幕間・オークが帝都にやってくる 後編 教皇グレゴール三世は聖鏡を覗き見る
帝都は大賑わいだった。
グレゴール三世が待つ教皇領の大聖堂まで、うるさいくらいの歓声が届いている。言うまでもなく、いつもは厳かな静寂が支配する場所だ。
勇者アシュレイにしても聖女カタリナにしても、この帝都で選定され、列聖されている。いわゆる帝都っ子からの人気は極めて高い。
人類からの離反を疑われていた二人が、“聖なる魔物”という奇跡的な存在と共に帰還するというのだ。熱狂ぶりは類を見ない域にあった。自分の教皇着座式が―――当然聖心教を上げての一大行事である―――、ひどく寂しいものであったと思えるほどだ。
歓声は少しずつこの地、パレードの終点である大聖堂へと近付いてくる。
堂内には教皇庁付きの司祭や助祭ら聖職者に加えて、皇族も参列している。豪胆なことに皇帝の姿もあった。必然、近衛兵と聖堂騎士も詰めている。いずれも精鋭中の精鋭、この国に現存する最大戦力である。
ちらと背後の祭壇を確認した。古礼に倣い、神器が二つ配置されている。
一つは“聖鏡”。分厚い布を掛けられ、人目から完全に遮断されている。
もう一つは“聖杓”。洗礼の儀で実際に用いられるのはこちらのみだ。世の教会で行われる常の洗礼では形代が用いられるが、この大聖堂で教皇が扱うのは当然本物である。
「―――っ」
大聖堂の扉が、軋みを上げて押し開けられた。先導役を務めるのは聖堂騎士レオンハルトだ。
次いで大聖堂内に足を踏み入れたのは、久しく聖心教より失われていた聖女カタリナだ。
ほうと、そこかしこから安堵の吐息が漏れる、何だかんだと言っても、教会内にも彼女の信奉者は少なくない。
幾分弛緩した空気が、次の瞬間凍り付いた。
巨大な、巨大過ぎるモノが、大聖堂に影を落としていた。
―――これがオークキング。
そも通常のオーク自体を直接目にしたことがないグレゴール三世をして、別格の化け物であると肌で理解した。
その非常の怪物は、傍らに聖女カタリナを寄り添わせながら、神聖なる大聖堂をのしのしと闊歩する。そしてやがて、グレゴール三世の正面で足を止めた。
誰かが―――あるいはグレゴール三世自身かもしれない―――、ごくりと息を呑む音がうるさいくらいに響いて、八つ当たりのように周囲の司祭達に剣呑な視線をぶつける。
「―――へえっ、これが聖心教の一番おっきな教会かぁっ」
「こら、ティア、静かになさい」
場違いなお喋りが響く。しかれどグレゴール三世は、そして恐らく堂内に集った他の者達全員が、救われた気がした。
「―――っ」
胸いっぱいに貯め込んだまま、継ぐことを忘れていた息を吐き出す。
騒いでいるのは、オークキングの供の者達だ。
オークの姿はない。こちらから注文を付けたわけではないが、オークの頭でもそれくらいの空気は読めるということか。
勇者、賢者、それにやはり場違いなことにメイド服姿の三人。そのうち一人は間諜の報告にあった凄腕の女剣士だろう。
そして予言者アニエス。しれっとした顔でお供に混じっている。
係の者の案内で、彼女達が堂内の片隅へと導かれていくのを待つ―――という体で時間を稼ぐ。
二つ三つ、いや四つも五つも深呼吸を繰り返して、ようやくグレゴール三世は落ち着きを取り戻した。
「……ようこそお越しくださいました、オークの王よ」
「お招きいただき、感謝いたします、猊下。魔物のこの身を神聖なる大聖堂に、そして貴教の元へ迎え入れていただけるとは、望外の喜びにございます。猊下の広大無辺の御寛容に敬意を」
「―――おおっ」
オークキングがその大き過ぎる身体を折ると、堂内からいくつも声が上がった。
「ではさっそく、洗礼の儀を行います。こちらへ膝を付いてください」
「はい」
オークキングは言われるがままに進み出ると、グレゴール三世の足元に跪いた。
「なんと、あんなにも従順に」
「確かに普通の魔物とは違うようだ」
堂内からひそひそ声が漏れる。
「……」
