アステカの祭壇
『こちらは……さんから送られてきた写真です。赤ちゃんが写っていますね。そしてこちらは……さんからの写真。テーマパーク旅行の様子ですね。これらは年代も撮影者もバラバラです』
司会者が取り出した数枚のフリップには、それぞれ異なる写真が写っており、ある箇所だけ紙で隠されていた。
『写っている人は皆同一人物ですよね?』
『いいえ。別々の視聴者から偶然送られてきたものです。ですがスタッフは、ある共通点を見つけてしまいました』
司会者の思わせぶりな言葉に、スタジオの若手アイドルや芸人達はどよめき始めた。おどろおどろしいBGMと共に司会者が紙を捲ると、全員から短い悲鳴が上がった。
『これらの写真には全て、赤い幾何学模様が写っているのです。それぞれ壺や台のように見えますね。専門家によると、ここからは凄まじい叫び声や呻き声が伝わってくるのだそうです。まるで人の命が終わる間際のような……』
スタジオに漂う不協和音と重なり、司会者の淡々とした説明が見る者の顔を撫でる。
「これ、スゲェ昔の番組だな」
隣で胡坐をかいていた友人が、何とも間の抜けた声を上げた。テレビに噛り付いていた俺は、開け放された縁側から蝉の声を乗せた心地よい風が吹いてくることに、ようやく気付いた。
「お前よぉ、昔録画したビデオを見せたいって言うから、こっちは父ちゃんが見てそうなエロいやつかと思って来たんだぜ?何だよこれ、つまんねぇよ!」
もう片方に座る友人が声を荒げた。俺は彼らを一瞥し、再び司会者の言葉に耳を傾けた。
『……はるか昔、アステカ文明の民が生贄を乗せた祭壇や、その血を溜めた壺の影。これらには、生贄達の声なき怨念が込められているのです。誰にも届かなかった彼らの叫びが、時を越えて現代のフィルムに写りこんでしまったということなのです』
続けて取り出した写真には、外国の美術館や京都の清水寺が写っていた。そしてそれらを覆い尽くすかのように、空に写る赤い祭壇も。
「ヨシタダ、俺ら先に宿題やっちゃうからな。気が済んだらこっち来いよ。写せるのお前のしかねぇんだからよぉ」
友人二人はさっさと奥の机に戻り、夏休みの宿題の数々をつつき始めた。俺は少し肩を落とすと、小さく笑った。彼らへの失望感と、彼らとは違う自分への満足感が、小学生時代の俺には常に付きまとっていた。
俺は声なき叫びなど上げなくても十分だった。俺には、自分という最大の理解者がいたのだから。
高校二年生としての一年も、秋に差し掛かっていた。
毎日入っていく早朝の校舎には少し冷たい空気が漂い始めている。下駄箱の前で上履きに履き替える時に、足の裏で感じる床の冷たさが、寝ぼけ眼の俺を勉学にいそしむ崇高な学生へと切り替える合図となりつつあった。
教室までの道のりでは、闊歩する早起きな同級生達が「おはよう」「おはよう」と元気な朝の挨拶を交わす。俺の頭上を飛び越えるように。
その挨拶の赤外線センサーをかわすような心地で自分の教室に辿り着き、引き戸を開けると、先に到着していたクラスメイトの何人かが顔を上げた。俺は無言で自分の席に着き、彼らも無言で各々の行動に戻った。俺が始める行動と言えば、机上に組んだ両腕へと顔を落とし、目を閉じてクラスメイトの会話を盗み聞きする事だった。
「ああ、○○高からだって。あそこは野球が強かったかな」
男子の一人が言った。
「あそこは最近負けっぱなしだぞ。それよりもバスケ部の奴が、あそこは強いって言ってたな」
「スポーツ推薦じゃないんだし、そんなに期待するなよ」
他の男子が続けていった。そしてスポーツが、いや勉強が、いやいやルックスだけでも、とどこの誰だか知らない人間の下馬評がしきりに繰り広げられていた。
他校の知り合いの話だろうかと意識を彼らから逸らそうとしたが、話を盗み聞くうちにその話題の全体像が見えてきた。
「そうか、転校生が来るのか」
隣の席にすら届かないような声で俺は呟いた。俺は彼らのように、どのような人物であるかと想像を凝らす事はしなかった。それは授業までの体力温存に支障をきたす無駄な考えに過ぎない。
本当の眠りにつこうとした俺の両耳には、猶も彼らの会話が耳に入ってくる。
「その転校生ってよ、このクラスに来るらしいぜ」
関係ない。俺にとっては関係ない。
