その5(甲)
「やりおったな」
真人から二メートルほど離れた場所で踏み止まった男が言う。
「やりおったさ」
立ち上がりながら、真人は言う。
「まさか君のような筋肉馬鹿に出し抜かれるとは、思ってもみなかったよ。『瞬間移動』を命じ、魔人を遠くへ逃がしたのか」
「おうよ。あんまり考えたかないけど、俺がお前に負けた時のための保険にな。俺が信頼出来る範囲で、今間違いなく生きていて、今の俺よりも数段階は強い人間のところにあいつを飛ばした。……魔人を巡った殺し合いなんてもんを、もう見せてやりたくなかったって意味合いもあるけどな」
「なるほど。ところで。つかぬ事を聞くが、君が知る限り最も強く信頼出来る人間は誰だ?」
「ああ、それは……って、言えるわけないだろ! 俺だってそこまで馬鹿じゃない!」
あまりにも当たり前のことのように訊ねてくる男に、つい答えてしまいそうになった真人は慌ててノリ突っ込みに転じた。
「やはり駄目か。まあ、何はともあれ。これで交渉は完全に決裂したわけだ。願いは残り一つとなってしまったが、止む終えまい。魔人は、君を殺してから探すことにしよう」
「それなんだよ、俺がずっと疑問だったのは」
「ああん?」
さてこれから戦闘態勢に入ろうとした出鼻を挫かれ、男は間抜けた声を出す。とは言え、真人は至って真面目に訊ねたいことがあっただけであったから、構わず続ける。
「あいつが使える魔法って、結局、物探しか人探しぐらいにしか役立たないだろ? あとは記憶を消すぐらいのもんだ。お前も魔法使いなら、それぐらいのこと出来ないのかよ。わざわざ魔人に頼むようなことなのか?」
「君はまったく、魔人や魔法について何にも分かってないな」
やれやれと嘆息した男は、小馬鹿にした目つきで真人を見る。
「仕方ないだろ! 昨日の今日まで、魔法が実在するなんて思ってもなかったんだから!」
「そうそう。仕方ないんだったな。うむ、悪かったよ」
「わ、分かりゃいいんだよ、分かりゃ」
第三者から見ても(この場に第三者がいればの話であるが)明け透けな男の皮肉に、しかし真人は気付かず、本当に謝罪されたものだとして納得した。そんな彼がおかしくて、男は表情には出さずとも、心の内で笑う。笑ってから話を始める。
「君は異世界の存在を信じるか?」
「異世界だあ? 急に何の話だよ。まあ、信じる信じないで言ったら、信じるかな。魔人やら魔法使いやらが実在してるようじゃあ」
「ならば話は早い。異世界は存在する。それも、一つだけではなく、幾つも幾つも。それは確実だ。しかし、この異世界というのがだな、なかなかフィクションの世界のように簡単に行き来出来るようなものではないのだ。否、簡単どころか、とんでもない難関だ」
「そうなのか? 難関って、どれぐらい難関なんだ?」
「そうだな。まあ、君が今すぐ大学に合格するぐらいには難関だろうな」
「そりゃ難関じゃなくて無理だろ! ……言ってて自分で空しくなってきた」
言って。真人は両目を自身の手で覆って俯いた。男はくっくと笑っている。
「冗談はともかく。少なくとも管理者並の魔法使いでないと不可能だろうな。私が一生かけても辿りつけるかどうかわからない領域の大魔法だ。世界の壁を越えるなどという神秘は。だから必要なのだよ、魔人が」
「ランプなら、世界の壁も超えられるってのか?」
「そうだ。奴の『移動』の距離や概念に上限はない」
「へえ。あれ? でも、あいつの魔法で移動出来るのって、あいつ自身だけだろ?」
ならば結局、男が世界の壁を越えることは出来ないのではないか。当然の疑問であった。
「私は異世界に行きたいわけじゃない。異世界にあるとされる、〝とある物質〟を取ってきて欲しいだけだ。というより、探索の魔人の使用方法なんて、大抵はその一点。この世界にない物質を取りに行かせる。まあ、魔法使いでもないお前は知らなくて当然だがな」
「うん、そうだな。正直今でも、お前の話を半分以上理解出来てるかどうか微妙だし」
実際。さっきから真人はずっと頷いて見せてはいたものの、ぼんやりとしか話の概要を理解出来ていなかった。魔人という概念に対する認識にしても、〝魔法使いの凄い奴〟程度のものでしかない。
「だがその半分の理解で十分だろう。とにかく私にはあの魔人の力が必要なのだ」
