黒衣の娘
「…………んぅ……」
「スピカ、どうしたの? 起きてからずっとその調子じゃない」
陸上航行船ブラズニールがユグドラシルを発してから三日目の朝。目的地はスピカの妹、アーテルがいるかもしれないという場所だ。それだからなのか、スピカの様子がどこかおかしいと繊華には見えた。
落ち着かないというよりは心ここにあらずといった感じで、何もない空を見つめてぼーっとしている。一体何かあったのかと繊華は声をかけたのだ。
「センカ、うん……。実は悪い夢を見たの」
スピカが見たという夢の内容は、アーテルが酷い目に遭っているというものであった。内容までは語らなかったが、スピカが見せた辛そうな表情から繊華はそこを聞く真似はしなかった。
手にしているマグカップに入っているココアは既に冷めているのが、気にせずに口をつける。心を少し落ち着かせてからスピカは言葉を続ける。
「ただの夢ならいいんだけど、どうもはっきりしすぎていて、多分アーテルからのSOSなんじゃないかと思うんだけど……」
「スピカ、もう少しの辛抱です。今外の様子をアスールさんが見にいってくれてますし、ハカセが妙案を考えてくれていますよ」
そこまで言うと繊華は少し不安そうな表情を浮かべると、スピカの手を取った。
「アーテルさんを助けたいという気持ちは痛いほどわかります。だけど、どうか早まらないでください。もし、アーテルさんを捕えている者があなたのことも狙っているかもしれません、だから……」
「うん、わかってるよ」
胸中のもやもやを吐き出せたスピカは少し落ち着けたようでカップに残ったココアを飲み干した。繊華も表情を和らげて、ずっとスピカの手を握っていたことにようやく気がついて慌てて手を離していった。
それでも悪夢の原因といえる焦燥感は完全には払拭できてはおらず、スピカは窓の方へと顔を向ける。その向こうには緑の森が広がっていて、その中で異質な存在と言える白亜の塔が鎮座していた。
ブラズニールは船体の中央にかけて上に突き出た艦橋区画を有しており、扁平な船体も相俟って遠目からは空に浮かぶ潜水艦のように見えるだろう。その艦橋区画の一階にある大部屋では或斗とハカセが大テーブルの上に敷かれた地図を頭を突き合わるように凝視していた。
船が森の中にそびえる塔を確認できる位置まで近づいたのは昨晩のことで、朝一番に情報収集としてアスールが偵察に出ている。二人はこの全ての情報が集積する作戦室に詰めており、艦橋最上部のレーダーやセンサーから送られてくる情報を逐一精査している。
本来ならこういった作業は或斗よりもイサムが向いているのだが、当人は操艦にかかりっきりで進行を止めた後もレーダー類による情報収集に集中しているので、或斗が不慣れ作業ながらもハカセの助手を担っている。
「レーダーとかでは限界があるっすね。センサーだって探査範囲を広げればその分精度が落ちるようだし、限界がありますね」
「ドローンを使った情報収集も検討しておこう。あとはアスール嬢からの報告待ちってところだね。今一度わかった所をまとめておこうか」
鬱蒼と広がる森林は魔法大陸でよく見る原生林であり、そこに変わったところはない。やはりその中に立つ白い塔というのは異質なものであり、不気味にも思える。
ブラズニールの探索機器による精査では塔そのものは遺跡と言えるほど古い物のようであり、材質も古代魔法文明に由来するものらしい。外部カメラでは塔の周囲は木々が開かれて下草だけが広がっているのを写しているが、そこを行き交う人の姿は遠すぎるからか確認できないでいる。
成果といえば塔の周囲を地図に起こせたぐらい他はわからず仕舞いである。或斗がペンを思わず放り出そうかという時に、扉が開いてアスールがコートのフードを被ったまま部屋に入ってきた。
「船にたどり着くまで時間がかかったわ。迷彩の布を被っただけで遠目からだと随分見づらくなるものなのね」
