その4
「こりゃ一体、どういうことだ?」陽は傾き始めていたが、しかし夕方とも言えないような時間帯。真人達はまっさらな大地の上にいた。「確かにここにあったはずだぞ。でかくもなけりゃ立派でもなかったけど、それでも確かに闘技場が」
昨日まで在ったはずの闘技場が綺麗さっぱりなくなって、まるで最初から何もなかったかと言わんばかりの光景に、真人は混乱する。
「管理者が魔法で創ってた会場なんじゃないかな?」
真人の隣に立ったランプが冷静な口調で言った。
「おいおい、あんなもんを魔法で創り出してたってのか? 魔法使いって奴はとんでもないな」
「魔法使い皆がそんな強大な魔法を使えるわけじゃないよ。管理者が凄いだけで。ま、それほど強大な力を持つからこそ、魔法使いが何人も入り乱れるような大会を仕切れるんだよ」
「それは言えてるかもしれないけど……。そう言やあ、コロッセオを使ってた大昔のことならいざ知らず、今なら魔法使いだけを集めて大会を開くことだって出来るんじゃないか? なんでわざわざ普通の人間も参加させるんだろ? なんでか知ってるか?」
「盛り上げるためさ」
真人の問いに答えた声はランプのものではなく、野太く低い男のものであった。
「え?」
「っ! 誰だ!」
背後から聞こえた男の声。当然として真人とランプは後ろを振り返った。
そこに、全身を黒の衣装に身に纏った人の姿があった。フードを深く被り、顔は隠れているが、声と体躯からして男なのは疑いようがない。その男がフードを外しながら、真人の問いに答えた。
「私か? 私は誰でもない」
と。
言い終えると同時に露わになった男の顔。まったく日焼けしておらず、ともすればランプ以上に白い肌。精悍なその顔つきは、見目三十代半ばといったところか。だが、節くれだった手は還暦を過ぎた人間のものに見える。もっとも、真人の関心は男の年齢などではない。
「――ちょっと待て。お前、なんか見覚えがあるぞ」
真人には、ごく最近にその男を見かけた記憶が確かにあった。しかしそれがどこでいつだったかを思い出せず、もやもやした思いに襲われていた。一方、突如現れた男に得も言えぬ恐怖を感じていたランプは真人のズボンを強く掴み、彼の背に隠れて顔だけを出していた。
「君が私を見かけたのは昨日の大会だろう」男が、真人の疑問に解答を与える。「私もあれに参加していたからな。もっとも、三回戦敗退という屈辱的成績だったが」
口では「屈辱的」と言いながら、悔しさなど微塵も感じさせぬ態度で男は言った。真人にはそれが気に入らなかった。自分の優勝した大会を、価値のないものだと言われているようで。
「へえ。あっ、そう」引きつった顔のまま真人は続ける。らしくもない皮肉を交えて。「それで、その三回戦落ちさんが、こんなところで何やってんだ? 何か用でもあんのか?」
「ああ、用はあるとも」男は顔の向きごとランプに視線を映し、舌を這わすような視線でその全身を見つめてから言った。「お前にしがみ付いて震えてるチビにな」
「は? おい、ランプ。お前、あいつのこと知ってんのか?」
予想外な男の発言に若干の動揺を覚えつつ、真人はランプに訊ねた。ランプは震えた声で怯えながら答える。
「わたし、し、知らない。名前も知らない。見たこともない。でも、一つだけ分かることがあるの。マサト……あの人、魔法使いだよ」
「なんだって?」途端、真人の足元に突風が巻き起こった。「うわっ」
砂も小石も巻き込んで吹き上がった風。真人は条件反射的に目を腕で覆った。
それこそが油断であった。
「くっ、ん? ランプ? ランプ!」
寸刻前まで真人に縋り付いて怯えていた少女の姿は消えていた。ただ、ズボンに皺だけを残して。一体、どこに消えたのか。決まっている。彼女は消えてなどいない。むしろすぐ近くにいた。鈍感な真人にもそれがすぐ分かり、彼は男の方を向く。
男は乱暴にランプを抱きかかえていた。
「んんうっ! んんうっ!」
ランプは真人の名を呼ぼうと懸命になっているが、男に口を塞がれた状態では、単なる呻きにしかなっていない。
「なんのつもりだよ」
「君の想像通りだと思うが、なんなら改めて言ってやろうか?」空気が弛緩する。ただ一人だけが圧倒的な優位に立っている状況。その状況下、男が言葉を紡ぐ。「こいつを――いや、こいつが叶えられる願いを、私に譲れ」
「……譲らないとどうなるんだ」
「君が死ぬだけだ」
「あん?」男の言葉に引っ掛かりを覚え、真人は訊ねる。「ちょっと待て。俺が死ねばランプは管理者とかいう奴んところに戻っちまうんじゃないのか? なら、俺を殺せば、結局お前はランプに手出し出来なくなるんじゃ……」
命乞いのつもりなど一欠けらもなく、真人はただ純粋に湧き上がった疑問をぶつけた。ランプを欲している男。彼は、ランプを渡さないと真人を殺す、と言う。しかし真人を殺せば、結局ランプは男の手に入らない。ならば、彼の脅迫は脅迫になっていないのではないか?