「そこまでしてお前が手に入れたい〝とある物質〟ってのは一体なんだよ」
「『投射の緋石』――またの名を、『万能第五要素』、『賢者の石』などと呼ばれる物だ」
「け、賢者の石ぃ?」
真人は驚嘆する。
賢者の石。本など滅多に読まない彼も、その名前は知っていた。あらゆる金属・卑金属を純金に変える、永遠の命を与える、時には死者に擬似的な命すら与える等など……とにかく、とてつもない物質――というのは、お伽話の中の話。実在するという賢者の石がどれほどの物なのか、今日まで魔法の実在も知らなかった彼には想像も出来なかったが、少なくとも、目の前の魔法使いが喉から手を伸ばすほどに欲しがるような宝石であることは、真人の頭でも分かった。分かった上で宣言する。
「ランプを譲る気はないぞ」
「それはもう何度も聞いて分かっている」
「じゃあ、闘るしかないな。力ずくで守れるもんなら、俺はそいつを命懸けで守ってみせる」
「命懸け、か。……仕方あるまい」
「よっし。じゃあせめて、始める前に名前だけでも教えてくれ」
「名前か。名前に意味などないが、とりあえずは――シャンカとでも名乗っておこうか」
「シャンカ、か。俺の名前は真人。無形格闘、争人流の武道家だ。よろしく。んじゃま、お互いの自己紹介が済んだところで。闘りましょうか!」
片や年齢不詳の魔法使い。常識が一切の意味を持たない、超絶的な〝魔法〟を使う。
片や齢二十年に満たない武道家。常套が一切の意味を持たない超〝人〟。世界一柔軟な格闘術『無形格闘』――その中でも最強の一角を担う流派『争人流』の使い手。
戦闘、殺し合いという場において、一体どちらにアドバンテージがあるのか。当の本人達にもまったく分からない……そんな戦いが始まる。
「blanka fajra serpento」
先手を打ったのはシャンカであった。彼はまず右腕を前に突き出し、次に右手を少し開きながら何かを唱えた。するとそこから、
「んっ!?」
真っ白い無形の物質が生まれた。色以外の見た目は火そのもので、彼の手の内で踊るように揺らめく謎の物質は――
「Iru」
シャンカの命令に従い、真人に向かって飛びかかってきた。その動きはまるで蛇。
「うおっ!」本能的にその〝白〟の危険度を悟った真人は、人間離れした超反応で左手の方へ跳躍してそれをかわす。が、虚を突かれたことで反応が遅れ、完全には間に合わず、〝白〟は彼の額を掠めた。前髪の先がチリヂリと音を立てて焦げる。「うおっ。それ、やっぱり火か!?」
「魔法のな。君の国の言葉に直訳すれば、『白き火の蛇』と言う」
言いながら、男は開いていた右手を閉じた。握った。すると、真人が直前までいた場所で静止していた白い魔法の火は消失した。
「そんなもん使えるんなら、最初から大会で使っとけよ」
「大会中は管理者の目が光っていたからな。フラフィウスの闘技場時代ならともかく、科学文明全盛のこの時代に、衆人の前で、目に見えるような魔法を使うことは固く禁じられているのだよ。破れば私が管理者に殺されかねん」
「ふうん。まあ、それもそうか」
そうでもなければ。魔法の存在はもっと公になっているはず。真人は今、魔法が知られざる神秘であることを改めて思い知らされていた。
その知られざる神秘の使い手と戦っていることに、並々ならぬ興奮も覚えていた。
「さてと。説明に納得が行ったなら、攻撃を再開してもいいかな?」
「ん? ああ、どうぞ」
およそ戦闘中とは思えないやり取りを挟み、シャンカが攻撃の第二陣に移ろうとする。
「bla――n?」
シャンカが呪文めいたものを唱え終えるより早く、真人が彼の眼前に存在し、握り締めた右の拳を突き出していた。のだが。
「うええっ?」
驚いたのはまたも真人であった。シャンカを完全に捉えたと思われた彼の拳は空を打ち、二人は極の違う磁石が反発し合ったようにして吹き飛んだ。それぞれの背方へ。
「ふん」「おっとっとと」
直立姿勢を保ったまま吹き飛んだシャンカは、余裕を持って着地。一方、弓なりの姿勢で吹き飛ばされた真人は、片足を地に付けた途端ぐらつき、辛うじて踏み止まった。二人の距離は戦闘開始時よりも遥かに離れた。
「少しは考えて攻撃したらどうだ! なんだ、今の特攻は。敵ながら無謀という他ない」
