第17話 勇者アシュレイは仲間達と駄弁る
「“熾火”」
賢者の杖の先から発した炎が、水を張った金属製のティーポットの中に沈んでいく。
お得意の火砲ではなく、その場に停滞し燃え続ける炎の塊だ。それは水の中にあってなお変わりない。
ティーポットの底に沈んでいた黒褐色の粉末が、沸々と揺れる水面へと舞い上がるのを見つめながら、勇者―――アシュレイは口を開いた。
「その発動式ってやつはさ、もっと全然別の言葉に変えられないもんなのか?」
「?」
賢者が小首を傾げる。いつも重たげな目蓋がやや見開かれているのは、こちらの話に興を引かれている証拠だ。
発動式とは、魔術言語で編まれる魔術の構成の中に組み込まれた一節である。魔術師はその発声をもって術を行使する。魔力を現世に作用させるために必要な手続きであり、ゆえにその部分だけは現世の言語―――つまりはアシュレイ達が普段話している言語が用いられる。賢者が先程口にした“熾火”というのがそれに当たる。
「例えば賢者様はさ、火の玉を撃ち出す魔術はいつも“火砲”って言って放つけど、他の魔術師が“火球”とか“火弾”とか言って同じ魔術を使うのを見たことがある。門派や術者によって異なるんだろ?」
「うむ。儂の場合、基礎的な魔術に関しては両親から教わった魔術構成をそのまま用いておるの」
「そうか。親父さんとお袋さんの、形見みたいなもんになるのか。それじゃあ、おいそれと手を加えるべきじゃないな」
「死んでおらんぞ」
「―――ああっ、そうだったか。あたしがぶん殴っちゃったもんだから、絶縁状態なだけだったっけ」
「ふふっ」
賢者が小さく微笑む。
賢者の親の話題が出る度にする、定番のやり取りだった。実に典型的な塔の魔術師である二人は、在野の魔術師を見下し、塔が生み出した最高傑作の呼び声高い娘を誇りとしていた。その娘が在野の魔術師の最たる存在である冒険者になると言い出したのだから、反発は凄まじかった。アシュレイも交えての家族会議が行われ、冒険者を悪し様に貶す言動に業を煮やしたアシュレイは実力行使の末に二人を昏倒させると、賢者の手を取って塔を出奔したのだった。
「じゃあさ、別に変更してしまっても良いわけだろう?」
「そうだの。しかし発動式というのは魔術構成のかなり根深い部分に組み込まれておってな。それを変更するということは全体の構成そのものにもかなり手を加える必要がある。すでに先人が編み出した魔術をわざわざ構成し直すというのは、実りの無い話ではないか?」
「例えば氷と言って炎を出したり出来れば、人語を解する魔物相手には良い不意打ちになるんじゃないかと思ってさ」
「ほう。なるほど、それは面白いかもしれんの」
賢者が目を完全に見開く。
「しかし、あまり現実的な話ではないの。言った通り発動式は魔術構成の根底近くにあるし、現世に干渉するために発する言葉であるから、そこに込められた意味も大事でな。そうじゃな―――」
賢者が顎に手を当ててしばし目を細める。いつもの眠そうな目というわけではなく、思案顔だ。
「ふむ、家に例えようか。“火砲”を“火球”に変える程度なら、土台の色が変わる程度の話で、その上の家屋―――炎を撃ち出すための魔術構成そのものには大差ない。しかし“火砲”を“氷槍”に変えたなら、土台が滑り台にでもなったようなものでな。もはやよほどいびつで複雑な形に家屋を構築せねば、その用を為さん」
「ちぇっ、良い考えだと思ったんだけどなぁ」
そこでティーポットのお湯が完全に沸き立った。計ったように―――というよりも実際に計算の上なのだろう―――“熾火”の魔術も効果が切れる。
賢者はしばし待って黒褐色の粉が底へ沈んだのを確認すると、上澄みをカップ2つに注ぎ、一方を差し出してきた。粉末の色が移り、カップに注がれた液体は毒液のようなおどろおどろしい色をしている。
「うへっ」
一口飲み下すと、強烈な酸味と苦みに舌がよじれ、情けない声が漏れた。賢者は憎たらしいくらいにしれっとした顔で、ちびちびとカップを口に運んでいる。
「―――き、聞きましたかっ、勇者様、賢者様っ!」
その時、聖女が―――礼儀正しい彼女にしては珍しくノックもせずに―――部屋に飛び込んできた。
「……お主もやるか?」
勢い込んで駆け付けたは良いものの、息も絶え絶えの様子で二の句を告げずにいる聖女に、賢者が問う。屋上庭園の教会からこの場所―――後宮の最下層に与えられた賢者の私室―――まで全力で走り通してきたのだろう。
聖女は湯気を立てるカップの中身を一瞥すると、とんでもないという顔でぶんぶんと首を横に振った。
「そう毛嫌いするものでもないと思うがの」
