前略、親愛なる彼方へ
世界は美しかった。かつても、今も。だからこそ人は船に乗り、果てしない宇宙を漕いでいった。広い場所を目指した。あたらしいもの、煌めくもの、私達は往々にしてそれを好む。
ひたすらに大きな箱舟も、集まりひしめきあう人々の声も。友に握らされた薔薇の種の硬い色さえ、私はまだ昨日のことのように思い出せる。
手にとった手紙をゆっくりと開ける。ペーパーナイフはいつのものだったか、もう随分と年季の入った色をしている。これが最後の手紙になるだろう。私は老いた。この星もまた老いた。眠りにつくための終わりを、永遠の静けさの中で待っている。
暖炉のなか、薪は爆ぜる。温かな火も、もうこれで終いだ。雪は降る。この部屋もまた、白に埋もれることだろう。
ふと見渡す視界の隅に、あの透き通るような花が立っていた。幽霊のように、硝子箱で仕切られたように、世界から孤立して、それは凛と立っている。
私の指は手紙をなぞる。そこに並ぶ見慣れた文字の丸さに、涙は静かに落ちた。もう随分と、老いは私を脆くしたらしかった。
▽
出立より半年が経ちました。こちらは思うほど悪くない居心地です。足元が宇宙、というのは何とも形容しがたい不安がつきまとうものですが、それにももう慣れたものです。最近では、この場所で新しい本や曲などが生まれ始めました。箱舟の暮らしは順調です。
そちらはどうでしょうか。元気にしていますか。私はただそれを願ってやみません。雪が止まないと聞きました。それがなくとも荒廃してしまったあの星のことです。花がどうか無事に、咲くといいのですが──
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初めての手紙の拙さときたら、今思い出してもこそばゆい。私達は互いに、どこか遠慮と後悔と、どうしようもない罪悪感を持っていたように思う。友人を、宇宙へ一人で旅立たせてしまったこと。私を、一人で地球へ残していったこと。それは本当に自分の希望で、少しも相手のせいではなかったのだけれど。仕方がなかった。私たちが手を離すのは、あれが最初で最後だった。その一度で、私達は遠く離れたところから手紙を送り合うことになったから。
文字というものは、心地のいいものだった。顔を合わせず書くからだろうか。それとももう二度と会わないと分かっているからか。随分遠くへと進んでいく友人に、私は言葉を送った。それが宇宙を揺蕩って、ほどけながら、あの友の耳へと流れ込んでいくのを想像した。頭の中で描いてみればなんともおかしくて、笑いながら手紙に封をする。静かな午後だ。
宇宙便、地球発、大船団の友人宛。仰々しい真空ケースに手紙を入れながら考える。途方もないこれからのこと、終末のこと。
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お手紙ありがとう。ここはひどく静かなので、あなたの文字の賑やかさに驚きました。お元気そうで安心しています。
私も地球で、ひっそり生きています。もちろん元気でいます。そこは安心してください。私と病の無縁さは、あなたもよく知るところでしょう。
地球の近況とのことですが、明るい話題はあまり話せそうにありません。目に見えた終末のようなものは未だ来ませんが、青空と緑はもう見えません。鳥は鳴きますが、きっと今朝のもので最後でしょう。ここはひどく寒いので、生きようとするには、ほんの少し酷なようです。
あなたにもらった花ですが。あれはまだ、赤くすらないのです。咲くことを忘れてやしないか、青く青く、眠っています──
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出立の日、友人からひと粒の種をもらった。薔薇だよ、とその顔は微笑んだ。手のひらに転がるその種は、この荒廃した星では決して安くないはずなのに。それを思うと、どうしようもなく泣きそうになる。
せめて枯らさないようにしようと心に決めた。終末までには、咲くといいのだけれど。それすらも分からないから、せめて友人を忘れないために育てよう。この手で。最後まで。
