第1話 聖堂騎士レオンハルトは試練の旅に出る
教皇領。
または聖心教特別教区とも呼ばれるその土地は、グランレイズ帝都の一角に設けられている。
帝都は一辺十ミレワンド(10㎞)四方という大陸最大の城郭都市であるが、百万という膨大な住民を抱える過密都市でもある。それもグランレイズ全土から将来有望な若者の集まる学生街であり、大陸中の物産が運び込まれる商都でもあるのだから、その活気と喧騒は推して知るべしであろう。
しかしそんな中にあって、教皇領は実に静かなものだった。
人が少ないわけではない。むしろ疑いの余地なく帝都でも有数の人口密集地帯である。
清潔さだけが売りの狭い宿舎はいつだって遠方から訪れた信徒で満員だし、大聖堂へと続く通りは参拝者が列をなしている。
この地は、聖心教信仰の中心地なのだ。清らかで厳粛な空気に、人々は無駄口一つ発することはなかった。
「――――っ!」
「―――っ!」
例外的に騒がしいのが、大聖堂の裏手に造られた長屋と、そこに面した広場である。聖堂騎士の兵舎と練武場だ。
聖堂騎士。武術と神聖魔法を駆使し戦う信仰の守護者である。
「はあっ!」
レオンハルトが戦棍を盾に叩き付けると、相手はたまらずその場に尻もちをついた。
「―――ま、参った」
次の訓練相手を求めて広場に視線を彷徨わせると、先輩の聖堂騎士が一人近付いて来た。
「レオンハルト、少々気負い過ぎではないか?」
聖堂騎士は一人一人が聖堂の主―――この教皇領においては教皇その人―――の直属であり役職に上下はないが、最古参のこの男が何となく取りまとめ役を担っている。
「そんなことは―――」
「あるだろう」
足元で同期がやれやれと肩をすくめて言うと、回復の奇跡の詠唱を始めた。倒れた時に足を痛めたようだ。
「カタリナ様のことで、逸る気持ちは分かるのだがな」
「申し訳ありません。ですが―――」
そこで錬武場の聖堂騎士達は、武器を収め一斉に片膝をついた。
聖堂騎士団の主にしてこの地を治める領主、聖心教の信仰の頂点でもある教皇が姿を現していた。
「レオンハルト」
「はっ」
名を呼ばれ、足下へと馳せ参じた。
「話があります。訓練後、私の執務室まで来てください」
「―――はっ」
気さくな人柄の教皇だが、その程度の連絡事項を伝えに自ら足を運んだのか。
レオンハルトは戸惑うも、即座に返答して頭を下げた。
その後の訓練はあまり身が入らず、終了時刻になるとすぐに大聖堂にある教皇の執務室へと駆けた。
「レオンハルト、参上いたしました」
「どうぞ、入ってください」
「はっ」
入室すると、他に先客が一人あった。
如何にも冒険者然とした女だ。壁に背を預け、腕を組み、レオンハルトに抜け目なさそうな視線を向けてくる。
褐色の肌に、女性らしい体付きをかえって強調するような軽装の革鎧は、厳かな雰囲気の大聖堂にはあまりに不釣り合いだ。
「彼女のことは知っていますか?」
「長足のトリッシュ殿、ですね」
知らないはずもない。
数年前まで、長足の二つ名を冠していたのはあの勇者アシュレイだった。
“罠や障害をひょいと大股で跳び越えてしまう”という意であり、斥候としての優れた技能を称えた通り名だ。しかし“勇者”というこれ以上ない称号を得たことで自然とその異名は廃れ、やがて彼女の妹分がそう呼ばれるようになる。
―――つまりは目の前にいるトリッシュである。
「おう、レオンハルト聖堂騎士殿にお見知りおきいただけているとは、光栄だねぇ」
トリッシュが皮肉気な笑みで言った。
トリッシュはトリッシュで、レオンハルトを知らないはずもない。
聖女カタリナ所縁の人間であり、このグランレイズ帝都の住民、とりわけ敬虔な聖心教信者の間ではちょっとした有名人である。
