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無重力ルームの恐怖

作者: 真蛸

「ハマナ」

 振り返ると、リリイ・ユリだった。まだランドセルを背負っている。

「どこに行くの?」

「公園……の無重力ルーム」

「あら、いいわね。あたしも行く」

 ユリはタキイシ・ハマナと並んで歩き出した。

「でも僕、ルームEを予約してあるから」

「でもあたし、その前にカバンを置いてくる。一緒にあたしの家まで来て」

 ユリは公園の方に曲がろうとするハマナの手を取り、反対側に引っ張って行った。家の前でドアが開くと、ユリはランドセルを投げ入れた。

「ハマナと公園に行ってくる!」

 ランドセルはお手伝いロボットが拾い上げて、家の奥に持っていった。

「今日は四時からワープよ。それまでには帰ってらっしゃい」

 姿は見えないが、ユリのママの声が言った。

「はあい」

 ユリのところは放任主義だなあ。ハマナのお母さんは、ランドセルを自分で部屋にしまわなければ外出を許さないだろう。ランドセルを放り投げるなどやったことがないから、お母さんがどんな反応をするかは知りようがないが。

「ルームEって、一番ちっちゃいとこじゃないの。それよりAに行って追っかけっこしよう」

「いや、でも、予約をすっぽかすと、ペナルティとして一か月予約できなくなっちゃうから」

「いいじゃない別に、一か月くらい。そのあいだ、AとかCで遊んであげる」

 ルームAからCは予約不要のフリールームだ。地球にある巨大無重力ルームには遥かに及ばないが、それでも最大のルームAは二十万立方メートルあり、定員五百名を誇った。予約が必要なルームDは十人以上三十人以下の団体向けで、ルームEは十立方メートル定員四名以下の個室だ。

「広いところだと落ち着かないよ。三時から三十分だから、その後でだったら遊んであげる」

「遊んでアゲル、ですって? 生意気ね。こっちこそそんな言い方するんなら遊んであげないわ」

 ここで思わず表情を緩めてしまったのが敗因だ。ユリはそれを見逃すような女の子ではない。

「……なんて、そうはいかないわよ。今日は四時からワープだから三十分しかないじゃない。ダメよ、あんたはAに行くの、あたしと」

 がっかりしたような顔をしておけば、ユリは満足して行ってしまったに違いないのに、面倒なことになってしまった。

「待ってよ、じゃあユリもEに一緒に行こう」

 するとハマナの予想もしていなかったことが起こった。ユリが顔を真っ赤にしたのだ。

「バカ! ヘンタイ!」

 両手で胸を突かれて、ハマナは尻もちをついた。ユリはそのまま歩いていってしまう。助かった……のかな? ハマナは立ち上がり、ユリについていく形になった。ユリは無重力ルームAに入っていくとき、ハマナの方をじろりと見た。ハマナは目を伏せてしまった。

 ルームAの入り口を横目で見ながら通り過ぎ、ルームEに着いた。ちょうど三時だった。前に立つとハマナと認証され、ドアが開いた。


 ルームAのドアをくぐると、ただっぴろく、天井の高い部屋に、地上二メートル半のところから、遥か上の方まで人がたくさん浮かんでいる。もうだいぶ慣れたが、やはり胸にぐっとくる瞬間だ。助走をつけて飛び上がると、無重力空間につかまり、ふわふわと浮揚しはじめる。ユリはまだ小さいので、助走にカタパルトを使用した。カタパルトは傾斜の具合や高さがいろいろと異なるものが、部屋のそこここに設置されている。

 すぐに何人かの友達が寄ってきた。

「ユリ、遅かったじゃない」

 マシュウ・キリシマが声をかけてきた。男の子のような名前だが、女の子だ。

「宿題を忘れたから、居残りさせられてたんだ」

「ハハ、俺なんかブッチしちゃったぜ」

 センダイ・ミヤギが、自慢げに言った。

「馬鹿ね。外出禁止になるわよ。明日から当分ここにはこれないわね」

「えっ、そうなの?」

 ミヤギはうろたえた。

「しかも外禁中は宿題も増量よ。却って大変になるんだから。居残りをさぼるなんて、ドシロートのやることよ」

 そもそも宿題を忘れて却って大変になったことを棚に上げているうえに、外出禁止も経験済みということなのだから自慢になるのかどうか。

「まあいいよ。それより鬼ごっこをやろう。遅れてきたからユリが鬼だ」

 ウラジ・コロラドが言った。ユリは不機嫌な顔をした。

「悪いけど、今日はそんな気分じゃないの。あんたたちだけで遊んでなさい」

 ユリはすごい勢いで上方に泳いで行った。どういう体の動かし方をしているのか、ユリに追いつける者はいない。残された子供たちはあっけにとられて見送るだけだった。


 タキイシ・ハマナは、ルームEでぼんやりと浮かんでいた。この部屋を一人で利用するのが好きだった。目を瞑って、あれこれ空想するのが好きだった。この部屋だけは監視カメラや人体センサーが付いていないというのも落ち着く理由だった。

 しかしユリはなぜあんなに怒ったのだろう。この狭い部屋で何もせずに浮かんでいるだけというのは、想像力のない人間には退屈だろうと馬鹿にされたとでも感じたんだろうか。でも、何も考えずにただぷかぷかと浮かんでいるのが好きだという人だっているのだ。決して馬鹿にしたつもりはないのだが、勝手に妄想して怒ってるんだろうな。女の子の考えてることはわからない。

 まあいいや、いつもの空想に戻ろう。空想の中では僕は地球に住んでいて、海の近くに住んでいて、サーフィンが趣味なんだ。レシプロ・エンジンのモーターサイクルに乗って、サーフ・ボードを抱えて海に行く。