「マジかよ。じゃあ今日、そいつ誘ってカラオケに行くか」
俺には関係ない話だ。
「案外根暗で影の薄い奴だったりしてな」
いつまで盗み聞きを続けているんだ。もう聞いたって何も良い事はないのに。
『オカルト君みたいに』
ホームルームの始まりを告げるチャイムが響いた。
「……今日こそ課題の〆切を守ってもらうぞ。いいな。さて、それじゃあお待ちかねの転校生を紹介する」
およそ話し上手とは思えない担任のお説教の後に、転校生の登場が控えていた。担任の合図で教室に入ってきたその転校生にクラス全員の視線が釘づけになった。一番に目を逸らしたのは俺だけだった。
「○○高から来ました、浦部保憲です。どうぞよろしくお願いします」
ハッキリしたよく通る声だった。やはり初対面での第一声はその人間性を強く印象付ける。
それからの数日間、人を見る目があると豪語できない俺から見ても、保憲は好男子であり善良な人間であった。欠点がないわけではないが、それらの補い方も充分に心得ている。どの人間が一目見ても好印象を与えられるであろうと思えた。その魅力を如何なく発揮し、彼の人間関係は学年の半分以上を占めるまでに到達した。
ただ一つ気にかかる事があるとすれば、俺と彼は一度も会話をした事がない事だ。俺はお世辞にも社交的とは言えないが、彼はクラスの隅から隅までの生徒に話しかけ、その魅力を車の轍のように残していく男であった。それであっても俺に一言でも声をかけてきた事は何故かなかった。
不満なわけではない。元々転校生が俺に対し良い影響を与えるなどとは考えもしなかったのだ。彼の来訪が俺にとって塵一つ飛ばせない風にも等しかったと思えばそれで収まる話だ。
今日も彼は多くの友人を連れ、俺の目の前を通り過ぎていく。
彼と視線が合った気がしたが、気のせいに違いない。
放課後。
廊下で部活に赴いたり、今日はどちらがジュースを奢るかで口論をしていたりする同級生の中、俺は帰りがけの身を翻して教室に向かっていた。自分の机に読書用に持参していた本を忘れてきたのだ。
息せき切って教室の引き戸を開けると、黒板や机に染み入るような静けさに包まれている中、ポツンと佇む者がいた。そいつは俺の席の近くで本を開いていた。
それを見た瞬間、心の中で何かが弾け、思わずそいつに飛び掛かった。あわや押し倒そうかという所で、そいつは俺の鼻の先に手のひらをぐいと差し出した。沢山の友人を連れている時のような、爽やかな笑みと共に。
「勝手に見た事は謝るよ。でも君、こういうの好きなんだね」
保憲が持つ本は黒い表紙に、目がチカチカするような原色の字体で『最新!ググってはいけない呪いのワード』と題されていた。
「いわゆるオカルトってやつ?少数派な趣味だよね」
「か、返してよそれ」
保憲の言葉を遮るように、俺は言った。心の中では人の私物を勝手に触る輩への強い怒りを覚えていたが、乾いた口から出たのは全く感情を乗せられていない、国語の問題で出題されれば誰もがその心理なぞ読み取れないような、弱々しい声だった。
「返して、だって?そりゃあ返すよ。君のものならね」
保憲はあっけなく本を俺に差し出した。
「いや、ゴメン。そんな目しないで。君みたいな人とのコンタクトに慣れていなくてさ。転校初日からカラオケに誘おうとする人とか、質問攻めにしてくる人とは雰囲気が違うじゃん?」
孝則の言い分は最もだ。俺は自分がされて嫌な事は他人にしない。
「お前、ぼっちだろ」
俺の動揺をよそに、浦部保憲は続けた。
「気が付かないとでも思っていたのか、岡本善縄君?僕はお前の渾名も知っているんだぜ。なあ、オカルト君?」
俺は無意識に読みかけの心霊現象に関する本を隠そうとしたが、すかさずそれを奪った保憲は、鼻で笑い更に続けた。
「ははあ、人に指摘されて隠すとなると、自分でも良い趣味とは思っていないな。そしてそれが自分をぼっちたらしめている原因であるとも認識しているわけだ」
彼、いやこいつはどこまでも整った言い回しをする。怒る前に呆れてしまいそうだった。
「聞いたぞ。お前、放課後になると帰宅部のくせに学校に残っているんだって。何しているんだよ?人に隠れてコソコソしているとは、これまた良い趣味とは言えないものかな?」