グレゴール三世は祭壇から聖杓を慎重に取り上げた。器の部分には聖水―――聖職者が祈祷をささげた水―――が満たされている。
「造物主様は初め、その聖心を“鏡”へと映し取られました。“鏡”からは大地があふれ、世界を形作りました。しかしそれは乾き餓えた世界だったのです。そこで造物主様は再び聖心を“鏡”へ映し取り、清水を沸かせました。造物主様が“柄杓”をもって清水を振りまくと、たちまち世界は生命に満ちました」
聖書における天地創造に関する記述をグレゴール三世は暗唱する。その場に居る聖職者達も声を揃えた。
洗礼とはこの一節を模した儀式である。
所作としては、聖杓に満たした聖水を聖職者の手で与えるだけだ。それで受洗者は聖心教の元で新たに生まれ直したものと見なされる。
「……」
聖水で指先を濡らし、跪くオークキングの額へ触れる。
「―――っ」
ぬめぬめとした肌を想像していたら、じょりっと予想外の触感が指先を襲った。緑の肌は無毛ではなく、色素の薄い剛毛がびっしりと生え揃っているらしい。
「……」
何とか動揺を隠して、指先を離す。
「終わりました。これにて、貴方は我らが聖心教の子です」
「おおおーーっ」
堂内―――主にカタリナやオークキングの供の者達―――から歓声が上がり、それが堂外にも漏れ聞こえたようで大歓声が唱和した。
当のオークキングは自らの身体を見下ろしたり、拳を握ったりと開いたりしている。
人間の受洗者も良く見せる反応だ。洗礼によって何か不思議な力なり感覚なりが生じるとでも思っていたのだろう。
なんにせよ、オークキングもその供の者達も、これで儀式は終えたとすっかり油断しきった様子だった。
「さて、一つよろしいでしょうか、陛下。 聖女カタリナによると、陛下の慈愛の心は救世主様にも迫るとか」
歓声が静まるのを待って、グレゴール三世は切り出した。
「い、いえ、それは聖女様が勝手に言っているだけでして」
「ほう。それでは我らが聖心教の聖女の目が、誤っていると?」
「いや、それはその」
オークキングは巨躯を縮め、言葉を濁す。
「……ふむ。では一つ、ぜひお試し頂きたいのですが。こちらへ、陛下」
グレゴール三世はすっと一歩横へ移動する。
「えっと、これでいいでしょうか?」
オークキングが空いた祭壇の正面へ歩を進める。同時に、グレゴール三世は聖鏡を覆う布へと手を伸ばしていた。
「―――っ! 陛下っ、いけませんっ! それはっ、聖鏡は命を吸いますっ」
カタリナが叫び、駆け寄るももう遅い。グレゴール三世はばっと布を取り除けていた。その瞬間―――
「なっ」
オークキングが両手を広げてさらに前へ―――聖鏡にその突き出た鼻先が触れるくらいの距離まで踏み出した。あたかも聖鏡の鏡面から聖女や堂内の人々をかばう様に。
―――ふふっ、やったやった!
何のつもりだ、と言う疑問は、こみ上げた歓喜に脇へと追いやられた。
聖鏡。造物主様が天地創造の最初に用いた道具であり、それゆえ七つの神器の中でも別格と目されている。
その効果は鏡面に映り込んだ者の精神と生命を吸い上げるというものだ。聖剣のように使用者すら必要とせず、問答無用で無差別に。
常人がその身を映せば万に一つの幸運に恵まれても心を無くした廃人に、多くは魂まで抜かれ死亡する。唯一、海より深く天より気高い御心を持った救世主様のみが、その鏡面と正面から対することが出来たという。
「……」
グレゴール三世は自身が鏡面に映り込まないよう、慎重に横から聖鏡を窺う。確かに緑の化け物がそこにいた。
あとは“私は謀略家の誹りを甘んじて受けよう”などと殊更に言い立てれば良いだけだ。全てはオークキングを招き寄せ、聖女と勇者を救出するための方便であったと。
もちろん教会内からは多少の批判も出るだろうが、オークキング退治は最初の聖人レオンハルトと原初の聖女アニエスも成した義挙である。いくらでも言い訳は立つ。
「陛下っ!」
「ご主人様っ!」
聖女やオークキングの供の者達が我に返り騒ぎ立てる。
レオンハルトを除く聖堂騎士達が、グレゴール三世と祭壇を守る様に整列した。一触即発の空気を―――
