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幕間・オークが帝都にやってくる 前編 教皇グレゴール三世は画策する

「―――っ」


 執務室よりレオンハルトとトリッシュが退室すると、教皇グレゴール三世は感情のままに拳を振り払った。

 執務机に並べられた筆やら書類やらが室内に散乱するが、気は収まらない。続けて机上に拳を打ち付ける。


「つうっ」


 拳に走った鈍痛に、ようやくいくらか頭が冷えてきた。


「―――――。――――。――――――。“回復”」


 あまり得意とは言えない神聖魔法で傷を癒すと、革張りの椅子にどっかと腰を下ろす。

 呼び鈴を探すも、それも床へ転がっているのに気付いた。またも苛立ちがぶり返し掛けるが、何度か深呼吸をして気を静め、声を張った。


「どなたか居りませんかっ」


「―――お呼びでしょうか、猊下」


 ほとんど間を置かず、小間使いの少年が姿を見せた。白銀の髪を持つ、色白の少年だ。


「すいません、少々ふらついてしまって、部屋を汚してしまいました。片付けをお願いできますか?」


「はい、すぐに。―――大切なお身体です。ご無理はなさらないでくださいね」


 少年は手早く散乱した物を集めながら、真剣な声で言う。


「ええ、分かっておりますよ。貴方にはいつも助けられています、ルドルフ」


 名前を呼んでやると、少年は尻尾をふる子犬のような人懐っこい笑顔を浮かべた。

 少年が退室すると、グレゴール三世はまた独り言ちる。


「……どうしてこうなった。いったいあの御方は何を考えておられるのか?」


 ここまで、順風満帆の人生を送って来た。

 ほとんど異例と言って良い十代半ばの若さで、教皇庁付きの助祭に任じられた。

 予言者アニエスを初めて目にしたのはこの頃だ。当然、その正体を明かされることはなく、当時の教皇が目を掛ける小間使い兼神官見習いの少女としてだ。

 白銀の髪に白磁の肌、澄んだ声は鈴の音が如し。

 自分よりいくつか年下の―――ように見えた―――少女の生まれながらの気品、聖少女とでも言うべき存在感に圧倒されたのを覚えている。教皇になればあんな少女を侍らすことも出来るのかと、妙に感心したものだ。

 その後四十年余りの歳月を掛け、司祭を経て大司教の地位に昇った。同時に教皇の顧問であり次代の教皇候補でもある枢機卿の地位に就いた。

 南方諸国の十数ある司教区から一人、グランレイズにある三つの大司教区からは二人の枢機卿が叙任されるのが慣例である。大司教三人のうち一人はすでに当時の教皇であったから、必然の就任であった。

 ここからはただ健全に勤めを果たせば良いと言うものではなくなる。三人の枢機卿による聖座を賭けての競争だった。誰の目にも明確な功績が必要となる。

 まずは教会の権威向上に努めた。

 枢機卿ともなると国の重職を兼任する者が多いが、殊更固辞してみせた。そして超俗の権威が世俗の王権の下に就くなどあってはならないと、声を大にして唱えた。当然教会内外に敵を生むことにもなったが、味方も増やした。派閥が可視化され、味方を引き立てることも、敵を取り込み、あるいは排除することも容易となった。

 断固として突き進めば、追い風も吹く。

 自分の大司教区内の片田舎に奇跡の少女が現れたという報告を受けた時には、すぐに飛びついた。蘇生させやすい新鮮な“瀕死者”も用意し、教会史上十七人目となる聖女の認定を主導した。

 グランレイズの皇子が冒険者になると聞いた時も、すぐに聖剣の選定式の開催を主張した。結果、聖剣は予想外の者の手に渡ることとなったが、悪くはなかった。言動に不安のある勇者ではあったが、冒険者としての功績は抜群で、すぐに民からは英雄視されるようになった。教会に匹敵する権威などと見なされつつある“塔”の首席魔術師を下に置いているのも、教会内での支持につながった。

 予言者アニエスに再会したのは、そんな頃だ。

 教皇を伴い、彼女の方から会いに来てくれた。つまり次代の教皇と見なしてくれたということだ。彼女の支持は、そのまま当代の教皇からの支持にもつながる。

 教皇の選出は司祭以上の聖職者による投票で決まるが、大半の者は所属する教区の候補者に票を入れる。候補者がいない当代の教皇の教区で如何に支持を得るかが、勝利の鍵なのだ。

