第33話 オークキングは幕を引く
「―――おおっ!?」
軽く“一歩目”を踏み出したつもりが、一息に間合いが詰まり“二歩目”を必要としなかった。
反射的に繰り出した右拳が、ダークオークキングの頬を初めて捉えた。
「ハハッ、やっぱり強いッ!」
十ワンド(10メートル)近くもふっ飛んだダークオークキングは身軽に着地すると、むしろ嬉しそうに笑った。
そして同じく一歩で間合いを詰め、殴り返してくる。
「がはっ!」
奇跡のお陰で動体視力と反応速度も向上しているが、避け切れなかった。速さはまだダークオークキングが上だ。
が、すでにして全身を激痛に苛まれているのだ。むしろ痛みがまぎれて具合が良いくらいだ。構わずこちらも打ち返していく。
「――――っっ! ―――――っ!」
「―――ッ!! ――――ッッ!!」
人語と魔界語で歓声が上がった。
殴り、殴り返され、殴られる。
常にダークオークキングの拳が一手多い。だが戦えている。
右の大振り。丈夫な鼻先で受け止め、アッパー気味に左の拳を突き上げる。
「ぐあッ!?」
ダークオークキングは後方へ数歩よろめいた。
王も先刻強烈な膝蹴りをもらったが、鼻面の長いオークには下からの攻撃が死角となる。見えない打撃は効くと言うやつだ。
視界が揺れるのか、ダークオークキングはぶんぶん頭を振っている。
―――好機。
実戦経験。
それこそ王がこのダークオークキングに勝るものだ。
いや、ドラゴンやグリフォンを狩って生きてきたのだから、難敵との実戦ということなら王以上に豊富かもしれない。足りていないのは、自らを脅かし得るヒト型の生物との戦闘だ。
勇者一行や魔王との死闘を経験した王に比べ、このダークオークキングは祖父や祖母ですら稽古相手にもならなかったのだろう。
大味な戦闘しかしてこなかったから、棍棒が砕けた木っ端を避けるために大袈裟に顔もそむけるし、視界の不調を容易く相手に悟らせるような真似もする。
王はここぞと距離を詰め、拳を振るった。
「があッ!」
ダークオークキングも負けじと打ち返してくる。なおも王より速いが、やはり狙いが定まらないようだ。
二発に一発は空を切ったり、肩や胸の厚い筋肉の上を叩いていく。それでようやく互角の打ち合いとなった。
「クハハッ、強いッ、強いッ! オークはやっぱり強いッ」
ダークオークキングは笑いながら殴られ、殴り返す。
王が、と言うよりもオークという種の強さが心底嬉しく、誇らしくてたまらないのだろう。
必死で食らいつくこちらの気も知らず、ダークオークキングは殴れば殴るほど、殴られれば殴られるほど盛り上がっていく。
終わりの見えない殴り合いが数十合も続き―――
「―――陛下っ、まもなく肉体強化の効果がっ!」
聖女が叫んだ。
気付けば、全身を覆う光が薄らぎつつあった。
奇跡の掛け直し、は無理そうだ。
先刻まであれほど研ぎ澄まされていた感覚が、今はむしろ鈍く重い。手足の指先などまるで死んだようだ。
魔力の暴走が故だろう。これがさらに広がれば、立っていることも困難になる。
「なら―――」
王は拳を引き、腰を割って構えた。つまりは相撲、いや、オーク伝統の鼻相撲の構えだ。
「……ブヒッ」
案の定、ダークオークキングは乗ってきた。鼻を鳴らして笑い、同じく腰を割る。
そして―――
「―――つうっ!!」
「―――があッ!!」
立ち合い、ぶちかました。
鼻先と鼻先でぶつかり合い、そのままがっぷりと組み合う。
「ぐぬぬっ」
「ぬぐぐッ」
骨も砕けよとばかりに鼻面を押し付け合う。
押し切り、鼻先を仰け反らせてしまえば、かつて父王にそうしたように長い牙を喉に突き立てることが出来る。
が、逆に押し込まれた。肉体強化の奇跡を受けてなお、単純な身体能力では勝ち目がない。
「ふんっ!」
押し込まれるままに身を仰け反らせ、ベルトを取って吊り上げた。そのまま突き出た腹の上にダークオークキングの身体を乗せてしまう。
その瞬間、全身を襲っていた激痛が静まり、万能感も消失した。奇跡の効果切れだ。
「ぎりぎり間に合ってくれたな。両足浮かしちまえば、いくらお前でも大した抵抗は出来ねえだろう」
実戦経験以外にもう一つ、王が勝るもの。それはやはり身体の大きさだった。
一度吊り上げて腹に乗せてしまえば、もうダークオークキングの足が大地に触れることはない。あの馬鹿げた脚力も十全には発揮し得ない。
「―――勇者っ!」
「おうっ、そのまま抑えてろっ!」
切り札を切るなら今しかない。
背後へ向き直ると、すでに勇者が王の正面、ダークオークキングの背後に迫っていた。跳躍する。お得意の大上段だ。
「―――ッ」
ダークオークキングは思い切り首を横に仰け反らせた。聖剣は頭頂ではなく肩口へ振り下ろされ、そのまま紫の体を両断―――しなかった。
「おわっ」
肩のぶ厚い筋肉―――僧帽筋に食い込んだ聖剣はそのままそこへ縫い止められていた。反動で聖剣を手放した勇者が地面に尻もちを付く。
「どうなってやがるっ? まるでお前に挟み取られた時みてえだっ」
「―――っ、筋肉で白刃取りをしやがるのかっ」
王すらも超越した高出力の筋肉が、聖剣を左右から絡め取ったということらしい。
「―――がはっ」