コーヒーの木の種子を焙煎し粉砕したものから抽出した飲料―――つまりはコーヒーである。
大陸南方では昔から細々と飲まれていたらしいが、グランレイズで出回るようになったのはここ十数年と、比較的歴史の浅い飲み物である。ちょっとした酒場の葡萄酒3杯分くらいは値が張るから、今でも一般人が口にすることはあまりない。
しかしグランレイズでも例外的に塔の魔術師だけは、かなり昔からこの飲料を嗜んでいた。コーヒーの原産は“魔物の森”と言われており、故に古くから研究用に仕入れていたという。やがてそれが、ある種の薬湯として塔の魔術師たちの嗜好に合致し、愛飲されるに至ったらしい。一方で聖職者達には、魔界原産ということで当然嫌われていた。
賢者に振る舞われ、アシュレイは数年前に初めてコーヒーを口にした。当時、そして今でも、苦くてどす黒い毒液の類としか思えない代物だが、たまに無性に飲みたくなる。
この地はコーヒー飲用の長い歴史がある南方であるから、メイド達に頼めばいつもの紅茶の代わりにもっと上等の物を用意してくれるかもしれない。しかしアシュレイが飲みたくなるのは、賢者が入れる薬効のことしか考えていないようなきつい一杯だった。
「―――ふぅ、二人とも、お聞きになりましたかっ?」
コーヒーの代わりに賢者が差し出した水を一息に飲み干し、ようやく呼吸を落ち着けた聖女が改めて切り出す。とはいえやはり興奮気味な様子で、質問は要領を得ない。
アシュレイは賢者と顔を見合わせ、とりあえず口を開く。
「あのメイド達の中で、実はあのハーフエルフが一番年上だって話か?」
「いや、オークキングがドラゴンを退けたことがあるという話ではないかの?」
「えっ、マジかよ」
「うむ、マジじゃ。オークキングの奴は自身の武勲話となると途端に口が重くなるが、古参のオーク兵達から複数の証言を得ておる」
「あの野郎、竜殺しだったのかよ。あたしだってまだだってのに」
「いや、どうやら殺したというわけではないらしいの。棍棒、というよりも丸太ん棒じゃな。丸太ん棒で殴り続けるうちに、逃げ出していったそうな」
「あの気位の馬鹿高いドラゴンが逃げ出すって、そりゃあ下手すりゃ殺すより―――」
「―――そんな話ではなくっ」
脇道に逸れて盛り上がる会話を、聖女が遮る。
「オークキングが、先日の村にオークの兵を送り込んだという話ですっ。それも聞けば今回が初めてではなく、魔界に近い村はすでにいくつもオーク兵の駐屯を受け入れさせられているというのですっ! あの村の方々はこれまで拒んでいたそうですが、オーガからの防衛を理由についには強引にっ」
「……ふむ。それに何か問題があるのかの? つまりは魔物の侵攻の最前線の、真っ先に狙われかねない村に、防衛兵力を駐屯させたということであろう? 当たり前の配置だし、村にとっても良いことではないかの?」
「兵力と言っても、オークなのですよ? オーガに襲われたばかりだというのに、今度はオークが村に居付くなど。住民の皆さんの恐怖と悲嘆はいかばかりか」
「しかしこの国におった貴族やら騎士やらは排除され、今やオークに取って代わられておるわけだしの。オークキングとしても動かせる兵力はオークしかおるまい」
「で、でしたら、人間の傭兵を雇うであるとかっ」
「ふむ、果たしてオークに雇われてくれるものかのう? それにお主も知っての通り、傭兵と言うのは冒険者以上に質が悪い連中が多いからの。オークキングの厳命を受けたオーク兵の方がよほど規律正しいし、何より戦力になるぞ」
「オークであること、それが問題なのですっ」
聖女が熱っぽく、賢者が淡々と議論を交わす。
どちらの言い分も理解出来る。そう感じた自分にアシュレイは驚いた。この国に訪れたばかりの自分であれば、聖女に全面的に同意していただろう。まだあの日から、一月余りしか経ってはいない。
「賢者様は、人の御心と言うものが分かっておりませんっ」
「儂が言うのも何じゃが、まずは人命を優先すべきであろう」
賢者の言葉にも少々熱が籠もり始める。
「―――ごちそうさん」
アシュレイは冷めかけたコーヒーを一息に飲み干すと、小声で礼を言ってそっと椅子から腰を上げる。
そろそろ議論に結論を下すべく、自分に水を向けてくる頃合いだ。どちらに味方しても面倒なことになりそうだった。足音を忍ばせ、白熱する二人に気取られず部屋を抜け出した。
そのまま、元々の目的地を目指し後宮の廊下を進む。やがて整然とした石造りの床が途切れ、ぽっかりと暗い穴が口を開く場所へ出た。
「よし、行くとするか」
賢者の私室を訪れたのは、一冒険する前に気付けの一杯を所望するためである。
アシュレイは闇の中へと、一人足を踏み入れた。