そうか、こいつにはどう取り繕っても無駄なのか。そう思った瞬間、普段他人に対して張る防御壁が一瞬で崩れ去った。
「さっきから人をお前呼ばわりするなよ!お前に人の趣味までどうこう口出しする権利はないだろ!」
俺は初めて明確に相手への敵意を持った言葉を口にした。揉め事を避けようと今まで人への態度は気を使ってきた。そのような人間であっても、心のたがというものは簡単に外れるものであるのか。目の前の慇懃無礼なクラスメイトの態度がそれほどまでにあんまりだったと改めて理解した。
しかし俺の抵抗にも保憲は顔色一つ変えず、それどころか上手に積み木を重ねられた子供のような笑顔を見せた。
「ただの好奇心だよ。少なくとも君の居場所を壊そうという無粋な考えではない」
先程とは打って変わった穏やかな態度になった。
「教えてくれよ。さもないと僕の情報網を駆使して、お前に関するあらぬ噂を流すぞ」
今度は脅しにかかってきた。食えない奴とはこういう男を言うのだろうか。貧弱な風に過ぎないと高をくくってきた転校生の存在は、ここにきて俺の歩みを止めかねない暴風と化したのであった。
学年の教室がある棟を離れ、特別教室や物置部屋が点在する棟に向かうと、そのうちの使われなくなった一室に入った。放課後も遅い時間になり、一様にカーテンがしまったこの教室は暗く重々しい様子であった。俺の高校は人数が多く、その分部活も多様に存在する。しかし年代と共に生徒の嗜好も変化し、過疎化してやむなく廃部に至る所もあったと聞いている。その一室も、昔存在した文化部の夢の跡であった。
「随分汚い所だな」
「そんなに口が悪かったのか、浦部君」
「保憲でいいよ。もしくは加藤で」
「嫌だよ。完成しちゃうじゃないか」
「ふふ、やっぱり君はオカルト君だね」
先程言われていたら手まで出ていそうな罵詈雑言を浴びせられているが、ここまでの道中ですっかり慣れてしまった。世の中何でも慣れれば良いというものではないと悟った瞬間である。
「それで、オカルト君はここで何しているんだい?」
保憲は教室内を見回り、ある机に目を付けた。
「写真だねこれは。たくさんあるぞ。君も写真を撮るような間柄がいたんじゃないか。あ、これ写っているの君だけじゃん」
保憲が手に取って眺めているのは確かに写真の束である。
「何だかよく分からない写真だな。皆ぶれていたり現像のミスがあったりするけど」
「俺はアステカの祭壇を撮ろうとしたんだ。誰に頼まれたわけでも友達とやってるわけでもないから、ただの自己満足だけど」
その言葉を聞いて、保憲の目が輝いたように見えた。
「詳しく聞かせてもらいたいね」
「昔の心霊特番でやってたやつなんだ。バラバラの場所で撮った写真のどれも赤い影が写っていたって。それはアステカ文明が人身御供の生贄を捧げるために使った台や壺だと言われている」
説明しながら、自分が人前でどもる事なく長々と話せている事に気付いた。自分の好きな話題だからなのか、目の前の保憲がそれまでの茶々が嘘のように真剣に耳を傾けているからなのかは定かではない。
ひとしきり説明すると保憲が口を開いた。
「もっともらしい噂を並べ立てているけど、お前の写真を見るにアステカの祭壇なんてどうせ写真のブレとか現像ミスだと判断しているんだろう?」
「そりゃあ何か霊的な力に頼って写真を撮るわけにはいかないじゃあないか。それにアステカの祭壇は心霊スポットで撮られるわけでもないから」
「何でそんなもの撮ろうとしているの?」
「何ていうか、初めて見た時に惹かれたっていうか。よく分からないけど、今までこれを撮る事を楽しみにしてきたから」
他に楽しみもなかったし、とまで言いそうになってやめた。
保憲は数秒間難しい顔をしていたが、急に顔色を変えた。
「とっても低俗な活動!その時間を勉学やスポーツに費やしている善良な高校生に申し訳ないような活動!」
そう叫ぶと、言った内容を理解する前に俺の手を握ってきた。
「是非撮ろう!アステカの祭壇!」
保憲の満面の笑みを見て、俺は心が真っ白になった。こいつの人間性がますます分からなくなったが、一つ分かった事は、こんな奴が相手でも誰かに何かを伝えるのは気持ちの良いものだという事だった。
