桐里夏芽 その7
頭が痛い・・・。ガンガンする。それから、気持ち悪い。胃袋がグルングルンしてる。吐きそう・・・。
ナニこれ?風邪、ぶり返した?
薄目を開けて、回りを確認する。
見慣れたベッドカバー。見慣れた天井。見慣れた薄いカーテン。カーテンからは、柔らかい陽射しが透けて入ってくる。
私の部屋だ。
ってぇ、仕事!!
何でアラーム鳴らないの!?
がばっと起き上がり、頭痛にのたうち回りつつ、スマホを探した。目につく所にはなかったので、ズリズリとナメクジのように這って移動する。
果たして、鞄の中にスマホはあった。
これじゃあ、鳴ってても聞こえんわ。
画面を開いて、恐る恐る、時刻を確認する。
「いっやあああああ!!9時半!?」
遅刻!!!完っ全に遅刻だ!!
ど、どうしよう!取り敢えず、着替えて、支度をーーー。
「っぎゃああああああっ!?何でスーツのまま寝てんの、私!?」
慌ててあちこち確認したが、お気に入りのスーツには、残念なシワがしっかり刻まれている。
えーーーーーっ。
うそーーーーーーん。
ショックで余計に頭痛が痛い。違う。頭が痛い。
せっかく、くりこさんと『しらはな』行くと思って、気合い入れてお気に入りを着てったのに・・・・・・。
・・・・・・・・・・。
ちょい待て?
私はもう一度、そっとスマホの画面を確認した。
ーーー全力で安堵する。
今日は土曜日だった。
それで思い出した。
元山君と食事に行った事を。
『あ、ご主人さまー。起きたー』
嬉しそうなライムの声だが、頭に響く。念話だから、余計に質が悪い。
これは、あれだな。二日酔い。初めての経験だがーーー想像よりもヒドイ。ツラい。
「ライム・・・。おはよう。そして、ゴメン。・・・寝る」
私はスーツとストッキングだけを脱ぎ、再びベッドまで這って行った。もそもそと布団に潜る。
『ご主人さま?』
追いかけてきたライムが、ポヨンとベッドに飛び乗った。そのまま周りを跳び跳ねる。
『ご主人さまー。起きないのー?』
ポヨン。ポヨヨン。
う・・・。
振動が地味に響く。
仕方なく、私は腕だけ伸ばすと、ライムを捕獲した。そのまま抱き寄せる。そのついでに思い付いた。
「ライム。冷たくなれる?」
尋ねると、ライムはぷよぷよ体を揺らして、『あーーい』と言った。と思ったら、その体がすうっと冷たくなっていく。
「あー、これこれ。いいよー、ちょーオッケー。このまま、暫くこの温度でお願い」
『あいあーい』
可愛らしく返事するライムのスライムボディにおでこを押し付けて、私はスッと眠ってしまったのだった。
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次に目を覚ました時、時刻は既に夕方だった。真ん丸一日眠ってしまった。
腕の中には、まだ冷たいままのライムがいる。
「・・・ライム、おはよう」
『あ、ご主人様、おきたー』
嬉しそうにライムが体を揺する。手を離すと、そのままポヨンポヨヨンと跳ね回った。どんだけ嬉しいんだ。可愛いなあ、もう。
どうやら二日酔いも治まったらしく、気分がいい。しかし、身体がベタベタする。
「ライム、シャワー浴びるよ」
ベッドから立ち上がりながら、声をかける。と、ライムはシャワーのお湯で溶けかけたのを思い出したのか、『えー』と不満そうな念話を垂れた。ので、問答無用で連れていく事にする。
プルプルピチピチと暴れるライムを、小脇に抱えてシャワー室に連れ込んだ。
シャワーの準備をしながら、昨日の記憶を反芻する。
昨日の夜。
元山君に助けてもらって残業を乗り越えた私は、言われるがままに、くりこさんに電話した。残業を言い訳にして、飲みに行くのを延期しようとしたのだ。が、電話は繋がらず、仕方なくメールを送っておいた。
そのままタクシーで元山君に連れていかれたレストランで食事して、彼に勧められて、食後にワインとか嗜んじゃったのだ。ワイン以外にも、美味しいシードルとか、カクテルとか、色々飲んだ気がする。
そして、途中から記憶がない。
どうやって帰ってきたのかもだけど、お店を出るとこからして覚えていない。が、彼に部屋番号を教えた気はする。うっすらとだが、覚えている。確か、足元が覚束無くて、彼に部屋まで運ばせたんだ。その後は、覚えていない。
・・・これって、ヤバくないですかねえ。