「お、お前ら、落ち着けっ!」
いくぶん苦し気な、しかしはっきりとした声が和らげた。
「へ、陛下っ、ご無事なのですかっ!?」
「まあ、何とかなってる。猊下、何やらお試しのようですが、これでご納得いただけましたか?」
「ああ、……はい」
「では、その布をこちらへ頂けますか? 危なくって仕方ない」
オークキングは聖鏡の前に陣取ったまま、手だけこちらへ伸ばす。信じ難いが、やはり参列者を守ろうとしているのか。
「え、ええ」
言われるままに、聖鏡を覆っていた布をオークキングに手渡す。同時に、またも慎重に鏡面を覗いた。
「―――っ!?」
思わず、身を乗り出していた。
そこに映り込んでいたのは先刻までの緑の化け物―――オークキングではなく、人間の男性だ。
三十、いや四十がらみだろうか。見慣れぬ人種でいまいち年齢の程は判然としないが、気の良さそうな顔つきをしている。
鏡面にあるのはそんな男ともう一人。ゆったりとした法衣をまとい、でっぷりと肥え、胡散臭い笑顔の―――グレゴール三世自身だった。
「あっ」
ふっと意識が遠のいた。
「―――猊下っ、猊下っ」
自分を呼ぶ声と、揺り動かされる身体に、グレゴール三世は目を覚ました。
「…………私は」
周囲を見渡す。聖堂騎士が整列し、皇族ら参席者の姿もまだある。それほどの時は経っていないようだ。
すぐそばにはカタリナと予言者アニエス、そしてオークキングの姿がある。
「まさか猊下が、陛下の御神格を証明されるために御自身の命まで賭されるだなんてっ、思いもしませんでしたっ」
カタリナが感極まった様子で言う。
「ええ。救世主様と同じようにオークキング様も聖鏡と向き合ってなおご存命であることを示された上で、聖鏡の効果を証明されるために自ら命を絶たれるだなんて」
アニエスの説明口調は、グレゴール三世に聞かせるためだろう。つまりは自分が死んでいる間にそういうことにしておいた、ということだ。
「え、ええっ、そうなのです。魔物が神聖な存在だなどと、信じられぬ者も多いでしょうからね。ここは私がこの身を張らねばならないと。―――はて、私はなぜ生きているのでしょう?」
「ふふっ、この御方がどなたかお忘れですか、猊下?」
「聖女カタリナ? いやしかし、彼女の奇跡は―――」
自分がお膳立てした、偽りの奇跡のはずだ。死んでいるように“見えた”レオンハルト少年が、神聖魔法の効果で回復しただけの話だ。
すっと身を寄せてきたアニエスが、耳元でささやく。
「ちょっと政治的過ぎるぞ、グレゴール。まっ、私はお前のそういうところを買って教皇に押したわけだがよ。―――カタリナが蘇らせたのは、レオンハルトが最初じゃないのを忘れたか?」
「それはっ」
アニエスに己が後ろ暗い画策を知られていたことにまず胸を突かれ、―――柄にもない感動に胸を打たれた。
―――本物の奇跡であったか。
養父を蘇らせた奇跡の少女。その話を聞いた時、グレゴール三世はただ使えると思った。真偽を探ることなどせず、端からただの噂話と切り捨て、それでも利用は出来ると。
当時はまだ予言者アニエスの正体も知らなかった。聖職者、それも枢機卿でありながら、本物の奇跡など絵空事と見なしていた。
しかしカタリナは本物の聖女だったのだ。その奇跡でもって、自分を生き返らせてくれた―――
「―――何にせよ、ご無事で何よりです、猊下」
オークキングが凶相を凶悪に歪めて言う。
笑ったのかもしれないが、せっかくの感動に水を差された気分だ。
とはいえ、聖女カタリナが認めたのであれば。
グレゴール三世はオーク王国との融和に対して、いくらか前向きな気持ちになっていた。
番外編終了です。
第一章後の幕間として書いた番外編もそうでしたが、番外と言いつつかなり重要なお話でした。
さて、次回からは最終章の予定となっている第三章がはじまります。これまで名前だけの存在であった魔王や魔界関係を中心としたお話になります。引き続きお楽しみいただければ幸いです。