第10話 女魔王は屈辱の記憶を語る
「―――。――――。“回復”」
温かな光が紫の肌を包み込み、女魔王の首からきれいさっぱりと傷が消失した。
「魔王の力ってのはすごいものですね。その傷で死なないのですから」
王は安堵の吐息を漏らしつつ言う。
魔力の鎧を容易く斬り裂いた聖剣は、そのまま女魔王の首を半ば近くまで断った。
普通なら―――人であっても魔物であっても―――、即死だ。しかし女魔王は魔力で膜状の力場を形成して出血を抑えこみ、気道をも確保してみせた。
とはいえ所詮は急場しのぎ、致命傷には違いないが、幸いにしてこの場には当代きっての奇跡の使い手―――聖女が居合わせていた。
「さあ、今度こそ陛下の番です。―――――。――――」
聖女は一度きつく女魔王を睨みつけると、再び詠唱を開始する。
「―――っ」
左手がずきりと痛み、王は身じろぎした。
「おい、動くんじゃねえよ」
「ご主人様、少し我慢してください」
「ふうむ、逆向きに繋げたらどうなるのかの?」
咄嗟に聖剣を素手で阻もうとした結果、王は左手の小指側から三指を切断されていた。
勇者、ケイ、賢者がそれぞれ一本ずつ握って、断面と断面とを固定してくれている。
「ああ、悪い悪い。―――賢者、試したりしないでくれよ、マジで」
「―――――。――――。“完全回復”」
先刻より詠唱が長いと思えば、聖女が発動したのはただの“回復”ではなく最上級の“完全回復”だった。
「……んんっ」
腕から胸にかけて真一文字に走った切り傷と肩の裂傷、顔面の打撲が癒え、失われたはずの指先にもむずむずとした感覚が戻ってくる。
「さすがだな。ありがとう、聖女」
「いえ、陛下のお傷を癒すのは私にとってこの上ない誉れです。―――魔王の傷を先に治すように言われたのは、不本意ですけど」
「まったくだ、せっかくの好機だったのによ。お前は本当に“ひとっぽい”見た目のやつには甘い」
元々勇者は打倒魔王の目標を掲げていた。それでも王の指を切り飛ばした瞬間、慌てて聖剣を引いてくれたのだ。
「……いったいどういう集まりなんだ、これは。オークキングに勇者に聖女に賢者だと? それによくよく見れば、見知った顔が一つ」
女魔王の視線の先にいたのはアニエスだ。
治療は聖女に任せきりで呑気に観客に徹している。傾けている竹の水筒の中身はたぶん水ではないのだろう。
この神官歴八百年の大ベテランは、本人曰く回復の奇跡があまり得意ではないらしい。
まあ、体質を思えばそれもやむなしか。真っ先に被験者となるはずの自分自身がまったく練習台にならないのだ。
アニエスは竹筒から口を離して、ひらひらと手を振った。
「おう、五百年振りだな。とっくにおっ死んで代替わりしているかと思えば、まだ生きてたか、魔王」
「こちらの台詞だ。貴様が不死身なのは身に染みて理解しているが、それにしてもまだ生きているとはな。……しかし貴様、ずいぶんとやさぐれたか?」
「やさぐれたとは失礼な。たまたま今はこういうキャラで通してるってだけさ。たしかお前らとやり合った時は、まだ生まれついての良い子ちゃんのままだったか?」
魔王が胡乱げな視線をアニエスに向ける。
そんな感情まで読み取れる辺り、やはり顔の造作は人間のそれと変わりない。
「さて、話し合いが望みであったな、オークキング。良かろう、貴様の献身とそこの懐かしい顔に免じて、しばし付き合ってやろうではないか」
「感謝します、魔王様」
すでに人払いは済ませ、冒険者とオーク達は遠巻きにしている。さっそく王は口火を切る。
「ではお聞かせくださいますか、俺が全ての元凶とは、一体何のことでしょうか? 半身を奪われた、などと仰っていましたが」
本題はダークオークが“魔王様”と口にした一件だが、行き違いがあるならまず解消しておきたい。
「ふんっ、まことに何も知らぬようだな。では聞かせてやろうではないか。始まりは五年前だ―――」
魔王城にオークの一団が訪れたのだと言う。
オークの住まう第二界層から最深部第五界層までの道のりは、当然ながら生半なものではない。リーダーである頑健な一頭を除いて、皆が傷付き疲れ果てていた。
「聞けば、当代のオークキングの所業に関して、魔王様からお叱り頂きたいと。そのために数年がかりでようやく魔王城まで辿り着いたのだと。―――心当たりがないか、オークキング?」
「……三十体余りの雌のハイオークの集団。そして頑健なリーダーというのはオークキングの雌ではありませんでしたか?」
「その通りよ。貴様が改定した掟とやらに反発して、群れを離れた貴様の妃達よ」
「やはり」
「―――お、おいおい、ちょっと待てっ。何だその話は? 聞いてねえぞ」
「あれ? 勇者達には以前昔語りをした時に言わなかったか? 掟改正に反発した妃候補の姉がいたってよ」
「それは聞いてるが、問題はその部分じゃねえよっ。オークキングの雌だと? そんなのがいるなんて聞いてねえぞっ」
「そうだったか? でも確か言っただろう、父さんとやり合った時にこっちの傷が出来て―――」
王は額の×字傷の一方を指差す。
「―――そんで姉とやり合った時にこっちが出来たって」
