見えざる悪意
「くそっ、ここにもいない!」
「一体どこにいっちゃったの……」
「スピカさーん! どこですかー!!」
陽が昇り始めた朝方のブラズニールは喧騒に包まれていた。或斗が駆け回り、繊華は悲痛な表情を浮かべて、ステラは声を張り上げる。皆一様に焦りをいせている、その訳は。
スピカが姿を消した。
これから塔へ向かうと息巻いていた或斗に、繊華からスピカの姿が見えないという報を聞いてから、起きている船員が総動員で船内を探し回った。だが、その小さな姿は一向に見つけらないままで、或斗は繊華と合流する。
彼女は思い詰めたような顔をして青ざめていた。その口から漏れ出す言葉も自分を責めるものであった。
「スピカはどこか思いつめた感じでした。私が、私がちゃんと気持ちを汲んであげられてたら……」
「そう自分を責めなさんな。ここにいないってことは、スピカのいる場所はただ一つってわけだろ」
或斗はひょうひょうと繊華を慰める。その内心で自分自身への歯がゆさを覚えながらも表に出さないようにと。それにどこか気付いたような繊華も小さくだが頷いた。
スピカの捜索を一旦打ち切ると作戦室へと戻る。スピカが船内見つからない以上、塔にいる可能性があるので作戦を決行させようと或斗は考えていた。
部屋の中ではハカセが作戦準備を進めている。スピカ捜索に人員を割かれているのでたった一人しかいない。なので或斗達も手伝おうとしたが、ハカセは首を振って断った。
「いや、ただの確認作業だから僕一人で十分さ。……スピカ嬢がいなくなったというのは衝撃的だけど、だからこそ迅速に対応しないとね。ところで僕の個人的な所感になるけどちょっといいかな?」
「スピカがいなくなったことに、ついてですか?」
繊華が尋ねるとハカセが頷いて話を続ける。見解としては、最初からスピカを引き寄せるのが目的だった、という事だ。囚われているというアーテルもその為にこの白い塔に置かれていたのかもしれない。
スピカがここまで来るのを解っていて、隙を見せる時まで息を潜めていたのだろう。そこまで言うとハカセは言葉を切った。
「ハカセ、最初からスピカが目的って、一体誰がそんな事を!?」
「あの塔の主と言っておこうかな。こうして僕らが警戒していたことの裏を突いたんだ、塔へ乗り込んでくることもお見通しだろうね」
「そんな……」
繊華はショックを露わにする。スピカに迫っていた危機を見過ごしてしまった事と、聡明でいつも的確な助言をくれたハカセが術中に陥ったこともだ。
対して或斗はずっと黙ったまま立っている。世界樹の街にて出会った男、オスカー・ワイルドの言葉を思い出していたからだ。スピカを狙う者がこれからも出てくると、あの男が言っていたその言葉通りの事態となった。それに対して怒りがふつふつと込み上がってきた。
バンと机を叩いた或斗へ、驚いた繊華とハカセの視線が注がれる。
「それがどうした! スピカを攫われたんなら取り返すまでのことだ、相手がなんだろうがオレたちの仲間に手ぇ出した落とし前をつけさせてやるだけだ!!」
「或斗君のその直情的なとこは今一番大事なところだね。……君の言う通り、ただ頭をこねくり回すよりも行動を起こすべきだ。その先頭を突っ走っていくのだろう?」
「おうよ、オレはいつもそうしてきたからな!」
怒りを露わにしたと思ったら大胆不敵な笑みを浮かべた或斗の百面相に、呆れ気味になりながらもその率直なあり方は今の二人には実に頼もしいものだった。
太陽が昇り始め、鬱蒼と茂る森を朝焼けが照らしつける。
陽光を浴びて白く輝きはじめる巨塔の足元では、通常よりも多くのオートマタが周囲を巡回している。これからやってくるものを迎え撃つように。