衣服には、シワはともかく、一切の乱れはなかった。と思う。彼は紳士だったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
なんと言うか、危なっかしいので、今後彼の誘いはキッチリと断ることにしよう。そうしよう。
シャワーヘッドからお湯が出てくるようになったので、そのままライムに掛ける事にする。
ライムをガシッと捕まえーーー。
「ライム、もう冷たいのはいいよ」
『あい』
ライムの身体が、ほんわか温くなった。
そのままシャワーを遠慮なく、躊躇もなく、一気に当てる。
『ひぃやぁぁぁぁ!?・・・・・・・きもちいいーーー!』
私は心の中でガッツポーズをして、ニヤリと笑った。
「ねー、気持ちいいよねえ。明日は湯船にも浸かってみようね」
『あーい』
ふっ。言質は獲った。明日が楽しみだ。
シャワーで汗を流し、さっぱりして浴室を後にする。
ライムが名残惜しそうに何度も浴室を見るが、そんなに気に入ったのかな?まあ、いいや。
脱衣所のストッカーから、部屋着を出して着替える。ちなみに、ライムは《補食》で体の表面の水滴を食べていた。タオル要らず。本当に有能だと思った。うらやましい。
取り敢えず、お腹が減った。
何か食べたい。
冷蔵庫を開けるーーーと、そこから漂ってくるはずの冷気が一切出てこない。
「あれ?なんか温い・・・」
慌てて庫内の壁にペタペタ触る。マジで温い。
そう言えば、昨日の朝、コンセントが抜けていなかったっけ?
急いでコンセントを確認。・・・抜けてたし。
差し直して、これで大丈夫。ーーーていうか。
この中身は大丈夫じゃないんじゃないだろうか?
冷凍室の引き出しに手を掛けてーーーやめよう。後にしよう。
この中を確認するには、心の準備が必要そうだ。
「ライムー。ちょっとコンビニ行ってくるねー」
『あーい』
ライムの可愛らしい返事に癒されてほっこりしつつ、マンションを出て、コンビニに買い出しに行ったのだった。
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翌日。
くりこさんからはメールはない。
金曜日の夜以降、何のリアクションもなくて、ちょっと不安になる。
『ご主人さまーー』
ライムがポヨポヨ跳ねてきた。
よし、始めるか。
今日やるのは、ぶっちゃけてしまえば掃除だ。ついでに、ライムがどのくらい抵抗なく《補食》してくれるかの確認でもある。
やあね、正直どうかなって思ったりもするんだよ。
だって、食べさせてるのって、ムシとかゴミとかばっかだし?ライムが気にしないって言うんなら、都合よく使っちゃわないこともないんだけど、もし気にしてたら?
もしそうなら、普通のペットとして扱うしかない。
でも、そうじゃないなら、これ程お役立ちなのもないワケで。
てな訳で。
「じゃあ、ライム。このクローゼットの裏の埃、《補食》できる?嫌ならいいんだけど・・・」
言い終わる前に、クローゼットと壁の狭い隙間に潜り込んでいくライム。そして、隙間を薄緑色のジェルが埋めつくしーーーポンッとライムが飛び出してきた。その間、僅か3秒。
『ご主人様、終わったよー』
にこやかな、そして誇らしげな念話。
最初の時もそうだったけど、欠片も抵抗はないご様子。
であるならば、徹底的に。
次はベッドの下をお願いした。次いで、窓ガラス。これは食器と同じで、ガラスの表面の汚れを《補食》してもらう。ピッかピカの透明度で、驚きの仕上がりだった。
洋服も汚れだけ《補食》してもらってみた。取れなかった醤油のシミまできれいになっていた。ついでに、しわしわのスーツも頼んだ。体を熱くしたらアイロン代わりになれるんじゃないかな、なんて。
『いっくよー』
そう掛け声をあげて、ライムがスーツの上をコロコロ転がる。すると、みるみるシワが消えていった。
この子、マジでチョー有能!!!
『ご主人様、どー?』
「マジ、サイコー!」
本当、やらせてみて良かったよね!
他の洗濯物もきれいにしてもらって、片付ける。
そしてーーーとうとう冷蔵庫に向き直る覚悟を決めた。
冷凍室の引き出しに手を掛ける。
「ライム。この中身・・・食べて欲しいんだけど」
分かっている。これがどんだけ鬼畜なお願いなのか。だがしかし、このままにもしておけない。放置したらしただけ、後が大変なことになるからだ。
その前にーーー!
ガラッ!