「いや、考えるだけ無駄かなと思って。俺、今まで魔法使いなんかと戦ったことないし」
「初めてこそ考えるんだろうが、普通は! ……君との戦いは、身体より頭の方がよっぽど疲れそうだな、まったく」
何度目か分からない嘆息をしながら、シャンカは自分の鼻をそっと手で擦った。魔法使いの指先が僅かに血で濡れる。彼の鼻頭には、横一筋の傷が走っていた。
――直撃は避けたというのに、風圧だけでもこれか。『鎧』と『強制反発』、片方でも抜けていれば、今ので決まっていたかもな。
「恐ろしい奴だな、君は」
「それほどでもないって」
真人は照れた。
「恐ろしいほど馬鹿だ」
「それほどでもあるかもな!!」
真人はキレた。
「さてと。いつまでも遊んではおれんな」
言って。シャンカは――今度は真人に注意を向けたまま―先と同様の構えを取った。魔法使いの両手から白い火柱が噴き上がる。次に彼は、その火柱を宙に投げた。魔法使いの手を離れた火は、棒状の形を保ったまま縦横無尽に飛び回る。そして。
「Iru」
「げ!!」
魔法使いの号令で、やはりというか、当然の如く二本の火柱は真人の身を狙って一直線に飛んでくる。真人はそれを避けるではなく、受け止めようとした。
「あああ熱うううっ!」尋常ではない熱を持った火に直接触れた真人はその熱さに顔を歪ませ、ほとんど反射的に火柱を突き返した。来た時とほぼ同じ軌道に乗って帰って行った火柱は、シャンカの身体に当たる直前の場所で消失した。「お前、ちったあ接近戦に移らせろや!」
「接近戦は君の得意とするところだろうからな。わざわざ敵に好条件を与えて闘う奴はいやしないだろう。そんなことより。それ、そのままでいいのか?」
「あん?」真人の服、右腕の袖に小さな火が付き、彼の腕を覆う薄い体毛にも燃え移り始めていた。「うわっ!」
真人はその火を叩き消そうと焦る。そんな彼の鼻先に、ぽつりと水滴が落ちた。
怪しかった空模様はいよいよ崩れ、雨が降り始めた。雨は瞬く間に勢いを増し、どしゃ降りとなる。
「なんつうタイミングの良さだ。これでこいつもすぐに消――え!? ちょっ、どうなってんだよ、こいつは……っ!」
雨に降られても一向に消える気配のない、どころか、勢いの衰えることのない白い炎。魔法使いの手から放たれたその白い炎は、真人の腕を燃やしながら締め上げている。そして。
「シュルル、シャァァアー!」
蛇となった。紛れもない蛇。真人の右腕を燃やし焼いていたものは、いつの間にか真っ白な蛇へと姿を変えていた。炎としての特質を持ったまま。
「な、んだよっ。これ……っ!」
「その火は、火であると同時に蛇であり、そして水の神でもある」
「はああ!?」
痛覚よりもむしろ驚愕によって混乱している真人は、シャンカの説明よりも蛇の方に注意を取られていた。威嚇するように大口を開け、先の割れた舌――その舌もまた白い――を震わせている蛇は、しかし真人に咬み付くこともせずにただ唸っている。
「白い蛇を水神とみなす話を聞いたことはないか? 君の故国にもそのような伝承があるはずなのだがね。清き河の女神も白い蛇を使いとしているぐらいだからな。まあ、とにかく。そいつは、〝白蛇に見立てられることで水の神としての特質を得た火〟だと、そう認識してくれればいい。いや、〝燃やそうとする意思〟そのものと捉えてもらっても構わん。その火には温度という概念すら存在しない」
「なっ、なんだよっ、それ……っ!! やることも考えることも無茶苦茶過ぎるだろうが、魔法使い! ぐあっ……」
「そう一概に無茶苦茶とも言えんだろう。水を掛けることでますます勢いを増す火なら、魔法の産物でなくとも存在する。『ギリシアの火』とかな。さあ。水を使う以外の手段で火を消すにはどうすればいいか。よく考えてみろ」
「イヤミか、こら! 馬鹿の代表みたいな俺がそんなもの分かるわけないだろっ。酸素全部吸うぐらいしか思いつかないっての! ぐうっ」
熱さと痛さに苦しむ真人は、悪態もそこそこに悶絶する。悶絶しながらも、着ていた服を脱ぎ捨てた。ボロきれのようなTシャツは、地に落ちた途端、燃え尽きて消えた。今の真人は、この状況においてはまるで無力な、筋骨隆々とした上半身を晒している。そんな無様な彼の様子を、シャンカは愉快そうに眺めている。