そんな中、深い森の静寂を打ち破るように鳥たちが飛び上がる。それから少し遅れて樹木がへし折れる音が轟いた。塔を囲む木々に仕込まれた感知魔方陣が、何かが魔方陣ごと木々をなぎ倒されながら塔へ向かってくるのを示していた。
警戒度を高めたオートマタが集結していくと、塔の境に生えた木を容易く押し潰しながら轟音の正体が姿を見せる。
それは巨大な鉄塊だった。前方へ突き出された衝角を大型トラックのパワーで無理やり押し進めており、各部に装甲板代わりの鉄板がいくつも溶接されたいる。改造トレーラーはスピードを落とさぬまま突っ込んでいき、集まっていたオートマタ達を轢き潰してスクラップへと変えていく。
鋼鉄のモンスター、その手綱を握るのは或斗だ。
「作戦は単純さ。陽動役がマシーンで突入して注意を引いて、その隙に塔の内部へ入り込む。潜入役は三手に別れてそれぞれのルートで上層を目指しながら、スピカ嬢達を救出する」
「ハカセ、どうやって中に入るの? 正面玄関は閉ざされているし、すぐにバレる可能性があるわ」
作戦室にて、卓を囲みながら皆で作戦の確認を行っているが内容に対してアスールが疑問を呈する。そう言われるのは想定内だったようで、ハカセがモニターの一つを操作すると空撮映像が流れ始めた。
画面に映ったのは塔の周囲を警戒しているオートマタが出入りしている小さな搬入口であった。ここを使えば内部に侵入しやすいだろう。陽動役がオートマタを引きつけているので鉢合わせになる可能性も低い。
「いつの間に空撮してのかい、バレねえのか?」
「既に存在が知らているなら、ドローンぐらい飛ばしても大丈夫だろうさ。本命である潜入チームを悟られない限りはね」
幾つかのドローンはまだ塔の周囲を飛んでいるとのことだ。これも陽動の一つであり、こちらの存在が
露呈しているなら敵方の目を引きつけておけるものを増やしておく魂胆である。そして陽動役の要となる役目を仰せつかったのが或斗だ。
「モニカ嬢、マシーンの準備は良いかい?」
「もちろん! 例えどんな鉄塊とぶつかっても押し退けるように出来てるわよ」
マシーンとは突入のためにモニカがトラックに改造を施した即席装甲車の事である。その運転手の或斗も操作方法は習得済みで、あとは実物を動かすだけといったところだ。鉄塊とも言えるモンスターマシーンを動かせるようにと気合を入れる。
「そんじゃあ、ド派手にかましてやりますか!」
その言葉を号令に皆が動き出した。
『もしもーし、或斗君聞こえてるー?』
「あぁ聞こえてるぜ、モニカ」
改造トレーラーの運転席に収まっている或斗が周囲のオートマタを蹂躙していく中、隣に置かれた無線機から、そこから場違いなほど暢気な声が響いた。
無線機越しからこちらへ呼びかけるモニカはブラズニールから全体を見下ろしながら指示を出している。
突入作戦の要は潜入チームを悟らせず万全の状態で塔の中へ入れることだ。そのために改造装甲車で探知魔法陣を破壊して道を作り、歩哨たるオートマタも引き付けつながら倒している。
『みんな潜入できたみたいね。派手にした甲斐があったわね』
「なら、とびっきりの仕上げといきましょうか!」
アクセルを踏み込むとスロットルが全開となってエンジンが唸り声をあげる。
「こちらAポイント準備よし。他の皆はどうだい?」
『こちらBポイント配置についたわ』
『Cポイントも問題ありません!』
薄暗い通路の中でハカセは無線機に向けて尋ねた。すぐに答えが返されて問題はないようだ。
陽動役である或斗が切り開いた森を抜けてオートマタの気を引いてる隙を突いてに、小さな搬入口から塔内部へと潜入していた。機動力や隠密性を考えて一つに固まって動くよりはバラけた方が良いということで、三つに別れて塔の内部を進んでいる。
