第25話 オークキングは己が半生を語る
初めに感じたのは、飢餓にも近い強烈な空腹感だった。
本能の欲求のままに、邪魔をする“何か”を押し退け、腹を満たした。そうしているといつしか邪魔者はいなくなり、常に口内は餌で満たされるようになった。
その“何か”が同腹から生まれた兄弟姉妹であったと知ったのは、乳離れをしてしばらく経ってからだった。
旺盛な食欲と兄弟達より一回り以上大きな身体に、俺はすぐに次代のオークキングと見いだされ、父王の厳命の下でオークとしては異例の手厚い育児を受けた。実母だけではなく、果ては父王の子を産んだ他の母オーク達の乳をも独占し、多くの兄弟姉妹達が俺一人を育てるために犠牲となったという。
それだけ、俺の誕生は待望されたものだったのだ。
オークキングとハイオークの交配であっても、キング亜種の子供はそうそう生れるものではない。俺は高齢の父王が―――オークの寿命はおおよそ30年と言われるが、父王はすでにその30を過ぎていた―――ようやく恵まれたキング亜種の息子であり、跡継ぎだった。父親である先代のオークキングは、俺をオークなりに実に大事に育ててくれた。
「息子よ」
あるいは
「王子よ」
と、父王は俺に呼び掛けた。
次代のオークキングを生み出すべく30過ぎまで交配に励んだ父王には、当然他にも数多くの子供達がいた。しかし殊更に“息子”や“王子”と呼ばれた子供は俺だけだった。
そも、オークには名前を付けるという文化が無い。いや正確には、失われて久しかった。例の掟ほどに厳格に定められたものではないが、それも初代オークキングから続く慣習の一つである。かつては大仰に命名するではないが、個体を区別し呼び付ける記号ぐらいはそれぞれに有していたという。それも王権確立のための施策の一つだったのだろう。「王」とその血を引く「王子」だけが至尊であり特別。他の者はその他大勢でしかないという思想だ。
そんなオーク世界であるから、王子に選ばれた俺は下にも置かない扱いを受けた。
「へへっ、王子様、こちらをどうぞ」
「王子様っ、お召し物を作らせて頂きました」
雄オーク達は狩猟による獲物や、おそらく人間の村から強奪したと思しき食料の類を、雌オーク達は手ずから拵えた服飾品などを足繁く運んでくる。要は雑に焼かれた肉であったり、毛並みが異なるだけの毛皮の腰巻きに過ぎないわけだが、見様によっては純朴で微笑ましい光景だ。
しかし物心付いた頃には、不思議と俺の目にはオークは醜悪な化け物としか見えなかった。だからほとんど王宮―――人間にならってそう呼んでいたが、実際には単に住み家である洞窟の最奥部に過ぎない―――に籠り、極力オークとの接触を避ける生活を送った。もちろん俺自身がそのオークであり、子供ながらにすでに大人達と変わらぬ巨体を誇る化け物そのものだったわけだが。
とはいえ、王宮内にもオークの姿は当然ある。俺の姉達だ。男兄弟はキングではないと判断が下されるや王宮から退去させられたが、姉妹達は未来の俺の妃として留め置かれているのだ。
やがてオークでは成人とされる三歳が近付いてくると、彼女達は俺を篭絡しようとすり寄ってくるようになった。一頭の姉など、俺の部屋―――と定めた洞窟の一画―――にずかずかと当然という顔で入り込んできた。そんな時、俺は人気のない場所を求め、巨体を縮こまらせ洞窟内を彷徨った。
姉からの逃走の果てに、その場所へ辿り着いたのはただの偶然だった。いや、肉と肉がぶつかり合う音やくぐもった嗚咽、立ち込めた獣臭を、オークキングの鋭敏な五感は遥か彼方から感じ取っていたはずだ。我知らず、導かれたのかもしれない。
存在こそ知れど俺が初めて足を踏み入れたそこは、―――オーク達からは繁殖場などと呼ばれる場所だった。
緑色のごつごつとした塊が、柔らかな白や薄桃色にのしかかっていた。壁際には、鎖につながれた柔肌が膨らんだ腹を晒している。
ややあって、俺はそれが人間の女達であることを理解した。それは洞窟の最奥でオーク達の手厚い加護の元に生きてきた俺が目にした、初めての人間達だった。
「こ、これは王子様」
オーク達の一頭がようやく俺の姿に気付いた。
「王子様、こんなところにいったい何の用で?」
オーク達全員が、性交を切り上げ俺の元へと集まって来る。俺は吐き気を催すほどの嫌悪感に包まれた。
視線を背けた先に、オークから一時解放された人間の女達がいた。悪の首魁でも見るような、憎悪の籠った視線を俺に向けてくる。いや、彼女達にとって俺は紛れもなく悪の首魁なのだ。
対して俺は、泥とオーク達の体液に塗れた女達を―――
「―――美しい」
「……ん? 何か言いましたか、王子様?」
俺は魅了されていた。醜悪なオークとは違い、美しく守らねばならないその存在に。