「モニカ嬢の提案だよ。彼女もどこかあの塔に何か良からぬものがあると感じてたようだし」
現在のブラズニールは船体をまるごと迷彩柄の布で覆い隠して森の緑に擬態している。それを提案したモニカもから発せられる異様な空気を感じ取って見つからないようにしたそうだ。イサムに対して操艦は慎重にするよう指示も出していたらしい。
斥候活動を終えて持ってきた情報の報告ため、三人はテーブルに身を寄せ合う。
「最初に言っておくと、この場所に何かあるのは間違いないわね。塔の周りにある開けた所は警備用のオートマタがぞろぞろいたし、近辺の森には侵入者対策の探知魔法陣がいくつも仕掛けれていたわ」
「森の中にある塔に大量のオートマタ、そして侵入者対策。こりゃ何かない方がおかしいぐらいだな」
或斗が手持ち無沙汰に握っていたペンを拝借するとアスールが地図に書き込んでいく。探知魔法陣が刻まれた場所は塔の周囲200メートルにも及んでいるが、それより離れたところには施されていないようだ。
オートマタも森の中へ入っていくような素振りを見せていないようなので、塔からある程度離れていれば見つかる心配はなさそうだ。モニカが警戒してたおかげで船は安全圏にいるようだ。
現状が分かったのでそこから内部への潜入方法を考える事に議題はシフトする。ハカセはある程度の案を練っていたのか早速内容を提示した。
「ある程度までは簡単に近づけるけど、たどり着くには魔法陣とオートマタを抜けていくしかない。そこで一気に警戒ゾーンを抜けて、陽動役と潜入役に別れて塔に入り込むんだ」
「なるほど、陽動役が引きつけてる内に中へ突入するわけね。でもどうやって警戒網を突破するの?」
「それにはモニカ嬢が用意してあるものを使うよ。例えば……」
突入プランの概要をハカセが指し示していく。それは単純なものであったが、或斗にはその方が性に合っているので反対する理由はなかった。アスールも無言だが同意したようなので、パンと手を鳴らして或斗は宣言する。
「よしっ、その作戦で行こう!」
「そういうことで、コイツの準備を頼むよ」
「オッケー、任せといて!」
ハンガーへ赴いた或斗は突入プランの概要をモニカへ伝える。その為に必要な準備は既に進めているとのことで、問題はないだろう。作戦室ではハカセとアスールが案を煮詰めているが、或斗は役に立たなさそうなので伝令役に徹していた。
情報を伝えるべき残りの二人が近くにいないかと見回した。すると、作業区画の端にある搬入口の前に立つスピカと繊華を見つけた。彼女達が最後の二人だ。
「どうしたんだ、こんなところに集まって?」
「あ、アルト。いつでも出れるようにここで待ってるんだよ」
「やる気は十分だな。でも今日は出ないぜ、準備とかがあるからな」
「……そうなんだ」
明らかに落胆の色を見せるスピカに或斗はどう言葉をかければ良いか一瞬悩むが、ありのままに伝えることにした。
「なーに、明日の朝一で突撃するんだからもう少しの辛抱さ。それにオレが盛大に暴れて道を切り開くから、スピカはまっすぐにアーテルのもとへ向かえばいいのさ」
「…………うん、わかった。じゃあ、わたしも明日に向けて準備するね」
落胆が消えて代わりに闘志が浮かび上がったスピカは、背を向けると早足で自室へ向かっていた。その後をついていこうとした繊華は一旦足を止めて或斗に向き直った。
「灰村君のおかげでスピカも吹っ切れたみたいです。朝から元気がなくて心配でしたので」
「家族が捕まっているかもしないとしたら、焦りが出るのは当たり前さ。オレたちが出来るのはそんなスピカは全力でサポートしてやることだろ?」
「はい、それじゃ私もスピカのサポートとしてきます」
パタパタと駆け出していった繊華の背中を見送った或斗は、モニカの準備を手伝うべくハンガーに入っていった。
夢を見ていた。
何も見えない真っ暗な空間の中で、身動きが出来ないでいる。まるで四方を壁に囲まれ、水底に落とされたような圧迫感が全身を包む。
