桐里夏芽 その6
フッと目を覚ます。
耳に入って来るのは静寂。室内はまだ薄暗い。
ーーーTururururururururu・・・・・
スマホのアラームが鳴り出して、今が朝だと教えてくれた。
アラームを解除してから、体を起こして、大きく伸びをする。
なんだか、久し振りにスッキリ起きられた気がする。昨日の頭痛や喉の痛み、倦怠感などは綺麗さっぱり消え失せ、爽快感いっぱいだ。昨日飲んだ葛〇湯が効いたのかもしれない。
『ご主人様、起きたー』
嬉しそうな声が聞こえて隣を見ると、枕の横に薄緑色のジェル状生物がいる。スライムのライムだ。
いつの間に帰ってきたのだろう。昨夜、私が帰って来た時は、まだいなかったような気がする。ああ、でも、姿が見れてよかった。
「ライム、おはよう!」
挨拶をして、ライムを抱き上げた。そして、驚いた。
「あれ!?ライム、冷たくない!」
そう、いつもは冷えたゼリーのようにひんやり冷たかったライムが、ほんわか温かかったのだ。
『がんばったー。あついのとつめたいの、平気になったのー』
昨日、何があったか知らないが、よくよく話を聞くに、熱や炎に対する耐性と凍りつくような寒さに対する耐性を獲得したようだ。それはつまり、一緒にシャワーを浴びたり、お風呂に入ったり出来るということで。
「よし!じゃあ、今夜は一緒にお風呂入ろう!」
一回やってみたいと思っていたんだ。シャワーがダメだった時点で諦めていたけど、耐性を獲得したなら、もう大丈夫だよね。
ピョコピョコ跳ねて回るライムを見て、和む私。
・・・違う。そんな場合じゃない。
会社に行かなくちゃ。
壁掛けの時計を見て、私は慌てて身支度を開始したのだった。
シャワーを済ませて、メイクと着替えを済ませて、冷蔵庫を開ける。
・・・いつもは来る冷気が、ない。
いや、気のせいかもーーーと思ったが、そうではなかった。
なぜか、コンセントが抜けていることに気付いたからだ。そりゃあ冷えてないわ。
しかし、何でコンセントが外れてたんだろう?
それを考えている余裕はなかった。出勤時間である。
「ライムー。私、仕事行ってくるからー。留守番、よろしく・・・」
『ご主人様ー。何食べたらいい?』
ライムが御飯を主張した。
そうか、御飯か。んー・・・。
「机の下の物、適当に食べていいよ。食べ終わったら待機で」
机の下にはダイレクトメールや広告なんかが散らかっている。食べられて困るものはなかったはずだ。
だが、そんな心配を吹っ飛ばすようなことが起こった。
ライムがブルブルと震えたかと思うと、
『待機、いやぁ~~~~~っ』
と、大泣きし始めたのだ。
突然のことに驚きながらも、慌ててライムを抱き上げた。
「どしたの、ライム!?」
『待機、怖いー』
泣き喚くライムに、困惑する私。悩んだ末、前言を撤回することにする。
「分かった!待機はなし!!だから、泣かないで、ね?」
『待機・・・ない?』
「ないない」
やっと落ち着き始めたライムに、笑顔を向けて、言い切る。ここは勢いが肝心だ。
「大丈夫だよ。ライムが嫌なら、もう言わない」
重ねて、笑顔を向ける。すると、ライムがすりすりっと甘えるように、私の胸にスライムボディを押し付けた。
『ご主人様、好きー』
はい!「好き」頂きました!!
やっばい。この子、ちょー可愛い!
「私も!ライムのこと、大好きだよ!」
お返しのように抱き締め返すと、ライムが嬉しそうな表情をした。スライムだから、顔はないんだけどね。なんとなく、そんな感じがしたのだ。
ともかく、会社に行かないといけない。
名残惜しいが、ライムを床に下ろす。
「じゃあ、行ってくるから、このお部屋で待っててくれる?」
『あいあいさー』
ライムが元気に返事をする。
だから、それ、何処で覚えたよ?まあ、可愛いからいいんだけど。
心配は残るけど、仕事を休むわけにはいかない。後ろ髪を引かれつつ、私は部屋を後にした。
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職場に着く。
くりこさんは先に到着していて、自分の席から「よっ」と、片手を上げて挨拶してきた。こういう仕草が様になるから、ちょっと格好いいなって思ってしまう。
「風邪、大丈夫なの?昨日はグテグテだったじゃん」
「やー、すっかり元気になりました。葛〇湯の効き目すごいねー」
「そりゃ、よかった。じゃあ、今夜『しらはな』行けるね?」
その言葉に、月曜日のやらかしを思い出す。そして、くりこさんとの約束も。
私は笑顔で「もちろん!」と答えた。
体調も良くて、仕事も自分の分だけ。
プレッシャーも無くなり、仕事は順調にはかどった。いつもこうなら、いいのに。
問題なく、午前の仕事を終え、昼休憩に入る。食堂に向かおうとして、私はある事を思い出した。
昨日、元山君から、食事に誘われたと言うことを。
はっきり言って、彼とのサシでの食事なんて、罰ゲーム以外の何物でもない。それに、くりこさんとの先約もあるのだ。お礼も兼ねているので、そっちの方が重要。なれば、彼のお誘いはお断りしなくては。
私は、くりこさんに先に食堂に行っていてもらい、元山君を探す。
廊下にも、自動販売機の前にもいない。屋上も見に行ってみたけど、そこにもいなかった。どうでもいい時には勝手に現れるのに、用事のある時には見つからないなんて。これは、新手のいぢめ?
