その5(乙)
「אברא כדברא 俺の親父ンところへ逃げろ」
ランプの耳元で囁かれた真人の声。主人の願いではなく命令により、彼女の意思とは関係なしに『瞬間移動』と『探索』は実行された。実の息子という手掛かりを元にして、探索の魔人はすぐさま彼の親父を探し始める。
六畳間の和室で。ちゃぶ台の前で胡坐をかき、湯呑みで茶を啜っていた男。の膝の上に。突然、チャイナ服の女の子が現れた。
「うおっ、なんじゃあ!? おっとっとと」思わず落としそうになった湯呑みをちゃぶ台に置いた彼は、突然現れた女の子に問い掛ける。「なんじゃお前は! どこから出て来た!?」
「マサト」
女の子は正体を失った声で一言発する。マサト。男の眉間がぴくりと動く。
「まさと? なんだ、真人の友達か? にしちゃあ、随分とちんまいが」
女の子は男の顔を見上げる。
「――マサト、のお父さんですか?」
「嬢ちゃんの言う〝まさと〟が、うちの真人のことならな」
女の子は男の顔を凝視する。つい先日知り合ったばかりの、しかし彼女の中でもはや最も重要な存在となった少年の顔が、男のそれと重なった。元より、主人たる真人の命令『俺の親父ンところへ逃げろ』を受けた自分がこの場にいるということは、答えなど一つ。
「……間違いないです。真打真人の父、真打真虎さん」
「あれま。俺の名前まで知っとるのか。嬢ちゃん、君と真人はどういう関係なんだ? ただのお友達というわけでもなさそうだな」
「わたしの名前はランプ。マサトはわたしのご主人さまです」
「なあっ!?」右掌で顔を覆い、その顔を傾ける真虎。「あいつ遂に、手を出しちゃいかんところに手を。幾らモテんからって……。父の手で粛清してくれるわっ!」
実の息子への酷過ぎる勘違いと発言。興奮した様子で立ち上がった真虎。ランプは膝を畳に打ちつけながらも、彼の誤解を解こうとする。
「ちょ、ちょちょっと待って下さい! 違います! 勘違いです! 紛らわしい言い方してごめんなさい!」
「なんだ勘違いか」
一瞬にして冷静を取り戻して再び腰を下ろした真虎に、ランプはずっこけそうになる。しかしともかく事情を説明しなくては、と思い直す。
「あの、実は――」
正座した女の子と胡坐をかいた男が向かい合っている。
ランプは自分の正体と事の経緯を、包み隠さず真虎に説明した。真虎からの質問にも途中で何度か答え、すべてを話し終えるにはそれなりに時間を要した。
「はあ、そんなことがねえ。大変だったなあ」
魔法の存在自体を知るはずのない一般人からすれば、かなり突拍子もないはずであるランプの話。それをあっさりと受け入れた真虎。面食らったのはむしろランプであった。
「信じてくれるんですか? 突然、魔法がどうとか魔人が何だとかいう話を聞かされて」
「伊達に二十年以上『武道官』をしとらんよ。嬢ちゃんほどの子どもの嘘ぐらい、見破れるとも。嘘を吐いてない以上、本当のことを言ってるか頭がどうかしてるかのどっちかだが、見たところ君は正常みたいだしな」
目を丸くしたランプが真虎を見る。意外そうな目で見られていることに気付いた真虎は、それも致し方なしと納得して説明する。
「なんだ、信用出来ないか? それともやっぱり、君は嘘を吐いてるのか?」
「そういうわけじゃないんです。ただ、マサトから聞いていたよりもずっと真面目そうな人だなあって思ったから」
「あのジャリは一体君に何を吹き込んだ?」真虎が心外だと憤慨したその時、彼のズボンのポケットから、ピピピピという電子音が鳴り響き始めた。「ちょっとごめんよ」断って。もそもそと携帯電話を取り出した真虎は、画面の文字も確認せずに通話のボタンを押す。「はい、こちら真打真虎。ん、……はい、わかりました。では後ほど」言って。携帯電話を再びポケット死に仕舞い直した彼は頭を掻く。「困った。急に仕事が入った」