「より念入りに燃やすため、蛇を右腕に固着させたからな。さぞ熱かろう。一瞬で蒸発しなかっただけでも十二分に脅威的だ。とは言え、やはりそのままでは、すぐに骨までこんがり焼けてしまうぞ? 何とかしなくていいのか?」
「ちぇっ、好き勝手抜かしやがって。どうせ水以外の消火方法だって通用しないんだろ? 酸素なんかなくたって燃え続けそうな、常識の通用しない火なんだから。んなもん、どうすりゃいいんだよ! 俺は魔法使いじゃないんだぞ。こうなったら、争人流妙義『二王の吽』!」
そう言うと、真人はカッと目を見開き、歯を食いしばって口を閉じ、金剛力士吽形の如き構えを取った。
「む? なんだその顔は。カブキか?」
「違うっての! こいつは争人流妙義『二王の吽』の構え。過去のありとあらゆる怒りの感情を思い起こすことで今の苦痛を耐える構えだ」
「なんだと? そんなものが……って、要するにただの痩せ我慢だろうが、それは!」
「争人流妙義の真髄を速攻で見抜くなんて、さすが魔法使いといったところか」
「やかましい! ふざけているのか!?」
「いやあ、戦う前に散々シリアスかました反動だよ。元々ああ言う空気は苦手だし。それにさあ、どうせなら闘いになっちまった以上、もっと楽しんでやろうぜ」
「私は君のような戦闘狂いではないのだがな」
シャンカはやれやれと首を振り、真人の言葉を冗句として受け流した。
無論。真人は、表面上の態度こそおどけていても、この状況下で心底余裕を持っているわけではなかった。蛇が彼の腕を締め付ける強さ、燃やす熱さ。その両方が、一刻一刻ごとに増している。
「つぐうぅ、あ、ぐ。あああぁ、無理ムリ無理むりカタツムリ! やっぱ駄目だ!」
痩せ我慢も限界が近付き、真人は妙義の構えを解く。
――いつまでもふざけてられないな。これ以上、悠長に闘っちゃいられない。せめてこの蛇だけでも、なるだけさっさと消しちまわないとやばい!
魔法によって生み出された白い火の蛇は当然至極として物理の法則を出鱈目なまでに超越し、尋常ならざる熱を持ちながらも真人の右腕だけを燃やし、汗を噴出させ、彼の体力と水分を奪い続けている。長引けば長引くほど不利になるのは明白。真人の覚悟は決まった。
「反撃だ」
告げた真人の姿が消える。
「は ごふっっうっっ!!」
まばたきを挟む暇もなく、出し抜けにシャンカの眼前に現れた真人。音速を凌駕した彼の動きに対応し切れず、恐ろしく重い拳を腹に受けたシャンカは弾き飛んだ。瞬間、真人の右腕に纏わりついていた蛇は消えた。
「うっしゃ、当たった! お、蛇も消えた!」ガッツポーズ。「にしても、思ってたより硬い腹だったな。意外と鍛えたりしてんのか? そういや、例の大会だって三回戦までは進めたんだもんな。完全なもやしってわけじゃないのか」
ずいぶんと離れた場所まで飛んで行ったシャンカにもはっきりと聞えるように、真人は大声を上げて言った。
「(ま、まったく動きが……いや、姿が見えんかった)がふっ。ば、馬鹿を言え。確かに、魔法の行使に耐えられる程度には鍛練を積んでいる。だが、この腹の硬さは、魔法の鎧で覆っている結果に過ぎん。弾道ミサイルの直撃にも問題なく耐えられる硬度のはずだぞ! 貴様ら武道家は化物か!?」
「俺からすりゃ、魔法使いの方がよっぽど化け物だぞ。ぐ、ううっ……」
白い火の蛇こそ消えたものの、真人の右腕は既に表皮が焼け落ち、真皮は煤だらけになっていた。大粒の雨はその余熱を和らげることなく、ただ刺すような痛みだけを彼に与える。
「得体の知れぬ化け物はお互い様か。……だが、何故また特攻などという馬鹿な真似を。さっきそれで失敗したばかりだろうが。派手に弾き返されて」
「さっき失敗したからって、またそうなるとは限らないと思ってな。拳が届きゃ儲けもんってぐらいの覚悟で突っ込んだんだよ。上手く行ってラッキーだった」
「根拠もなしにまた突っ込んできたのか」(追い詰め過ぎたか。いや、元々の性なのか)「無茶苦茶をしおって」
「その無茶苦茶のお蔭で道が開ける時もあるからな。今回みたいに」