ハカセとステラは貨物用リフトがあるAポイントを使ったルートで潜入しており、飛行魔法が使えるアスールと繊華がシャフトと通気ダクトのそれぞれを進むルートとなっている。
「これから無線封鎖を行うけど、緊急時や人手が必要な際は遠慮せずコールしておくれよ。目標であるスピカ嬢とアーテル嬢の救出を最優先として、あくまで戦闘はできるだけ避けるように。二人なら大丈夫たと思うけど十分気を引き締めてね」
『わかったわ、早く終わらせましょう』
『皆さん御武運を!』
アスールと繊華の返答を聞いて聞いて問題なしということから無線機のスイッチを切ると、ハカセはリフトの配電盤の方を向いて操作を続ける。ここを少し弄ればリフトを使えるようになるはずだ。その隣で鳥型の使い魔を飛ばして周囲を警戒しているステラが声を落としながら注意を促す。
「ハカセ、オートマタが2体ほど近づいてきています」
「やれやれ、早速か……。ちゃんと仕掛けをしてるはずだけど、もし作動しなかったらちょっとお願いするよ」
ステラが言う通りにリフトの方へ近づいてくるオートマタの姿があった。そして二人が視認できる距離まで近づいてきたところで、片方のオートマタの姿がその場から消えた。元いた場所には大きな穴がいつの間にかぽっかりと開いており、オートマタはそのはるか下方へ落ちていったのだ。
これがリフト操作を邪魔されぬよう事前に仕込んでおいたハカセの仕掛けであり、錬金術を応用して作られた罠魔法だ。落とし穴だけでなく、複数の罠がハカセの周囲に張り巡らされている。
残ったオートマタも警戒するように周囲を見回してから下を向くと、金属同士が擦れ合う音を出しながらリフトとは逆向きに駆け出していった。
同時に轟音が塔の内部一杯に響き渡る。その音量にステラは思わず耳を塞ぎ、飛んでいた使い魔たちも地面で縮こまっている。
「い、いったいなんですか!?」
「あはは……、これは或斗君の仕業だな、きっと」
下を覗けば塔の地上部分が見えるが、そこからもうもうと砂塵が舞い上がっていた。
「つくづく無茶苦茶なことをするのだな貴様は!」
「まあそういうなよ、正面玄関から入るってのが礼儀だから」
走る鉄塊のシートに深々と腰を落としている或斗に対し、その隣で手足を組んで座るジェフティが深々と嘆息を漏らしていた。
乗っている装甲車は衝角を塔の内壁に突き刺したまま見るも無残な姿を晒している。エンジン全開のフルスロットルで正面玄関を容易く打ち破り、勢いが収まらぬまま壁にぶつかった。その衝撃は凄まじいもので、突き刺さった衝角はねじれて車体そのものも歪にひん曲がっている。
これなら乗っていた或斗もただではすまないはずだが、当の本人はかすり傷一つないぴんぴんした状態で座席にふんぞり返っているのだ。
ここまで派手に突っ込んできたので塔内部にいるオートマタも無視できないだろう。上を見上げれば続々と集まって来ているのが見える。ひしゃげた扉を蹴り破るとすかさず魔導銃を抜くと、掲げて撃ち放った。ややあってから2体分のオートマタの残骸が足元に落ちてくる。
「ここで時間稼ぎか、骨の折れる仕事だな」
「そいつはオレの役目だ。ジェフティ、お前は上に昇ってスピカ達を探してくれ」
「正気か? 貴様一人でここのオートマタ全てを相手取るのは無謀だ。それに我を単独で動くということは殆どの魔力をこちらに回すことになるぞ。そんな状態で戦えるものか」
出しかけていた黒炎を消すとジェフティはその提案に異を唱える。ジェフティが離れて行動すれば、火力は大きく落ちるだけでなくジェフティの単独行動のために魔力の大部分が使われてしまう。そんな状態でオートマタの大群を相手できるのか不安要素が多い。