レオンハルトは帝都に軒を連ねるごくごく一般的な商家に生を受けた。
あえて他とは異なる点をあげるなら、両親ともにかなり信仰が篤いということぐらいだろうか。レオンハルトという平民にしては大仰な名も、聖人の聖名から取られている。
そんなごく普通の少年に悲劇が襲ったのは、彼が八歳の頃の話だ。
大通りを走る馬車に跳ねられ、命を落としたのだ。
ありふれた悲劇である。百万人がひしめき合う帝都であるから、似たような事故は珍しくはない。
少年が幸運だったのは、馬車に乗り合わせたのが教会関係者であり、まさにその時死んで間もない人間の亡骸を求めていたことだ。
当然後から聞かされた話であるが、レオンハルトの遺体はすぐに大聖堂へと運び込まれた。そこには父親に伴われて帝都へ訪れていた奇跡の少女カタリナがいた。
カタリナの本物の奇跡は、ありふれた悲劇を容易く覆した。
そうして当時の教皇の目の前で死者の蘇生に成功した少女は聖女となり、少年は己が人生を決した。
以来十年余り、レオンハルトは神の愛と聖女の大恩に報いるためだけに生きてきた。
―――そして、今がその時である。
「猊下、わざわざ私をお呼びということは、出兵の見通しが立ったのでしょうか?」
レオンハルトは自ら切り出した。
教皇庁では、グランレイズ帝国に対してオーク王国への進軍を再三要請している。
聖女と勇者、そして聖剣が魔物の下に留め置かれているのだ。何としても奪還せねばならない。
派兵がなる際には是非に参加を、それもかなうならば物見としてオーク王国に一番に乗り込ませて欲しいと、レオンハルトは強く希望していた。
物見としての出陣が認められたのなら、この場にトリッシュがいるのも肯ける。グランレイズでも有数の斥候である彼女は、これ以上ない協力者と言える。
「いいえ」
しかし教皇は首を横に振った。
「―――っ、いったい何故です? グランレイズにとっても、エルドランドがオークに抑えられているというのは看過できない事態のはずです。あの国には、ロンガム河最大の港があるのですよ」
「まさにそれが問題なのです」
教皇がため息交じりに言う。
「これまでグランレイズから南方に兵を送るとなれば、必ずエルドランドの港が使われておりました。それが今は機能していないのです」
「そんなものは、どこか別の国に要請すればよいではないですか。規模に劣るとはいえ、ロンガム河沿いには他にもいくつか港が―――」
「そんなもんに、いったいどこの国が名乗りを上げるって言うんだい?」
トリッシュが口を挟んでくる。長い髪―――勇者と同じく赤髪だが、こちらの方がいくらか深い色をしている―――を、退屈そうに指で弄びながら。
「どういうことです? 南方諸国にとっても、ついに拡張主義を示したオーク王国は目下の脅威。グランレイズの力でそれを討ち払ってくれるというのなら、拒む理由は無いはずでしょう」
「まったく、このお坊ちゃんは」
むっと気色ばんだレオンハルトの様子には気付かないふりで、トリッシュが続ける。
「いいかい? エルドランドってのは南方諸国最強の軍事国家だ。一昔前に名をはせた双剣の姫騎士だかは、王位継承のごたごたでどこぞに行方をくらましちまったって話だが、その軍の精強さはグランレイズにも優るって話さ」
「だから何だと言うのです? まさか、軍がオーク相手に後れを取るとでも?」
「そうじゃないさ。グランレイズが兵を送りこめれば、大兵力と物量でオークの国なんて簡単に飲み込んじまうだろうよ」
「でしたら―――」
「だがな、こちらが大軍を送り込むとなりゃあ、オーク共は水際で迎え撃とうとするだろうさ。戦の基本だ。オークといえど、エルドランド全土を瞬く間に占領下に置いた手腕を見るに、それぐらいのことはするだろうさ。するとどうなる?」