息苦しさから逃れようと試みても、身体はピクリとも動かず、のしかかる圧迫感が強まっていくだけだった。
このまま黒い水の中で窒息していくのかと意識を手放しそうになったその時、その声が耳に届いた。
―お姉ちゃん―
いつか聞いた、そしていつも聞いていた懐かしい声。それがする方へわずかに首を動かせば、真っ暗闇の世界に一つだけの小さな、されどしっかりとした明るさを持つ光点が見えた。
動かない右手を無理やり動かして光に向けて手を伸ばす。そして叫ぶ。
「――アーテル!」
そこでスピカの意識は完全に覚醒した。
ハッとして頭を持ち上げると、自身が置かれている状況がおかしいこと気付く。夜の帳が落ちた荒地に一人で佇んでいたからだ。
「どこ、ここ? ちゃんとベッドに入ったはずなのに……」
どうしてこんなところにいるのか混乱しながらも、それまでの記憶をたどってみた。
或斗から塔へ向かうのが明日と聞いてからは準備をしていた。準備といってもちゃんと魔法陣やティアラを呼び出せるか確認していたぐらいで、あとは繊華の手伝いをしていた。夕食を取った後は日の出前に起きれるようにと早めに就寝したところまでは覚えている。
今立っているこの場所は日中にオートマタが徘徊していた地点であり、後ろにある鬱蒼とした森には探知用の魔法陣が多く仕掛けられている。
どうやってここまできたか疑問が尽きないが、ともかく早く船に戻るべきだ。足を動かそうした瞬間、何かの視線を感じた。見上げてみれば白亜の塔が闇夜を受けて鈍い光を放っている。
ここにアーテルがいる。そう思うだけでスピカの足は森とは別の方向へ進んでいく。塔の周囲はふらふらと進んでいくと、一部だけくぼんだところがあった。
オートマタが通るための出入り口だろうか、人が一人通れそうな隙間がそこにはあった。正規の入口と思われる扉は巨大なシャッターで頑丈に閉じられており、中へ入るにはここしかないだろう。
中へ入るべきじゃない、今すぐ戻るんだ。頭ではわかっていても身体は止まらない。身をかがめて扉の隙間を抜ければ、視界いっぱいに暗闇が広がっている。
まるで夢の中で見た暗闇のようだが、息苦しさや閉塞感は感じられない。闇に目が慣れてくると、四方を囲むコンクリートの壁が奥へと長く続いている。その先も暗闇に覆われて先が見えない。
一歩また一歩と闇の中を歩いていると、まるで宙を進んでいるような錯覚を覚える。夢か現か認識が緩んでいく中、目の前に巨大な扉が見えて我に返った。
「ここは……?」
ハッと辺りを見回せばいつの間にか通路を抜けて広いところに出ていた。周囲は相変わらず暗闇に包まれているが、塔の中心なのか天井が確認できないほどに空間は上に伸びている。
そこにぽつんと置かれた部屋の中が気掛かりで迷わずに扉のノブに手をかけた。思っていたよりも軽く扉が開くと中へと足を踏み入れる。
部屋の中は質素な家具が幾つか並び、部屋の中央には大きめなベッドが鎮座している。扉の前から内装を眺めていると、後ろの扉からカチリと音が鳴って鍵が閉められる。閉じ込められた状況となったが、スピカはある一点を凝視したまま動かなくなった。
視線の先は部屋の中央にあるベッド、その上で横たわる少女。黒い装束に身を包み、装いと同じ黒い長髪が広がっている。その少女もスピカの存在に気付いてのか、緩慢な動きで顔を向ける。
そして見えた相貌にスピカは覚えがあり、その名を読んだ。
「……アーテル」
「お姉ちゃん……?」
間違いなくそこにいるのは双子の妹、アーテルだ。スピカがそう確信した瞬間、黒い影がスピカの身体に巻き付いていた。
「な、なに……!?」
為す術もなく影に引きずり込まれたスピカはベッドの上に大の字に寝かされた。両手両足には先程の黒い影に縛れて動かせない。同時に部屋全体ががくりと振動して浮遊感が生まれた。どうやら部屋そのものが塔の上に向かって動き出したようだ。
