桐里夏芽 その8
11月1日。月曜日。
今日から新しい月に変わった。
変わったけど、嬉しくもなければ、楽しくもない。そして、やる気も全く起きない。
ライムがいなくなった。
何度も呼んだし、夜の間中、部屋中を探していたけど、結局ライムは出てこなかった。
会社行きたくないなー、と思いつつ、支度するために立ち上がる。
壁掛けの時計は午前6時46分。ちょっと急がないとーーー何度目かのアラームを健気に鳴らすスマホを黙らせて時計を見ると、午前6時40分だった。
しょぼしょぼする目を擦ると、ついでのようにあくびが出た。
出社して、出勤登録をして、まず最初にくりこさんを探した。自分の席でPCを立ち上げているのを発見する。
「くりこさん、おはよー。あのね・・・」
くりこさんはガタンと席を立ち、歩いて行ってしまう。目を合わせて貰えない。
あれ?何で?
「あの、くりこさん?」
呼び掛けても、返事がない。何か、怒ってる?
お局様を呼び止めるのを見て、私は一旦、くりこさんに話し掛けるのを止めた。邪魔しないように待ちながら、あくびを噛み殺す。昨日寝てないから、結構ツラい。
2人が話し終わるのを待って、もう一度くりこさんに声を掛けようとした。が、彼女はこちらを見ないまま、さっさと歩いて席に行き、追い付こうとした私を置いて、また移動する。
「待って、くりこさん」
ちょうどその時、朝礼の時間になり、みんなが集まり出す。仕方なく、私もその輪に混ざった。
こんな事している場合じゃないのに。
朝礼を聞き流しながら、何でくりこさんが怒っているのか、考える。
やっぱり、飲みに行くのを勝手に延期したから、それで怒っているのかな。残業って言っておいたけど、実際は元山君と食事に行っちゃったんだし。それにしても、あそこのドルチェは美味かった。ーーーじゃなくって。
「・・・は、桐里さんに任せることにします。頼んだからね」
・・・へ?
え?聞いてなかった。何を頼まれたって?
「桐里さん、返事は?」
「はい・・・?」
「じゃあ、今日も一日ガンバりましょう。宜しくお願いします」
宜しくお願いします、と社員の唱和が続く。そして、解散の号令が掛かると、みんなはさっさと自分の仕事に向かってしまった。
私だけ、ポツンんと立ち尽くしたまま、置いていかれる。
「桐里さん、早く仕事」
「はい」
ようやく動き出して、自分のデスクにつく。隣のくりこさんを見ると、こちらをチラリとも見ようともせず、いつも通りに入力作業を始めていた。
「あの、くりこさん」
「今、仕事中」
淡々と言葉だけ返ってきて、私は諦めた。
彼女の言う通り、今は仕事中なんだから、休憩時間になるまで待つ事にしよう。そうして私も、自分の仕事を始めたのだった。
休憩時間まで後少しーーーというところで、課長がまたしても無茶振りをしに来た。それどころじゃないのに。
忌々しく思いつつ、大人しく聞く。
聞いている最中に、休憩時間に突入してしまった。くりこさんが席を立った。そのまま食堂に行ってしまう。
課長の話は、途中から居酒屋の話になっていた。
何故に課長とお酒処の話をせな、あかんのでしょうか?
「あの、課長」
「ん?なんだい?大事なところだから、ちゃんと聞いて」
いや、呑み屋の話を大事とか言われても。
「いえ、あの。何で居酒屋の話とか・・・」
「君、朝礼、聞いてた?立って寝てたんじゃないだろうね」
「寝てません。一応、聞いてましたけど」
「じゃあ、必要でしょう。忘年会の幹事として、良い店探さないとだよ?」
は?幹事!?
「私が幹事・・・っ、でしたね」
課長の冷たい視線に気付き、もちろん分かってますよという姿勢を貫く。
てゆうか、朝礼の最後のあれは、それか!てか、幹事なんて、やったことないよ!いきなり過ぎでしょ!?と言うか、今朝の今って、どんだけ忘年会に熱入れてんのよ、このオジサン!