なんて、下らん冗談を思い浮かべていたら、さらにどうでもいい人達に囲まれてしまった。
元山君のシンパの人達だ。
面倒臭い事になってしまった。
「あなた、元山君に食事に誘われたって、本当?」
「ジョウダンよね」
「元山君が優しいから、勘違いしちゃったんじゃないの?」
カチンと来る。
相手にする気はさらさらないのだが、こうなっては、避けようもない。
精神的にも物理的にも上からの目線で、3人の女性社員が私を取り囲む。
私の身長は156センチ。
そんなに低くはないつもりだが、別段高くもない。そして、彼女達は揃って160センチ越え、さらに5センチ近いヒールのパンプスを履いていた。そんな彼女達が、半径50センチの距離から威圧してくる。お陰さまで、私は上目遣いに見上げなくてはいけない。ていうか、近い。
「ちょっと、何か言ったら?」
3人の内の1人が、私が怯えていると思ったのか、意地悪そうに口許を歪ませて、こちらを凄む。長い黒髪に、針金みたいに痩せた身体で、「針金さん」と頭の中で呼んでいる。
「ビビってんじゃないの?」
「はっ。だっさ」
過度な化粧とゴージャスな金髪ウェーブの受付嬢が、こちらを馬鹿にしたように嗤い、縦にも横にもビッグサイズな隣部署の事務員が、鼻で笑う。
改めて言っておくが、ビビってない。呆れているだけだ。
あと、若干焦りはある。昼休みが終わってしまう。社員食堂の今日のメニューは、鱈のムニエル定食だ。副菜の肉じゃがが絶品なんだよね。思い出したら、お腹が余計に空いてきた。
早く終わらせて、早く社食に行こう。
「あのですね」
「あんたみたいなチビでブス、元山君が相手にする訳ないんだから」
ムッカ!
聞き捨てならない!
相手する気はないが、こうなったら交戦するしか。
口を開こうとしたら、別の方向から声が掛かった。
「あなた達、何しているの?」
咎めるような響きに、思わず首を竦めそうになった。聞き覚えのある声は、お局様だ。
「他部署の人間が、ここで何をしているの。用事がない限り、他所の部署へは入らないって決まりがあるの、知っているでしょう」
そう言いながら、お局様はこちらへ近付いてくる。
「私たち、ちょっと話をしていただけで・・・」
「そういうのは、食堂とかのフリースペースを使うようにしなさい」
お局様はにべもない。
しっしっと追い払う仕草をして、彼女達を追い立てる。
「桐里さん。あなたもよ。気を付けなさい」
「はぁい」
別に私のせいじゃなかったけど、返事しておく。
お局様のお陰で、助かった。
そう言えば、お局様なら知っているだろうか、元山君が何処にいるのか。
聞いてみることにした。
「あの、おつ・・・西山主任」
「何?」
あっぶな~~~!
本人に向かって、お局様呼ばわりするところだった。
さておき。
「元山くん、何処にいるか、知りません?」
お局様はちらっと考え、合点が言ったように眉を開いた。
「元山くんは1日外回りよ。余計なお世話かも知れないけど、仲良くするなら、他の子に睨まれないように、上手くやりなさいな」
それだけ言って、お局様は行ってしまった。
・・・・・。
ちっがーーーーうっ!!
そうじゃない!逆だからっ!!
ビックリしすぎて、言い返すのを忘れてしまった。変な風に広まらないといいんだけど。
それにしても、1日いないのか、元山くん。
直帰かなあ?
だったら、今日の約束も、只のリップサービス的な?全然サービスじゃないけど。そしたら、気にすること、ない?
一気に気が楽になった。
よし!食堂へ行こう!
因みに、今日のランチメニューは、鱈のムニエルと肉じゃがで合っていた。
しかし、売り切れで食べれなかった。
悔しいーーーーーッ!!