翌日、保憲は相変わらず俺に一言も話しかけてこなかった。友人と笑いあう保憲は、昨日の事が嘘だったかのような爽やかな態度を保っている。彼が俺に向かって「ぼっち」と馬鹿にしてきた事に始まり、アステカの祭壇の話を聞いてもらった相手には思えなかった。
しかし放課後になると、保憲は一番に空き教室にいた。ここに来て誰かと会うことなど考えた事もなかった俺は早々に腰を抜かして奴の失笑を買った。
「浦部君は部活動何してるの?」
「保憲でいいって。僕はそこまで一芸に秀でているわけでもないから帰宅部だよ。まあ、友人との時間を大切にしたいんだという名目だから一度も馬鹿にされた事はないけどね、お前みたいに」
昨日と何ら変わらない態度で保憲は接してきた。いつも通り誰かに毒づいて誰かから噂されている妄想に苦しんだ一日の終わりにこの態度をされては今度こそ手が出るかと思いきや、こいつの罵詈雑言はやたら語彙に富んだ代物で、唐突に振りかけてくるから劣等感の前になにくそと言い返してしまう。それ故に鬱憤がたまらず、寧ろ一日の鬱憤を発散させる事ができた。
保憲は空き教室に居着くようになったものの、何をするわけでもなく俺の横にいては俺のやる事にああだこうだと口出しするというよく分からない立場に落ち着いていた。それでも話し相手ができた事で今まで以上に意欲的な活動ができるようになった。保憲が未だに「お前」呼ばわりと名前呼びの要請と困った時の俺のあらぬ噂を言いふらす作戦をやめてくれないのが悩みである。
時々俺は保憲に「お前もオカルト好き?」と尋ねている。だがしかし、いつも「お前と一緒にするな」と否定なのか侮蔑なのか判断しかねる返しをされている。自分から言い出した事はないが、保憲とはメールのやり取りもした事はなく、保憲からは放課後以外の付き合いを一切しようとしない態度を貫かれていた。
ある日保憲が学校を休んだ。担任の話では風邪だという事だった。あからさまに残念がるクラスの人間をこれまでなら冷めた目で眺めていた俺も、珍しく一日に寂しさを感じていた。彼らは放課後お見舞いに行こうと言いだしていたが、保憲の個人的な情報を何一つ把握していない俺はメールでの見舞いもできそうにない。
仕方なく久しぶりに放課後一人で空き教室に出向き、新しい写真の準備を始めた俺の背後でいきなり戸を開ける音がした。
「よ、オカルト君!元気ですか!」
振り向くと教室の入り口に三人の男子生徒が立っていた。名前は分からないが見た事のある顔立ちだと思っていたら、彼らは俺のクラスにいる運動部の男子だった。彼らのにやけた笑みは常日頃から目にしているからすぐに判別できた。
「お、何してんのそれ。呪いの儀式?」
唐突に尋ねられた俺は親しくない人間を前にして固まってしまい、上手く返す事ができず、結果ぼうっと彼らを見つめる事になってしまった。
「ちょ、怖ぇよ。呪うなよ?」
どうやら俺と彼らは会話の速度が異なるらしく、何一つ弁明できていない俺を放って頓狂な解釈を押し付けられた。それよりも彼らが何故俺の居場所を知ったのかが見えてこない。俺の疑問を悟ったかのように彼らは訊かずとも丁寧に答えてくれた。
「最近ヤッスーの付き合い悪いんだけどさ、放課後も用事があるっていなくなるんだよね。そんで軽くストーカーしたら、お前との密会現場を見ちゃったわけ」
確かに保憲はここ数日で急に彼らと帰るのを止めたわけだから、彼らが不思議に思うのも当然である。しかし彼らの探索が保憲不在の今に始まった事は不幸だった。俺一人では上手い言い逃れが思いつかない。
「なあ、何していたんだよ。大体ここの教室を勝手に使って良いのか?」
その言葉が俺の心に刺さった。保憲がしている事からすれば彼らの言い分の方が余程正論である。今までクラスで目立たない存在だったからこそ気にかけられていなかった俺の行動が、保憲の介入で浮き彫りになってしまった。俺は脳裏に浮かんだ保憲との交流を思い切り掻き消したくなった。
荷物を持つと、俺は彼らを押しのけて空き教室を出た。彼らはまだ何か言いたげであったが、俺は一度として振り返ろうとしなかった。