今日一番の嘆息を漏らしているジェフティに向けて、それでも或斗は気楽に手を振って早く行けと促している。
「スピカを探すには人手が多いほうが良いし、ここでの足止めもしなくちゃいけない。これはそういった役割分担だよ。それに言ってみたかったのさ、ここはオレに任せて先に行けってな!」
「まったく貴様のやることなすことに呆れ果てるものだ。では我は征くがそれでいいのだな?」
「あぁ、スピカを助けるって美味しい役を譲ってやるんだからしっかりやれよ? オレはやばくなったら逃げるから後はよろしくだぜ」
絶対に逃げないだろ貴様は。そう確信めいたものがあったが、ジェフティは言葉にすることなく姿を影のような黒点に変えると壁伝いに昇っていく。
それを見送りながら或斗は装甲車の上に立つ。その周りを囲むように無数のオートマタが静かにこちらを見据えていた。それに対して中指を立てながら声高らかに宣戦布告を叩きつけた。
「さぁ、どっからでもかかって来い! 全部スクラップに変えてやるぜ!!」
或斗がオートマタの大群と戦い始めた時、他の皆も上を目指して突き進んでいた。
「これでリフトが使えるようになったね」
「さぁ、行きましょうハカセ」
ハカセとステラがリフトに乗り込むと軋む金属音を鳴らしながら上昇していく。貨物用のためか四方は囲まれておらず足を踏み外せば下へ真っ逆さまに落ちるだろう。だから二人はピッタリと身を寄せ合っているが、その眼に恐怖の色はない。
「目障りよ!」
シャフトの隙間を身軽に昇っていくアスールは足場となる所にいたオートマタを槍の一閃で瞬く間に破壊する。その一撃の速さに反応することすら出来ずに崩れ落ちる機械人形に目もくれずにさらなる上層へと飛び移っていった。
「待っていてねスピカ、今すぐに行くから!」
通気ダクトの底に立つ繊華を包む空気が渦を巻いてやがて吹きすさぶ突風となった。手にした扇を広げて大きくあおげば、足先が地面から離れて体が宙に浮いた。風に乗った繊華は真っ直ぐに上を向いていた
囚われた仲間を助け出すため。それが共通意思であり行動理由だ。
どれくらいの時間が経ったのだろう。魔力が吸い取られる時の脱力感と流れ込む不快感によって、スピカの時間の感覚は曖昧になっていた。
唇が触れ合う度にアーテルの感情や記憶が、スピカの中へと入り込んできた。人体実験に似たような処置を施されて、その時に受けたアーテルの苦しみも感じ取れた事で、スピカはアーテルを拒絶する事が出来なくなっていた。そして、その中に強烈な狂気が渦巻いていることにも
「フフフ、こんなに顔を汚しちゃっておねぇちゃんったら」
互いの唇を重ね合わせる音と布ずれの音だけが聞こえて、長い長い口づけを終える。苦しげに呼吸をするスピカの傍らで、アーテルは顔を流れる涙や涎を舌で舐め取っていく。
苦痛と恍惚が混ざりあった表情を浮かべ涙と涎で濡れたスピカを、恍惚めいた表情を浮かべたアーテルが眺めている。
「いい表情だよおねぇちゃん。もっと見せて、アーテルの知らないおねぇちゃんを!」
「アーテル、ここにいちゃダメだよ」
何とか振り絞るような声をスピカは上げる。アーテルの記憶や感情が流れてきたことで、スピカは今のアーテルの状態を理解できた。
このまま心の中に狂気を宿し続けていたら、更に心を病んで人として壊れていくかもしれない。姉としては家族として、それを見過ごすことなど出来るはずもなかった。
「みんなのところへ、わたしの、仲間たちが、いるところへ、一緒に」
「嫌だ」
息が絶え絶えなスピカの説得を、アーテルは短くも明確に拒絶する。上体を起こしたその顔からはさっと表情が消えていった。恐ろしいまでの無表情の中で前髪に隠れた右目の紋様が爛々とした光を放っている。