 僕は凄腕の外科医で、僕のもとには世界中から他の医者に見放された患者がやってくる。癌とか、その他の不治の病のためだ。僕はそれを免疫加速装置やマシーンウィルスなんかじゃなく、メスや鉗子を使った外科手術で治すのだ。タイトルはドクター・サーファー。あるいはドクター・ライダー。どっちにするかはまだ決めてない。

 現実の地球では、レシプロ・エンジンも癌も遥か昔に絶滅してしまってるし、もちろん体を開いたりする外科手術などとっくに廃止されてしまっていることも知っている。でも僕が作ろうとしているのは、昔の地球を舞台にした、レトロなドラマなんだ。

 こういう設定はできているものの、肝心の病気やけがをする患者と、その後に展開をどうも思いつかないので、ハマナは結局三十分間、サーフィンをするかモーターサイクルを乗り回すことで終わるのだ。もうちょっと大人になれば、きっと人間模様なんかを思いついて、作品にまとめ上げることができると信じている。

 ユリは活動的だから追跡ごっこや踊ったりすることが好きで、こんな空想というか妄想の楽しみなど知らないんだろうな、もっとも自分も鬼ごっこやダンスをあまり楽しいと思えないからおあいこだ。


 リリイ・ユリは、部屋の最下層から一気に天井近くまで泳ぎきると、無重力ゾーンを抜けて重力のある天井近辺に飛び出した。トビウオのように飛び出して、重力に従って無重力ゾーンに戻る。今度は慣性でどんどん下の方に沈んでいく。適当なところで空気を掻いて停止した。ゾーン内は上下や水平の感覚がなくなるので、ところどころに立体映像の矢印が書いてある。矢が天井を指しているのだ。

 ハマナにルームEに誘われたことでまだ胸がドキドキしている。もちろんハマナは本当に二人で部屋に浮かんでぼんやりしよう、という意味で誘ったのだということは頭ではわかっている。突然だったので、あんな反応をしてしまったのだ。まったく、なんでああ子供なんだろうか。ユリは最後にはいつものようにハマナのせいにした。

「せっかく、面白いことを教えてあげようと思ったのに」

 無重力ルームは、どこもそうなのだが、部屋全体が無重力空間となっているわけではない。部屋の下部に二メートル半の隙間があることはもう触れたが、上部も同様の、無重力でない部分がある。また、四囲に関しては壁の手前一メートルも通常の重力空間である。

 宇宙船内の無重力ルームは、無重力空間に人工重力を発生させ、さらにその中で人工無重力空間を発生させるという構造になっている。人工重力を発生させているのだから、無重力ルームではそれを切ればいいのではないか、とユリなどそう思ってしまうのだが、そう単純にはいかないらしい。なぜそんなややこしい真似をしてまで無重力ルームを作ったのかというと、乗員予定者からのリクエストが多かったからである。

 四方の壁には、無重力空間から飛び出してしまったときのために、幅一メートル強のネットが、高さ方向には十メートルおきに、ぐるりと張り巡らされている。万が一はみ出しても、壁を蹴って無重力空間に戻れば安全なのだが、なかなかとっさには難しいだろうということでそのような予防策が施してあるのだ。


 うとうとしてしまった。ふわふわと浮いていると、空想もはかどるが、つい寝てしまったりすることも多い。

「でもいいかげん、サーフィンやモーターサイクルにも飽きたな」

 なにしろ空想の中だけだ。映画や記録映像から想像しているだけなので、正しく波乗りや運転ができているのかどうかも心もとない。医師の他の趣味でも考えるか。ビリヤードなんかどうだろう。これなら実際にやってみることもできる。もちろん二次元ビリヤードの方だ。ドクター・ハスラー。タイトルも格好いい。そうだ、こんど公園のビリヤード場に行ってみよう。でもあれは大人のゲームだから、小学生なんて入れてくれるかな。公園には、大人向けってことで子供は入れないルームが存在するのだ。例えば無重力ルームBは、ルームAに次ぐ大きさの部屋だが、大音量のダンス・ミュージックが響き、薄暗い中に派手なライトが飛び回るディスコテックになっていて、高校生以上でなければ入場できない。

「午後三時半です。ハマナ、速やかに退室されたし」

 部屋のどこからともなくロボット・ボイスが聞こえてきた。人間の声と区別するためにわざとらしさを意図的に残してある……はずだったが、影響を受けてしまったのか、あるいはふざけてやっているのか、ロボット・ボイスっぽいしゃべり方をする人間が増え、当局はさらにわざとらしくして、すると今度はまたさらにそれを真似する人間が出て……ということを繰り返しているうちに、言葉の乱れを当局が助長しているとの批判を受け、いまは適度なわざとらしさで落ち着いている。

「よいしょっ!」

 下に向かって空気を掻いた。重力空間に抜け出す。上半身が出た、と思ったらまた無重力空間に戻ってしまった。いつの間にか回転していたらしい。上に出て、重力で戻されたのだ。床に落ちるつもりだったので、目を開けた時に天井の梁が視界に飛び込んできて恐怖を感じた。金属製で、ボルトがむき出しだった。思わず腕を顔の前で組んでガードした、ときに足の方に戻っていったので、勘違いに気が付いた。無重力ゾーンに戻っていくときに、天井近くの壁に、コの字型の細いパイプの足がかりがひとつだけぽつんと取り付けてあるのが目に入った。そのまま慣性で下方に進んでいき、足から下向きに床に降り立った。床は勢いよく落ちても怪我をしないようにクッションになっている。

