第27話 村娘クローリスはオークの王子をそそのかす
丸一日掛けて魔物の森を抜け、オークの住み家―――獣臭い洞窟に連れ込まれた私は、当然深い絶望の中にあった。
思えば不幸の多い人生だった。
両親は真面目で善良な農民であったが、ある年の流行り病であっさりとこの世を去った。二人は持ち前の勤勉さで生涯を通じて開墾に注力し、私に広大な農地を残してくれた。村で―――50戸足らずの小さな村ではあるが―――、一番の田畑だ。それを、他の村の連中に狙われた。
初めは、娘一人にはあまりに広すぎる農地を代わりに使わせて欲しいという話だった。せっかく両親の拓いた土地をただ眠らせて置くよりはずっと良い。村長や数人の男達に対して、私は二つ返事で了承を伝えた。1年目は収穫物の幾ばくかが私の元へ届けられた。2年目にはそれもなくなったが、気には留めなかった。実際に働いた者が作物を得るのが当然と思ったからだ。3年目に、一人での農作業にも慣れた私は農地の一部返還を求めた。村長たちは、すでに自分達の土地だと言って突っぱねた。
それからは村中を敵に回して争うことになった。女達の中には哀れんでくれる者もいたが、実際に手を差し伸べてくれる者はいなかったのだ。―――そうして孤立の果てに、行き着いた先がオークの巣穴だった。
「王子様っ、今お戻りですか? 初陣お疲れさまでした」
「おう」
「……その女は?」
「俺の世話係にもらった。―――絶対に手を出すんじゃねえぞ? 子供を孕んじまったら仕事もままならねえからな」
「へっ、へいっ」
王子と呼ばれているオークは、私を小脇に抱えたままずんずんと洞窟深くへと進んでいく。道中に出会ったオーク達は私に欲望のこもった視線を向けてくるが、その都度自分の物だから絶対に手を出すなと凄んでいく。王子というだけあって、言われたオーク達は従順に頭を下げた。
寄ってたかって犯されることはひとまずなさそうだ、などと安心する気にはとてもなれなかった。このとりわけ巨大なオークが自分に見せる執着が、ただただ恐ろしかった。
やがて洞窟の突き当りに行き着いた。そこが目的の場所だったらしく―――といっても他と特に代わり映えしない洞窟の一画に過ぎないが―――、私はそっと地べたに降ろされた。
「俺の側を絶対に離れるな」
オークの王子は初めて私に対して口を開いた。
「水はそこ。何か食えるようなら、こっちにチーズと干し肉、それに果物もある」
王子がそこかしこを指差して回る。何ら代わり映えしないように思えたが、暗闇に目を凝らすと壁際には水を貯めた甕や粗末な棚のようなものが設置されていた。
王子は言うだけ言うと、棚から干し肉の大きな塊を掴み取った。そして身構える私からは距離を置いて、こちらへ背を向けて座り込んだ。すぐにくちゃくちゃと肉を食む音が聞こえてくる。
時間稼ぎにもならないだろうが、私は水甕の陰に身を寄せた。オークが食欲を満たせば、次にすることは一つだろう。
「……」
しかしその時は一向に訪れず、やがてブヒーブヒーと寝息が聞こえ始めた。それでも私は恐怖に振るえながら、まんじりともせずに一晩を明かしたのだった。
翌日からは王子に連れ回される生活が始まった。王子は言葉通り、極力私を側から離そうとはしなかった。時折戦いなどに赴くこともあったが、そんな時は必ず“雌”のオークに私を預けていくのだ。
王子は私室―――例の洞窟の一角―――にはほとんど留まることなく、一日中ぶらぶらと洞窟内を歩き回った。必然的に同じ人間の女達が犯され、オークの子を孕まされる姿を日に何度となく目撃することとなった。未だ純潔を守れている自身の境遇にほっと安堵しては、自分の事ばかり考える己の浅ましさを責める日々が続いた。
そうして一月も過ぎると、このオークの王子の考えていることが朧気ながら分かってきた。初めは人間の女達が犯されている現場に足繁く通う悪趣味な豚野郎としか思えなかったが、どうやら彼女達を守ろうとしているらしい。
私のことも決して乱暴には扱わない。他のオークが見ている前ではあえて粗略な物言いをしたりもするが、二人きりになるとほとんどかしずくような態度で接してくる。常に側に置かれたのも、他のオークに襲われないためだろう。
「果実を摘みに行きたいのですが」
「おお、わかった」
「それと、水も新しいものに替えたいです。……一度口を付けた器で、甕から直接水を汲むのはやめていただけませんか?」
「お、おう、すまん」
「あと、小刀などありましたら頂けませんか? オークとは違いますから、果実は皮をむいて切り分けて食べたいのですが」
「おお、確かどっかにあったはずだ。探してみる」
私は私で、生意気な口も利くようになっていた。