「仕事ですか。武道官としての?」
「そうだ。急いでメキシコまで行かなくては。やれやれ。どうして日本にいる俺に、メキシコでの急務が入るんだ。スペイン語を話せる者ぐらい、他に幾らでもいるだろうに」
真虎がぶつくさと垂らす文句の中にあったひとつの単語を、ランプは聞き逃さなかった。
「……日本?」呟いて。ランプは辺りを見渡した。六畳の畳部屋。襖、ちゃぶ台。「そういえば、ここは一体どこなんですか? 誰かのお家みたいですけれど」
「誰かのも何も。ここは俺の家だが」
「え。ってことは、マサトの家でもあるんですか?」
「ああ、その通りだ。久々に二日以上の休暇が取れたんで帰って来ていたんだが、どうやら取り消しらしい。しかし、問題は君だな。真人は君を護るためでなく守るために俺のところへ寄越したんだろう?」
「多分、そうだと思います」
「やっぱりな。たまには息子の頼みぐらい聞いてやってもいいんだが、何せ俺の仕事の方も急を要するみたいでな。流石に現場へ連れて行くわけにはいかんし、どうしたものか……。仕方ない、君のことは蜂一に頼むとしよう」
「ホーイチ?」
「ああ、俺の最も古い友人だ。腐れ縁というやつだな。娘が生まれてからは武道家としての一線を退いておるが、強いぞ。護衛役として不足のない男だ。ついでに。そいつの家で待っておれば真人が君を迎えに来るよう手配しておこう。どうせ日本を発つ前に本署と一度連絡を取るし、伝言を頼んでおく」
「いえ、その、でも、そこまでご面倒をお掛けするわけには」
「俺は面倒臭がり屋だけどな、こういうことに関しては面倒だなんて微塵も思わんよ。子どもが遠慮をするもんじゃないぞ」
「じゃ、じゃあ、お願いします」
そう礼を言って、ランプは恭しく頭を下げた。
「大げさだな。まあいい。早速行こう。と言っても、蜂一の家はここの向かいなんだがな」
ランプを連れた真虎は、自家の真向かいに立つ家の呼び鈴を鳴らした。宅地三十二坪、二階建ての現代日本家屋であるその家は、二台の乗用自動車――一方は大人八人乗りのワンボックスカー(赤)で、もう一方は四人乗りの軽自動車(白)――が停められた駐車場を隣接させていた。表札には『蜂集花』とある。
「なんて読むんですか? これ」
「『はちすか』だよ」
「蜂集花さん、ですか」
ランプは心の中で『蜂集花』という漢字と『はちすか』という発音を結ぶ。言語把握の力は使わない。真虎は二度目の呼び鈴を鳴らすことはせず、仁王立ちしている。そこへ。
「はい、どなたですか?」
インターホン越しにでも美しい、透き通るような女性の声。
「その声は茉莉ちゃんか? 久し振りだなあ、俺だよ、俺。真虎だ。真人の親父の」
「あ! ちょ、ちょっと待て下さい」
言い残し、美しい声は途切れた。数秒の後。玄関に人影が現れ、ゆっくりと扉を開いて姿を見せた。
「お待たせしました。お久しぶりです、おじさま」
「わっ……」
濁りのない、どこまでも澄んだ、しかし妙な響き方もしない、言うなれば純粋な声とともに現れた女性に、ランプは感嘆の声を漏らした。蜂集花茉莉花。あだ名は茉莉。烏の濡れ場の如く真黒い髪に、雪のような白い肌。丸みを帯びた輪郭の顔。飛び抜けた美人というわけではないが、可憐さと愛らしさがある。妖精というよりはウサギ。
「久しぶりだな、茉莉ちゃん。ちょっと背が伸びたか? 現役で大学に合格したのは知っているが、もう卒業したんだっけ?」
「いえ、今年四年生になったばかりです。卒業は来年です」
そう答える彼女に、今時の大学生らしい派手さはない。
フリルもなければ柄もない、白いだけのエプロン。見るからに柔らかそうな黒髪は、色気のないリボンで一つに束ねられている。地味や質素を画に描いたような恰好。それなのに。それらすべてを完璧に着こなした女性は、心に一物を抱えたすべての者が近寄りがたいほどの清らかさを放っていた。決して煌びやかではないが、確かな美しさを湛えた女性。