とかとか、一瞬で考え、心に封印する私。
「当番制で、今回は君だから。分かってるよね。ちゃんと僕好みの、御飯が美味しくて、酒の種類が豊富で、雰囲気の良い、高価過ぎない店、頼んだよ?」
「ぜ、善処します」
ワガママ言いすぎ、とか、そんな店は自分で探して来いとか、思っても言わない。私は空気の読める良い子なのだ。
一応満足したのか、課長は去っていった。
これで、やっとくりこさんの所に行ける。と思ったら、今度は元山君のシンパ3人娘がやって来た。
「ちょっと、どう言うこと?」
「2人で食事とか、チョー許せないんですけど」
針金さん、キンパツさん、デカ盛りさんが、それぞれ睨み付けてくる。
許せないも何も、この人達にはカンケーない。2人で食事はしたけど、それだけだし、そもそも元山君がしつこく誘ってきたんであって、私から誘ったわけではない。許せないとか、言われる筋合いではないと思うんだよね。
そもそも、何でその事を知ってんのさ。
「元山くんが優しいからって、つけこまないでよね!」
イラッとする。
こっちはくりこさんの所に行きたいのに。昼休みが終わってしまう。しかも、まだ昼食を食べてないのだ。今日のランチメニューは、チキンカツ定食。大きめでボリュームのあるチキンカツは、人気が高くて、売り切れるのも早い。
「別につけこんだりとか、してませんけど」
「じゃあ、何で一緒に食事とか行ってるワケ!?」
「残業も元山君に付き合わせたくせに!」
「しかも、全部奢りだったそうじゃないの!」
何でそこまで知ってんの?
誰かが情報流したか、彼女たちがストーカーしたか。・・・後者かな?あり得る。
「いや、だから。残業は勝手に混ざってきて、手伝ってくれて、食事も元山君が勝手に予約して、先払いもしてあって。私から誘ったわけではないし、断ろうとはしたんだけど、強引に推し進められたと言うか」
「それで連絡も入れずに、人を三時間も待たせた上に、男と飲みに行ってたんだ。へえ。」
「っ!!くりこさん!?」
割って入ったのは、食堂から帰ってきたくりこさんだった。
声が固い。怒ってる。
「あのね、くりこさん。約束勝手に延期したのは悪かったけど」
「延期?何言ってんの?」
「メール、ちゃんとしたよ?残業終わらなそうだから、また今度にしようって・・・」
「知らないし、来てない」
「そんな!?」
くりこさんが溜め息をついて、そして私を睨んだ。
「それ以前に、残業で帰れないはずのあんたが、何でへべれけになって、男に抱えられてホテルから出て来たのかしらね」
「・・・え?」
「ビックリしたわ。『しらはな』出たら、あんたが酔っ払って元山君に掴まってるんだもの。どんだけ残業してたかは知らないけど、結局、男を取ったってことでしょ」
どう言うこと?
あのホテル、『しらはな』の目の前!?そんな、馬鹿な!
元山シンパ三人が、ギャーギャー騒いでいるのが、鬱陶しい。
いや、そんなことより!!
「待って、くりこさん。違うの。元山君が誘ってくれてたんだけど、断ろうとしてて・・・」
「言い訳はいい」
「違うの!元山君が勝手に・・・」
「聞きたくない」
「くりこさん!」
くりこさんは私たちを置いて、踵を返した。そのままフロアを出ていこうと、歩き出してしまう。
「くりこさん、待って!」
「ついてこないで。もう、あんたとは話さない」
私が捕まえた腕を、くりこさんは振り払った。バランスを崩してたたらを踏む私に構わず、彼女は歩き出そうとする。
「待って!本当に、私から誘ったんじゃなくて、元山君が勝手に予約しちゃってたの!断るタイミングがなくて、断りきれなくって、くりこさんにメール送ればって、言ったのも彼だし!それに、いつもちょっかい掛けられて、迷惑してたんだよ。本当だよ!!」
「そう。そんな風に思っていたんだ」
静かな声が橫入りする。くりこさんを追いかけていた私は、足を止め、振り返ってしまった。
いつの間にか、シンパ三人組の隣に元山君がいた。
「そんなに嫌われているなんて、思わなかった」
「元山君・・・」
くりこさんが「ふん」と鼻をならして、歩き去る。
声を掛け損ねて、追うかどうしようか逡巡した私に、元山君が悲しそうな顔をする。
「ごめんね。今まで迷惑掛けて。もう、構わないから」
そう言って、歩き出す。シンパの子達が、口々に慰めながらついていく。
待ってよ。
止めてよ。
私が悪いみたいじゃない。
離れていくくりこさんと元山君を交互に見て、結局どちらも追えなかった。