「びっくりした。いつの間に回っちゃったんだろう」

 ハマナはつぶやきながらルームEを出ていった。入室前のユリとのことで、呼吸がかすかに荒くなっていたためだということに、ハマナは気づいていなかった。


「ユリー」

 キリシマが手を振りながら横向きに滑っていく。ミヤギが後を追っている。ふん、子供はいいわよね、気楽で。ユリはいったん床近くまで泳いで下った。無重力ゾーンの最下部で見上げると、天井の方は霞んで見えない。ゾーンは空間にほんのりと着色してあり、あまり遠くまで見通せないようになっている。

 目を閉じ、ひとつ呼吸を整えて、また目を開けると同時に、またすごい勢いで上昇を始めた。体をくねらせ、手と足で空気を掻く。体はねじのように回転する。二百メートルをひと息で駆け上った。無重力空間を飛び出すと、一気に体が重くなるのを感じる。天井の梁が迫ってくるが、体は重力に反対側にひかれて、スピードは鈍ってくる。手を思い切り伸ばす。もう少し。よし。あとちょっと。届いた。

 鉄骨の端に右手の指先をひっかけ、反動をつけて左手をさらに奥のパイプまで持っていく。よしつかんだ。体を引き上げて、足を梁にかける。ここまでくればあとは簡単だ。するすると複雑な形状の梁を登って、適当なところに腰かけた。

「ふう」

 最初はトビウオごっことして無重力ゾーンから重力空間に飛び出して戻るだけの遊びだった。もっともトビウオなんて記録映像でしか見たことはないが。ユリは無重力空間で浮かぶよりも、重力の中で空を飛ぶ感覚の方が気に入った。飛んでいるときに目に入る、ごつい鉄骨に乗れないだろうか、といつの間にか考えるようになっていた。ゾーン内は危険防止のため通常よりも空気抵抗が大きめに設定されている。そんな中でスピードを上げる泳ぎ方を工夫した。勢いをつけるための距離もどんどんと延びていった。毎日ルームに通った。無重力空間への滞留は一人ひと月三十時間までと決まっているが、制限いっぱいまで使った。

 そしてとうとうある日、縦の空間約二百メートルを全て使用して勢いをつけて飛び出して、梁に届いた。ユリは興奮してその辺を探検した。広大なので本当に狭い範囲を見て回っただけだが、その限りではどこか別の場所にはつながっていないようだった。

 代わりと言っていいのかどうかはわからないが、梯子を見つけた。珍しい手動式のハンドルを回すと、金属製の梯子がキリキリと音を立てながら下の方に伸びてゆく。ハンドルを逆に回すと、梯子はやはりキリキリと音を立てて収納されていった。これを下ろしたままにしておけば、ここに来るのに苦労がなくなるが、もちろんそんなことはしない。ジャンプしてここに届くのが楽しいのだし、梯子を大人に見つかったら撤去されて、天井の梁も覆われてしまうかもしれない。もともと上下と周囲の壁近辺は人が少ないが、全くの無人というわけでもないし、センサーか何かによって見つけられてしまうだろう。

 戻るときに、無重力ゾーンに飛び込むのも面白かった。高いところから飛び降りるなんて、初めてだった。体と魂がずれるような感覚がして、そのあとふわりといつもの無重力感に包まれる。こりゃ病みつきになるわ、という予感がユリにはした。しかしその後、十回以上はまた梁に乗ろうとしたが、成功したのは今日で四回目だ。勢いをつけるのに体力を消耗するので、一度失敗するとその日はもうあきらめるしかないのだが、今日は初めて二回目で成功した。もっとも一回目はキリシマたちから遠ざかるのが目的で、あまり本気では泳がなかったからかもしれない。

 でもいつもより疲れたことは確かだ。ちょうど鉄製格子の上にシートが敷いてある場所があった。横たわるとユリはうとうとと眠り込んでしまった。あの梯子を使えばあのどんくさい奴でも引き上げることができる。ユリの秘密の場所を、ハマナにも教えてあげようと思ったのに……。


 ルームAに入るとき、ロボット・ボイスの合成音声が警告を発してきた。

「本日四時から高速移動に伴う自宅待機です。こちらは三時五十分に閉鎖します。あと十五分です」

 ああ、十分前に閉鎖されるのか、じゃあ三十分もないじゃないか。ひょっとするとユリはもう帰ったかな。ちょっと迷ったが、気になったので寄っていくことにした。

 ルームEは無重力ゾーンが一メートル半の高さから始まるので、軽く飛び上がるだけですぐに浮かび上がることができるが、Aではカタパルトを使って助走からはずみをつけて飛び上がらなければならない。体を動かすことが嫌いなハマナには、この程度のことすら面倒なのだった。

 キョロキョロと辺りを見回すウラジ・コロラドと目が合った。

「ユリを知らない?」

「知らないね。こっちとは遊ぶ気がしないとか言ってたから、もう帰ったんじゃないか。じゃあ今忙しいから」

 コロラドはおたおたと空気を掻いて行ってしまった。

 ハマナは部屋の中心を、ねじのようにくるくると回転しながらゆっくりと上昇していった。

 行動生物人類学が明らかにしたところによると、ゾーンの中の人の分布は円柱型になるという。これは部屋が直方体であっても、いや、仮に三角柱であったとしても――すなわち部屋の形には関係なく、そうなるとのことだ。ただし円柱の上部は、平面ではなくややえぐれたすり鉢状になり、下部は逆に中心が出っ張った小山状になる。

 最上部まで行っても、ユリは見つからなかった。ワープの時間が近いので、普段より人が少ない。半径五十メートルはちゃんと見通せたはずだ。途中でコロラドがマシュウ・キリシマやセンダイ・ミヤギを追いかけているのも見つけたし。