ダークオークキングの膝が、あばらに突き刺さる。
この上なく不十分な体勢の膝蹴りに、姉の棍棒の一撃にも匹敵する重さがある。
さらには両肘を滅茶苦茶に振り回し、足をばたつかせる。
「づっ、くうっ、ぶひっ」
普通ならただの悪あがきだが、ダークオークキングにかかれば手打ちの打撃も必殺の威力を持つ。
聖剣を封じられ、このままではじりじりと痛めつけられるばかりだ。
「み、道を開けろーーっっ!!」
切り札はもう一枚残している。
ダークオークキングを吊り上げたまま、足を進める。
足を向けた進路上の兵は、さっと左右に別れて道を作ってくれた。
「お、おいっ、どこへっ!?」
「誰も付いて来るなっ!」
言い置き、前へ。
人垣が割れて出来た道の向こうには、急ごしらえの駐屯地には不釣り合いに立派な建物が見えた。百ワンド余りの距離だ。
「がっ、ぐふっ、」
ダークオークキングの抵抗に晒されながらも駆ける。いや、駆けると言う程の速さはない。相撲で言うところの吊り出しだが、土俵際は遠かった。
打ち落とされる肘鉄に早々に鎖骨が砕けた。骨が皮膚を突き破りぴゅーぴゅーと勢い良く血も噴くが、構ってはいられない。足を進めた。
両の牙を掴まれ、化け物離れした膂力でぐんと身を仰け反らされた。ミキミキメシメシと身体の中で嫌な音が鳴る。
一歩一歩足を進める度に、その振動でさらに全身が軋むのを感じる。
ぶつっと何かが切れるような音がした。靱帯が切れれば歩けず、脊髄が断たれれば命はない。が、幸いにしてすでにだいぶぐらついていた右の牙が根元から引き抜かれただけだった。
のたうち回りたくなるほどの激痛が走る―――はずが、すでに痛覚は曖昧なものとなっている。
むしろ掴まれていた牙が一本減ったことで身体の制御が戻り、いくぶん楽になったくらいだ。
血とよだれをまき散らしながら、一歩、また一歩足を進める。
―――着いた。
建物の重厚な扉にダークオークキングの身体を押し当て、押し開ける。厳かな空間に足を踏み入れた。―――聖堂だ。
「がっ」
肘鉄が脳天に突き刺さり、視界が暗転した。それでも掴んだベルトは離さない。
固定された長椅子が二列。その真ん中が祭壇へと続く通路。
聖女カタリナの教会であるから当然王の巨体を考慮し余裕を持った造りだが、今はよたよたと長椅子に衝突を繰り返しながら進む。
柄杓―――聖杓の形代―――が静置された台に乗り上げ、二体の怪物は諸共に倒れ込んだ。
「―――ッ」
ようやく手足が地面に触れたダークオークキングはすぐさま立ち上がりにかかる。王と違ってまだまだ元気いっぱいだ。
王は左腕でベルトに縋りついて押し留め、右腕は祭壇の奥へと伸ばす。
指先が何か柔らかな物に触れた。夢中で掴み取る。
聖心教の祭壇の最奥には必ず布に覆われた“ある物”が設置されている。T字架、柄杓とともに祭壇を構成する上で最重要の品。巨大な鏡である。
「これでっ、幕引きだっ!」
王はその鏡面を覆うビロードのぶ厚い布―――幕を、引き下ろした。
「何を、―――ッ、がはッ!?」
鏡面に映るは苦悶に顔をゆがめた紫の怪物と一人の人間。
鏡は王の姿をそのまま映すのではなく、その魂を映していた。そう、この鏡は形代ではなく、本物の聖鏡なのだ。
―――聖鏡。
聖心教に伝わる八つの神器の第一。その鏡面に映った“造物主より分け与えられた魂”を抜き取る力を持つ。
「ぐうぅッ」
ダークオークキングは胸を押さえ、膝から崩れ落ちた。
何か察するところがあったのか、這うようにして鏡の正面から逃れようとする。
「逃がすかっ」
「がああぁッッ!」
しがみつく王を我武者羅に暴れて引き離しにかかる。
魂にも大きさ、強さと言うものがあるのか。かつて教皇の命を一瞬で吸い上げた聖鏡に、ダークオークキングはつかの間、抗ってみせた。
しかしそれも、時間にすればほんの一瞬。すぐに抵抗は弱々しいものとなり、荒れ狂う魂が腕の中で失われていくのを感じた。
「…………」
力の抜け切った身体を一度抱き起すと、仰向けにしてそっと横たえた。
ステンドグラスから差し込む陽光が紫の身体に落ちて、形容し難い彩りを見せる。
「なんだ、こうして見るとオークもあんがい美しいものだな。―――っと」
王冠が頭上から滑り落ち、金属音を立てて教会の床を数度弾み、転がっていく。
怪物二体の激しい揉み合いに、首紐がもたなかったようだ。
拾い上げると、前半分がばっくりと抉れるように潰れていた。ダークオークキングの肘鉄の跡だろう。
「こいつはくれやるよ。俺よりお前の方がよほどふさわしい」
若き王の亡骸の、その胸の上に王冠を乗せた。ついでに見開かれたままの両の眼も閉じてやる。
飢えていく仲間を見捨てられず、成人も待たずに出陣してきた。もし王に劣らぬ体格を得ていたらと思うと、ぞっとする。同族想いの王だった。
引き比べれば自分は、とてもオークの王などと名乗れたものではない。今からすることを思えば、それはもう間違いなく。
「……行くか」
聖鏡を再び幕で覆うと、担ぎ上げた。
魔王城で姉達にそうしたように、ここでも根を絶たねばならない。―――すなわちダークオーク一万頭の皆殺しだ。
王は満身創痍の心と身体を引きずるようにして、聖堂を後にした。