しかし彼の疑問は的外れなものであった。
男は答える。
「そうだな。君が死ねば、この魔人は管理者の元に戻ってしまう。事故死、病死、自然死、自殺のいずれかによる死ならばな」
「どういう意味だよ」
「どういう意味だよ、か。ふふん」
期待通りの真人の反応に、男が含みをもった笑みを浮かべる。と、束の間大人しくしていたランプも「んん?」と、怪訝な表情を浮かべた。男は構わずに次の言葉を発する。
「つまりだな。私が自らの手で君を殺せば、この魔人の主人は自動的に私に移るというわけだ」
「なっ!!」「っ!!」
男の言葉は真人だけではなく、ランプをも驚愕させる。
「やはり知らんかったか。覚えておらんかったか。まあ、この魔人にとっても、あまり愉快な記憶ではないだろうからな。数多の魔法使い達が自分を巡って血みどろの殺し合いを繰り広げていた過去など。自らに『忘却』を施し、偽の記憶にすり替えていたのだろう。例えば、自分は最初から大会の景品として創られた、とかな。まあ何だっていい。順を追って説明してやろう」
「――――」
――ランプ……っ。
男の手の中で自失し、死人のような目をしているランプ。今すぐにでも彼女に慰めの言葉をかけてやりたい衝動に駆られた真人だったが、それをぐっと抑え、まずは男の話に耳を傾けることにした。ランプにとっては聞かれたくない、聞きたくもない話であることは重々に承知しつつ、しかし聞かねばならぬ話でもあるような気がして。
真人の沈黙を了解と判断し、男は説明を始めた。
「すべての魔人が創られたのは、神の子の誕生から三四半世紀が過ぎた頃のこと。創られた当初は、ただ前の主人を殺せば自分が次の主人になれるという、単純なものだった。だがこのシステムは長く続かなかった。あまりにも激しい殺し殺されの応酬で、たった一年間に、当時いた魔法使い達の約三分の一が命を落としたそうだ。流石にこれはいかんと、魔人の創造者達が急遽追加したシステムが『管理者』と『大会』なのだよ。もっとも、『管理者』は新たに造られた存在ではなく、元々我々魔法使い全体の『管理人』だった男をそのまま擁立したに過ぎないのだが。だからもっぱら我々は彼のことを『管理人』と呼ぶ。今はそちらの理解に合わせて『管理者』と呼ばせてもらっているが」
男の説明に、真人は絶句した。ランプの人生と、それを巡る者達の歴史はあまりにも壮絶なものであった。「『アラジンと魔法のランプ』みたいだな」なんて、とんでもない。ただただ血生臭くおぞましいものだった。「やっぱり聞かなきゃよかった、聞かせなきゃよかったかもしれない」と後悔するほどの。
一方、顔色一つ変えずに説明を続ける男は、最後に、彼にとって最も重要なことを付け加えることも忘れなかった。
「しかし大会はあくまで後に追加されたシステムだ。本質的なところは変わっておらん。だから、君を殺せばこの魔人の所有権は、やはり私に移るのだよ。さて……これで説明は終わりだが、何か質問は?」
まるで授業を一区切り終えた後の教師よろしく、男は言った。真人としても、訊きたいことは山ほどあったが、その中でも気になるものを吟味し始めた。少しの間があってから、真人が口を開いた。
「大会や管理者がなかった頃、願いを叶え終えた魔人や、誰かに殺される以外で主人を失った魔人はどうなってたんだ?」
「詳しくは知らんが、当時はまだ魔人の創造者たる魔法使い達がこの世界に健在だったからなあ……。とりあえずは、彼らの手元へ戻っていたんだろう。もちろん、器ごと。その後は、彼らが直接選んだ次なる主人の手へ送られていた。だいたいそんなところだろう」
「へえ。じゃ、次の質問。もしお前が俺を殺して、ランプの新しい主人になれたとして。ランプはちゃんとお前の言うことを聞くのか?」
「はっ。願いを叶えぬ魔人に何の意味がある? 主人の願いは絶対だ。頭に『אברא כדברא』を付けて命令されれば抗えぬ。それが魔人というものだ」
「そうか。なら、最後にもう一つ。なんでお前は、まず俺を殺さなかったんだ?」
その質問こそが肝。訊かないはずがない事項であった。
真人の質問に、男は大きく嘆息してから答えた。
「君は魔法使いという人種について大いに誤解しているようだ。無理からぬことかもしれんがね。まず、魔人を巡るかつての悲劇は、ごく一部のイカれた魔法使いとそれに巻き込まれた者達によるものだ。我々魔法使いの道徳観は、人間と比較しても、そこまで逸脱しておらん。好き好んで殺人などしたくはないさ」
「そうかよ。なら、願いを一個譲ったら、お前は大人しく引き下がってくれんのか?」