目をつぶって引き出しを引いた私に、ライムの呑気な声が聞こえた。
『なんにもないよー』
「えっ!?」
そんなはずはない。
慌てて引き出しを覗き込んだ。が、ライムの言う通り、中にはなにも入っていない。ていうか、新品同様にきれいすぎ。それ以前にーーー冷たくない。冷気がきてない。温すぎる。
野菜室の中も確認したが、何も入っていなかった。
確か、野菜がちょこっとと冷凍食品があったはずなのに。
製氷室にも、氷が一個もない。とってもきれいで、温い。
コンセントはーー差さっている。しかし、駆動音はしていない。
昨日、コンセントを差したときに気付くべきだった。いや、確かめるべきだった。そもそも、コンセントが抜けていたことを、もっとよく考えるべきだったんだ。急いでいてスルーしたのは、仕方ないとは言え、痛恨のミスだった。
「ライム?」
『あい』
ポヨプルするライムを見ると、動揺しているのか、小刻みに震えている。
「熱いのと冷たいの、耐性獲得したんだよね。どうやって獲得したのかな」
にっこりと。笑顔で問い詰めた。
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結果的に、私のためだったことが判明した。
熱を出した私は、無意識にライムを抱き締めたらしい。
熱かったらしく、体が溶けかけたとの事。それで異常を察知して、解析鑑定をし、発熱に対して冷やす行為が有効であると知ったライムは、手っ取り早く冷やす方法を考え、冷凍庫の中に氷がある事を知った。それも解析鑑定のお陰なのだが、ライムでは冷凍庫を開けられない。それでハコごと《補食》し、その中の氷を取り込んで、冷気を出せるようになったらしい。寒冷耐性もそのときに獲得したとか。で、私の体を冷やそうとして、高熱を発する体にくっついて熱いのを堪えたら、熱耐性も獲得したと。
冷蔵庫は、無くすると怒られると思って《復元》したそうだ。が、復元できるのは外側のみ。ノートとかでもそうだが、記載された情報なんかは復元されないのだ。それは冷蔵庫にも言えることで。
これって、叱るべきなの?それとも、スルーすべき?むしろ、誉めた方が良い?いやいや、躾として、物を壊したら叱るべきかも・・・でも、私のためなんだよねえ。
でも、冷蔵庫・・・。
「ライム」
『あい!』
何かを察したのか、ぴしりと身体の一部を触手っぽくして、上にあげるライム。
「今後、《補食》するのは、私が許可を出した物だけにする事。いい?」
『あいあいさー!!』
ーーー結局、注意するに止めました。
それはそれとして。
冷蔵庫は買い直しだな。しゃーなし。
大型家電ショップのネット注文で購入&配送予約を申し込んだ。最速でも水曜日の夕方以降。残業しなければ間に合いそうだ。支払いは振込用紙で・・・。あれ?なんか忘れてる気がーーー。
まあ、良いか。
気付けば、夕方だった。
お風呂の準備をしてから、コンビニに買い出しに行く。
ライムを連れて行きたいが、スライムをだっこして歩くのは、何かと問題が起きかねない。ウッカリ誰かが怖がって通報したりとか、可愛いからと取り上げられたりとかーーーーーは、ないかもだが、用心するに越したことはないと思う。
留守番させて、買い物を済ませた。
「ライム、あーん」
『あー、ぱくん』
ライムのお腹に、玉子焼きの黄色い塊が沈んでいく。それは瞬く間に分解されて、影も形もなくなった。
「おいしい?」
『おいしーーー!』
うんうん。ういやつよのお。
次は唐揚げをあげる。それもまた、喜んで分解させる。
ライムの習性を大分理解した私。
無機物より有機物。野菜よりお肉。なんと言うか、血肉のある物の方が、成長する糧になるようだ。
じゃあ、今日みたいに埃食べさせたりが無意味かと言うと、そうとも言えない。
埃の中には、カビや微生物、ダニみたいな小生物なんかも生息しているらしく、それらは充分に糧となるらしい。それでライムは喜んで掃除を請け負ってくれたわけだ。
これで私が仕事に行っている間に、掃除してもらえるように仕込む事ができる。
「ご馳走さま。ライム、これ食べて良いよ」
食べ終わって、残されたパッケージや割り箸をライムに差し出した。
良い返事をして、満足そうにゴミをお腹に取り込むスライム。ライムがきてから、一切のゴミがでなくなって、私も満足だ。
「さあて。次はお風呂だな」
ライムを抱えあげて、お風呂場へレッツゴー。
昨日と同じように、まずはシャワー。
シャワシャワと降り注ぐお湯に、ライムが『きゃわきゃわ』念話ではしゃぐ。ご満悦のようだ。
自分もシャワーを浴びて、いざ浴槽へ。
ライムを抱いたまま、お湯に浸かる。
「ライム、どう?気持ちいい?」
暫く、ライムからの反応はなかった。やっぱり怖かったかな?
