桐里夏芽 その5
ーーーTururururururururu・・・・・・・
なんか鳴ってる。と思ったら、ふっと音が止まった。
嫌な既視感に駈られて、ガバッと身体を起こしーーーぐらりと視界が回って、そのまま枕に落下する。
・・・何だこれ。
身体が重い。頭も重い。喉、イガイガする。・・・風邪引いた?
再び電子音が鳴り出す。
私は慌ててスマホを引き寄せた。差してあった充電コードが引っこ抜けたが、気にしないようにして、カバーを開く。
ーーーよかった。
鳴っていたのは、アラームだった。
今日は10月28日、木曜日。午前6時26分。
3日の休みを経て、新田さんが復帰する日。だから私は、3日分の仕事の引き継ぎをしないといけない。風邪ごときで休んでいる場合ではないのだ。
無理矢理起き上がり、洗面所に向かう。
鏡の前に立った私の顔は、自分で言うのも何だが、かなり酷い顔をしていた。
ライムは、まだ戻ってきていないらしい。返事もないし、姿も見えない。・・・ちょっと寂しい。
昨日、マンションの建物中の『人間以外の生き物』の《補食》を命じたら、すぐに出掛けてしまった。どうせなら、私が出掛けてから行かせれば良かったと思ったが、すでにいないのだから、仕方がない。
・・・でも、寂しいよぉ。
病気だから、余計に不安なのかもしれない。動物を飼いたい人の気持ちが、ちょっとわかってしまう。
私はささっと身支度を整えると、そのまま出勤することにした。
1階のエントランスに降りると、マンションの前で、管理人さんを捕まえて大騒ぎしている人を見かけた。が、私は極力、知らない振りを決め込んだ。
「だって、変ですよ!絶対泥棒です!飼っていたアロワナがいなくなったんですよ!?それに、イグアナやニシキヘビ、サンショウウオ、カブトムシ達まで!!」
「そんなに飼ってたの?あのねえ、うちはペット禁止だって、知ってるよね。虫も魚も爬虫類も、全部飼育禁止なんだよ。守れないなら、退去してもらうよ」
「そんな!?」
間違いなく、ライムの仕業だ。ペット禁止のマンションで、よくもそんなに飼っていたな、あの人。
うん。知らんぷりしとこ。
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「ありがとう!ごめんねぇ、大変だったでしょ?」
「いえ、大丈夫です」
「そう?なら、続きもやってもらっちゃおうかな」
「いえ、それは勘弁!」
「あはは!冗談だよ。それにしても、桐里さん、調子悪そうだね。大丈夫?無理させちゃった?」
「大丈夫です、全然」
「ならいいけど。ほんと、ありがとね」
「いえいえ」
そんな会話を経て、新田さんに3日分の仕事を報告した私は、引き継ぎを済ませたのだった。
これでやっと肩の荷が下りた。
自分のデスクに戻り、ひとつ大きくため息をつく。
「お疲れ、なっつ」
「ありがと、くりこさん」
労いに感謝を述べる。
本当に疲れた。でも、やっと楽になったのだ。
その途端に、ゲホゴホと咳き込む。マスクをして来て、良かったと思う。今朝、出勤ついでにコンビニで買ってきたのだ。ついでに風邪に効く栄養ドリンクも飲んできたのだが、こっちは効いた感がしない。
「大丈夫?昨日よりも顔色悪いよ?」
「そう?」
何でもない振りをして、私は自分の仕事を開始した。
お昼は食べられなかった。
食堂に入った瞬間に、吐き気にとらわれて、逃げてきたのだ。かなり体調が悪い。時々、頭がぼうっとする。今朝飲んだドリンク剤のせいかも知れない。
今日こそ定時で退社しよう。そんで、早く寝るんだ。
そう思って、タイピングに勤しむ私。
時々、苦い味の咳が出る。喉、痛い。
「はい、どうぞ」
「・・・」
コトンと目の前に置かれた紙コップに、既視感を感じる。視線を上げると、そこには昨日と同じように、元山くんが立っていた。自分の分の飲み物で唇を湿らせている元山くんは、小憎らしいほどに、今日も無駄にイケメンだ。
「頑張りすぎじゃない?顔色悪いけど、大丈夫?早退しないの?」
尋ねられて、答えを思いつけなかった私は、無言のまま。取り敢えず、彼からの貢ぎ物をありがたく頂いた。
中身は、ホットレモンだった。痛んだ喉にしみる。
「あんま無理しちゃダメだよ」
「平気だよ。このくらい」
分かっているが、弱味は見せたくない。強がる私の答えに、元山くんは困ったように肩を竦めるだけだった。そんな仕草も、いちいち決まっている。
「夏芽ちゃん、今度ご飯食べに行こうよ。デートしよ」