あっけらかんとした真人の言葉を聞いたシャンカは、苦虫を噛み潰したように表情を歪ませた。そう。今回ばかりは真人の無茶が活きた。攻撃性を持った人間を自動的に判別して反発する『強制反発』という魔法は、その絶対性故に、一度の発動ごとに事前の準備がいる。その準備に掛かる時間は、熟練した魔法使いでも最低で十分以上。故に、現実として一度の戦闘で使えるのは一回こっきりなのだ。とは言えそれで上等。魔法使い相手ならともかく、魔法そのものを知らぬ相手には、通常その一回だけで充分過ぎる警戒心を与えられるはず。なのに、真っ直ぐ過ぎる少年――さながら、カーブを投げられようがチェンジアップを投げられようが、ただひたすらにフルスイングするが如しの少年――には通用しなかった。
だがシャンカとて大人しく負けを認めるわけにはいかない。
「道が開けたと言うがな、あの一撃で私を仕留められなかったのは、むしろ道を閉ざしたことにならないか? その右腕、もはや使い物にならんだろう」
「うん、まあ、お前の言う通りだよ。ここまでぼろぼろにされちゃあな……。しばらく闘いには使えそうにない。でも足は両方無事だし、腕だってもう一本あるんだぜ?」
「確かに足は無事だな。腕もまだ一本残されている。だが、戦闘力が大幅に欠かれたのは間違いないだろう。何せ、利き腕を失ったのだから。モチベーションも下がるというものだろう?」
シャンカの言葉に、一瞬きょとんとした顔を浮かべてから、一人納得したように頷き、
「あ、右手でばっか殴り殴ろうとしてたから勘違いしたのか?」と言って、真人はほくそ笑んだ。知ったばかりの雑学を嬉々として語る子どものようなその表情を浮かべたまま、彼はこう続ける。「戦闘に関しちゃあ、俺は両利きだぞ」
「はっ、ああ?」
何をわけのわからないことを、という言葉が口をついて出かかったシャンカであったが、彼は寸でのところでそれを押し潰した。
権謀術数の心得があるはずもない純粋素馬鹿な目の前の武道家が、こと戦闘中という場面において、裏のある言葉など吐こうはずもない。彼の口から放たれた言葉はそっくりそのままの真実、事実として受け止めるべきなのだ。曲解の必要などない。
「本当に、両利きだというのか? 戦闘中だけ?」
「そうだよ。右手も左手も、おんなじように使えた方が何かと便利だからな。元はただの右利きだったのを、戦闘に関してだけは両利きに矯正したんだ」
「そんな、そんな馬鹿げたことがあり得るのか……っ」
「んなこと言われても、現実にあり得ちゃってるから仕方ないだろ。別に俺だけじゃない。俺の親父も、好敵手と書いて親友と読む武道家も、皆同じように両利きだ。だいたい、魔法使いにだけは〝あり得るあり得ない〟でとやかく言われたくないな。〝あり得ない〟を実現するのが魔法ってやつじゃないのかよ?」
「…………っ」
シャンカは押し黙る。真人の青さに若干の苛立ちを覚えながらも、それを押し殺すため、心でつぶやく。
――本当に馬鹿だ、このガキ。その〝あり得ない〟に限度があるから、今この闘いがあるのだろうが。そんなことももう忘れたのか? ……だが、確かに。
「君の言うことにも一理ある。無茶を通すのが武道家の意気地ならば、無理を通すのは魔法使いの専売特許だ。もう無粋な腹の探り合いも疲れた。次で決めよう。西部劇の真似事ではないが、お互いの渾身をもった決闘形式といこうじゃないか。無茶を押し通す拳が勝つか、無理を無視する魔法が勝つかだ」
その提案を真人は、
「乗った」迷う暇も見せず受け入れた。「それでいこう。がっつり組み合うのもいいけど、たまにはそういう潔い闘いもありかもしれない」
「ふん。ずいぶんとあっさり信じるんだな、私のようなうそつきの言葉を」
早速やる気満々な気合いを見せ始める真人に、冷めた態度でシャンカが告げた。この真人には何を言っても無駄だと知りつつも。そして真人は彼の予想通りの反応を返す。
「腹の探り合いは止そうって、お前が今自分の口で言ったばっかじゃんか。そいつまで嘘や罠ならもう仕方ない。その嘘と罠ごとぶっ飛ばすだけだ。俺もこれ以上、疑心暗鬼な闘いは続けたくないしな」
「まあ、私も文句はないさ。当然だ。こちらからの提案なのだから」
ズボンのポケットに手を突っ込みながら、シャンカが言う。
彼の出した決闘形式の提案には、嘘も罠もありはしない。だが、裏はあった。
――『鎧』に空けられた穴を即効で補修するために随分と魔力を消費した。もはや使える魔法は限られている。ジリ貧になれば泣きを見るのはこちらだ。出来れば早めに決めたい!