美しいなどと言う感情を抱いたのも、守りたいと思うほど何かに価値を見出したのも、この世に生を受けて以来初めてのことだった。
「あっ、王子様っ」
様々なものが胸の内を過り、俺は逃げるようにその場を去った。自室で待ち受けていた姉オークも追い返し、数日、一人きりで混乱する頭の中を整理した。
「―――父さん、オーク達が人間の女を犯すのをやめさせてください」
そして父王に思いの丈をぶつけた。
「ん? どういうことだ?」
心底不思議そうに問い返す父王に、俺は情に訴える言葉を飲み込んだ。
動物が可哀想だといくら説いたところで、肉を食らうのをやめる人間などそうはいない。オークにとって人間の女を犯すということは、それぐらいに当たり前の行為なのだ。
「……雌のオークがあぶれる今の状況では、意味があるとは思えません。オーク同士で子を生むようにした方が効率的ですし、人間の軍に追い立てられることもなくなります」
「ははっ、お前は俺の息子だとは思えねえくらい、賢いな。……ええと、こういうのを何と言うんだったか?」
「……トンビが鷹を生む、かな」
俺は頭の中から一つのフレーズを捻り出した。
「おお、確かそんなんだったなっ。ははっ、本当に賢い賢い」
実際には “トカゲが竜を生む”が正解だったが、当時の俺達にそれを知る術はなかった。父王は嬉しそうに、大きな手で俺の頭を撫でた。
間も無く成人を迎える俺の身体はすでに普通のオークより一回り大きいハイオーク並みで、父王はそんな俺よりさらに一回り大きい。傍から見る分には怖気をふるう光景だろう。
しかしやはり親子であり、可愛がられてきたという記憶もある。俺と同じくオークの中でもとりわけ強面のこの父王に対しては、他のオークに対するほどの嫌悪感も湧かないのだった。
結局、父王は上機嫌に笑いながらも首を縦には振らなかった。初代オークキングの定めた掟は絶対ということらしい。
その日から俺は、嫌悪感に耐え、可能な限り洞窟内を歩き回るようにした。俺が姿を見せている間、オーク達は凌辱の手を休め歓待に努める。焼け石に水だが、女達を少しの間だけ責め苦から解放することは出来る。
そんな俺の気持ちなど知らずに、女達はやはり悪の首魁を見る目を向けてきた。オークの所業を思えば、それも当然。俺は甘んじてそれを受け入れた。
王は一息にそこまで話しきると、一呼吸を入れた。待っていましたとばかりに、賢者が口を開く。
「不思議な話だの。オークに生まれながらオークを醜く感じ、初めて見た人間を美しいと感じるとは」
「……他のオーク連中にもオークよりも人間の女を好む奴は多いぜ」
「しかし他のオークには、人間の女を生殖の対象として来た長い歴史があるのであろう? お主のようにオークの雌に発情しながら、それでもなお人間の女を美しいと感じるものかの?」
「ああー、それはだなぁ」
王は言葉を濁した。
実際の理由ははっきりしている。人間の女達が凌辱される現場に直面したことで、それまで漠としたイメージでしかなかった前世の記憶、―――この世界とは別の世界で、普通の人間として生きた記憶が、現実の思い出として王の中で蘇ったためだ。
しかし前世に関して話したところで、果たして理解を得られるものだろうか。
かつてクローリスにそれとなくほのめかしたことはあったが、まるで理解されない様子だった。この世界の人間が信仰する聖心教の教義には、輪廻転生と言う考えは含まれていないためだ。死後、“その人”の魂は“その人”のまま神に召される。救世主は死後1巡(7日)で蘇り、聖人や聖女の中には“蘇生”の奇跡を発現させた者もいるというが、あくまで“その人”が“その人”のままに生き返るだけだという。ティアやドワーフのリアンによると、亜人達の信仰でも魂は“精霊”や“御山”に帰るという考えらしい。
「―――別に、そんなことは珍しくもないんじゃないか?」
思い悩んでいると、図らずも勇者が助け舟を出してくれた。
「人間でもいるぜ。美女は美女と認識してるくせに、幼女や、それどころか男の子に発情するような男なんてのがな。女でも美男子よりもハゲやデブに興奮する奴もいれば―――」
勇者はそこで言葉を切って、ちらと背後を―――ケイを見やる。
「―――デブな上に豚面で、肌は緑色の化け物に惚れる王女様、なんて変なのもいるしな」
「何か文句でもあるのか?」
「いんや、ただ事実を口にしたまでさ。へっ、変なのって自覚はあるみたいだな?」
「貴様っ」
「―――お静かに」
クローリスが、ぱんぱんと手を打って場を制した。
「そろそろ私とご主人様の運命的な出会いのシーンですから、皆様、私語は慎まれますように。―――さあ、ご主人様、続きをどうぞ」
「おう」
クローリスににこやかに先を促され、王は再び口を開いた。