饂飩をすすりながら、血の涙を流したことを、ここに明記したい。
午後からの仕事も無事にこなし、夕方。
もうすぐ定時になろうと言う頃に、それはやって来た。
「桐里くん、これやっといてー」
課長がまたしても、余分に仕事を振ってきたのだ。
「ここからここまで、直して体裁整えて。あと、こことここと、ここからこんだけ、修正して。出来たら、30部コピーして、ホチキスでまとめておいてね。月曜日の朝の会議で使うから、よろしく~」
よろしかねえよ?
今日は残業しないつもりで、一生懸命頑張ったんですけど?
「あの、私、この後用事が・・・」
「大事な用事?」
「はいっ!!」
「どんな用事?」
「それは・・・」
くりこさんと居酒屋にーーーなんて、言えるわきゃねえーーーーーっ!
「えっとですねぇ」
「どうせ友達と飲みに行くとかでしょ?社会人なんだから、仕事はきちんとしなさいよ」
「・・・はい」
「じゃあ、後頼んだよ。僕は用事があるし、帰るから」
課長はそそくさと鞄を抱えると、「ふーじこちゃ~ん」と叫びながら帰って行った。
それ、どんな用事ですか?
そう問い詰めたい。
いや、問い詰めたところで、下らない用事だったことしか、判明しないだろう。するだけ無駄だ。
現実逃避をやめて、手元の用紙の束を見る。
残業1時間コース、確定だ。
「災難だねえ。完全に目をつけられてるんじゃん?」
「くりこさーん」
「先に『しらはな』に行ってるよ」
「くりこさーん・・・」
彼女もまた、手伝わない宣言と、「がんばれー」と言う声援を残し、去っていった。
定時を30分程過ぎた頃には、部署の中は十数名がいるだけとなった。その半数も、今まさに帰ろうとしている。くりこさんはもちろんの事、課長もお局様も、既に帰ってしまっていた。そんな中、1人黙々とPCの画面を睨み付ける私。
他の社員の「おつかれー」の声が癇に触る。
くっそう。私だって帰りたいのに。『しらはな』で、くりこさんが待ってるのにぃ!
そんな時だった。
「ただいまぁー」
元山君が帰ってきた。
出先から戻ってきた彼に、おう、おつかれーと、帰り支度を済ませた男性社員達が、労いの言葉を投げる。そんな遣り取りを見ながら、心の中で「嘘だ!!!」と叫んだ。
だって、このパターンなら、直帰じゃん!?
若干混乱する私の元へ、元山君がすぐさまやって来る。いや、来なくていーっすよ!
しかし、心の声は届くことなく、彼は無事に私にデスクに辿り着いた。
「夏芽ちゃん、まだ仕事してんの?」
「悪い!?」
イラッとして、きつい口調になってしまう。
が、考え様によっては、残業をネタに断れるのでは?よし、それでいこう。
「あのね、元山君」
「これ、ここまで修正するの?」
「へ?あ、うん・・・」
短い遣り取りの後に、コートを脱ぐ元山君。そして、隣のデスクに着くと同時にPCを立ち上げた。
「・・・何してんの?」
思わず訊ねる。
元山君はニコッと人懐こい笑みを浮かべると、
「一緒にやった方が、早く終わるでしょ」
と、当たり前の様にのたまった。
爽やかな笑顔だ。世の女の子達には、後光が差して見えるんだろうなあ。私には見えないけど。
さておき、取り敢えず、この人にはさっさと帰って頂きたい。
「いや、これ、私の仕事だし。君、外回りから帰ったばっかで疲れてるでしょ。君こそ、さっさとお帰んなさい」
「いやいや、疲れてんのは夏芽ちゃんも一緒でしょ。ちゃっちゃとやって、さっさと終わらせちゃおうよ」
「いやいやいや、そんな事ないから。一人で出来るし」
重ねて突っぱねる。
そして、キーボードをダカダカと叩く。
食事の件を断り損ねた。
彼は言い出さないし、自分から言うのも、何だか期待してたっぽく聞こえて、嫌くない?
しかし、『しらはな』にくりこさんを待たせているからにはーーー待たせていなかったとしても、元山君と食事とか、ない。あり得ない。誰かに見られたら、どうすんの?それがシンパの人達だったら?完全に自爆だ。すっごい、イヤ。
「夏芽ちゃん、ここは?」
「ここは、これで」
「りょーかい」
じゃなくて。
何フツーに仕事してんの!?
食事の前に、今のこの状態がアウトなんじゃん!?
「おー、残業ご苦労さん。仲良いねえ」
「お邪魔さまー。戸締まりは頼んだよー」
そんなヤジを飛ばす、残業組のおじさま達。
「違いますっ!!」
立ち上がって否定するも、おじさん達はさっさとフロアを出て行ってしまう。これでこのフロアには、私と元山君の2人だけになった。
あーもう。
ああいう勝手なコト言う人、マジ苦手だ。
仕方なく座り直し、作業を再開した。
元山君は、ああいうヤジとか、平気なのかな?
