第12話 聖女カタリナは思い悩む
「聖心のままに」
「―――聖心のままに」
聖女―――カタリナが神の愛を語り終え、最後にお決まりの聖句を口にすると、礼拝堂に集った女達が唱和した。
屋上庭園の一角に建てられた聖心教の教会である。
オークの居城にはいたく場違いの施設だが、後宮の住人には神官も含まれていたし、信仰の程度に差はあれ大陸に生きる人間はほぼ例外なく聖心教の信徒である。表面上は女達に寛大な態度を示しているオークキングならば、教会の建設を拒みはしないのだろう。
聖心教から聖人認定を受けた17番目の聖女であるカタリナは、信徒たちに乞われてこの教会の主となった。
聖人および聖女は奇跡―――神聖魔法のことではなく文字通りの―――の発現をもってその称号を授けられる。カタリナは12歳の時に神聖魔法では不可能とされる死者の蘇生を実現し、以来聖女としての活動を続けてきた。死者の蘇生は都合2度―――親代わりであった神父の死に際して一度、噂を聞き付けた教皇の前で一度―――成功したのみであるが、教会屈指の治癒魔法の使い手として多くの命をカタリナは救ってきた。それが自分の使命であると思い定めていた。
だからそれまでにも何かと縁があった勇者と賢者から、オークキングに支配された国を解放して民を救う手助けを頼まれた時にも、一も二もなく請け負ったのだ。
「皆さん、この呪われた城より出ましょう」
「……それは」
説法を終え、まだ教会に残る信徒たちに語り掛けるも、煮え切らない反応が返ってくる。
「何故、この場に留まり続けるのですか? オークキングは確かに今のところ皆さんへの手出しを控えているようですが、偽りの仮面はいつまでももつものではありません。いま逃げねば手遅れとなります」
「……聖女様は、オークに犯されたと噂を立てられた者がどのような扱いを受けるか、お知りにならないから」
「偏見はあるでしょう。しかし、そんなものを恐れるあまり現実に貴方達がオークの毒牙に掛かるなどと言うことになれば、主がどれほどお悲しみになられるか」
「……」
女達は目を伏せ押し黙った。いつものことだ。皆、説法には熱心に耳を傾けてくれると言うのに、カタリナの必死の呼び掛けが心に響く様子は見られない。
結局、カタリナは今日も色よい返事を聞くことなく、信徒たちの背中を見送ることとなった。
「はぁ」
教会の扉を閉め、天を仰いだ。
自然と、礼拝堂の最奥に掲げられたT字架が目に入る。磔にされている救世主様の像は、天窓のステンドグラスから射す後光を受けて、今は暗い影にしか見えない。
「―――よっと」
声に視線を下げると、勇者が長椅子から身を起こしたところだった。
横2列、縦8段に並んだ長椅子の最後尾だ。どうやらカタリナが説法をしている時から、そこへ寝転んでいたようだ。
「……勇者様」
額に手を当て溜息をこぼす。
「ははは。大丈夫、他の女達には気付かれてないよ」
一応、協会が認定した“勇者”の称号持ちの体面を気遣ってはくれたようだ。
勇者は聖心教の敬虔な信徒とは言い難かった。元々冒険者と言うのは神官による奇跡の恩恵を最も受ける人種でありながら、便利な道具程度にしか考えていない者も多い。勇者にもその傾向はあって、かつてはカタリナも必死に神の愛を語って聞かせたものだが、今はもう諦めている。熱心な聖心教の信徒ではなくとも善良で、高潔ではなくとも人一倍正義感は強い。それで十分彼女は勇者らしい。
「――――。“回復”」
「おっ。ありがとう、助かる」
カタリナは短い詠唱で発動出来る基礎的な神聖魔法を行使した。
最近の勇者は与えられた自室や坑道で修行でもしているようで、今日もいつものプレートアーマーは泥に塗れ、ところどころに小さな擦り傷をこさえている。回復魔法は傷を癒すのみならず、トレーニング後の筋力の増強にも効果を発揮する。
「しっかし、説得の方は苦戦してるみたいだなぁ」
「熱心な信徒の方たちが多そうですから、もっと上手くいくと思ったのですが」