小さな種を握りしめながら、私は旅立つ船団を見送った。長い長い、旅立ちだった。視界いっぱいに広がる船の鈍い色が、空の彼方に消えゆく光景。あそこにいるのは八千万と三千人と少し。ほとんどすべての人類が、その瞬間地球から旅立った。私はそれを見ていた。人が地球を去る瞬間を。
それはきっと遥か昔から、人々が幾通りも想像したであろう場面だ。小説で、映画で、絵画で、空想で、何度も何度も描かれた一瞬。この星で生まれた生命が、この星を諦める日。どこまでも遠い、それは永訣だった。
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出立より三十年が経ちました。随分と、手紙が届くのにも時間がかかるようになりましたね。私が最後に手紙を出したのが七年前ですから、なんと書いたかもう忘れてしまいました。
お元気ですか。雪が海を覆ったらしいと聞きましたが、私には想像もつきません。まるで恐ろしいことのように思えます。映画の中のよう。現実感がないのです。地球はもう、私にとっては途方もなく未知の場所なのでしょう。それがひどく寂しく、受け入れられずにいます。私はどこに生まれ、どこに生きるものだったか。
こちらは変わりありません。今は箱舟世代なんて呼ばれる、この船で生まれた子供たちが多くいます。彼らは地球を知らないのです。それを思うとやるせなく、けれど新鮮さも感じます。彼らは地球の生命ではありません。この宇宙の生き物。私ももういつからか、地球で過ごした日々の方が短いことに気が付きました。はやいものです。
覚えていますか。ひとが初めて火星に住んだ日を。冥王星で新たな命が生まれた日を。宇宙パイロットが民間職になった日も、もちろん私達の出立の日も。
思えば技術の進歩は目覚ましく、私はどうしても、急ぎすぎたような気がしてやまないのです──
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雪が遂につるりと地球を覆ってしまうということで、家を山の上に移した。ここももうじき埋まるだろうよ、と山小屋のお爺さんと話し合う。彼は私と同じく地球に残った、数少ない奇特な人物だった。他の人々も終末のこの世界で、思い思いに過ごしていることだろう。人影の少ないがらんとした地球は、想像していたよりもずっと住心地がいい。
いくら議論を交したとて、ゆっくりと終わる世界を止める手立ては持っていない。ただ、この世が美しく眠るためならば、この雪化粧も悪くはないと思った。どこまでも白。しろ。白しかない。時折硝子のようにキラリと光るのは、太陽を忘れられないからかもしれない。ぼんやりした雲間からは、まあるい太陽など影すら見えない。けれど真っ暗にはならないから、きっとそこにいるのだろう。それが分かればもう十分だった。
花はまだ青い。蕾のまま咲くことを忘れているのは、どこか時間にすら逆らうようで怖かった。その花は幽霊のように、硝子箱で区切られたように。そこにすっと伸びているのだ。世界を邪魔せず、邪魔されず、存在を許されたように立っている。
終末の星には、どうにも青が似合うらしい。
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お手紙ありがとう。こちらはあなたの出立から五十年目にこの手紙が届きました。知っていますか、この手紙が実は記念すべき二十通目の手紙です。私も驚いたのですが、数にしてみれば随分と少ないのです。
むかし、まだ地球とあなたの船が近かった頃は、いくらでも手紙が来るように思ったのに。いつのまにか届くのに一年、五年、十年かかるようになりました。そしてこれが二十年。ワープ技術も光速技術も、速すぎるほどには進歩しなかったようです。
ほら、だから大丈夫、きっとあなたも私も、急ぎすぎたわけではありません。私達の間に隔たりがあるということの、そのもどかしさをまだ知っていますから。それは多分、私達が考えるよりずっと素敵なことです。待つ楽しみが、この五十年私のそばにありました。あなたもきっと、そうでしょう?