「アーテルはおねぇちゃんだけを見てるし、おねぇちゃんにはアーテルだけを見てほしいの。だから、他の人間なんていらない」
「それじゃ、ダメだよ! わたしはただ――」
あなたを助けたいだけ。だが、それは言葉にならなかった。アーテルの右目が妖しげな光を見せるのと同時に、スピカへ流れ込む不快感が爆発的に強くなったからだ。
首輪の魔力増幅を限界以上にまで引き上げられて、身体を駆け巡る痛みにもがき苦しむスピカを見て、アーテルは目を見開きながら口角を歪に上げる。
「どう? 苦しいでしょ、おねぇちゃん。でもすぐに魔力が高まって気持ちよくなるよ。そしたら、もっとアーテルのこと好きになってくるよね、おねぇちゃん?」
「ま……それは、ダメェ……」
「もう、おねぇちゃんは強情なんだから。じゃあもっと気持ちよくしてあげる」
上体を起こしたままでアーテルが腕を構える。スピカは唐突に引きつったような声をあげた。なぜなら、アーテルの腕が伸びて、その豊満な乳房を強く揉み始めたからだ。
揉みほぐす度にスピカの乳房は張りのある弾力を返していく。力を込めれて揉みほぐせば弾力はもって反発し、指先に何とも言えない心地よさを残す。どれだけ揉んでも飽きのこない感触に、アーテルは一心不乱に揉みほぐす。
魔力が徐々に肉体へ満ちていき、全身の不快感が快楽へと代わっていく。スピカはそれに必死で抵抗するも、性感帯を強く刺激されては時折嬌声を漏らす。
「うわぁ、すっごく柔らかい……。どう気持ちいいでしょ? もっと触っていたいけど、十分感じてくれたみたいね」
荒い息を吐くスピカは、羞恥と興奮で顔を真っ赤に上気させて、全身にはうっすらと汗を滲ませる。アーテルはそんなスピカの唇を奪おうと、顔を近づける。
「ほんとに素敵な表情だよ、おねぇちゃん。それじゃ、アーテルの全部を受け取ってね?」
まだ息が整えられていないまま、スピカの唇はアーテルのそれで塞がれて口内へ舌が捻り込まれた。アーテルが深く強く吸い取れば、スピカの中にもアーテルが入り込んでくる
本来なら、魔力の譲渡で相手の感情が入ってくるなどあり得ない。スピカとアーテルは双子特有のシンクロニシティを互いの眼に施された術式によって高められて、両者の境界線が曖昧になってしまったのだ。
これまで以上にアーテルと深く強く繋がったスピカには、アーテルの心象を刻まれ続ける。それでもどうにか自意識を保っていられたのは、魔力が減っていくごとに左眼の術式が警告を発して、身体を走る痛みを感じ取れていたからだ。
だが、スピカの魔力がついに尽きようとしていた。本来なら蒼いはずの左眼は色が薄まって青灰色となり、警告を伝える鈍痛もいよいよ感じ取れずにいる。
(もうダメ……このまま心が溶けちゃう…………)
スピカが自意識を投げ出そうになると、身体の奥底からマグマのように熱い何かが吹き上がってくる感覚が走った。そして、スピカの意識を支える糸が切れそうになったその刹那、心のマグマが噴火した如く一気に表層へ吹き上がる。
「な、なにが……?」
予想外な大魔力が入り込んだ事で許容範囲を越えたアーテルは、堪らず唇を離してスピカに折り重なるように倒れ込んだ。
当のスピカも何とか自意識と左眼の視力を守りきれたが、最後に残った魔力を増幅させて一気に放出させたので、魔力はほとんど残っていない。
術式を維持するための魔力はギリギリ残ってはいたが、その代償に魔力回復を最優先させたため身体の方は指一本動かせないでいる。
「おねぇちゃんの魔力、凄かったよ。今日はもう魔力を吸えないけど、アーテルの中におねぇちゃんが入ってるのがしっかりとわかるよ」
すぐ横に顔を置いたアーテルはスピカの汗や涙を服の袖で拭き取っている。スピカの魔力を取り込んでか、アーテルの左眼が青みがかった灰色に変化して薄っすらと術式の模様も浮かんでいた。