指をもう一方の傷へ向ける。
「それは聞いたがよ。確かオークキングは牙が長いから、“鼻相撲”ってのをすると牙で相手を傷付けちまうんだったよな。―――ああっ、そうか! 姉ってのもオークキングじゃねえと傷は付かねえのかっ」
「そういうことだ」
「いや、言葉が足りねえよっ」
「すまんすまん」
雌のオーク“キング”と言うのもおかしな話だが、ここで言うオークキングはオークの王という意ではなく、オーク種キング亜種という生物学的分類を指す。オークキングという種族の雌、ということだ。
「まあ、当然儂は気が付いておったがの」
「マジかよ、賢者様?」
「……マジじゃ」
「なーんか嘘くせえな。聖女様は?」
「陛下から昔話をお聞かせ頂いたのは、二度目の陛下への挑戦に敗れた直後でした。あの時点でオークキングが実はもう一体いるなどと聞かされていたら、私達は深い絶望を感じたことでしょう」
「うん? そりゃあそうかもな。まっ、あの勝負、一応勝ったのはあたしらなんだけどな」
「―――ああっ、陛下は私達の心を慮って、あえて姉君の存在を伏せて下さったのですねっ」
聖女は胸の前で両手を組むと、天を―――ではなく王を仰ぐ。
「ちなみに私はお聞かせ頂いていたぞ」
ケイが自慢げに胸を張る。
「……はあ、もういいや。話を先に進めてくれ」
勇者は疲れた顔で赤髪を掻きむしった。
「おう、すまんな。―――それで、魔王様はどうされたのです? 我らに対して働きかけなどは特になかったはずですが」
「当たり前だ。我らは生まれついて魔を統べる者ではあるが、魔物同士の争いなどという些末なことに関わっていられるか」
「ほうっ。人の王のように自らの民を統治しようとは考えぬのかの?」
「何故我らが弱者を管理してやらねばならぬのだ」
賢者の問いに女魔王は当然と言う顔で答えた。
「なるほどのう。圧倒的な個人主義とでも言えば良いのかの。人と魔人族では思想の根本が違うと言うことか。面白いの」
人間の場合は、民とのある種の契約によって様々な“力”が生じ、王権が成立する。
しかし魔王の場合は、生まれついての絶対的強者である。権威の背景は自前の戦闘力で事足り、民に“見返り”を求める必要がない。故に“施し”てやる必要もないということか。
「まっ、とはいえ多少哀れではあったのでな。しばらく城に置いてやることにしたのよ。それがまさか、あのような形で裏切られようとはな」
「いったい何が?」
「ふんっ、我が弟も我が弟よ。何百年も我に手を出してこないと思えば、まさかあんなゲテモノ趣味をしていたとはっ」
「それってまさか」
「そのまさかよ。―――あの雌オークキングめ、我が弟にして我が夫を寝取りよったのよっ」
「―――っ、そ、それは、何と言うか、……姉がすいません」
怒りに顔を赤紫に染める女魔王に、王は頭を下げた。
憎き雌豚の弟になど謝られたくもないかもしれないが。
賢者曰く魔人族は一対の番いしか存在しないという話だから、弟というのは同時に伴侶であり男魔王でもある。まさに女魔王にとって欠くべからざる半身だった。
「それで、女のプライドを傷つけられたお前は、おめおめと逃げ出したってわけかよ?」
勇者が呆れ顔で言う。
魔王城に乗り込み魔王を討つことを目標に掲げていた彼女にとっては、何とも締まらない成り行きではあるのだろう。
「誰が逃げ出すか。弟も一時の火遊び程度の気持であったろうし、我も弟の性癖に引いたというだけのことよ。いずれ目も覚めるだろうと、見て見ぬふりをしておったのだがな」
魔王ならオークを対等な生き物とは見なしていないだろうから、浮気というよりもマニアックな自慰行為くらいに思えたのかもしれない。
「ところがな、あの雌オークキングときたら繁殖力の乏しい我ら魔人族の子を容易く身籠りおった。そして自身が身重となってからは次々と手下のオーク達を弟に差し出し、我が気付いた時には全員懐妊しておったわ。こうなってしまっては弟ももう雌オーク達の言いなりよ」
「で、追い出されたと」
「馬鹿を言うな、こちらから捨ててやったのよ」
「本当かぁ? その割には未練ったらしく、魔王城そっくりの城なんて建てちまって」
アニエスが勇者と一緒になって弄り始める。
相手は魔王だというのに、顔馴染みにしてもその態度はいやに気安い。
「……オークキングよ」
「ああ」
賢者の意味ありげな視線に、王は頷き返す。
「……魔王様。こんなことを聞くのは心苦しいのですが、お教えください。弟君と俺の姉達との子を見ましたか?」
「うん? ああ。我が出奔する頃には、すでに何腹か生まれておったからな」
「その子供達はどんな姿をしていましたか? 肌の色はオークらしく緑でしたか? それとも魔人族と同じ―――」
「紫であったな。それ以外は豚面といい、肥えっぷりといい、見事にオークそのものであったが」
「―――っ。やはり、ダークオーク」
「ふうむ。魔界の魔物分布に変動が見られているのも、彼奴らが原因のようだの。最深部にダークオークの群れが発生したことで、他の魔物達が押しやられたというわけじゃ」
「―――ダークオーク? いったい何の話をしている?」
今度は女魔王の方が問う番だった。