一体何が起きたのかわからず混乱するスピカを尻目に、先程までベッドの上にいた黒き少女は四つ這いで近づいてきた。その背中から伸びる影はうねうねと動き、それが自身を拘束しているものと同じ事に気がついた。
「待ってたよ、お姉ちゃん」
「アーテル、どうして……?」
感動の再会なのだが、スピカは素直に喜べなかった。自身を拘束した影を操っているのが他ならないアーテルだったからだ。
四つ這いのアーテルがちょうど馬乗りのように覆い被さる。互いの鼻先が当たりそうなほどの至近距離で、まじまじと見つめ合う。
長く伸びた黒髪に著しいほどの白い肌、そして自身によく似た容姿。それらはスピカの記憶通りにあったアーテルのものだったが、怪我をしているのか右脚には包帯が巻かれ、そして右眼にはスピカの左眼と同じ術式が刻まれて、本来のアーテルの眼の色である灰色から赤色に変化していた。
目の前の少女がアーテルであること間違いはないのだが、記憶にはない変化と今浮かべている蠱惑的な表情と、今の状況から心から信じられずにいる。だから、スピカは目の前の少女を確かめるように尋ねた。
「あなたは、アーテル?」
「本当にお姉ちゃんなんだね」
手を伸ばしてスピカの頬をいとおしく撫でる。その手つきは優しげではあるが、スピカの言葉は耳に入っていないのか自分の世界に入り浸っているからなのか、うっとりした表情で愛でている。
ひとしきりスピカを撫で終わると、両手を突っ張って上半身を上げると、真下のスピカに向けて笑みを見せる。
「だから、お姉ちゃんの魔力をちょうだい」
「えっ? なに……」
腕の力を緩めるとアーテルの顔が間近に迫ってくる。そして、互いの唇が触れ合った。
その瞬間、スピカの全身に電流が駆け巡って力が抜けていく。アーテルからの口づけで魔力が吸い上げられているのだ。突然の事に驚きを隠せなかったが、抵抗する余裕はまだあった。
だが、スピカは抵抗しなかった。
唇が触れ合った時、目の前の少女がアーテルであるという確信が湧いてきたからだ。今まで探し求めていた妹を傷つけたくない気持ちが強かったので、スピカは口の中に舌を入れられても、ただアーテルにされるがまま魔力を吸い上げられる。
1分間ほどで口づけは終わって、アーテルは名残惜しそうに頭を離して、スピカは顔を上気させて荒い呼吸を繰り返す。
「フフフ、やっぱりお姉ちゃんの魔力は違うね。実によく馴染むよ」
「……アーテル……どうして……?」
「アーテルはね、魔力がないと死んじゃう身体になっちゃったの。だから、今まではすっごく苦しい魔力注入をしていたの。でも、お姉ちゃんから魔力をもらえれば解決だよ」
息も絶え絶えなスピカがを愛おしく撫でると、まるで楽しいことが見つかった子どものような無邪気な笑顔をアーテルは見せる。
「あー、でもお姉ちゃんの魔力も減っちゃうと、術式が悪さしちゃうんだよね。だから、こうしよう」
どうしてこうなったのかスピカの理解が追い付かないが、構わずにアーテルは続ける。そしてスピカの首輪に黒い影が伸びると、赤黒い光を放つ。
首輪を通じて何かがスピカの身体へ流れ込み、思わず声を上げる。逃れようと身体を捩らせるも、がっしりと拘束に逃れることはできずに頭を振るだけだった。
全身を駆け巡る不快感に震えるスピカを、アーテルは相変わらずの表情で眺めている。
「うぅぁ……ぁっな、に……これ?」
「その首輪はお姉ちゃんの魔力を制御してるんだね。だから魔力の増幅率を上げてみたの。これですぐには魔力切れをおこすことはないはずだよ」
無邪気な笑みのまま苦しむスピカを見下ろしながら、口元の涎を拭い去る。その手つきはどこか背徳的なものを感じさせる。
無邪気な表情と相反する蠱惑的な色香、そしてその裏に潜む狂気。それらを含ませた顔をもう一度スピカへ近づけさせながら、アーテルは囁く。
「もっとちょうだい、お姉ちゃん」