「コロラドの言う通り、帰ったのかな」

 念のため今度は下方に向かって同じように回りながらユリを探した。最下部で顔を出したら、そのまま重力につかまり、ぼとりと床に落ちた。やっぱりいない。

 きっと帰ったんだな。僕も帰ろうかな。

「閉館五分前です。新たな入場は制限されます。残っている者どもも、そろそろ退出されたい」

 床にぽつりぽつりと人が落ちたり降りたりして、みな出口に向かっていく。床には長いこといないのがマナーだ。ハマナはカタパルトを使って、再び無重力ゾーンに戻った。部屋の中心にいたので、出口が遠かったからだ。床を歩くより、ゾーン内を移動した方が楽だし降ってきた人とぶつかる危険も少ない。


「……そろそろ退出されたい」

 リリイ・ユリは目を開いた。寝ちゃったわよ全く。よいしょっ。と体を起こそうとしたが、動かない。

「あれ?」

 凹状の鉄製パイプに、全身がシートごとすっぽりとはまり込んでいた。ユリの体の重みでシートが沈み込んだということらしい。両腕を持ち上げてみたが、圧迫されていたため痺れていて、感覚がない。自分の手じゃないみたいだ。シートの下のパイプを手がかりに起き上がろうとするが、腕に力が入らず、ふんばりがきかない。

「閉館三分前です。退室をお願いします。一分前よりゾーンの縮小が始まります」

 ゾーンの縮小! どうなってしまうんだろう? いやだまだ死にたくない。ワープまでに家に帰らなければ。どうしてこんなところに来ちゃったんだろうか。ハマナが、誘ったときにちゃんと一緒に来てればこんなことにならなかったのに。あのバカ、あたしが死んじゃったらどうするのよ。ユリは必死で体を揺さぶった。くそっ、チキショー、コンニャロー。

 なんとか上体を起こすことができた。腕がじんじん、びりびりと痺れてきた。顎を鉄パイプの上に乗せてひと息ついたとき、ハマナと目が合った。ゾーンから顔だけを出しているようだ。目を丸くしている。

「ハマナ!」

 まずい涙が出てきた。慌てて首を一度ひっこめ、痺れている腕の方に顔を押し付けて涙をぬぐった。

「早く来な!」

 また顔を出して大声で言った。

「もう閉館だから、ユリが降りてきなよ」

「いいから! 早く!」

「どうやってそんなとこ登ったのさ?」

「勢いつけてよ! ジャンプしなさいよ!」

 しまった、ハマナがここまで飛べるはずがない。ユリは自分で言ったことに対し、すぐに無理だとわかってしまい、顔から血の気が引いていくのを感じた。それに、仮にハマナにその能力があったとしても、今から最下層まで行って登ってきたのではとうてい間に合わないだろう。また涙がにじんでくる。ぐっと耐えた。

「閉館二分前です。退室願います。一分前よりゾーンの縮小が始まります」

 ハマナの頭が消えていた。首を回して、見える範囲を見渡すが、いない。あのバカ、まさかはずみをつけるために下の方に行ったのじゃないだろうな。一番下まで行かなきゃ無理なんだから、もう間に合わないってのに、バカ、ほんっとにバカ。早く家に帰って固定カプセルに入らなければ、このままワープが始まったら、バラバラになっちゃう。あ。ハマナは家に帰ってしまったのだろうか。まさか。

 ユリの目に、また涙がにじんできた。


 再び無重力ゾーンに戻ったとき、慣性で上昇しながらハマナはもう一度だけ上まで行ってみようと思った。最上部近くでは人影が見えなかったので探し方もおざなりだった。ひょっとしてひょっとするとだが、見落としたのかもしれない。またくるくると回りながら、目を凝らして下の方へ向かっていく人たちを一人ひとりよく見ながら、上昇していった。

「やっぱりいないや」

 最上部まで来たが、ユリを見つけることはできなかった。半分を過ぎるころには、ほとんど人がいなくなっていた。一度おや、と思ったが、キリシマだった。体を大の字にして、おへそを中心にくるくる回りながら下へ降りていった。雪の結晶みたいだった。追跡ごっこをやめて、帰っていくのだろう。

 ここまで来ると天井の梁が見える。これまで意識したことはなかったが、さっきのルームEでの体験があったので、ゾーンの上端まで行って見てみた。金属がむき出しだ。無重力ルームを五つも作ったおかげで、途中で予算が足らなくなったという話を聞いたことがある。こういうところにしわ寄せが来てるんだな。

「あれっ」

 何かが動いたような。ハマナは思わずさらに天井に近づき、ゾーンから顔を出す形になった。

 縦横に走る鉄パイプ、鉄格子の一部にシートがかかっていて、それが動いたようだ。わさわさとかすかに音がするような。と思ったらユリが顔をのぞかせた。ハマナは驚いてあんぐりと口を開けてしまった。

「ハマナ! 早く来な!」

 ユリが大声を出したので、我に返った。

「もう閉館だから、ユリが降りてきなよ」

「いいから! 早く!」

 怪我でもしているのだろうか。でもどうやってあんなところに登ったんだろう? そう聞くと、

「勢いつけてよ! ジャンプしなさいよ!」と訳のわからない返事だった。どうも混乱しているようだ。もう時間がない。

「閉館二分前です。退室願います。一分前よりゾーンの縮小が始まります」

 ハマナは重力空間部分の壁を見回し、天井近くにコの字足がかりがあるところを見つけた。さっきルームEで見たので、同じものがきっとこの部屋にもあると思った。この部屋は広く、重力空間も大きいためか、足がかりは五段ばかりあった。そちらに向かい、斜め下を目指して勢いよく泳いでいった。