一般的に信徒達は1巡に1度―――創造主様が7日で世界をお創りになられたことから聖心教では7日間を1巡と定めており、この慣習は教会だけに留まらず大陸社会に深く浸透している―――、教会を訪れて礼拝する者が多い。しかしこの後宮ではほぼ毎日朝夕の礼拝に参列する者も少なくなかった。単純に他にすることがないというのもあるのだろうが、信仰が魔窟での暮らしの縁ともなっているのだろう。
「―――失礼っ」
そこで、ばたんと無遠慮に教会の扉が開いた。慌ただしく飛び込んできたのはオークキングに従うメイドの一人、ケイだった。
勇者が長椅子からわずかに腰を浮かせて身構える。半裸同然の使用人服という冗談のような格好をしているが、勇者に言わせれば相当な手練れだという。
「回復魔法を使える者は、―――っ、貴方達だけですか」
「これ以上ない適任者ではないか」
ケイの背後から、賢者がひょいと顔を覗かせた。
「賢者様、何かあったのか?」
「この国の辺境にある村がオーガに襲われたらしい。オークキング自ら救援に向かうらしいが、村の住人を癒すために回復魔法の使い手を連れて行きたいのだそうだ。今、クローリスが馬車の手配をしておるが―――」
「―――わかった。すぐ行くよ」
求められているのは神官であるカタリナのはずだが、答えたのは勇者の方だった。
「聖女様も、構わないよな?」
「ええ、もちろんです」
「ふふっ、そう来なくてはな。そうでなくてはお主らではない」
賢者が珍しく愉快そうに笑い、その隣でケイが嫌そうに眉をひそめた。
「もちろん儂も同行させてもらおう。聖女よ、少々教会の片隅を借りて良いか。荷物を置いていきたい」
「ええ、それは構いませんが。―――いったい何をそんなに?」
改めて見やると、賢者は大荷物を抱えている。
「これは、雌オークの体液から錬成した香料」
賢者は両手で大事そうに抱えた木箱を床に下ろしながら答えた。怪しい色の液体が詰まった瓶が満載されており、ガラスとガラスがぶつかり合う危なっかしい音が耳を打つ。
「……オークの体液?」
そんなものを教会に置いておきたくはないが、賢者のことだからオーク避けの呪薬か何かを開発中なのかもしれない。それなら無碍に断るわけにもいかない。
続いて賢者は、背中に負っていた板状のものを数点、教会の壁に立て掛けた。
「そしてこっちが―――」
「―――な、何と言うものを教会に持ち込むのですかっ!」
賢者の言葉を待たず、カタリナは叫んでいた。
「見ての通り、裸婦画だが。人間の女、オークの女、ハイオークの女を描いた三点だの」
「……いったい何のためにこんなものを?」
ぱくぱくと口を動かすばかりで言葉が出てこないカタリナに代わって、勇者が問う。
「オークキングの生態調査の一環よ。今はあの男の性欲が一体何によって刺激されるのか、そんなところを調べておる。そこにちょうど伝令が駆け込んで来ての」
「おいおい、そんなことを調べて、オークキングを倒すのに役立つのか?」
勇者の言葉に、ケイが視線を厳しくする。受けて立つと言うように、勇者は顎を突き出し、ほぼ同身長のケイを見下ろすようにした。この勇者の資質に今や一点の疑念もないが、唯一欠点をあげるなら少々振る舞いが、―――俗な言い方をするなら―――チンピラ気質なところだろうか。
一方でカタリナは賢者の説明の内容自体よりも、オークキングを指して口にした“あの男”という言葉が気に掛かっていた。
―――それではまるで、倒すべき邪悪な魔物ではなく、一個の人格として認めているようではないですか。
睨み合う勇者とケイ、思い悩むカタリナを一切気に留めた様子もなく、賢者は話を続ける。
「さて、どうかのう? しかし倒すというのなら、それこそその前に取れるデータは集めておかねばならん。あの男は大陸に恐らく一体しか現存しない、貴重なオークキングのサンプルだからの」
「……はぁ、まあ良いけどさ」
賢者のあまりにマイペースな様子に、勇者はケイから目を逸らして呆れ顔で肩をすくめた。一度好奇心をくすぐられてしまうと、誰が何を言おうと賢者は止まらない。
「さて、馬車の手配もそろそろ終わろう。さあ、行こうではないか」
「―――そんなものを、教会に残していかないでくださいっ!」
とまれ、率先して教会を後にしようとする賢者にカタリナは叫んだ。