後から、メールを確認してみた。
私がくりこさんに飛ばしたはずのメールは、何故か未送信フォルダに収納されていた。ちゃんと送信を確認したはずなのに。
不可解さに、胸がモヤモヤしたのだった。
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午後の業務が始まって、2時間。
もう本当に、これってどうなっているんだろう。
同日、午後3時。
噂話は足が速いとはよく言うけど、ちょーっと速すぎやしないだろうか。
曰くーーー。
(元山君に残業押し付けたって)
(ホテルのディナー、予約させてたんでしょ。しかも奢りで)
(元山君に無理矢理付きまとってたって)
(大して可愛くもないくせに)
(何様のつもりなんだか)
(元山君、可哀想)
ヒソヒソと、聞こえよがしに言いたい放題。大体はガセネタだけど、流石にイラッとする。
それは、別にいい。いや、良くはないんだけど、聞かないようにして、無視しておけばいい。
それよりも、問題なのはーーー。
くりこさんが、一度も目を合わせてくれない。話し掛けても返事しないし、当然、話し掛けてもくれない。
そっちの方が断然、気になる。
「くりこさん、あのー・・・」
話し掛けて数秒待ったが、我関せずなくりこさんを前に挫折する。
ううーーー。ツラいよお。
小さく溜め息を溢した時、PCのエラー音が大音量で鳴り響いた。
「うわっ、ちょ・・・っ、ええーーー!?」
どこで引っ掛けたのか、ウインドウに表示された複数のダイアログを見ても分からない。取り敢えず、アラームだけ解除しないと。
クスクスと小さな笑い声が届く。
それが余計に私を苛立たせる。
とにかく、ダイアログを片っ端から消していく。最後の一個が消えると、アラームが止んだ。
安堵して、息を落とす。直後、再び『ピーーーーーーーー』と鳴り出し、同時に画面がダイアログで埋め尽くされる。
そんな時、またしてもヒソヒソ声と忍び笑いが聞こえてきた。
(ちょっと、またやってる)
(今日5回目目じゃないっけ?アタマ悪いんじゃないの?)
(うるっさ。早くアレ、止めてくんないかな)
分かっているし。
これに関しては、悪いのは私だし。
でもね、わざとじゃないんですよ!止められるなら、早く止めたいって、思ってるよ!
でもでも、焦れば焦る程、どうしていいか分かんなくなるっていうか。助けを求めて、くりこさんを窺うも、くりこさんはこっちを一切見ない。
完全シカト!!
うう・・・、ココロが折れそう。
「何をやっているの、あなたは」
溜め息を溢しつつ、呆れたような声を掛けてきたのは、お局様だった。ちょいちょいと手で「そこを退け」のジェスチャーをして、キーボードに手を伸ばす。
アラームが止まり、画面の中の小窓が消えていって、最後に作業途中の画面に戻った。
「今日、もう五回目よ?ちゃんと作業に集中しなさい」
「はい。・・・すいません」
「あと、これ。間違ってるわよ。直しておいて」
「はい。・・・すいません」
お局様が溜め息を吐いて、自分の仕事に戻って行く。
はあ。
もう、やだ。帰りたい・・・。
いや、待て。
帰り際になら、くりこさん捕まえられるんじゃない?
仕事上がったら、すぐ声掛けて、ちゃんと話せばーーー。残業とか、してる場合じゃない!
定時で上がれるように、気合いを入れ直した。
頑張るぞ!
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じりじりと時間は過ぎて、ようやく定時になった。
案の定、待ち構えていたみたいにして、くりこさんが席を立つ。私は慌てて、くりこさんを追いかけた。
「くりこさん!待って!」
くりこさんは振り返らない。
私は急いで追いかける。
「話を聞いて!くりこさんってば!!」
とうとう走り出すくりこさん。
ようし。
これならどうだ!!
私はスマホを取り出すと、早打ちでメールを送信した。・・・あれ?届いた、のかな。
こうなったら!
くりこさんを追いかけながら、コールをタップする。が、何故か機械音声が、『この電話はお繋ぎできません』と返してきた。
は?何それ?
まさか、着拒!?
足を止めて、もう一度コールする。
やはり、機械音声が返ってきて、着信が拒否られていることを確認した。
そうか。そこまで嫌われているのか。
だったら、もういい。
こっちだって、もう、くりこさんなんか知らないんだから!!!