 足がかりは部屋の角に近いところにあった。ハマナのいたところは部屋のほぼ中心だったから、直線距離にして七十メートルくらいだが、下方に潜って、また昇るという、谷を描く形に行こうとしているので、移動距離はもっと長くなる。

 だいたい道のりの真ん中あたりまで来たと思ったところで、今度は上向きに泳ぎだした。できる限り勢いをつけて、斜めに重力空間に飛び出した、ところで、ミスに気が付いた。重力空間には重力がある! 当たり前のことを完全に忘れていた。

 一気に重くなった体が引っ張られるのを感じながら、その体が放物線を描くのを感じながら、ハマナは空中を移動していった。ゾーン内よりはるかに手ごたえがないが、手足をじたばたと動かして空気を掻く。うまいことに、一番下の足がかりはまだ下にある。だが、体は予想外に早く落ちていく。もう時間がない。やり直す余裕はない。左手と両足であがきながら、右手を思い切り前に突き出した。前じゃだめだ! 上に伸ばす。指先がかかった。足が壁に着いたので、つま先で壁をこするようにする。ほんのちょっとだが手があがった。足がかりをつかんだ。顔が壁に激突した。思わず手が緩む。もう一度つかみなおそうとして、中指と人差し指の第一関節だけで持ちこたえた。だめだ。落ちる。薬指をなんとか引っかける。はずみをつけて、左手を伸ばした。右手の指が滑った、ときに左手で足がかりをつかむことができた。

「ふう」

 ハマナは深く息をついた。しかしのんびりしている場合ではない。足がかりに右手もかけ、体を引き上げ、登っていく。一番上の段に足をかけると、梁に届いた。鉄製の、パイプや格子が複雑に入り組んだ梁の上に体を引き上げた。体が重い。膝に手を当てて息を切らせた。

 しかしすぐに時間がないことに思い至り、中心に向けて走り出した。でこぼこしていて、梯子も隙間だらけだが、ハマナは器用にバランスよく走っていく。本人は体を動かすことを不得手に感じているが、体育の成績は抜群によかった。

「閉館一分前です。ゾーンの縮小を開始します」


 ユリは焦っていた。なぜか足が抜けない。手の痺れもやや薄れてきたので、体が挟まっていた鉄の棒をシートの上から抑えて、体を起こそうとしたが、腰から下がすっぽりとシートに包まれた状態で鉄枠の中に入ってしまっている。

 手を突っ張って立ち上がろうとするが、うまくいかない。

「なんで抜けないのよ! なんで!」

 体を揺さぶっても、下半身は全く動かない。

「閉館一分前です。ゾーンの縮小を開始します」

 何か恐ろしいことが始まったようだ。ユリは顔を鉄梯子からのぞかせ、下を見た。本当に無重力ゾーンが、下がっていっている。しばらくぼんやりと眺めてしまった。みるみるうちに下がっていく。はっとした。いやだいやだいやだ。死にたくない。なんとかここから抜け出さなくては。鉄棒をシートの上からつかんで体を持ち上げようとしたが、ゆさゆさと揺れるだけだ。

「もう! ハマナ! 何やってんのよ!」

「ごめんよ、遅くなって」

 後ろから声がかかって、ユリは心底びっくりした。でも確かにハマナの声だ。心臓が鼓動を打つ音が耳に響いてきた。緩みそうになる頬を両手でぺしぺしと張り、振り返ってにらみつける。

「逃げたかと思ったじゃない。何やってたのよ」

 ハマナはユリの後ろから助け起こそうとした。

「ほら、立って。ここからじゃ届かないだろうから、向こうを回ってきたんだ。あれ、なんで立てないんだろう」

「足が抜けないのよ! ていうか向こう回るんならそう言いなさいよ、心配になるじゃないの」

 ハマナはユリの足の方に回り込んで、まとわりついているシートをかき分けた。ちらりと見ると、ゾーンはかなり下の方まで行ってしまっている。もう百メートルくらいしか残っていない。飛び込むには、五十メートルは欲しい。手足を思い切り動かして足掻いて、ゾーン内で止まることができるだろう。……ぎりぎり二十メートルなら何とかなるかも。ゾーンを突き抜けて床には落ちてしまうだろうが、軽いけがで済むくらいまで勢いを殺すことはできるだろう。でもそれ以下では、床にたたきつけられて大けがをするか、最悪打ち所が悪いと死んでしまうかもしれない。いずれにせよ、そのあと家まで帰るのは無理だ。

「ごめんよ、説明してる時間がもったいなかったんだ。ああ、なんか足の上にかぶさっちゃってる。どうやって入り込んだんだろう」

「そうだ、ワープが始まっちゃうじゃない。バラバラになっちゃうじゃない! 早くはずしてよ!」

「うん、一本ずつ持ち上げよう。ワープでバラバラになるというのはちょっと正確ではないかな。ワープに入る前と出た後で、船内の物体はまったく同一の状態をキープしている必要がある。これは無生物なら簡単だけど、生き物だと難しい。何しろ心臓が動いて血液が循環しているからね。だから固定カプセルは、ワープ中に中の人を仮死状態にするんだ。ワープ直前に心臓を停止させて、同時にマイナス四十度まで冷凍する。さらに同時に、全身を包み込んだフォームで圧迫して、血液が流れないようにする。ワープ脱出後は、常温に戻すと同時に心臓を刺激して動き出させるんだ。これによってワープ前後の同一性が生物でも保たれる。体の外は髪の毛一本の位置まで、内側は血液の位置まで」

 またゾーンを見下ろす。もう五十メートルは切ってしまっただろう、だいぶ小さくなってしまっていた。

「で、もしワープの前後で位置がずれているものがあったら、空間のねじれを引き起こす。そのずれの部分がどうなるかは、そのときによる。例えば腕がこの状態だったのが、ワープ後にこうなったとする」

 ハマナは自分の腕を上げ、下げた。

「そのときこの腕は、あるときは消え失せる、あるときは千切れる、あるときは裏返って付いたりする。体全体の位置が変わった場合なんかは、確かにバラバラになる場合もあるみたいだね。でもたいていは消失しちゃうみたい」

「退出時間です。無重力ゾーンは幅一メートルまで縮小されました。残っている者どもは速やかに退室されたし。繰り返す。残っている者どもは速やかに退室されたし」

 ロボット・ボイスのアナウンスが入った。ハマナは頭の中が真っ白になるのを感じた。縮小が終わってしまった!