小さく呼吸するスピカをしっかりと抱きしめると、アーテルは耳元で囁く。
「もうおねぇちゃんと離れたしないから。ずっとこうしていたいよ……」
それはアーテルの純粋な願いだとスピカにはわかった。例え心の中に狂気が渦巻いていても妹に変わりない。だから、言わねばいけないだろう。
「アーテル、わたしは」
その時、部屋の扉が大きな音を立てて開かれた。アーテルは起きて上がって扉の方を睨みつけるが、スピカは全く身体を動かしせなかったので、横になったままだ。
扉の向こうから現れたのは白衣の女であった。アーテルから睨まれているのを気にせず、ずかずかと部屋の中に入ってきた。白衣の女は無表情なままで、二人の状態を確認している。
「生憎だけど、もうそっちの研究に協力する気なんてないわ。だって、魔力ならおねぇちゃんからもらえるのだからね」
「魔力の統合は成功したようね。供給源の衰弱が激しいみたいだけど、アレの観測も出来たから問題なしね。……スピカ・シェルナ・ティエラはこちらで預からせて貰うわ」
白衣の女はスケジュール通りに仕事をこなそうとしていく。完全に無視される形となったアーテルが無論黙っているはずもなく、いち早く動き出した。
スピカを拘束していた黒い影が外れると、それらはアーテルの周囲に集まって一つの塊へと変化する。
「お前なんかにおねぇちゃんを渡すか! おねぇちゃんはアーテルだけのものなんだから!」
「ハァ、一々うるさいのよね、あなたは……」
アーテルの頭上で圧縮された黒い塊が球体となって、勢い良く撃ち出された。黒球が目の前まで迫ったところで白衣の女は何も動ずることなく、タブレットを操作している。当たる直前で黒球は四散して弾け飛んだ。
「うそ、なんで……」
「あなたの身体を調整したのはこの私よ? 対策はちゃんと取っているし、しっかり保険もつけているのよ」
「保険ってな――っ!? か、身体が、急に……」
タブレットを絶えず操作していくと、アーテルの身体の表面に幾何学模様の紋様が浮かび上がる。紋様が瞬く間に全身広がるとアーテルの身体は硬直していき、そのままの体勢で固まってしまう
突如として自由を奪われたアーテルは驚愕しながらも白衣の女を睨みつける。
「一体なにを!?」
「こんな風に暴れられた時の保険よ。その刻印があればあなたの身体の自由を奪って、このタブレットで遠隔操作できるようになるのよ。このまま意識を奪うこともね」
「そ、んな…………」
指先一つの操作で意識を奪われると、アーテルはスピカのすぐ横にぱったりと倒れた。死んだように動かなくなってしまったアーテルを、なんとか頭だけを動かしてスピカはその顔を覗き込む。
ただ意識がないだけだとわかり安堵したが、ここまでの一部始終でスピカはただ見ていることしかできなかった。身体を縛る戒めから解放されても、多くの体力と魔力が失われた肉体はスピカの意思通りには動いてはくれない。
いつの間にかベッドの脇に立っていた白衣の女が、スピカを無表情なままに見下ろして事務的な口調で告げる。今のスピカにはそれに対抗する力は残ってなどいない。
「スピカ・シェルナ・ティアラ、アーテル・シェルナ・ティアラ。これから研究の集大成を始めるわよ」
「ふぅー、こんなところか。まったく歯ごたえがなかったぜ」
最後に立っていたオートマタの頭を捻り切ると無造作に投げ捨てた。或斗の周囲には人型だったそれらが機械部品をぶちまけており、頭がないものや手足がもげたもの、胴体に大穴が開いているものなど、どれ一つとして完全な状態で残っているものはなかった。