突然のイミフなお誘いに、私は飲んでいたホットレモンを、「ぶふぉっ」と吹き出した。気管に入った。痛めた喉がさらに傷んで、咳を繰り返す。
「ゲホ、ゴホッ!」
「じゃあ、週末にね」
「ゲホッ!ちょ、週末て・・・」
「楽しみにしてるよ」
ヒラヒラと手を振って、元山くんはフロアを出ていってしまう。少し逡巡して、私もパソコンの前から立ち上がった。
走って彼を追い掛けたけど、どこへ行ったのやら、元山くんは見つからない。そして、走ったことで余計に調子を崩してしまった。
胃から喉に向かって競り上がる嘔吐感に、行き先を変える。トイレに走り、個室の鍵を掛けたとき、遅れて入ってきた何人かの声を捉えて、私は動きを止める。人に聞こえる位置で吐くのは、ちょっとイヤ。
「娘さん、大丈夫なの?あ、パパっ子だっけ?」
「そうなの。交代したら喜んじゃって」
「立つ瀬無いねぇ」
「いやいや、逆にありがたいですよー。置いてくるのに、手間がなくて」
「でも寂しくない?」
「寂しく・・・はあるけど、いづれパパ嫌いとか言い出したら、私のターン!」
あれ、新田さん?あと二人くらいいるかな。食後に化粧直しに来たようだ。
彼女達が帰るまで、ちょっと我慢しよう。
「で、仕事の方は?終われそう」
「んー、ちょっと無理しないとかな。代わりにやって貰ってたとこ、チェックしたけど、殆ど進んでいなかったし、間違っているとこも多いし、私が考えているコンセプトとずれちゃってて。割りとやり直ししないと」
「残業出来ないんでしょ?大丈夫なの?」
私は知らず、息を潜めた。
何の話をしているのかは、考えなくても解る。
「まあ、何とかするしかないからねぇ。でも、どうして桐里さんだったんだろう。木ノ下さんにお願いして貰うように、課長に頼んどいたんだけど」
「彼女、断ってたよ。自分の仕事が忙しいのと、半端に引き受けたら迷惑になるからって」
「で、遅刻した桐里さんに罰ゲーム、みたいな?」
「罰ゲームって・・・。」
「3時間くらい、連絡なしで遅れてきて。あ、次の日は大イビキかいてたよね。でっかい口開けて、ミスタイプのアラームも鳴りっぱなしなのに気付かなくって」
クスクスと、笑う声が拡がる。
「そんな人に、適当に頼んじゃったのか、あのオジサン。ナニ考えてんだか」
「フージコちゃんの事でしょう?」
「違いない!」
さらに笑いが、大きくなる。
「あーあ。こんなんなら、やってもらわなくても良かった気がするなあ」
「違いない!」
もっと大きくなった笑い声と一緒に、声の主たちはトイレを出ていく。
私は肩に入っていた力を抜いて、個室の壁に背中を着けた。
別に、やりたくてやったんじゃない。やれと言われたから、仕方なくやったんだ。
なのにーーー。
ありがとうと感謝したのと同じ口で、陰口を言う。そういう人だとは思っていなかった。どうせなら、目の前で文句言ってくれた方がマシだった。
重いため息を吐いて、私は壁から身を起こした。
息を潜めていたお陰でか、吐き気はなくなっていた。
「・・・仕事行こ」
呟いて、トイレを出る。
・・・私、何やってんだろう。
何やら色々と、馬鹿馬鹿しくなった。
「・・・っつ、なっつ!!」
呼ぶ声に、顔を上げる。
ーーーあれ?
目の前のPCからアラームが鳴っていて、慌ててキーボードを叩く。すぐにアラームは止まった。
「何やってんのよ、ちょっと。大丈夫?」
呆れたようなくりこさんの声に、ちょっと考えてから、「べーぎ、べっぢゃ゛ら゛」と笑って見せる。・・・あれ?
「それ、全然平気じゃない。」
くりこさんが冷たい視線を向けてくる。
「もう。さっさと帰んなさい。あとはやっといてあげるから」
「や゛だ。自分です゛る゛」
「やだって、あんた・・・」
奮然と画面を睨み、入力を再開する私。
隣から、くりこさんのため息が聞こえた。
「何があったか知らないけど、拗ねてないで、早く帰りなさいよ」
ーーー拗ねてないもん。
心の中で言い返し、マスクの中で唇を尖らせた。
「た゛た゛い゛ま゛ぁ゛」
我ながら、すごい声が出た。
体が重い。何もやる気になれない。
それでも、玄関の鍵だけは掛けて、パンプスを脱ぐ。
そのままベッドに向かった。足取りがゾンビのようになってしまう。
カバンを落とし、ベッドに倒れ込んだ。
スーツを脱ぎ、少し苦労してストッキングも脱ぐ。締め付けから解放されて、ちょっとだけ楽になった。
「ライム」
小さな声で呼んでみたが、返事はない。まだ帰っていないようだ。
何だか寂しくなって、ばさりと布団に籠る。
大丈夫。
明日には元気になる。
だから、今日はもう、寝てしまうんだ。
睡魔に捕まるのは、あっという間だった。