「あんたよくそんな冷静に解説してられるわね、退室時間が来て、ゾーン縮小が終わっちゃったじゃない。どうなっちゃうの? もうダメなんじゃないの?」

 冷静どころではなかった。無重力ゾーンがもう使えないのに加え、ユリの足が妙にすっぽりと格子の中にはまり込んでいて押しても引いても抜けない。ただ、ここでハマナが慌てる様子を見せたらユリがパニックになってしまい、たぶん面倒が増える。余計なことを考えないようにワープを解説したつもりだったが、ひょっとして逆効果だったのだろうか?だが余計なことを考えないようにというのは自分のためでもあったし、他にうまい方法も思いつかないから、これで押し切るしかない。

「どうもこっちはうまくないな。後ろから引っ張るよ」

 ハマナはそう言って、ユリの背後に回った。両脇の下に腕を入れて、羽交い絞めのような体勢で引っ張る。

「ちょっと、なにするのよ」

「ごめん、ちょっとだけ我慢して。ゾーンの縮小は、残っている人たちを部屋の一番下まで下ろすためにやるんだ。だから上限だけを動かして下限に近づけていく。ゾーンを完全に消し去ると、また起動にエネルギーを喰うから、幅一メートルだけ残してね。よし動いた。もう少しだ」

 ハマナの言う通り、ユリはおしりが後ろにずれるのを感じた。少し動いたらあとは簡単だった。ユリはするすると引っ張り出された。立とうとしたら、バランスを崩した。ハマナが慌てて抱きかかえてくれる。

「気を付けて。大丈夫?」

「大丈夫じゃないわよ。足が痺れちゃって」

 そのときルームの遥か下方が目に入った。ゾーンらしきものが目も眩むほど下に見える。着色の量自体は変わらないのか、濃紺のマットみたいになっていた。

「あ、あそこに降りるの?」

「うん、でもここから飛んだら死んじゃうよ。何とか下に降りなけりゃ。行こう」

 ハマナは見回して、一番近そうな壁の方に走り出した。

「高速移動三分前。至急自宅に戻り、固定カプセルに格納されなさい」

 背後からユリの悲鳴が聞こえてきた。

「待ってよ、走れない。さっきより感覚なくなってる」

 振り返ると、ユリはしゃがみこんでしまっている。ハマナは戻って、ユリを背負った。

「しっかりつかまってて」

 ハマナは走り出した。ユリに遠慮しない分、却って速くなった。下に降りて、それからどうするか。もう家には間に合わないんじゃないか。頭を振って、とりあえず考えないことにした。まず降りよう。

「だいたい、なんでまだ人が部屋にいるのにワープ止まらないの? 安全装置かなんかないの?」

「ワープでエネルギーを使うから、三十分前から電源供給は固定カプセルと一部の緊急用リフトのみに限られるんだ。その前までにカプセルに入れちゃえばいいとも思うんだけど、ぎりぎりまで作業する人もいるから、そこは自己責任になってる」

 アドレナリンのおかげか、ユリを背負っているのに三十秒程度で壁までたどり着いた。、さすがに息が上がった。しかしここで休むわけにはいかない。

 見下ろすと、落下防止用ネットまで十二、三メートルといったところだった。幅は一メートル以上あるはずだったが、とてもそうは見えなかった。大目に見たって、三十センチくらいしかないのでは?

「ユリ、口を閉じないで、大きな声を出し続けてて」

 ユリを下ろして、正面から向き合いながら言った。息が切れているのをなるべく悟られないようにと気を使ったつもりだったが、やはりきれぎれになる。しかし幸いなことに、ユリはそんなことは全く気にしていないようだった。

「えっ、どういうこと、なに企んでるの? 言いなさいよ!」

「その調子!」

 ユリの肩を押して、突き落とした。

「ちょっとおおお……!」

 ユリは大声をあげながら落ちていき、ネットに背中から着地した。ハマナは少し移動して場所をずらして、何も考えないようにしながら飛び降りた。

「わーっ!」

 大声をあげながら、空中で回転して背中から落ちた。ネットといっても、きめが細かく、シートと言った方が近い。

「うわっ」

 突然顔に衝撃を受け、ビンという鈍い音が響いた。ユリが馬乗りで殴ってきたのだ。目が真っ赤になって、顔には涙の跡がついている。

「何すんのよこのバカ。死ぬかと思ったじゃないの!」

「早く下りないと、本当に死ぬぞ!」

 ハマナは大声を出して、起き上がった。ユリは見たことのないハマナの反応に息をのんでいる。

「ほらっ、僕のやるとおりにやって!」

 ハマナはネットの縁にぶら下がった。「急いで!」

「ダメよ。無理。怖い」

「やるんだ! 死ぬよ! やらないなら、僕一人で行くぞ!」

 ユリがおそるおそるネットの端に寄ってきた。ハマナが手を差し出すと、ユリもおそるおそる差し伸べてきた。ハマナはそれをつかむと、引っ張ってユリの体を下に投げた。

「あぎゃああぁ」

 ユリの体は足から突き刺さるように一段下のネットに落ちた。そのあと背中から倒れる。

 ハマナも軽く体を振って、壁にくっつきずり落ちるように足からネットに降り立った。柔らかく、超低反発なのでふわりと軟着地できる。大声を出さなかったが、足から落ちれば気絶することもなかった。