魔力が殆ど使えないとはいえ、残った魔力を全て肉体強化に回すことで素手でも金属を破壊することが出来た。オートマタも腕に鋭い鋸を装備していたが、遠距離から攻撃してくる手段は持ち合わしていなかったのも幸いだった。
「この戦果お前のおかげもあるぜ。……見る影もなくなっちまったけどな」
或斗が目を向けたの装甲車であった。魔力制限の関係から魔導銃は数発しか撃てなかったので装甲車の部材を手近の武器として活用していたのだ。その影響で大破状態からスクラップ状態まで進行してしまい、周りに転がる残骸の山はオートマタのものか装甲車のものか判断がつかないほどだ。
フレームと思わしき鉄棒を肩に担ぐと上方を見据える。延々と続く螺旋がここから上に昇る唯一の方法である。オートマタの大群と戦った後であるがスタミナはまだ十分に残っている。
これならこの螺旋階段を昇っていけるだろう。使える武器が鉄の棒一つだけだが問題ないだろう。
「さぁて、スピカを助けるのが先かここの主をブッ飛ばすの先かね」
螺旋階段を駆け上がってそれなりの時間がたっただろうか。それでもまだ中層ぐらいで頂きまではまだ遠い。そしてここまで螺旋階段が続いているだけで部屋のようなものは一切なかった。
「まだまだ上なのかよ、きっついなぁ……。って、なんじゃこりゃ?」
中層部に差し掛かってから感じていた違和感。その正体は内壁がガラス張りに変わっていたからだ。曇りガラスなので奥へ透けてはおらず、或斗の姿をぼんやりとしたシルエットして映し出している。
怜悧な光を放つ表面に触れてみると、不思議なことに冷たさは感じずにほのかな温かみを持っていた。その瞬間、或斗の頭に直接響いたような声が届いた。
(ここから出してくれ!)
「なっ!? いきなりなんなんだ!?」
驚いて手を壁から離すと声は消えていった。壁の中から声が聞こえるとでもいうのか。助けを求めるようなその声に答えるべく、もう一度壁に手を当ててこちらから尋ねる。
「出してくれといったな、一体どういう事なんだ!」
(あぁ、やっと声が届いた……。もう限界が近い、この声を出すのもあと僅かしかない……)
「ああもう! とにかく出せばいいんだな、ちょっと手荒くいくぞ!」
手にしていた鉄パイプを振り上げると壁目掛けて叩きつけた。魔力によって強化されたそれによってガラス状の壁は簡単にヒビが入ってそこからは慎重に手を入れながら穴を開ける。
頭に響いた言葉通り、壁の向こうに人がいた。一糸もまとわぬ若い男で彼が声の主に違いない。人が通れるほどに広げた穴に上半身を突っ込みながら呼びかける。
「おい、助けにきたぞ!」
「あぁ、ありがとう……。これで……」
力なく微笑む男の手を掴んで引きずりだす。その腕はするりと引き抜けてボトリと落ちた。
彼の腕は泥ように崩れ落ちていた。
腕だけではない、四肢の末端からドロドロに溶けていき、少しずつだが確実に人の姿から別のものに変わっていっているのだ。
「な、なんだ、何なんだよこれ!?」
「ここは塔に魔力を送るための場所、そして魔力の源は魔力を宿した人間でその末路がこの私ということだ」
覆われたガラス結晶は魔力を伝達する物質であり、そこから中に埋め込まれた人間から魔力を取り込んで等の維持に使っているのだ。魔力だけでない、脳をコンピュータシステムと無理矢理リンクさせられて生きたまま生体部品として扱われて死ぬことも発狂することも許されない。そして限界を迎えるか結晶から外に出ると肉体は崩壊をはじめてものの数分で泥と化してしまう。
ガラスの中に封じられていた青年の言葉を、或斗はただ愕然と聞いていた。いつの間にか震えだして足元や指先に力が入らない。
「既に私の身体は限界を迎えていた。精神もこのまま尽きると思っていたが、最後に救われた。解放してくれて本当にありがとう……」
