【いつもの】1-1
いつもの駅、いつものスーツ、いつもの通勤電車を前に、しかしいつもとは違い、その電車へ乗り行くいつもの大衆を、彼はぼんやりと、隈だらけの疲れきった目で見つめている。
― この電車、もう使わなくても良かったんだったけか。。 ―
ここに来れば、昨日起きた一連の出来事など何も無かったことになるのではないだろうかと、あまりにも非合理的なことを考えていたのだろうか。人間はどうやらこのようにして、変えられない現実から逃避しようとするらしい。
― 確か、業務上横領、とやらだったか、、 ―
男は、昨日会社で自身の身に降りかかったことを思い出していた。
いつものように、ただただ余計なことは一切何も考えず、どう考えても間に合いそうに無いスケジュールの中で、自身が携わっているシステムの開発をひたすらに進めていた。
そしてその日の午後、男は上司から身に覚えの無い罪を突きつけられる。
そこには、男が会社のお金を不正に横領していたとする“証拠”がいくつもあり、それを理由に男は自主退社をさせられたのであった。
高校を卒業して以来ずっと、十年以上馬車馬のごとくいや馬車馬以上に働き働かされていた所から、こんなにもあっさりと、理不尽に、訳も分からず追放されることになるなんて、一体誰が予想出来ようか。
― おそらく俺はスケープゴートにでもされたのだろう、、 ―
仕事はせずに、しかしとんでもなく金遣いが荒いという上司が実は会社のお金を横領しているという噂を男はこれまでに何回か耳にしたことがあった。
自分にとってお金とは、ただ貯まっていくだけのものだった。入社してからずっと、使い道も、そもそも使う時間すら、ひとかけらも存在していなかったからだ。
― ようやっとこれで、お金を使うことが出来るって訳か、、 ―
しかしながら男はこれまであまりにもお金を使ってこなかったがために、いざ使うとなると果たして何に使えば良いのかまるで分からず、ただただ途方にくれてしまうのだった。
30歳を目前にして、男にはこれまで積み重なっていった貯金だけが残っていた。
早くに親族をなくしていた男にとって、それ以外には何一つ、恋人も、友人も、趣味も、何一つ無いのだということに気づく。
― そうか、こういうときに、人は自殺をするのかもしれないな、、 ―
それも悪くないのかもしれないと、いまだホームのベンチに座りながら男は思う。
すでにラッシュの時間は過ぎており、先ほどまでの人混みはないが、それでもいまだ周りには多く人が居る。
<ちゃららららーらーらー>
幾度も聞きなれた電車発着の音がホームに流れる。
男の前に電車が到着し扉が開く。これでもう何度目のことだろうか。
男はふと開いたドアから見える電車内に目を向ける。開いているドアの向こうには、毎日多くの人々が無意識にまたは意識的に眺めているだろう広告が変わらずにある。
が、そこにあった一つ、不思議な広告が男の気を引いた。小さな広告ではあったがなぜか男の目にはそれだけが入ってきたのだった。そこにはこのように書かれている。
『 課金 → 転生ステータス 【naroten.com】 現世 → 異世界 』
真っ白の広告に黒文字のシンプルな広告だった。電車の扉が閉まる。
何の広告だったのかそもそも広告だったのかもいまいち分からなかったが、転生と課金という単語だけがなんとなく男の頭に残っていた。
― 使い道がわからないこのお金で、もう一度人生やり直せることができるなら、このままただ死ぬよりは、なんともちょうど良い使い道だろうな、、 ―
そんなことをふと冗談みたいに一瞬考える。
「「「「受領しました」」」」
なにかが、耳元で聞こえたような気がした。
そろそろ帰ってみるかと、男は立ち上がる。
本当にこれからどうしたものかと、立ち上がりながらぼんやり考える。
急激な立ちくらみが、男を襲う。
世界が眩む。誰かが何かを叫ぶ。
自分の身体が、前へと倒れこみそうになる。足は言うことを聞かない。
身体は、さらに前へ。
かけこみじょうしゃはきけんですからあれあぶなくないかあぶないきいろいせんのうちがわにおいまずいぞあぶないいいだれかでんしゃがでんしゃきいろあああああああぁあああああああああああ
これが、死の間際か、、時間が、ゆっくりになる、、目の、すぐ前に電車が、運転手の顔まで見える、あぁ、これはきっともう助からないな、出来ることなら、苦しまずに、天国とやらがあるのなら、、、
キィイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!
ドンッ