 横を見ると、ユリもこちらを見ていた。顔面は蒼白で、涙でひどいことになっているが、ものすごい怒りの表情を浮かべている。ハマナはむしろ安堵を覚えた。しばらく恐怖を忘れてくれた方がありがたい。

「よくも……」

 ユリが襲いかかってこようとしたので、ハマナは再びネットの縁にぶら下がった。さっきと同様に軽くはずみをつけて、壁の方に飛びながら下のネットめがけて落下していった。

「待ちなさいよ!」

 ネットに降りて、見上げると、思惑通りユリが上の落下防止ネットの縁にぶら下がろうとしている。よし、はずみをつけてなるべく壁側へ寄るんだ、と声をかけようとしたが、ユリは手に力が入らないのか、ぶら下がった、と思ったとたんにそのまま落ちてきた。

 まずい! ハマナは落ちてくるユリを捕まえようと壁際からマットの縁に寄ったが、一瞬遅くユリは目の前を通り過ぎた。

 ハマナはそのまま、頭を下にして飛び込むように縁から落ちていった。考えての行動ではなく、とっさの反応だった。手を体の横にぴったりとつけて、なるべく空気抵抗が少なくなるような体勢で落下する。

 うまい具合に、ユリは大の字になって背中から落下していた。

 落ちていくユリの横を通り過ぎ、さらに七、八個のネットを通り過ぎたところで、縁に手をかけ、体を回転させ、次のネットに足から着地した。膝を折って尻餅を突き、転がって壁に激突した。うめき声が漏れた。

 さすがに痛かったが、すぐに起き上がって端まで駆けつけ、落ちてきたユリの片足をつかんで引っ張った。ユリはネットに背中から落ちた。頭を壁にぶつけた。

「高速移動一分前」

 ハマナも勢い余って倒れていた。はね起きてユリを見ると、白目をむいている。

「ユリ……!」

 口に耳を近づけると、息をしているのが聞こえる。失神しているだけのようだ。

「ユリ、ユリ!」

 揺さぶっても目を覚まさない。もう時間がない、抱えて降りよう。ユリの腕を持って背負い、膝立ちで這うようにネットの端に寄ったハマナは下を見てぞっとした。縮小したゾーンが、ほんのすぐ目の下に見えていた。ネットは後三つしかない。もう少しで床に激突していた。

 しかし考えたり、躊躇したりしている時間はない。ハマナはユリを背負って飛び降りようとした。が、ユリを落としてしまうのではと不安になり、わきに抱えた。まだだめだ、怖い。いったんユリの体を横たえ、上着を脱いだ。またユリを自分の横に抱えるようにして、そのまま二人の体を上着の腕の部分で縛った。ユリの腕が自分の首を抱くような形にして、壁の方を向いた。後ずさっていき、ひとつ息をついて、思い切って跳んだ。

 時間がないのと、さっきの経験から、一番下のネットを目指すつもりだ。ひとつネットを見送り、ふたつ目でなんとか右手を縁に引っかけ、一番下のネットに落ちることができた。ただし壁にぶつかるときにユリをかばって、したたか肩を打った。ふたり分の体重がかかって、むりっ、という鈍い音がした。

「三十秒前」

 右肩を脱臼していた。手を動かすことはできるが、ぶらぶらと力が入らず、思い通りにはならない。腕の場所によって激痛が走る。脂汗がにじんだ。

 もう家に帰っている時間はない。ハマナは決心を固め、なんとか左手だけで二人を縛っていた上着をほどいた。まずユリを突き落として、首の骨を折るつもりだ。

 ユリが「ううん」と声を出した。目を覚ましそうだ。左手だけで抱えて、ネットの端に行く。見下ろすと、床は約五メートル下だ。落ちた時のダメージがネットより大きいので、最下段から床までは短めになっている。

「ちょっと、何するのよ!」

 ユリを落とそうとしたとき、驚きで一気に意識を取り戻したようだ。こうなるとこのまま落としても受け身を取られてしまうかもしれない。危険を感じたのか逃げようとするユリと揉みあいのようになった。

「離してよ、どういうつもりなのよ!」

「こうするしかない。死ぬんだ」

 ハマナは左腕でユリをしっかりと抱えて、一緒に倒れるようにダイブした。

「ちょっと、いや、やめて、あわああぁ……!」

 狙い通りユリの後頭部から落ちることができた。ごり、と嫌な音がした。ユリの鼻から血がひとすじ流れる。うまく首の骨が折れたようだ。

 時間がない。すぐに起き上がり、ユリの体をほとんど引きずるようにして一番近いカタパルトに向かって歩いていく。幸い、ゾーンの下一メートルくらいまでの高さのあるやつだった。激痛の走る右手でグラグラするユリの頭を支える。

「十秒前。九。八。七……」

 カウントダウンが始まった。

 ハマナの右腕はすぐに痺れて自分のものではないような感覚となり、一方でありがたいことに痛みを感じなくなった。カタパルトをずるずると登っていく。顔から血の気が失せているのを実感できた。おそらく顔面は真っ白になっているだろう。

「五。四。三……」

 カタパルトの一番高いところで、最後の力を振り絞ってユリの体を持ち上げた。

「んん!」

 自分の口から気合が漏れているのを他人事のように聞きながら、ユリの体をゾーンに入れた。慣性で上昇していこうとするのを服をつかんで留めて、そっとゾーンから手を抜いた。

