けるわけにもいかないだろう。
さらに、数分殴る。
「もう、もうやめてくれぇえ!!」
男が、唐突に叫んだ。
その叫びを聞かずに、殴る。
「へぶぅっ!?痛い!痛いぃ!!」
その叫びは、悲痛だ。
だが、殴るのを止めない。
「がはぁっ!やめろっ!ぐへっ!」
男は、いやいやと首を振りながら、後ろへ下がる。
わかっているのだ。
これは、演技だ。
しかし、下手くそな演技である。
露骨に、背中に腕を回している。
そこに、何かがあると言っているようなものだ。
だが、このまま殴り続けていても、埒が明かないのも、事実だ。
一つ、演技に乗ってやろう。
「わかった。あと一発で、やめてやろう。」
俺がそう言うと、男は、ニヤリと笑う。
演技慣れしていないのが、まるわかりだ。
何発も殴っていて、わかったことがある。
こいつは、今までの赤い力の持ち主とは、違う。
赤い力を、どうにか制御しているのだろう。
その制御の賜物か、どうやら、即死しなければ、治るようである。
ならば、完全に、戦意を喪失させてやる必要がある。
勝てないと、悟らせなければいけないのだ。
背後に隠している者は、切り札なのだろう。
下手な演技で、こちらに、頑張って体の前面を向けている。
赤い何かの力を得た体ならば、後ろの切札を、守り切ることができると思っているのだろう。
ならば、正面から、その切り札を叩き潰してやれば、戦意を折ることができるのではないだろうか。
確実に戦意を折るためには、十分な攻撃力が、必要だろう。
「開放、50。」
開放20とは、比較にならない力が、全身に満ち満ちてくる。
感覚は研ぎ澄まされ、周囲の気配、自分に向けられる殺気、恐怖、期待がわかる。
そして、男が何を隠しているのかも、わかる。
どうやら、薬剤を打ち込むための銃っぽい何かのようだ。
「何を、呟いている・・・?」
男が、訝し気な表情をする。
それも、そうだろう。
俺は、力を開放しても、外見はほぼ変わらない。
より大きな力を開放すれば、体内で制御が間に合わなかった分が、周囲に一瞬噴き出すこともある。
だが、50程度ならば、完全に制御できる。
左足を、少し後ろに下げる。
脇を締め、両拳を体に近づける。
腰を落とし、重心を下げ、身体を安定させる。
「避けてもいいぜ。」
我ながら、意地の悪いことを言った。
避けられないのは、わかっている。
そう言ってすぐ、左足で体を前に押し出す。
右足で、しっかりと床を踏みしめる。
全身の力を、足から腰に、腰から肩に、肩から腕に、同時に伝達する。
拳から、ヴェイパーコーンが発生する。
そして、一瞬の後に、拳は、男の腹部に到達した。
一切の手加減なく拳を振りぬき、腹部と一緒に後ろ手に隠していた物を粉砕する。
男の背後に、赤い霞が広がる。
拳を引けば、目の前に、腹に大穴を開けた男が、訝し気な表情のまま、立ち尽くしている。
男の腹の穴からは、男が後ろに回していた手が、手首からなくなっているのが見える。
数秒の後、男が、自分の状態に気が付いた。
「な・・・に・・・?」
呆然と、手首から先が消滅した手を、顔の前に持ってくる。
無慈悲に、赤い光が迸り、男の傷が無くなる。
腕は元通りだ。
腹の穴も、無くなった。
だが、切り札も、同時に無くなったのだ。
呆然とする男に、声をかける。
「今の一撃を、再生より早く、連続で叩き込めば、さて、どうなるかな?」
その時初めて、男の顔に、恐怖が浮かんだ。
「投降したら、どうだい?」
俺の言葉に、男の顔が、引き攣る。
そして、何かを探すように、手を彷徨わせる。
しかし、どうやら、打開策は見つからなかったようだ。
男が、膝をつく。
「・・・投降、する。」
ついに、男の心が、折れたのだ。
その後は、特に苦戦することもなく、制圧は終わった。
あのK-8A、K-8Bと男から呼ばれた赤い女、青い女と、男自身が最高戦力だったのだ。
他の戦力も、上の階で制圧した分で、ほぼ全てだったようである。
ここに、新生アルバトレルスは、壊滅したのだった。