帰宅してからも起こった事実が受け止められず、俺は出されていた課題を忘れて翌日に居残りを食らった。保憲は来ていたが、その日俺は居残りとして空き教室には出向かなかった。俺としてはそれが不幸中の幸いだった。一日中昨日の出来事を振り返っていた俺は、あいつと顔を合わせるのにためらいがあった。昨日の話をどのような心持ちで伝えて良いのか分からない。昨日の男子達は俺を馬鹿にはしなかったし、俺の活動に踏み込んで口出しをしたわけではない。しかし彼らとの遭遇は保憲との遭遇よりも何倍にも不幸に感じたのは何故だろうか。彼らに俺の活動がバレる事がとてつもない恐怖に感じたのは何故だろうか。
俺はその日から空き教室に行く事はなくなり、保憲とも顔を合わせる事はなくなった。放課後以外での接触をしてこないあいつは俺に不満を垂れる事もなく、普段通り他の友人と話している。まるで俺の事をきれいに忘れ去ったかのように。その様子を見ていると、俺があいつから離れた事は良かったのだと思い込んでしまう。
俺の生活は保憲が来る前と同じものに戻った。それなのに前よりも楽しくないのは何故だろうか。今まで分かっていた筈なのに。
完成するはずだったアステカの祭壇が消えていく。
写るはずだった声なき叫びが、再び誰にも届かない闇に沈んでいく。
もう俺には、声なき叫びを上げる必要なんてない。
いや、上げる勇気なんてなかったのだ。
数日後、空き教室に写真を残したままだった事に気づき、流石に心許なくなって放課後に出向いた。入り口の前に立つと、教室は静かなものである。写真を回収すれば、ここでの活動も全て終わるのだ。そう思いながら戸を開けた。
そこには、こちらに背を向けて椅子に座る者がいた。俺が来たのを感じ取るとこちらを振り向いた。保憲である。その手には使い捨てカメラと思しき物がある。思しきというのはカメラを覆う紙が剥ぎ取られ、プラスチックのボディだけになっていたからだ。
いつになく真剣な表情の保憲に一瞬気圧されてしまったが、俺が動く前に保憲は素早くシャッターを押した。
「あとは現像の時に全てやってくれるよう頼んで完成だな」
事も無げに言う保憲の前で俺は事態が呑み込めずに硬直していた。
「感光だったんだ。調べたところアステカの祭壇現象はカメラの感光をいじくって撮れるものだったらしい。こうなるように撮るにはカメラの部品に細工しなくてはいけなくてね。随分手間取ったよ。まだ呪いの儀式の方が手っ取り早いほどにね」
保憲はまた軽い口調で続けた。そして俺の方を向き、
「何だその顔、少しは笑えよ。この保憲が来てやったんだぞ」
そう言って、にやりと笑った。
こいつは何も変わっていなかった。
俺は意を決して、これまでの事を説明した。話を聞く保憲の表情は変わらないように見えたが、「俺と保憲は出会わなければ良かった」と口走った時だけ、一瞬眉を顰めると、
「そういうのがぼっちの自己欺瞞なんだよ。何でも自分が悪いだの自分のせいだと考える。鬱陶しくて仕方ない。そういう事をしたってお前の中でしか解決しないんだ。そういう所だぞ、僕が気持ち悪いと言ったのは」
今まで滞納していた罵声を一気に返された。そして一息つくと、カメラをいじくりながら後ろを向いた。
「今から十秒だけ真面目な事を言う。聞き終わったら頭から消去しろ」
そしてゆっくり息を吸い込み、
「中学の頃同じ趣味の友人が一人いた。お前みたいに放課後二人で語り合っていた。だけどそいつは周りからの目を気にして俺から離れていったんだ。それから俺は趣味を捨てて、他人と同調して他人に好かれる道を選んだ。お前に会うまでな」
保憲はいつも以上に早口で言ってのけた。残念ながら俺は一字一句違わず聞いてやったが。
「ほら、このフィルムやるからあとで現像しに行けよ。もう僕がここにいる理由も無い」
そう言って保憲はカメラを振った。
その言葉に頷いてしまいそうな自分に気づいた俺は、硬く拳を握りしめた。ああ、まるで喧嘩を始めるような気合を入れなければ、俺には勇気など湧いてこないのか。そう自嘲すると、自然と力が抜けていった。
「いや、まだ撮ってないものがある」
保憲は黙って俺を見返した。
「二人で写ったアステカの祭壇」
「おいおい、僕まで呪われろって言うのか?本当にぼっちは図々しいな」
「人を呪わば穴二つ、だよ」
俺たちは互いの表情を見て、自分の表情を悟った。
その日から寂しい空き教室には、二つの笑い声が響くようになった。