それが本音。合理的と言えば合理的な手立てであった。
「では。三、ニ、一で始めるか。いいな?」
「おう。俺もカウントするから、こっちまで聞こえるように声出せよお!」
「ああ、行くぞ。せーのっ、」
カウントが始まる。
「三!」「三!」
「二!」「二!」
「一!!」「一!!」
武道家は駆け出す。
魔法使いはポケットから出した右腕を顔の前で振り、その手からきらきらと光る粉を飛び散らせる。
間にバス一台が入るほどあった二人の距離は、一秒掛けずにほぼ零となる。武道家真人の左拳が、魔法使いシャンカの顔面向かって襲い掛かる。
「?」
シャンカの振り撒いた粉に触れた途端、異変、違和感が真人を覆った。
――なんだ、身体が……っ!
シャンカが使ったのは、正確には彼の魔法ではなかった。『鈍化の鱗粉』――文字通り、触れた相手の動きを鈍らせる魔法道具である。
真人の動きを鈍らせることが出来れば、当然、その打撃や蹴撃の威力も低下するはず。その弱った一撃にさえ耐えられればいい。後は、残った全霊の魔力を使った『白き火の蛇』を至近距離で喰らわせれば、今すぐ殺すとまでは行かなくとも、戦闘不能には陥れられる。
それがシャンカの作戦。地味だが、彼にとってはこれ以上ない最終手段であった。
無論、真人も自身の異変の正体にすぐ気付き、シャンカの作戦も見抜いた。如何に馬鹿で間抜けな真人でも、戦闘においては必ずしもその限りではない。積み上げられた経験則で培われた〝勘〟というものがある。
そう。真人はシャンカの策に気付いた。しかし取り乱す様子は見せず、ただにやりと笑うだけであった。その笑みに、シャンカは己の失敗と敗北を確信した。真人の拳が彼に届くまでの間、二人の時間が緩やかになる。アドレナリンの異常な分泌。その間に、二人はそれぞれの想いに耽る。
――気付いて尚余裕の笑みとは。ちょっとばかり動きを鈍らせる程度、小細工にもなりはしないというわけか。まさしく力ずく。負けたな。
――肉を切らせて骨を断つ、か。想像よりはずっと地味だったけど、男らしいっちゃあ男らしい作戦だな。でも、お前の作戦がそれだけなら、俺の勝ちだ!
「天!」「ごっ」
真人の拳が、シャンカの顎を下から天に突き上げる。
「地!」「ぎっ」
一瞬浮かびあがったシャンカの身体が、真人の肘落としで再び地に向かう。
「昇ぉぉ!!」「ぐおあ!」
どすりと落ちてきたシャンカの腹に、恐るべき鋭さを持った真人の脚が突き刺さる。為す術のないシャンカの身体は、今度こそ勢いよく天を昇った。
争人流奥義『天地昇』――とどめの奥義として、真人が最も好み多用する技。
如何に鈍化によって抑えられた真人の腕力脚力でも、悉くが急所を突いた二連続の拳。加えて強烈な蹴り。そうそう耐えられるものではない。宙高く舞い上がった魔法使いの身体は引力によって地面に叩きつけられ、白目を剥いて動かなくなった。
真人は火傷した腕を抑えながらその魔法使いに近付いていき、脈を取る。
「生きてる。よかったのか? とりあえずは。これで殺しちまってたら何にもならないしな」




