第39話 オークキングは三度焼かれる
―――はったりだ。
異端審問は開始すらされておらず、罪科は定められていない。アシュレイ達は今なお聖心教に認められた正式な勇者と聖女なのだ。一国の王子ともあろう者が、傷付けるはずがない。
まして相手はオークだ。黙殺して暴れ続ければ、人質など無意味と悟って剣を引くだろう。
見た目に反して聡いオークキングが、そんな理屈を解さないはずがない。
「……まあ、あいつならそうなるよな」
しかしそれでもなお、万が一を無視出来ないのがあのお人好しの化け物だった。
アシュレイ達がいる台までわずか二十ワンド(20m)を残し、オークキングの足はぴたりと止まっていた。
「ははっ、良いぞ! さあっ、武器も捨てろっ! さっさとしないかっ!」
テリーが叫ぶ。甲高く裏返った声は、狂気を感じさせる。
「…………」
“あたしのことは気にするな”と、アシュレイは小さく呟いてみた。
喉元に剣を突き付けているテリーにも、左右に並ぶ賢者と聖女にも聞こえないような囁き声だ。
しかしオークキングはその聴力故か、あるいは唇の動きでも読んだのか、アシュレイと視線を合わせると困ったような表情で首を振り、―――手にした丸太を投げ捨てた。
「ふはっ、本当に武器まで捨てるとはな。―――弓兵、何をしている!? 矢が止まっているぞ! 休まず射掛けろっ! オークキングっ、避けるでないぞっ」
魔物らしからぬオークキングの振舞いに呆気にとられた様子の兵達が、テリーの号令で再び弓を引く。
大通り沿いの建物の屋根の上から数十、数百の矢がオークキング一頭へ向けて降り注いだ。
狙い過たずオークキングの肩に、腹に、胸に矢が突き立っていくのを、奇跡で強化された動体視力が鮮明に捉えた。
ケイの従弟だけあってテリーが突き付ける剣先は小動もせず、アシュレイには固唾を飲んで見守ることしか出来なかった。
「…………魔物なのに、どうして」
聖女が隣で呟いたのは、弓兵達の矢も尽きた頃だった。
グランレイズの軍装と似たようなものなら、弓兵の矢筒には二十数本の矢が入っていたはずだ。百人ほどもいる弓兵が、その全てを打ち尽くしたのだ。
大通りの真中には、オークキングの巨体がなおも聳え立っている。全身に隈なく突き立った矢で緑色の肌はほとんど見えず、巨大なハリネズミか何かのようになって。
「ははっ、やった、やったぞ! オークキングを討ち取った! 父上っ、司祭様っ、ご覧いただけ―――」
テリーの歓声がはたと途切れた。―――針の山が動いていた。
頭部を守っていた腕を下ろしただけだが、それが理解出来たのは強化された視力で全てを見届けていたアシュレイだけのようだ。
次いで、オークキングはぶるっと体を震わせた。矢がぱらぱらと抜け落ちていく。
「……オ、オークキングとは、これほどまでの化け物なのか」
テリーが呆然と呟く。
体中にほとんど余すところなく矢傷を負いながらも、オークキングは健在だった。ぶ厚い筋肉と脂肪が、深部への矢の侵入を阻んだのだ。
―――いや、さすがに“健在”とはいかねえか。
オークキングはアシュレイ達へ向けて、口元を歪めて見せている。
それがオークなりの笑みであることが、今ではアシュレイにも理解出来る。―――やせ我慢の笑みであることも。
異常発達した筋肉が傷口を締めて出血を抑えているが、しきりに血を噴いて止まらない箇所がいくつもあった。深々と突き立って抜けない矢も何本もある。
如何にオークキングと言えど、紛うことなく重傷だ。
「い、いかがいたしましょうかっ!?」
「―――くっ、オークの苦手といえば炎と相場が決まっている。火炙りにしてやれっ!」
テリーは兵の問い掛けに気を取り直すと、指示を飛ばした。
すぐに松明が用意され、兵士達はそれを手に恐る恐るオークキングへと近寄っていく。
「ぬぐぅっ」
突き出た腹へ炎が押し付けられ、オークキングの豚面からくぐもった声が漏れる。
賢者の“三十六重火焔砲”を受け切り、最大威力の“壱百八重火焔砲”にも一時耐えたオークキングだ。松明の炎程度は大した痛手にはならないはずだ。―――だからこそ、苦痛は長く続くことになる。
やがて香ばしい匂いと煙が広場に満ちていく。食欲を誘う香りは、それ故に吐き気をもよおさせる。
「何であのオークは、ああまでされて大人しくしているんだ? まさか、勇者様達の言う通り―――」
「しっ、黙っていろ」
「で、でもよ」
そこかしこから上がる兵の戸惑いの声が耳に届く。しばしすると、奇跡の効果が切れてそれも聞こえなくなった。
ジュージュー、パチパチと肉が焼け脂がはねる音だけが、いやに鮮明にアシュレイの耳に残った。
「……も、もうお止め下さいっ! いくら魔物が相手とはいえ、こんなのはあんまりですっ」
音を上げたのはオークキングではなく、意外や聖女だった。髪を振り乱し嘆く。
魔物を擁護する発言は糾弾の対象だろうが、それを指摘する声もない。
台上の司祭達も貴賓席の貴族達も、蒼い顔をしてオークキングを見つめていた。兵は神妙な面持ちだ。
「もっとだ。傷口に松明をねじ込めっ、油をもっと掛けろっ!」
唯一の例外はテリーだった。
聖女の痴態に口の端をつり上げている。そのにやけ顔が―――
「“んー”、“んー”、“んー”」
―――突然爆ぜた。賢者の火砲の魔術の直撃だ。