同性であるランプですら、思わずたじろぐ。たじろぎながら気付く。
――あれ? この人、どこかで見たような……。
そのどこかを思い出そうと頭を捻っているランプを「あら?」と一瞥してから、茉莉花は視線を真虎に戻した。
「おじさま、その子は?」
「ああ、この子は……っと、その前に。蜂一の奴はいるかい?」
「お父さんですか? お父さんは仕事ですけれど……」
「仕事? あ、そうか。今日は平日か。すっかり失念していたよ。やっちまったなあ」
平手で額を打ち、いっけね、という素振りを見せる真虎。心底からの反省や焦りがあるとは到底思えない態度。だが、ランプは幼さゆえに彼の発言を額面通り受け取り、慌てる。
「だ、大丈夫ですよ! あの魔法使いにこの場所がすぐ分かっちゃうとは思えません。そもそも、護衛が必要になるのは真人が負けちゃった時です。そんなこと、あってはならないことです」
「んー、しかしなあ。それだと結局、あいつが君を儂に預けた意味が……」
「あの、真人君に何かあったんですか?」
すっかり置いてけぼりにされかけていた茉莉花が、遂に割って入った。
数分後。場所は相変わらず、蜂集花家の玄関前。
「そういうことだったんですか。安心して下さい。私が責任を持って、ランプちゃんをお預かりしますから」
「え?」
「いいのかい? 危険かもしれんぞ」
流石の真虎も、茉莉花の申し出には即断出来ず、確認する。
「小さい子を一人で置き去りになんて出来ませんもの。それとも、女は荒事に関わってはいけないとでも?」
「いや、そういうつもりでは……。分かった、頼むよ。何なら、蜂一が帰って来るまではどこかに隠れているのもいいだろう。今から本署に連絡して――」
「そこまでする必要はありませんよ。とにかく、頼まれました。任せて下さい」
「…………」
本人の意向を無視してとんとん拍子に進められる話。その本人たるランプは、大人同士の話になかなか割り込むことが出来ず、成り行きを見守るしかいなかった。
とんとん拍子とは言っても、真虎は心の内で、
――まあ、ランプの話を聞く限り、茉莉ちゃんに大きな危険はなかろう。だが一応、部下を二、三人、俺の家に待機させておくか。
などということを考え、実行する気でいたのだが。
「じゃあな、茉莉ちゃん、ランプ。蜂一と真人によろしく言っておいてくれ」
「はい、わかりました。おじさまもお気を付けて」
「うむ、ありがとう。では、またいつか会おう!」
言い残して。真虎は携帯電話を取り出しながら、駆け足でその場を去って行った。
「相変わらずだなあ、おじさまは」
二人きりになった途端、いよいよランプが口を開く。おずおずと。
「あ、あの、本当にいいんですか?」
「大丈夫よ。あなたは心配しなくっても。ここで一緒に、真人君の帰りを待ちましょう。ふふふ。楽しみだなあ。私、もう十二年も会ってないの。今の真人君、どんな風なの?」
顔を綻ばせ、笑顔の茉莉花。対して。ランプの顔は悪い方に綻びた。泣き出した。
「……マサト……。う、うあ。ぐしゅっ」
「あ、あらあら」
あらあらと言いながらおろおろとうろたえる茉莉花。彼女はランプを、
「う?」
抱きしめた。数刻前、真人がランプにそうしたように。
「今まで辛かったね。不安になるのも無理ないわ。今は好きなだけ泣いて」彼女の声には、清らかさの中に母性が宿っている。「でも、泣くだけ泣いてすっきりしたら、お夕飯作るの手伝ってくれる?」
「うん、うん」
「じゃ、中に入りましょう」
「うん……」
ランプを連れ、茉莉花は家の中に入って行く。
――真人君、なるべく早く帰って来てくれないかな。
そう願いながら。