 そうして実績を積み、駆け引きを重ね、人類の首席である教皇の地位を得たのだ。それを―――


「魔物と融和を図った教皇として、史に名を残せと言うのかっ」


 またも憤怒がこみ上げる。拳を握り締め、深呼吸を繰り返して心の平静を引き寄せる。


「……いや、後世の人間になど、好きに罵らせれば良いのだ。問題は―――」


 教皇は終身制であり、一度聖座に付いてしまえば降りることも、降ろすこともかなわない。が、当然教会内での権勢が弱まることはあるのだ。

 聖女と勇者がオークの軍門に降ったことで、すでに大いに陰り始めていると言って良い。これでオークと結んでなどしまえば、教皇としてはほとんど死んだに等しいのではないか。

 予言者アニエスが自分が動くと言ってくれた時には、これで万事解決と安堵した。

 崇め奉るべき真の聖人であると同時に、彼女は教会の影の守護者でもある。皇室との不和の回復といった穏健な役目から、異端宗派の粛清や魔界へ失われた聖剣の奪還といった荒事まで担ってきたという。

 今回もこれまでの八百年と同様、教会は―――つまりは教皇たる自分は―――救われるはずだったのだ。


「…………参内いたしますっ。馬車の手配をっ」


 熟慮の末、グレゴール三世は重い腰―――物理的にも、気持ちの上でも―――を持ち上げる。せっかく元の位置に戻された呼び鈴も使わず、勢いを付けるようにまた声を張った。

 移動聖座と呼ばれる教皇専用の大仰な輿もあるが、ごく一般的な外観の馬車で王宮へと向かった。

 門前に降り立つと、すぐに門衛が連絡に走り、しばしの後に案内役の侍従が駆けてきた。

 帝国内での役職を有していれば、こうした面倒な手続きはかなり省かれる。が、超俗の最高権威たる自分が、世俗の地位に就くなどやはりあってはならない。

 侍従の案内で通されたのは、謁見の間ではなく後宮奥深くの私室だった。

 玉座でなくただの長椅子に腰掛けた男は、眉を寄せ幾分難しい顔だ。

 逆巻くような癖の強い髪とたっぷりとたくわえた顎髭はいずれも金色で、獅子を思わせる。


「まったく、面倒なことをしてくれたな」


 開口一番、男は言った。

 自分にこんな口を利けるのはこの男、―――もう一人の人類の首席、世俗の最高権威たるグランレイズ皇帝だけだ。


「すでにお聞き及びでしたか、陛下」


 グレゴール三世は丁重な言葉遣いを崩さない。―――小間使いや一般信徒に対する時と同様に。


「当然だ」


 選定式の真似事が行われた場には、第三皇子のディートリヒの姿もあったという。しかし息子から知らせを受けたわけではなく、恐らく間諜の類からの情報だろう。少々知るのが早過ぎる。

 しょせんはオークの国、出入国の管理は甘く、いくらでも間者を送ることが出来た。教会でも幾人も潜伏させている。


「では、これはご存知ですかな? 私の使者を名乗った娘というのは、予言者様なのですよ」


「―――っ、アニエス様が? まったく困った御方だ」


 言葉とは裏腹に、どこか愉快そうに皇帝は相好を崩した。

 皇帝、そして次代の皇帝たる太子にはアニエスの存在が明かされている。嫡男の名付け親を務めることも多いと聞く。始祖レオンハルトの同朋であるアニエスは、皇帝にとっては一族の大長老のような存在なのだろう。


「しかしアニエス様が見極めたというのなら、そのオークキングというのは真に信用に足る魔物と言うことか?」


「いえいえ、魔物、それもオークが信用出来るはずがございません。お忘れですか? 陛下の遠祖レオンハルト様の宿敵こそ、まさにそのオークキングだったのです」


「それを言うならそのレオンハルト様のお隣で共にオークキングを討たれたのが、かのアニエス様ではないか」


「ええ、そうなのです。あのアニエス様に限って、オークキングをお認めになるはずがございません。―――ご正気を失いでもしない限り」


「まさかっ。あの御方に限ってそんなはずが」


 皇帝はかっと目を見開く。


「私もそう思いたいのですが。……お忘れですか? すでにかの魔物めは、勇者アシュレイと賢者ソフィア、そして聖女カタリナまでを篭絡していることを。実際、アニエス様はお供の者だけをグランレイズに御戻しになり、ご本人はオークの元へ留まってございます」


 レオンハルトとトリッシュからは、かの地の酒をいたく気に入ったためだと報告を受けているが。


「しかしなぁ、オークキングが聖剣を引き抜いたのは事実なのだろう?」


「はい。使いにやった聖堂騎士も、確かに目にしたと。しかしそんなものは、勇者と賢者の協力あらばやり様はございましょう」


「……ふうむ。何をしようと、いや、私に何をさせようというのだ、猊下?」


 金色の顎髭を撫で付けながら皇帝は問う。


「簡単なことですよ。許可を一つ頂きたいのです」


「許可?」


「はい。オークキングをこの国に、我が教皇領へと招く許可を」




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