第19話 勇者アシュレイは後宮の闇を見る
「っと、あぶね」
アシュレイはさっと身を翻し、階段の踊り場に身を潜めた。
「……?」
階下では、クローリスがしばし怪訝そうに周囲を見やり、やがてこちらへ背を向けて移動を再開した。
他の二人のメイドとは違い武術や冒険の素養は無さそうだが、妙に勘の鋭い女だった。
―――オークキングや後宮のことが知れたけりゃ、クローリスに聞け。
聖剣と引き換えに―――当然譲り渡したわけではないが、金床に乗せて金槌で叩いたり、火にくべたり、聖女が見たら卒倒しそうな荒々しい見分を受けた―――、リアンから聞き出した言葉である。
後宮の古株で、後宮を含めこの城を設計し、実際にオーク達を監督して建築したのがリアンである。詳らかな事情を知らぬはずもない。しかしそれを話す権利があるのはクローリスだけだという口振りだった。リアンこそがオークキングの情欲を一身に注がれる犠牲者なのではないか、というアシュレイの質問は一笑に付されている。
ほとんど振り出しに戻ったようなものだった。オークキングを傷付けた三人―――とりわけ自分は嫌われている―――がクローリスに尋ねたところで、実りのある話が聞けるはずもない。アシュレイは坑道探索を切り上げ、それから3日間、クローリスの後を付けて回っていた。
「……やっぱりまたあの部屋か」
物陰から覗くと、クローリスは廊下の突き当りに位置するドアへ向き合っていた。静かにノックをし、幾分緊張した面持ちで室内へと消えていく。
朝昼晩の3回と、日によってはさらに数回、クローリスは後宮の一階の片隅にあるその部屋を訪れている。そして長い時には1鍾(1時間)以上も出てこない。
これまで特に気に留めることもなかった何の変哲もないドアの一枚であるが、意識してみると気付くこともある。廊下に等間隔に並ぶドアが、そのドアの手前だけ2つ欠けていた。つまり3部屋ぶち抜きの大部屋ということだろう。この後宮は厨房や倉庫、果てはオークキングの居室すらも同じ規格で揃えられているから、唯一の例外ということだ。―――間違いなく何かが、あの部屋にはある。
アシュレイは階段まで戻ると、不自然にならないように行きつ戻りつしながら時間を潰した。待つのも斥候の仕事の内だ。
後宮内は日中ほとんど人通りが無い。他者との交流を求める者は屋上に出て教会や庭園で過ごしているし、一人きりで部屋に籠る者は当然姿を見せない。誰と行き会うこともなく、時間だけが過ぎていく。
「あら、勇者さん」
「よう、メイド長」
およそ1鐘後、階段を登って来たクローリスと、アシュレイは対面した。
クローリスはオークキングを焼き尽くした賢者に対しては“ソフィア”と名前で呼び掛けるのに対して、自分は“勇者”のままだ。やはり嫌われている。
「……」
「……」
そのまま、何食わぬ顔で軽く会釈だけ交わしてすれ違い、1階まで降りる。
「よし、行くか」
この3日間、クローリスは今時分―――昼過ぎ―――にあの部屋を辞去したなら、夕刻まで再び訪れることはなかった。今が好機だろう。
これまでは眺めるだけだった。突き当りの部屋であるから、意味もなく近付くのも不自然なのだ。しかし決めてしまえば後は行動に移すだけだ。アシュレイは小走りで廊下を駆け抜け、目的のドアの前で一呼吸入れると、そっと押し開けた。
―――救護院?