「ふざけるな! こんなのが救いなはずがあるか! まだアンタを助ける方法があるはずだ!!」
「君が気に病む必要はない。そしてこれから私が君に頼むことは君を苦しめることになる。だから聞きたくないならこのまま立ち去るんだ」
既に両腕がなくなって上半身しか残っていない状態で彼は力強い目線で或斗を捉えていた。この場から一歩も動いていない事を了承と受け取って言葉を続ける。
「この結晶の中にはまだ多くの人が囚われている。心が死んでもまだ肉体を酷使され続けている。そんな彼らを開放してほしいんだ。……本来ならこれは私がやる役目のはず。なのに、君に要らない負担をかけるなんて。だから、嫌ならそれでいいんだ」
「今みたいにこのガラスを砕いてやればいいんだな?」
「……やってくれるのかい?」
或斗は頷く。もう胸から上しか残っていないほどに肉体が崩壊していても自身よりこちらを気遣ってくれた。そんな男からの頼みを聞いては引き下がれない。
「こんな生き地獄に繋がれてもお前さんは最後まで折れなかった。そんな男の遺言を、最後の思いを無碍にするわけにはいかない」
「あぁ……本当にすまない。そして、ありが、と……」
その言葉を残して誰よりも強い男は泥の塊に沈んいった。頬を一筋の涙が流れ落ちる。それに構わず鉄パイプを振るう。
見える範囲のガラスを手当たり次第にぶち破る。表面に触れるたびに中にいる者の苦しむ声が聞こえ、ガラスが砕け散るのとともにそれは安堵へと変わっていた。
打ち壊しながら螺旋を昇っていく。その間も声が聞こえては消えていき、その誰もが安らぎを感じていた。
涙が止まらない。
ガラスを打ち壊すごとに、安堵の声を聴く度に、彼らを『救う』ごとに涙が溢れてくる。こんなの安らぎなんかじゃない、こんなのが救いなんかじゃない。誰かに終わりをもたらすなんて死神のすることだ。こうしなければ苦しみは終わらない、でもこんな簡単に終われせていいのかと自問自答が止まらない。それでも腕を振り続けた。
やがて、螺旋が途切れて広い踊り場の出た。そこから上にはもう怜悧な光を放つ結晶は張り巡らされていなかった。
終わった。そう思った瞬間に膝から崩れ落ち、大きくひしゃげた鉄パイプが手の中から零れて乾いた音を響かせた。腕を突いて倒れ込むと服についていたであろう砕かれたガラス片が落ちる。それを力一杯握りしめるとチクリと刺す痛みと赤い血が流れてくる。
「彼らはこの血すら流せなかった」
『それでも救われたんだ。君の涙は無駄なんかじゃない』
声が聞こえる。頭の中に響くその声に、僅かに残るその残留思念に向けて泣き叫ぶ。
「オレは安堵していた! あの中にスピカがオレの仲間がいなかったことに、スピカが泥の塊にならずに済んだことに! 彼らだってまだ生きたかっただろうに……!!」
『それは君のせいじゃない。この咎は私が引き受ける。だから君は君の仲間を、大事な人を助けに向かうんだ。彼女は最上部にいる、そしてこの塔の主ヴィルヘルミナも』
「あぁ、いかねえと……待ってるやつが居るんだ……」
『君は進むんだ、進めなかった我々の分も。それ君への咎だ』
背中で感じていた気配が消えていく。声の主達も消え去って静寂が戻った頃に或斗は立ち上がり、もう一度上を見据える。
「塔の主、お前なのか……お前がァァァァァァッ!!!!」
塔の主、それが全ての元凶。そう思った瞬間に或斗は絶叫を撒き散らしていた。彼らの苦しむ声を聞いた、死ぬことでしか解放されない無念を覚えた。そして、それをもたらした者に対するマグマの如き憤怒。
身体中を怒りが駆け巡ると或斗は強く蹴って飛び上がる。もはや階段を使わず一直線に最短ルートである壁をよじ登っていく。
「必ず、必ず叩き潰すッ!!!!」