1話
約半日以上かけて歩いた男の歩みが止まった。
「いやいや、何してんだよ。てかどこだよ…」
大事な休日を会社帰りのままスーツで登山してるそんな酔狂なやつはいないだろ、そんな事を考えながら周りを見渡す。深い森、どんなに頑張っても森以上の表現が出てこない。置かれた状況に急に怖くなる中、落ち着こうと鞄の中から仕事の時に持ち歩く水筒を取り出した。
喉を潤し一息ついた時、後ろから葉が踏まれ枝が折れる音がした。
振り返ると涎を垂らしながら虎のような風貌の獣が低音の唸り声を発しながらこちらにゆっくりと向かってくる。
「はい?」
唸り声に返事したつもりではないが、恐ろしい獣と対峙し心の底から出た言葉はこれが精一杯だった。
しかし獣がゆっくりと次の一歩足を踏み出してきた時には、頭の中ではどうするか懸命に考え、目だけを動かしている。
木に登る?いや無理だ。
死んだふり?そんな勇気はない。
戦う?それは不可能だ。
じゃあ逃げるしかない。
男が頭の中で考えた作戦は大それたものではないが、最悪の一手だとしてもそれしか思いつかない。
木の幹や生い茂った葉から完全に姿を現した虎のようなそれよりも一回り大きな獣が四つの足を使い獲物を見極めるように更にゆっくりと男へと近づいている。
次の瞬間男は獣との間を挟むように近くの木へ回り込んだ。無意味な事とは分かっているが、しかし間に何かないと不安でしょうがないのだろう。
先程まで持っていた鞄と傘を獣の出現の撹乱で落としていた事に気がついたが、少し先に見えるそれらに一度目をやった後、ただ目の前にいる獣を見つめた。
獣もただ静観しているわけではなく、男が動いた瞬間距離を詰めようと巨体を飛ばすが、相手が木に回り込んだため近くで着地し、今度は体を深く沈め前足を伸ばし後ろ足でしっかりと踏みしめ、いつでも跳躍できるような格好になっていた。
自然の獣と対峙することは足がすくむくほど恐ろしいのか、男にとって初めての生命の危機を感じ、威圧に負けそうになるが震える足でしっかりと男が踏ん張っている。
獣が右へ踏み出せば左に動き、左に踏み出せば右に動く
まるで合わせ鏡のような十数秒間が終わりのない時間のように感じた。
「何か手は…」
震えた声を何とか喉から絞り出すが、重圧に押され根負けした男は踵を返し獣から離れようと持てる限りの力で走り去ろうとした。
それを獣は逃さず後ろ足で跳躍しよく研がれた爪が生えている前足一本で男の背中を後ろから殴りつけた。
前足を背中にもろに受け、後ろから押されるかのように飛ばされ転がった。
寝転がって衝撃と共に痛みを感じるのを待ったが、痛みがこない。そんな訳がないと思ったが、男はすぐ立ち上がった。
しかし立ち上がっても痛みはやはりこなかった、いや正確には顔の頬にできた擦り傷が痛みを感じさせている。転がされた所に傘と鞄が落ちており再び拾った傘で牽制するかのようにただ振り回して気持ちを無理やり落ち着かせる。
不思議な現象に頭を抱えている時間はないとばかりに獣はまたもや、飛びかかろうと体を沈めてすぐに飛びついてきた。どうする事もできない男は右手にある頼りない一本の傘をに飛びかかってくる獣に向かって叩きつけた。
いや、偶々振り下ろした傘が当たった。
「は?」
傘諸共吹き飛ばされると信じていた男は逆に吹き飛んだ獣を見て驚きを隠せないでいた。
男は一歩も動かず目の前で痙攣しながら倒れていた巨体な獣の体が、完全に停止しするまで呆然と眺めていた。
そして混乱する男の頭が冴え渡っていき、
不眠不休で慣れない山道を革靴とスーツ姿で歩いた事
日本ではありえない想像より一回り以上大きな虎のような獣が森にいる事
顔の傷以外全く痛みを感じない体
鍛えたところで獣を人間には吹っ飛ばす力なんて考えられない事
これらを考えることまとめるのに数分、そして摩訶不思議現象を目の前にしてだんだんとテンションのボルテージが上がり最終的に出した答えが、
「渡会義男、異世界きちゃいましか?」
興奮しきった会社帰りサラリーマンの義男のその答えに、当たり前だが誰も答えてくれない。