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 三月が来た。

 高校を卒業し、無事に大学進学も決まった僕はある日、英士の出演するライブに足を運んだ。

 英士も高校卒業と同時にボストンの音大ジャズ科への進学を決めて、四月中にアメリカへ帰国することになり、それまでの間に、プロや大学ジャズ研の人達とのセッションライブを詰め込んでいるようだった。

 帰国しての進学を決めたこと以上に、英士が自分のやりたいことをはっきりと決めて歩いて行くことを僕は羨ましく感じた。

 僕はまだ、大学進学やモデルの仕事の先にある自分の将来を描ききれていないから。

最近、テレビの単発のドラマに出てみないかと言う話を受けて、初めて俳優をやることになった。英士にはからかわれそうだからまだ言ってないけど。

 今日のライブは英士のギターに大学ジャズ研のドラムとベースの人が入ったギタートリオの演奏で、一回めのセットが終わったところだった。

 英士は僕に「清貴、来てくれてありがとう」と言うと「あ、先生」と後ろの席に向かって手を挙げた。

 見るといつの間にか進藤先生が入り口近くの席に腰掛けていた。

 英士の顔が喜びに上気し、瞳を輝かせて進藤先生のそばに向かった。先生は英士を軽くハグし、英士も返した。

「アスラン、五月からボストンだね、おめでとう。これで僕の後輩だな」

そう先生が言うと英士は「ええ、僕もすごく嬉しいです」と屈託無く笑った。

「先生は僕が入学する大学のジャズ科の出身だからね、大先輩さ」と、英士は僕に教えてくれた。

 僕が挨拶すると「君は、清貴くんだったね。レッスンの合間にアスランが時々君の悪口を言うんだ、君には仕事でよくプライドを刺激されるらしくてね」と先生は僕に向かって笑った。

「彼は僕にも、いつも面と向かって言いますよ」と僕は答えてふと尋ねた。

「僕らは英士って呼ぶけど、先生はアスランて呼ぶんですね」

「ああ、良い名だから。清貴くん、意味を知ってる」

「いいえ」と答えると英士は「先生、こいつに教えなくっていいのに」と不満げに漏らした。

 先生は英士に優しく目を向けたけど、僕に「アスランはトルコ語でライオンという意味だ。出会った頃からプライドが高くて努力家で挫けない、彼は小さなライオンなんだ」そう言うと、英士の肩をポンと叩いて、英士は照れた表情で先生に微笑んだ。

 進藤先生もまた、四月にニューヨークに戻ることになり「こちらでの仕事が一段落したから、ゴールデンウィーク前にこちらを離れるよ」と言っていた。

 英士も進藤先生も、ほぼ時を同じくしてアメリカに帰って行く。この師弟の絆の深さを感じずにはいられない。

けど、アヤノさんと先生はどうなるんだろう。日本とアメリカじゃ遠距離になっちゃうじゃないか、と思った。もちろん、僕に聞く権利なんかなかったけれど。

 英士のやつは後から「清貴はこれからも、英士って呼べよ」と僕に命令してきた。

「どうしてさ、アスラン」とわざと言ってやると、「家族も日本の親戚もだいたい英士って呼ぶしね」。

それから、英士は声を落として「アスラン、て呼んでいいのは先生だけだ」と僕に言った。

 先生は特別、その気持ちは理解できた。

 同性の進藤先生に恋愛感情を持っている、英士にそう聞いてからも僕は特別に違和感を感じなかった。

 誰かのことを好きだという想いには、違いはないと僕は思う。

男だろうが女だろうが、年齢だとか関係ない。英士も僕のアヤノさんへの気持ちを知っていて、僕たちの間には静かな共感があった。

 別の日に仕事で英士と一緒になった時「清貴にグッドニュースがある。先生とあの人別れたよ」ごく淡々と彼がそう言って、僕はまた驚いた。

 二人は遠距離恋愛にはならなかったんだ。

 ということは、わずか半年ほどでアヤノさんと進藤先生は別れてしまったことになる。

随分と短くて、何てあっけない恋なんだろう。

 去年の夏休みに、英士が言った言葉を思い出した。

「先生は近づく相手をあっという間に虜にしてしまう、でも何て言うか愛されてる自覚がないんだ。ただ太陽みたいに容赦なく輝いてじりじりさせておいて、いずれ突然去っていくんだよ」