さて、こちらの話題を送ります。一日中、雪は降ります。それはもうしんしんと、しんしんと降るのです。海はもう長いこと私も見ていませんが、あなたの言うとおり埋もれたことでしょう。ここは銀の世界になりました。鳥はやっぱり、もう飛びません。あの朝で最後だったようです。
あなたにもらった花のことです。あれはどうにも、赤くならないようなのです。それもまだ若い、あの薄緑の弱い色。花はまだ咲きません。まるで幽霊か何かのように、硝子で覆われてしまったように、咲くことを忘れているようです──
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白い化粧は降りやまない。あのお爺さんが住む山の中腹の小屋は、もうすでに存在しないかもしれない。それも分からない。けれど終末は、着実に世界を包んでいる。
こういうときまでも世界から離れて咲いているとは、なるほど幽霊も悪くないらしかった。硝子の向こうにあるような青い花びらは、触れることができる。ああ、そうか。
そこでやっと気付いた。この花は赤くならないのではなく、もとより青いまま、咲こう咲こうとしていたらしい。膨らみかけた蕾の中までも、それは薄緑に染まっていた。思わず笑ってしまう。そんなことにも気づかずにいたなんて。
手紙を、書きたかった。送ったばかりで、返事は当分来ないと知っているけれど。次に書くことは決めた。この花が青いということ。それは太陽を知らないためではなく、この銀色の世界へしっくりと馴染んで咲くためだということ。
教えたかった。あの友人にこそ。粉雪に埋もれゆくうつくしい地球に手向けるための花は、白よりも青、赤よりも青。一等輝く静謐な色は、青々とした生命の色。あの懐かしい赤とは違う、生まれゆく途中にある煌めき。
聞いてほしい、この花の、幽霊のように透明で、硝子のように高潔な美しさを。
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まだお返事が来ませんが、あなたに手紙を送ります。どうしても伝えたいことがあるのです。あなたに。おそらくこれが最後の手紙になるでしょう。だからいま、書かせてください。
私は老いました。きっとあなたも老いたでしょう。けれどそちらは、まだ新天地を目指しているでしょうから。この手紙が、新しい土地でのあなたの彩りとなりますように。私は、あなたの生まれた場所が地球であったことを嬉しく思います。あなたも私も、きっといつまでも、この地球の生命だと胸を張れるのです──
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目の前の青をじっと見つめた。ようやく咲いた滑らかな花弁を、他者を寄せ付けない孤独で気高い茎の棘を。
何か特別なことがあるわけでもない。それは本当にただ青々と若いだけの、ちいさな薔薇の花に違いないのだった。それでも見ていた。白銀に染まるうつくしい世界の終わりに、この生命を目に焼き付けたかった。私の終わりは、この瑞々しく若い徒花だと。
こんなふうに生きたいと思っていた時代を思い出す。私もまた、若く生命力に溢れていた日のこと。庭の花々などには目もくれず、ひたすらに日々奔走していた頃のこと。それを思えばなんともまあ、私は遠くへ来たようだった。人生の終末を花を見て過ごすなんて、あの時代の私が見たら顔を顰めるだろう。それでいい。
私は老いた。それでもあの頃、私は若かった。花の、あの幽霊のような硝子細工のような、頼りないうつくしさを知らなかった。今は手に取るように分かる気がして、それはきっと、私が生きてきた軌跡の表れなのだろう。歩み重ねた道に、たしかに降り積もっていた落ち着きに似たもの。凝縮した私の命が、この赤くならない花のためにあるのと同じ。
空は光る。どんよりとした雲はいつの間にか晴れて、太陽とも星ともつかない真白の光がただひたすらに、ひっそりと世界を照らしていた。あれは雪だろうか。それとも私のまだ知らぬ、広い宇宙の何かだろうか。そうかもしれない。私はこの星でさえ、その青さを目にしたことがないのだから。
思えばあの日、友人を見送ってから、もう随分と長い月日が経ったような気がした。けれども地球からしてみれば一瞬に過ぎない時間だと知っている。それよりも途方もなく長い時間を、この大地は重ねてきた。
私は寿命を待つ生き物。そうして今このとき、この星もまた寿命を待ちわびるひとつの存在だった。それがひどく寂しくて、けれど望むべきことのような気もして、ひとり手を叩く。この星のために。貴女の、ようやく迎える永訣のために。
静かな光は、雪に埋もれつつある小屋までも照らした。地面の白と、空一杯の白と、世界中は一色に染め上げられて行く。私は地球への祝福を見るような、厳かな心持ちでいた。それはまるで、教会の洗礼の一場面に立ち会うかのごとく、まったく純粋な感動だった。