「……港を提供した国が戦場になります、ね」
「それならまだましさ。エルドランドがわずか数日で落とされているんだよ? 他の小国なんて、グランレイズの軍の到着を待たず滅ぼされかねないね」
「……なるほど。―――ご教授感謝いたします、トリッシュ殿。私はどうにも見識に欠け、視野が狭い。聖堂に籠もっているせいか、どうもこういう時に世間知らずでいけません」
「あ、ああ。ちっ、どうにも調子が狂うね」
素直に頭を下げると、トリッシュは憮然とした顔で肯いた。
「では猊下、私に何用でしょうか? トリッシュ殿に引き合せたということは―――」
「国が動かぬというのなら、我らは独自に動くまでです。レオンハルト、教皇として密命を与えます。トリッシュ殿と共にオーク王国に潜入し、彼の地の情報を集めなさい。そしてかなうならば、聖女カタリナと聖剣の奪還を」
「はっ!」
片膝をつき、答えた。
“密”命とされたのは、教皇庁の内部でも聖女カタリナの資質を疑う声が上がっているためか。少々不服だが、念願の任務である。
「……それと、えー、レオンハルトにとっては初めての旅でしょう。色々と戸惑うことも多いだろうし、教会より小間使いを一人付けます」
「はぁっ? 小間使いだぁ? 物見遊山じゃあるまいし」
教皇が何やら歯切れ悪く言い足すと、トリッシュが呆れ声を上げた。
あまりな口の利き様だが、レオンハルトも内心で同意せずにはいられない。
「一応、神官の見習いでもあります。簡単な回復の奇跡は行使できますので、旅の助けにはなるはずです」
「……まあ、そういうことなら構わないか。聖堂騎士ってのは、自分で自分は治せても人の治療は下手糞ときてやがるからな」
「猊下のお気遣い、感謝いたします」
トリッシュが渋々ながらに肯き、レオンハルトも頭を下げる。
「それでは、……あー、入りなさい」
教皇が声を掛けた先は、先刻レオンハルトも利用した廊下に面した重厚な造りの扉ではなく、部屋の側面に設けられた小さな戸口だ。
「失礼致します、猊下」
高く透き通った声とともに、戸がゆっくりと開かれた。
姿を現したのは、十四、五歳と見える少女だ。
一ワンド半(150㎝)にも満たない小さな体に、白磁のような肌、白銀色の長い髪。見習い神官らしいゆったりとした衣装の上からでも、折れてしまいそうなほど細い手足が容易に想像出来る。
「―――っ」
少女が体重を感じさせない軽やかな足取りで入室すると、ぎしりといやに大きく床がきしんだ。それで初めて、レオンハルトは確かに彼女がこの場に“在る”のだと実感出来た。
実に不思議な雰囲気の少女だ。鮮烈でありながら希薄な印象とでも言えば良いのか。
「この者は、名をアニ―――、えー、あーと、な、何だったでしょうか?」
少女が居たのは、執務室に併設された休憩所―――つまりは教皇の私室である。
であるからにはそれなりに近しい者、近習として取り立てた親類と言うのが定番だろう。
しかし教皇は言葉を詰まらせた。
「アニエスと申します。よろしくお願いします、レオンハルト様、トリッシュ様」
少女が助け舟を出す。教皇は、―――何やら慌てた顔をしている。
「アニエス殿、ですか。予言者様からお名前を頂いたのですね?」
「ええ。レオンハルト様も、かの御方から?」
「はい」
後にグランレイズの建国王となり聖心教最大の後援者となるレオンハルトを見いだし、栄光の道へと導いたのが予言者アニエスなのだ。二人は聖心教で最初に列聖された聖人と聖女でもある。
「何やら幸先が良いですわね」
アニエスが微笑む。そうすると最初に覚えた違和感は失せ、ただの少女にしか見えない。
「あー、くれぐれも彼女のこと、よろしく頼みますよ、レオンハルト」
やはり血縁の類なのか、教皇が気遣わしげな顔で言った。