その彼の言葉通りになったというわけか。

 クリスマスの頃に、イルミネーションのそばで見かけた光景が胸をよぎった。

 あの時は僕が打ちのめされたくらい二人は仲よさそうで、淡い光に包まれてロマンティックな雰囲気だったのに。

 今、アヤノさんはどんな気持ちでいることだろうと思うと、僕の胸はひどく騒いだ。

それでもやはりアヤノさんに問いかけることも、会う口実を作るという行動を起こす事すら僕にはできなかった。

 しばらくしてから仕事で会ったアヤノさんは、どことなく元気がない気がした。

大人だから、あからさまに落ち込んだりする姿を見せたりはしないってわかるけど。

 僕はどうにかして彼女と二人で話したかった。

「アヤノさん、この後お仕事なかったら一緒にお茶しませんか」精一杯勇気を出して、だけど出来るだけ何気ない感じでと思いながら声をかけた。

「この後はないからいいよ、清貴くん」

「よかった。好きな感じのコーヒーを見つけたので、一緒したくて」そう言った。

やっとチャンスができた。

 僕はアヤノさんと並んで歩き、今日撮影があったスタジオの近くで見つけて気に入っている、サイフォンドリップのコーヒーが飲める店に入った。

 注文をしてからはしばらく時間がある。

緊張とためらいを払いのけてついに僕は聞いた。

「アヤノさん、進藤先生と付き合っていたんですよね」

「え、どうして。ああ、英士くんに聞いたのね」アヤノさんは伏し目がちになり「でももう、終わったの」と言った。

 こうして向かい合うと彼女の面影が少しやつれている気がする。

 僕が好きなこの人をこんな風にさせたのは、進藤先生だ。

 でもあの人は別に悪気じゃない、英士の言った通りなんだろう。すごく魅力的なあの人は、ただ無自覚に相手の心を焼いて、そして去ったのだ。

「あの、それも聞きました」僕は言って、その後沈黙が流れた。

 やっぱり今聞くべきじゃなかった、そう考えた時アヤノさんが僕に「なんかごめんね、黙ったままで。心配してくれてたの、清貴くん」と言った。

 僕も少し俯いていたけど、アヤノさんに向き直った。

 いつ、とそう決めていたわけじゃない。でも突然にその時がきた。

「心配っていうより、知っていてほしいことがあるんです。僕、前からアヤノさんが好きです。いつだってそばにいたいと思ってます」

「清貴くん」

「本当です」また少し沈黙が流れた。

 でも、アヤノさんは言った。

「清貴くんは優しいから、振られたおばさんの私を慰めてるの。大丈夫よ。失恋すれば大人だって傷つくけど、そのうち立ち直るわ」悲しげな目で僕を見上げた彼女が言った。その目を見たら、どうしようもなく彼女を抱きしめたくなって、僕は膝においた両手を握りしめた。

「アヤノさん、そんな言い方しないで。僕は慰めたいんじゃない、あなたが好きです。本気なんです」

「私、三十二なのよ。清貴くん、知らないよね。ひと回り以上年上なのよ」

「それは関係ないんです。僕はいつもアヤノさんを見てた。一人占めしたい、僕を見てほしいんです」

 いつの間にかためらいは消え失せていて、遠く憧れの世界にいたはずのアヤノさんを引き寄せたいと僕は強く願っていた。

 しばらくして、まろやかな白い色のテーブルにサイフォンのコーヒーが二つ運ばれて来た。

 ガラスのポットに入ったコーヒーに店内のライトが当たると、テーブルにルビー色の光が落ちた。

 切実な想いの結晶のような赤い色。

 二人とも黙ってその光を見つめた。

「僕はアヤノさんに、男として見られてないんでしょう」

 強引だと思っても、僕の一言一言が彼女を困らせているとしても、どうしても伝えないではいられなかった。

「わかってるけど、僕は悔しいです」

 アヤノさんは黙ったまま、静かにガラスのポットの中身をコーヒーカップに移すと、テーブルに映ったルビー色の光は儚く色を失った。

 僕も同じようにして、二人でコーヒーを飲んだ。

「私と進藤先生が付き合い始めた頃に英士くんが、先生すごくモテるし結構エロいと思うよって言ったわ」英士がアヤノさんにそんな事を言っていたんだ。

「忠告してくれてるのって言ったら、そうじゃないけどってプイッと横向いてた。あの時は、尊敬する先生を私なんかに取られたみたいに思ったのかな」アヤノさんが言った。

 僕は英士の様子が目に浮かんだ。

 アヤノさんの目に映ったあいつは、師匠に憧れる純粋なギター少年だったんだろうけど。

でも英士は忠告なんかしたんじゃない、多分そうやってあなたには負けないって宣戦布告していたんです。

 英士、僕も状況は良くないけどまだ諦めないよ。今はかっこ悪くても、お前に笑われたくなんかないんだ。僕はそう思った。

「ごめんね清貴くん。私ちゃんと答えてないよね。今はいっぱいいっぱいなの、いい大人のくせに、気持ちの整理がつかないの」

 小さくそう言ったアヤノさんの瞳が潤んで口元がかすかに震えていた。

 見つめる僕もそれ以上何も言えずに、苦くて華やかな風味のコーヒーを口にしていた。

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