室内に足を踏み入れ、まずぱっと思い浮かんだのはその言葉だった。
奥の壁沿いにずらっと寝台が並んでいた。天井から吊るされた幔幕で左右は一応区切られているが、ドア側からは毛布を被った人の足元が覗いている。救護院―――神聖魔法の効果が薄い病人などを収める聖心教の施設―――に雰囲気は似ていた。
足音を殺して近付き、一番端の寝台を覗き込む。想像通りというべきか、寝間着姿の女が一人横たわっていた。
身綺麗にしているが、何やら生気に欠ける印象の女だった。横になっているだけで眠ってはおらず、視線をゆらゆらと彷徨わせている。虚ろな瞳にアシュレイの顔も何度か映り込んだが、それで何か反応を示すわけでもない。
「……」
隣の寝台へ向かうも、やはり同じような女が同じように横たわるだけだった。さらに隣へ足を向ける。
「あら、クローリス。また来てくれたの?」
三人目は場違いなくらいに明るい声で迎えてくれた。寝台の上で上体を起こし、にこにこ朗らかに微笑む。
「いや、あたしは―――」
「そうだわ、クローリス。私、赤ちゃんのために編み物をしたいのだけれど、毛糸が手に入らないかしら?」
クローリス、クローリスと、女はしきりにアシュレイへ呼び掛ける。
「あら、もう行ってしまうの、クローリス?」
何となく居たたまれない気分で、アシュレイはそそくさと隣の寝台へ移動した。
4人目はやはり虚ろな目で涎を垂らし、5人目はアシュレイを見るや頭から毛布を被ってしまった。6人目は死んだように眠り、7人目は饒舌に喋り、8人目と9人目は何かに酷く怯えた様子で丸くなって震えていた。
「……ちっ、あの野郎、何がチ〇ポが立たないだ」
オークキングに慰み者とされた女達の、成れの果てということだろう。
沸々と怒りが込み上げてくる。本当に討つべき巨悪なのか、ほんのわずかにでも疑問を覚えていた自分に腹が立つ。
そして10人目―――最後の寝台の前にアシュレイは至る。
「……ケイ?」
知った顔に、思わず声が漏れた。
その女はあの無愛想で剣呑なメイドと同じ顔で、アシュレイを見上げると嫣然と微笑んだ。
「あら、お客様? どなたかしら? こんな姿でごめんなさいね」
寝間着姿を恥じるように、女が身を竦ませる。
顔付きはやはりケイ本人としか思えないが、よく見れば別人だった。
青みがかった黒髪の色艶はそっくりそのままだが、短く切りそろえたあのメイドとは異なり、毛先は胸元まで掛かっている。何よりも体付きが違う。両者ともに痩身だが、熟練の冒険者もかくやというケイの引き締まった肉体に対して、この女はただの痩せぎすという感じだ。
―――何にせよ、会話が成り立つ相手ではあるようだ。
「あたしは、アシュレイってもんだ。あんたは?」
「ジョーと申します」
「ジョーか。ジョー、ここにはいつから?」
「さて、私、ここで暮らしてどれくらいになるのでしたっけ? 」
ジョーはお上品な感じに小首を傾げる。他の女達よりはしっかりして見えるが、やはり記憶は不明瞭なのだろう。
「生まれはどこだ?」
「エルドランドです」
「そっか、お隣さんか」
今度の質問には、ジョーは間髪入れず答えた。エルドランドはオーク王国の隣国である。
「……ん? エルドランドのジョーとケイ?」
ジョーもケイもどこにでもいる、男にも女にもありふれた名だ。しかし“エルドランドの”と枕詞を付ければ、途端に特別な響きを帯びる。
オーク王国の隣国であるから、当然エルドランドも魔界と境を接し、魔物の侵入が絶えない土地だ。南方諸国の常として、終わりの無い戦が人々を苛む中、エルドラドにはかつて民の心を奮い立たせる武名が二つあった。いや、二人で一つの武名だ。グランレイズまで鳴り響いたその名は―――
「―――エルドラドのお隣? するとここはソルガムなのですか?」
ジョーの問いが、アシュレイの思考を遮る。
ソルガムとはオークキングによって滅ぼされた国―――つまりはかつてこの土地にあった人間の国である。オーク王国の名など出して、下手に刺激する必要もない。アシュレイは軽く肯き返した。
「そうだ」
「―――っ、ああっ!」
ジョーが突如泣き崩れた。ほとんど悲鳴に近い声で泣き叫ぶ。
「お、おいっ、大丈夫か?」
「い、いやっ、近づかないでっ! 私にさわらないでっ!」
先刻までの柔和な雰囲気は何処へやら、ジョーは幼子のように首を振り振り泣きじゃくる。やがて悲痛の叫びは、他の女達にも波及していった。
ジョーと同じく泣き喚く者、表情も変えずただただ涙を流す者、ひきつけを起こしたように体を跳ね回らせる者。10人全員に共通しているのは、この世の全てを拒絶するような絶望の表情だ。いったいどれほどの地獄を見れば、人がこんなにも壊れてしまうのか。
「―――オークキングっ」
憤怒が込み上げてくる。あの豚の王を叩き斬ってやらねば、煮えたぎる血にこの身を焼かれそうだ。そう、今すぐにも―――
「……貴様、ここで何をしている?」
ドアへ向けて駆け出しかけた足が、その場に凍りつく。その静かな声は叫喚の中にあって不思議なほど良く通り、熱く滾るアシュレイに冷水を浴びせかけた。
「―――っ、ケイ!」
一つきりの出入り口からぬっと姿を現したのは、今度こそ間違いなく無愛想メイド本人であった。