ていうか、平気な顔してるし。当たり前みたいにスルーして、大人ってヤツですか?私には無理だ。
30分程して、入力が終了した。
あとは同期と保存をして、プリントアウトとホチキス留めっと。
「あれ?チェックしないの?」
「え?したはずだけど?」
「最後に通しで、もう一回見といた方が、良くない?」
・・・それもそうか。
言われて納得。
もう一度頭から見直してみる。
・・・・・本当にあった。修正漏れ。
無言でPCの前に座り直す。
「ね?見といてよかったでしょ?」
すんごい爽やかな笑顔で、元山君がウインクを決める。
他の男がやるとキモいだけだけど、イケメンがやると様になる。が、今は正直、イラッとした。何だか上に立たれているようで、鼻に突く。
しかし、彼の指摘は正しかった訳で、それを認めないのは意固地に過ぎる気がする。取り敢えず、礼を言っておこう。
「・・・ありが」
「後はどうするの?」
礼を言う前に、スルーされてしまった。
「コピーして、ホチキス留め。30部」
「30!?それ、めちゃくちゃ時間掛かるヤツじゃないか」
ーーーここだ!!
チャンスの匂いを嗅ぎ分け、交渉に入る。
「でしょ!?課長、酷くない!?」
「うん。これは酷い。一人でなんて、出来る訳ないじゃないか」
「だよね!?だからさ、君は・・・」
「でも、2人ならもう少し早く終わらせられるよ。頑張ろう!」
あれ?
「イヤ、だからね?」
「早くしないと、終わらないよ。ほら、印刷して」
「あ、うん」
言われるがまま、プリンターをセットする。じきに給紙音がして、プリンターが無事に唸り始めた。
おかしい。
帰ってもらおうと思ったのに、まだ残業を一緒に続ける話になってる。何で?どうしてこうなった?
「あのね、元山君」
もう一度声を掛けようとした時、プリンターがエラー音を鳴らした。
「紙切れだって!」
「ういっす!」
慌てて新しいコピー用紙の束を持って行く。トレーに新しい紙を乗せて、スタートさせた。
その後、元山君の提案でもう一台のプリンターでも印刷をさせ、誰もいないのをいいことに、印刷された30枚のコピー用紙を一枚づつ広げていく。全部の机を使って、どんどん広げる。次のページの30枚も、1枚目に重ねて置いていき、その次のページも同じように重ねていく。
そうして重ねた8枚の紙を、向きと順番を確認しながら揃えて、ホチキスで留める。2人でやったから、本当に早かった。
印刷物の束を、課長のデスクに置いて、一息吐く。
そうしてから、背後を振り返った。
「やー、ありがとうね。元山君。すごく助かったよ」
お礼を言うと、元山君はニッコリと笑い、コートを羽織る。
「どういたしまして。じゃあ、ごはん食べに行こうか」
はうあっ!?
そうだった。それがあったんだった!
何で忘れてた、私!!
「えと、それなんだけど、実は先約があって、今日は無理っていうか」
「先約?」
「そう!木下さんと」
「断っちゃいなよ」
いやいや、そういう訳には。
「実は、レストラン予約してあるんだよね。夏芽ちゃんと行くの、楽しみでさ。なかなか予約が取れないって有名な店なんだよ」
行くって返事してなかったのに、なして勝手にそげなトコへ予約いれたよ?てか、なかなか予約取れないお店に、どうやって予約した?
「残業手伝ったんだし、いいでしょ?」
それも勝手に混ざってきたんじゃん。まあ、捗ったけどさ。
それでも、そう言われると、断り難くなる。
「でも、月曜日に遅刻した件でお世話になったお礼だから・・・」
「それ、課長に怒られてたヤツでしょ。彼女、役に立ってなかったと思うけど?」
・・・そう言われれば、そう、かも?
でもでも、尽力してくれたのは確かだし。
「残業が終わりそうにないって、言えばいいじゃないかな。実際、夏芽ちゃん1人でだったら、終らない量だったんだしね」
それは、確かにそうかもだけど・・・でも。
「ゴメン。やっぱり私・・・」
「夏芽ちゃん。コース料理だから、ドルチェが3種選べるよ。先払いでお会計済み。俺の奢りってことで」
支払い済み、だと!?
行かなきゃ、1人分まるっと無駄になるってこと!?
何やってんのよおぅ、この男は!
でも、ドルチェ・・・ドルチェか・・・。
「大丈夫。言わなきゃ分かんないよ」
それは、アクマの囁きだ。
ごくりと喉が鳴る。
私はスマホを取り出し、通発信履歴から、くりこさんの名前をタップした。