そんな暮らしが半年も続くと、私はオーク達のおおよその事情にも通じ、かなり踏み込んだ話題も口にするようになっていた。
「いつになったら、掟とやらは廃されるのです?」
「それは、その」
王子は巨体を縮こまらせながら、言葉を濁した。
「女達を救いたいのでしょう? オークの雌に迫られるのは耐えられないのでしょう? ならば掟を変えるしかないではありませんか」
「しかし、掟に関しちゃ父さんは頑なだ」
「ならばいっそ、王を放逐して貴方が王になれば良いのではないですか?」
「い、いや、そんなわけには。それに父さんももう年だから、放って置いてもすぐに俺の代になるさ」
王子は同朋であるオーク達に対して不思議なほどに冷淡さを示すが―――当のオーク達は気付いていないようだが―――、父である王に対する肉親の情だけは断ちがたい様子だった。
「前にも同じ言い訳を聞きましたよ。あれからまた、何人もの女が繁殖場に繋がれました」
「で、でもよ、父さんを放逐すると言っても、腕っ節で俺が勝てるとも限らねえ。もし俺が負けたなら、君も……」
「それは―――」
今度は私が言葉を濁す番だった。同じ女として、囚われの女達を救ってやりたい気持ちはある。大いにある。しかし自分の身を秤にかけるほどの覚悟が定まってはいなかった。
亡くなった父や母のように善良な人間でありたいし、事実そうあったつもりだ。しかしそんな自分を待っていたのは人々の裏切りだった。
自己嫌悪と自己弁護とを繰り返しながら、時は過ぎていった。
好機が訪れたのは、洞窟での暮らしが一年近くにも及んだ頃だった。
その日は一日、洞窟内に落ち着かない空気が流れていた。近くにそれなりの数の人間の騎士団が現れて、王が迎え撃ちに出たのだという。
「―――王子様っ、王様がっ!」
一頭のオークが王子の私室へ駆け込んで来たのは、そんな一日も間も無く終わろうという時だった。王子は私を引き連れて、洞窟内を走る。
「おう、息子よ」
辿り着いたのは王の寝所と定められた一角だ。
王は幾重にも敷いた毛皮の上に横たわり、周りをオーク兵達が囲んでいる。
「傷を負われたと聞きました」
「へっ、俺としたことが下手こいちまったぜ」
王と王子が話し始めると、オーク兵達は寝所を辞していく。私はと言うと、王子の陰に隠れるようにそっとその場に留まった。
「相手は人間の騎士団とお聞きしていましたが」
「おう、人間よ。それも女だ。女騎士ってやつだ。それでちょっとばかり油断しちまった」
「……傷を見せてもらっても?」
「おう」
王は腹部を抑えつけていた手をどけ、あてがっていた布―――どうも元は人間の女の衣類らしい―――も除けた。
「これは」
王子の横から、私もそっと覗き込んだ。王の腹に穿たれた傷は、一見したところ拍子抜けするくらいに小さい。
「―――っ、深そうですね」
圧迫から解放された傷が血を噴き出し始めた。傷口の小ささからは想像できないほど、勢い良く。
「レイピアっつうのか? 細身の剣でな、ほとんど柄んところまでぶっすりとな。まっ、お陰で距離が詰まって、パンチ一発でのしてやったけどな」
「大丈夫なのですか?」
「なあに、しばらく抑え付けてりゃあ血も止まるだろう。お前の姉達を何人か寄越してもらえるか? 交代で頼みてぇ」
「はい、すぐに」
立ち上がり辞去する王子に、私は続いた。去り際に一瞥した王の顔は血の気を失い、緑白いとでも言うべき奇妙な色をしていた。
寝所の周囲には王の身を案じた雌オーク達―――王の娘で王子の姉達だろう―――がすで集まって来ていて、王子は何人か見繕って王の世話を頼んだ。
「……? どうした?」
私室へ戻ると、私は王子にそっと寄り添った。そして耳元に囁きかける。
「好機が訪れましたね」
「好機? 何の話だ?」
「王位を簒奪する好機です」
「―――っ、怪我人の父さんを襲えってのか?」
「ええ、あの様子では王子が負ける心配はありません。それに、―――今なら御崩御されても自然でしょう?」
王子が息を呑んだ。
クローリスはそこまでを一息に話すと、一旦言葉を切って呼吸を整える。
「……おや、何もないのですか?」
例によってアシュレイやソフィアが何か口を挟んでくるかと思えば、何やら合点がいった様子でうんうんと頷き合っていた。
「いやぁ、あんたからはたまに妙な迫力を感じるとは思っていたんだがよ。なるほど、そっちが本性か」
「何を仰います。いたいけな少女が、なけなしの勇気を振り絞った瞬間ではありませんか。―――ねえ、ご主人様?」
「ああ、俺はクローリスが最高に良い女だって分かっているぜ」
何やら誤魔化されているような気もしないではないが、王の言葉にクローリスは上機嫌で話を再開した。