「二。一」

 ユリの体がぼんやりと静止するのをかすんできた目で見届け、ハマナはカタパルトから落ちた。顔には満足の笑みが浮かんでいた。

「高速移動開始」


 目を開いた。ここはどこだろう。天井が白い。自分のベッドじゃないってことはわかった。ママが嬉しそうな顔を覗き込ませた。涙があふれそうだ。ママのそんな顔を見たのは初めてで、ユリは戸惑い、なぜか不機嫌になった。

「ハマナに殺されそうになった。あいつ、逮捕してよ」

 ママは泣き笑いみたいな表情で微笑むだけだった。

「ユリちゃん、そんなことを言ってはいけないよ。彼は君の命の恩人なのだから」

 ママの横に男が立っていることに、そのときユリは初めて気が付いた。白衣を着ているから、きっとお医者さんだ。

 命の恩人ですって?

「あいつあたしを殺そうとしたのよ」

 そうだ。ハマナはユリを天井から突き落としたり、手を引っ張ってネットから落としたり、最後にはユリにのしかかるようにしてネットから落ちたのだ。あれはユリをクッションにしようとしたに違いない。妙に暗い、思い詰めて泣きはらしたような眼をして迫ってくるハマナを思い出して、ユリはあのときの恐怖を思い出した。

「高速移動――つまり、ワープの時に人体固定装置に入らないと、ワープが終わった時に、どうなるかわからない、ということはユリちゃんも知ってるよね。大けがをしたり、最悪の場合、その、死んでしまうことだってありうる」

 そうだった。途中からそんなことは忘れてしまっていたが、ワープの前に家に帰ろうとして、……結局、どうなったんだろう?

「たしかにハマナくんのやったことは乱暴だったけど、でも他に方法はなかったからね。許してあげないと……どころか、逆に感謝しなければいけないよ、彼の機転がなかったら、ユリちゃんは今頃ここにいたかどうかもわからないのだから」

「あいつ、あたしに何したの?」

「うん、これから説明するから、最後まで落ち着いて、怒らないで聞いてくれよ。ワープの直前に、ハマナくんは、ユリちゃんの首の骨を折ったんだ」

「やっぱり!」

「まあ聞いて。これはユリちゃんの心臓を止めるために必要だった。そのあと、ユリちゃんを厚さ一メートルだけ残っていた無重力ゾーンに入れた。これは心臓の止まった体の血が重力で下に集まっていくのを避けるためだ」

 ユリは理解できず、眉をひそめた。

「つまり、ワープ中に血液が動かないように、無重力状態に置いたわけだ。ハマナくんはすごいね。小学生なのに、とっさにこんなことを思いついて、それだけじゃなく、ちゃんと実行したんだ。おかげでユリちゃんは、ワープの前と後で、同一性が保てたんで実体を保持することができた」

「でも、首の骨を折って心臓が止まったんでしょ?」

「ワープのあとで、発見されたときユリちゃんは仮死状態だった。時間がそれほど経っていなかったから、ほら、ちゃんと生き返っただろう? いまの医学ならそれくらいは可能だということを、ハマナくんはきっと知っていたんだ。本当にたいした子だ。わかっただろう? ハマナくんのしたことは、ユリちゃんの命を助けるためだったんだ」

「ふーん。で、そのハマナはどこにいるの?」

「ユリ、二度と心配かけたらダメよ、これからはママの言うことを聞かないなら、外に出るときはロボを付けるわよ」

 ママがいつもの調子に戻ったのでユリは少し安心した。でも何かをごまかそうとして口を出してきたのだ、きっと。

「ハマナはどうなったの?」

 ママがさらに何か言おうとするのを、お医者さんが眼で制した。

「大丈夫、これから会いにいこう」

 ユリのベッドが車椅子に変形して、歩き出したお医者さんについていった。

「ハマナくんは、ユリちゃんをゾーンに入れた後で、ひょっとして自分も入るつもりだったのかもしれないけど、そうできず力尽きたのか、カタパルトから落ちたんだ。それで、首の骨を折った。図らずも、ユリちゃんと同じ状況になったわけだ」

「でも、ゾーンに入らないと体がバラバラになっちゃうんじゃなかったの?」

「うん、必ずバラバラになるというわけではなくて、ワープの前後で位置がずれた部分に関して、どうなるかわからない、ということなんだ。どこか違う次元の空間に行ってしまうのか、消失してしまったり、あるいは体の部分が入れ替わってしまったり、体のどこかがちぎれてしまったり。これは現代科学をもってしても、予想はできないんだ」

 ハマナの病室の前に来た。

「ユリちゃん、これはユリちゃんのせいではないんだから落ち着いて見てくれよ。約束してくれるね?」

 ユリはうなずいた。

 病室の扉が開いた。

「これ……ハマナなの?」

 透明なカプセルの中に不思議な形をしたものが入っている。人間の胴体のようなものに、手足や顔が変な位置から生えている。手の指や足の指らしきものが胴体や顔などにもついていた。顔はのっぺらぼうで、髪の毛は体のいろいろなところから生えていた。顔のパーツは比較的まとまって、胴体の変な位置から生えている、左右どちらかはわからないが足の腿のあたりについていた。しかし目が縦に並んでいて、その下で鼻と口が横並びになっている。

「生きてるの?」

 お医者さんはうなずいた。

「内臓や神経のつながり方……トポロジー的にはきちんと人体なんだ」

「もとに、戻る?」

「約束はできないけど、大勢の医療スタッフが努力してるよ。私は個人的には、きっと治ると信じている」

 そのときハマナの瞳がユリをとらえて、口が微笑みをかたち作ったように、ユリには見えた。

〈了〉


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