直後、手枷ががちゃりと外れ、アシュレイの眼前に剣が―――聖剣が現れた。
「くっそ、こいつはあたしが斬りたかったのにっ」
アシュレイは考えるよりも先に聖剣を掴み取ると、のたうち回るテリーを飛び越えて台下へ降り立った。騒然とする兵士達の得物を斬り飛ばしていく。
オークキングも松明をかざしていた兵を一人、また一人と持ち上げては、ひょいひょいと投げ飛ばしていた。完全武装の兵士であるから、すなわち超重量の投擲武器である。一人投げる度、二人三人の兵が巻き込まれていく。
「お前は戦う度に焼かれているな、オークキング!」
「お前がそれを言うか、勇者。そのうち二回はお前の立てた作戦だろう」
柵を一撃で蹴倒したオークキングと台下で合流すると、互いに背中を預けた。
オークの王と勇者が手を組めば、もはや向かうところ敵無しだ。
アシュレイが得物を斬り飛ばした者を、オークキングが優しく昏倒させる。オークキングが力任せに薙ぎ倒した者を、アシュレイが武装を細切れにして無力化する。
決着は、実にあっさりとついた。
残っていた兵は四半鍾(15分)と掛からず潰走し、エルドランド王都から戦力は一掃された。
「……司祭や王族の連中は逃がしちまってよかったのか、オークキング?」
広場には昏倒した兵達と、聖女の“回復”の奇跡で一命を取り留めたテリーだけが残されている。
「ああ。今頃はケイが、ハイオークの兵を率いて色々と手を打ってくれているはずだ。後のことは任せるさ」
「姫将軍様の本領発揮というわけか。まっ、あいつの国だし、あいつに任せておくのが一番だわな。―――で、さっきのはいったいどういうことだ、賢者様? 発動式を唱えていなかったよな?」
アシュレイは肯き返すと、もう一つの疑問を口にする。
「簡単な話だ。“んー”を発動式として、新たに魔術構成を編んだのよ」
「……前に、魔術の効果と関係ない単語を発動式にするのは、めちゃくちゃ難しいって言ってなかったか?」
「そうじゃ。だから有用な三つの魔術―――“火砲”、“解錠”、“召喚”の構成を編むだけで、この数日ほとんど寝ておらん」
「……ははっ、さすが賢者様、よくやるぜ」
いつも通りの眠たげな目を本当に眠そうに擦る賢者に、アシュレイは半ば感心、半ば呆れながら呟く。
魔術言語で編まれた複雑にして膨大な構成を、手枷口枷を嵌められたまま頭の中だけで一から作り上げたということだ。時にアシュレイと雑談などを交わしながら。
「そういうことなら、もう少し早く何とかしてくれても良かったんじゃないのか?」
オークキングが焼けただれた腹や、全身に刻まれた矢傷を見下ろしながら言った。香ばしい、もっと言えば美味しそうな匂いをさせている。
並みのオークなら間違いなく死んでいる傷だ。
強がって平然としているのは、アシュレイ達に罪悪感を抱かせないためだろう。どこまでこの魔物は人が好いのか。
「ふむ。指の一本も斬り落としてくれれば、お主の治癒力の検証が出来ると思ったのだが。まったく、役に立たない連中だ」
「まだ諦めていなかったのかよ。というか、こんな時にやることか」
オークキングが鼻白んだ顔で言う。
「冗談だ、冗談。“火砲”の構成が組み終わったのが、ちょうど今の今での」
「あんたが言うとまったく冗談に聞こえねえよ。―――まあ、何にせよ、助かったぜ。ありがとう。…………んん?」
礼を言うのはこちらの方だと思っていると、オークキングが首を傾げた。
「“解錠”の魔術だけ“んー”で使えれば、後は口枷を外してから普通に発動式を唱えれば良かったんじゃないのか?」
「…………あっ」
どうやら本当に気付いていなかったらしい。オークキングの指摘に賢者のすまし顔が珍しく赤く染まった。誤魔化すように口を開く。
「まっ、まあ、その程度は儂の魔術と比べれば傷のうちにも入るまい。聖女の神聖魔法ですぐに元通りよ」
「い、いえ、私の奇跡は神の御業の代行。魔物には―――」
「オークには効かぬというのなら、試してみればよいのではないか。試すだけならタダだ。それともいくら恩人であっても、オーク相手に慈悲など掛けられぬか?」
「……分かりました。無駄に終わるでしょうが。――――。―――――――」
聖女は仕方ないという顔で、詠唱を開始した。
紡ぎ出される呪文は長く、それはただの“回復”ではなく上位の奇跡を行使しようとする証だった。
「 ―――。―――――。“完全回復”」
やがて詠唱を終え、聖女が発動式を口にする。
“完全回復”は聖女が扱う最上級の回復魔法だ。つまりは人類の行使し得る最高の奇跡の一つである。
“完全回復”をもってすらオークキングの傷が癒えないことを示し、聖女は魔物が神の愛の対象外であることをはっきりと証明するつもりなのだろう。しかし―――
「おおっ、こいつはすごい。聖女ともなると、やっぱり効きが違うんだなぁ」
聖女の杖から発した光がオークキングの全身を包むと、数百と刻まれた矢傷も腹の火傷も、痕跡すら残さず綺麗さっぱり消失した。
「効いたのう」
「これであのメイド達にどやされずに済むな」
「―――そっ、そんなっ。なっ、何かの間違いですっ!!」
聖女の悲鳴が広場に空しく響いた。
次話のエピローグで第一部完結です。
読んでくださった皆さん、ありがとうございます。