波音
ある時から小さな命が私の元へ預けられた。
名をユキヒコという。
私の膝ほどの大きさしかなくいかにも弱いかと思えば、その灰がかった瞳は賢さを浮かべていた。
声も一音一音の輪郭がハッキリした綺麗な声だった。
マリコに言われユキヒコを連れて雑貨屋で働いていると、ユキヒコはお金の計算を覚えた。
ユキヒコが私の腰ほどまで背が伸びると雑貨屋の店番はユキヒコの仕事になった。
ユキヒコはたまに土産を持って帰ってくる。
すっかりすることのなくなった私は、ユキヒコに文字を教えた。
「ゆきひこってどんな字を書くの?」
「知らない」
「名字は山羊なの?」
「そう山羊、だと思う」
「ふぅん」
ふぅんというのはユキヒコのお気に入りの言い回しだ。
よく口にする。
この頃ではユキヒコは私より色んな文字を覚えたようで「僕のユキは空から降る雪、ヒコは彦星の彦だと思う」という。
本人がそう思うならそうだろう。
この町に雪は降らないけど。
彦星が何なのかを尋ねると有名な童話の登場人物なのだという。
雪彦はすっかり賢い少年になった。
マリコが雑貨屋だけではなく本屋をはじめた。
人手が欲しいとのことで私は本屋で働くことにした。
雪彦に報告すると「僕が本屋の方で働きたいな」というので、私は久しぶりに雑貨屋で働きはじめた。
雪彦は今度は土産に本を持ち帰るようになった。
「それはお土産じゃないよ。僕が買ってるの」
「そう」
「でもにえさんも読んでいいからね」
そう言って雪彦は得意気に笑った。
本を読むつもりはなかったが雪彦が渡してきた二冊を読んだ。
緑色の飴の絵本と、小鳥を買ってる女性の小説だった。
文字をそれほど覚えたつもりはなかったが滞ることなく読めたので私はほっとした。
私はたくさんの言葉を覚えたがそれをたくさん使うことはない。
言葉はほんの少しあれば暮らしていける。
私は贄だったが、贖罪山羊には何者も言葉をかけない。
唯一アザゼルからかけられた言葉は「立ち止まらないで」と言うもので、それは贖罪山羊のすべてだ。
贖罪山羊は立ち止まらない。
野に放たれた贖罪山羊を目の端に私は贄となったのだった。
広い野山の、広い世界のどこでも立ち止まらない。いくつもの夜を越えあてもなくただ歩き続ける。そんな片割れを想像する時贖罪山羊はいつも美しく夜に浮かび上がった。
「にえさん浜まで散歩しよう」と雪彦がいうので二人で星空の下を散歩した。
浜までの夜道を歩く。先に山羊は見えない。
「にえさん、僕はそろそろこの町を出ようと思うんだ」
「そう」
「今までありがとう」
いつの間にか逞しい青年になった雪はの白いシャツが夜の浜に浮かび上がった。
雪彦の別れの言葉は短くけれども美しい音で小さな命だったことを思い出した。
あの賢かった瞳はどうだろう?と灰がかった目玉を除くとそこには私がうつっていた。
雪彦がそっと手を取ったので私達は手をつないで家まで帰った。
波音だけが聞こえていた。
翌朝雪彦は荷物をまとめ鞄を二つ持って手を振って旅立った。
「さようなら!」
と私も手を振ると雪彦は大きく手と荷物をブンブンと振り、そして姿は小さくなっていった。
遠くの町で彼が雪を見られるといいな、と思った。