友人がこの場にいないのが何よりも惜しい。この景色に、あの友なら泣いてくれただろう。最後の手紙は届いただろうか。この花が青いことを、友人は知ってくれただろうか。
あふれる祝福の白。もちろんその白は喪服の白だったかもしれないのだけれど、私には門出の白に見えてならなかった。若い私が憧れた、ショーウィンドウのドレスを思い出す。友人と並んで、目を輝かせたあの硝子窓の向こう側。どこか神聖な場所にいくのなら、誰しもきっと白を選ぶだろう。むかしの私も、いまの私も。
いつしか世界は上も下も、どこまでも溢れんばかりの光に満ちていた。地球への洗礼、一瞬の煌めき。そのなかで、私はじっとあの花を見ていた。思い出の赤にはならなかった、芽吹く生命を見ていた。なんだか無性に、友人に会いたくなった。
幽霊のように、硝子箱に守られたように、世界から離れて凛と伸びる花。やがて光が私の視界までも白く染め、柔らかな温かさで包むそのときまで。私はただひたすらに、その綻んだ青の愛おしさを、いつまでもいつまでも目に焼き付けていた。
*
手紙を出した。今はもう遥か遠い故郷、そこに一人、花と共に過ごすはずの友人へ。新天地へ辿り着いても、ここはうんと離れているから、手紙が届くには時間がかかる。だから返信もうんと時間がかかる。気長に待たなくてはならない。私たちには寿命があるのだから、噛みしめるように思わなくてはいけない。
そうやって手紙を書いてきた、今日が百年目。寿命の技術の恩恵をいまこうして身に受けながら、私はポストを開ける。
手にとった手紙には赤いスタンプが光っていた。それは、私の送った手紙だ。
宛先不明。スタンプから電子音声が無表情に流れる。──宛先不明、宛先不明。住所の存在が確認できません。繰り返します。宛先不明──。
終末はもう、あの星と友を覆ったらしかった。私の書いた手紙は届かずに、あの友人は眠ってしまったらしい。ほら。思わず言葉がこぼれ落ちる。やっぱり、私は急ぎすぎた気がしてならなかったのです。そうでしょう。
友人に渡したあの花は、ここではうまく咲かない。あれを薔薇と呼ぶのだと、もうこの遠い星で知るものはほとんどいない。じきに知るものさえいなくなるだろう。かつて地球という水の星で、たくさんの人間に愛でられた花の芳しさも。だからこそ私が覚えている。輪郭さえ曖昧な記憶の中に、留めている。
あの花の目の覚める色彩は、雪で真白に染まる世界にきっと映えただろう。たとえそれが、赤くないとしても。
地球の青さを思い描く。宇宙船から最初で最後、束の間見下ろした青は、思っていたよりもずっと美しかった。きっともっと昔ならば、宝石のように煌々と光ったことだろう。
荒廃した大地を広げて、それでも故郷はうつくしかった。あの星の生物であれたことを誇りに思う。荒れ果てた星を手放す自らを、心から惨めに思うほどには。
思い出す。晴れた日の太陽の柔らかいこと。雨の音を部屋で聞くときの、心持ちの穏やかなこと。雪の銀色が、世界を瞬く間に塗り替えること。ようやく来た春に、洪水のような色彩が入り乱れること。夏に飲むレモネードのこうふくなこと。秋の色褪せた自然と夜空の豊かなこと。
なによりあの、赤い赤い薔薇の目を引くことといったら。
友人からの手紙の中で、花はいつまでも青いままで止まっている。それを幽霊のようだという。硝子箱に包まれているようだとも。蕾の青から色づかなかったのか、結局赤く咲いたのかも、私には知れない。
雪景色の中で映えるだろうあの赤が、燃えるようにぽつねんと咲くところを想像した。けれどどうにも今の私には、青々と美しい薔薇が、幽霊のように、硝子細工のように、雪の中に凛と咲くところばかりが思い浮かんだ。仕方ない。文字越しに触れた彼の花は、ひたすらに青く若くあったのだ。私にとって、友人にとっての花薔薇は、この芽吹き色で幕引きらしい。
あとで図鑑を引っ張り出そう。私には遠い故郷の花は、もう随分と薄れてしまったようだから。
目を閉じた。青い薔薇と、銀色の空気。いま、私が彼方へ祈るとするならば。想うのはひとつ。眠れるあなたの、静寂に満ちた幸福を。
あなたに伝えたかった。届かなかった手紙に書き連ねた言葉。人類は新しい星へたどり着いた。ここで生きていく。地球に似た、けれど地球ではないこの場所で。私はもう、あの星の生命ではないかもしれないけれど。それでも思い出す。私達はあの星で生まれた生命だと、今だけは胸を張りたい。
思い出の中、二人で寝転んだ木漏れ日を覚えている。あの光の優しさを、永遠に思えた瞬間を。そして傍らにはあの花を置こう。
やはり脳裏に描くのは、微睡む午後の庭に咲き乱れていた、生命の色をした花のこと。あのとき地球という星は、青い空を纏い、柔らかな日だまりに抱かれていた。雪の白はまだ珍しく、それは冬を知らせるための心躍る印だった。今ではもう、ゆっくり噛みしめることもできぬ遙かの星。
遠く褪せた故郷の花。その綻んだ色の、赤いこと、赤いこと。
(彼方より彼方へ、愛を込めて)
世界の終末は、幾度でも書きたくなります。