壜底越しの世界は歪んでいるらしかった
ボクの生活の全てをさらけ出したい。だけど、そんなものに興味がある者などこの世界に実際に存在するのだろうか?いや、これは需要の問題ではない。消費の問題なのだ。資本主義とはすでにそこまでのステージに到達しているはずだ。だから、ボクは求められていなくても吐き出す。余りものが溢れようが仕方ないと諦める。世界とはそういう様にして回っているはずなのだ。
決心した。ボクは決心したぞ。決心とは心を決めることだ。たとえ心が透明な硝子壜みたいに空っぽだったとしても。だから、ボクはこれを読み返すことはないだろう。
さあ、今のボクの見ることが出来る世界について話そう。そう、それは全てが硝子越しだ。湾曲した壁面に軽く屈折した映像が波の様に揺れる映像と共に映り込んで、何もかもが実際よりも大きい。小指の先程しかないはずの、小魚の餌をついばむ口がボクの顔よりも大きく見えて、斜め上を舐めるように滑空する海鳥の羽は大きすぎて何なのか分からない。つまり、ボクは今、海の中を漂っている。信じられないことに表面の分厚い硝子の壜に詰められて。
ああ、なぜこんなことになったのか。理由は分かっている。簡単なことだ。だけど、その理由は生活じゃなくて、もっと大切なことだ。理由の内に生活が含まれている可能性もあるが、その逆もまたある。だから、ボクはその理由をさらけ出す必要はない。
ここでの生活は単純さ。壜の中に入り込んでくるものを食べて、ボクの体から出たものを壜の外へ出す。一番のご馳走はクジラで、一番忌むべきものがボクの汚物だ。たまに落ちてくる太った男の子は双方になりえるが、食べてしまうのは少し可哀想な気がする。彼らはボクがフォークで脛を突き刺すと目に涙を溜めるのだ。何だかんだいっても、壜の中はいつも快適で清潔さ。
どんなに素晴らしい桃源郷にも飽きというものはある。ここは空いていても壺中庵にはなりえない。だから、したのだ。さらけ出すことを。もう少し具体的に言うなら、いつも放り出している汚物を文字に変えて、汚らしい生活を撒き散らすことにした。つまり、手紙、というよりは絵手紙、返信不要の吐瀉物をボクは壜から放り投げた。
内容は生活だ。つまり、ボクが壜の硝子越しに見たもの。全てが大きく歪んでいる。銀色のシャチの鱗に、虹色をしたクラゲの幾千本もの牙。もしかしたら、実在はしない。
少し考えてみたら、ボクには壜の外全てが大きく見えるということは、外からはボクが小さく見えるということだ。もしかしたら、ボクはもう外からは存在しないことになっているのかもしれない。小さく小さく幻想の中のあれ。
ああ、空っぽだ。空っぽ。壜の中も、壜の外も、ボク自身も。ボクが放り投げたものは何処へいったのだろう?それはきっと溶けてしまったのだ。海の水の底へ。そこにはきっと積もっているんだ。ボクみたいに濁っている汚物が。
ボクは沈むことにした。透明な硝子の壜ごと、深い深い海の底へ。そこは、キレイで汚く濁っている。そのままボクの中身が積もっているのだ。だけど、壜の中、ボクの足元、壜底もまた歪んでいる。