そう思いつつも、手をそっと放してみた。
ぷかんとお湯に浮いたライムが、ちゃぽんとお湯に沈む。かと思ったら、すぐにぷかっと浮いてきて、またちゃぷんと沈んだ。
そして、浮いてきたライムが、
『これたのしーーーー!!!』
と、大はしゃぎで浮き沈みを繰り返したのだ。
「気持ちいい?」
『あいっ』
良い返事。
気に入ったようだ。
浴槽の中で膝を寄せて、場所を作ってあげると、ライムはさらに深く沈んでは浮いてを繰り返す。小学校の時に夏休みの工作課題で作った、ペットボトルの浮沈子を思い出す。
確か、重りになるものと軽いものをくっつけて、水を入れたペットボトルに入れたんだよね。ペットボトルの側面をポコンって押すと、中の重りが浮き沈みするっていう。
私のは浮き沈みしなかったけど。
「楽しい?」
『おもしろいー。ご主人様、好きー』
「私も好きだよ、ライムー」
プヨプヨと水面を泳いできて、私の胸元にくっついてくるライム。ぎゅっとすると、ライムの体はお湯と同じ温度になっていた。
ああ、もうっ。かっわいいな、こんにゃろうめ!
こんなに喜んでくれるんなら、毎日でもお湯入れちゃおうかな。お金掛かるし、掃除めんどいとか思っていたけど、ライムのためなら惜しくない。
そんなライムだが、腕の中でポヨポヨきょろきょろし始めていた。が、唐突に腕からスポーンと飛び出してしまう。
「ライム?」
『ご主人様、食べて良い?』
「え、うん?」
何をーーーと訊く前に、ライムは浴室の壁と床の境目にめり込んだ。暫くもごもごしていたと思ったら、コロンと転がって別の場所にべっしょり引っ付く。ライムが剥がれた後は、綺麗に真っ白になっていた。
「!!ライム、それって」
『えっとー、水垢、黒カビ、ピンクカビだってー』
とても嬉しそうに、ライムが床タイルの目地を多い尽くしていく。そして、ライムが退いた後はピッかピカだった。
凄い!
そろそろカビ取りとか考えてたけど、そんな必要まるで無し!
昨日、やたらとお風呂場を気にしていると思っていたら、カビを喰いたくて仕方なかった模様で、床から壁から、どんどこ喰い進めている。
働き者というか、食いしん坊というか・・・。
お陰で、カビ取り剤を買わずに済みそう。
そうやって、床も壁も窓も天井も、細かい隙間まで余さず喰い尽くしていく。劇的なまでの速さと仕上がりに、感動すら覚える。ーーーが、眺めているうちに、流石に逆上せてきた。
「ライムさん、ありがたいけど、そろそろ上がるよ。続きは明日にしよ」
『えーーー?もうちょっとーーー』
「うん。でも私、逆上せそうなんだよね。先に出るから、君もーーーあ、そうだ」
良い事を思い付いた。
湯船のお湯ごと、浴槽の汚れを補食してもらえばいいんじゃん!
とは言え、お湯全部食べてもらうのは、多すぎかも知れない。
そこで、いつも通りにお湯は抜く。
栓をすぽんと抜いて、ライムに声を掛けた。
「ライム。私、先に上がるから、浴槽の水滴とか汚れとか、ついでに《補食》してくれる?」
『あいあいさーーー!』
良い返事のライムを置いて、先に浴室から出る。
ふう。すっかり逆上せてしまった。
なんか冷たい飲み物をーーーって、冷蔵庫壊れてるんだっけ。それ以前に、何も入ってないけど。
ちょっとくらいなら、いいかな?いいよね。
マンションを出たすぐのところに、自動販売機がある。そこまで、飲み物を買いに行くことにしたのだ。ちょっとだけだし、すぐに帰るし。
私はライムに声を掛けずに、家を出たのだった。
「はー、さむさむ」
流石に、風呂上がりとは言え、10月も終わりの夜に薄い部屋着では寒すぎた。一枚羽織って出ればよかった。
「ライムー。そろそろ終わったー?」
声を掛けつつ、風呂場に向かう。
返事はない。
「ライム?」
浴室の中には、誰もいない。
ピカピカの洗い場と、曇りのない鏡、湯気は残すものの汚れのない綺麗なタイル壁。水の抜けた浴槽には、まだ水滴がついている。しかし、うす緑色のスライムは、影も形もなかった。
「ライム・・・?」
浴室に、不安そうな私の声がわずかに反響して消えた。
この日、ライムは私の前から姿を消してしまったのだったーーー。