「無理だな」即答。「私が欲している願いは二つ。優先順位ならつけられるが、かといって片方を捨てられるものでもない」
「業突く張り。まだランプの方がお前より聞き分けいいぞ」
「妥協することを聞き分けがいいとは思わん。冷静になれ」
「だってなあ。叶えられる願いはちょうど二つしか残ってないし。お前の願いを二つとも叶えちまったら、ランプは管理者んところに戻っちまうんだろ?」つまり。願い事を二つとも男に譲ってしまえば、真人はランプと二度と会えなくなることを覚悟せねばならない。その上。「そんなことになったら、こいつはまた魔法使いどもの道具にされる」
だから真人も聞き分けられない。魔法使いの実態を知らされた今、その魔法使い達にランプを返す気にはなれない。如何に男が『魔法使いの道徳観は普通の人間と変わらない』と吹いても、百パーセントで信用する気にはなれない。現に男は、自らの願いのためなら、究極的には真人を殺すと宣言しているのだから。
そんな男だから、簡単に退くはずもない。
「魔人は人の願いを叶えるために創られたもの。今回のようなイレギュラーでも起きない限りは、いつまでも他人に奉仕し続ける未来が待っている。それは確かにその通りだ。だが、死ぬというわけでもないだろう。昨日今日会ったばかりの小娘の未来のために、命を懸ける必要が君にあるのか? 交換条件が欲しいなら言ってみろ。金なら腐るほどあるし、女がいいなら適当に見繕って」
「黙れよ」男の言葉を途中で遮って。静かに、しかし威圧的に、真人は言い放った。「救いたかった相手を自分の手で救えなかった時の悔しさを知ってんのかよ! 力ずくで救えそうな奴ぐらい、命懸けで救わせろ! それの何が悪いっつうんだよ!!」
大の大人でも心胆を寒からしめられる怒号。男は黙り込み、ランプは戦慄する。
肩で息をする真人。はあはあ、と。ふうふう、と。ふう、と。
「……悪い、今のはただの八つ当たりだ。叫んだら落ち着いてきたよ。忘れてくれ」
「いや、私も不用意だったようだ。失言を詫びよう。君の過去については敢えて聞かないが」
「ああ、そうしてくれると助かるぜ」
冷静さを取り戻した真人の関心事は、ランプの奪還へと戻っていく。怒りは既にない。
ランプを男に譲るつもりはない。一つだけならまだしも、二つの願いを男に譲ってしまっては、彼女はまた魔法使いの道具に成り下がる。自分の手でランプを救いたければ、ここが正念場だ。だが、そのためにはどうすればいいのか。真人は思考を巡らせるために黙り込む。
そんな彼の心情が手に取るように分かる男は、その満身故に油断した。気が緩んだ。
「がっ、痛うっ!」
右手小指根元に走った激痛に顔を歪ませた男は、ついその手をランプから放してしまう。間隙を突いて男の拘束から逃れたランプは、全速力で真人の元に走り寄り、彼の足にひしと抱きついた。
「うそつき! うそつき! うそつき!」
ランプは喚く。真人の右脚に両手で抱きついて、顔を埋めながら。
「お、おいおい、落ち着けって。あんだけの啖呵切ったのに、まだ俺がお前のこと裏切ると思ってんのかよ。どうやってお前を助けるか考えるために黙りこくっちまっただけで、そもそも助けるかどうかの段階で悩んでたってわけじゃ」
ないぞ。と、真人が言い切るより先に、顔を上げたランプが叫ぶ。
「違う! うそつきはあの人だよ! 願いを叶え終えたらわたし、死んじゃうの!」
「え」
あまりにも唐突な告白に、真人の思考が一瞬停止する。
魔法使いの男は舌打ちしている。
ランプは叫んだっきり、嗚咽し続けている。
「おい、どういうことだ! お前、知ってんだろ? 説明しろよ!」
思考を取り戻した真人は、ランプではなく男に詰問した。怒気を孕みつつ、混乱を隠せない様子で。男は一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出してから答え始める。
「魔人が現界出来るのは、主人に召喚され、願いを叶えるために存在している間だけだ」
「そりゃどういう――」
「魔人の器。本来、願いを叶え終えた魔人は一度あそこに逆戻りする。だが、君がランプと名付けたその魔人の器はもうない。君が壊したから。戻る場所を失った魔人は存在の矛盾に囚われて消滅する」
「なっ……!!」
顔面を正拳突きれたような衝撃が真人を襲う。形勢は一変した。真人の立場は、〝人攫いから少女を救おうとしていた少年〟から、〝少女を死の淵に追いやった少年〟へと激変した。
呆然としている彼に、男は追い討ちをかける。
「器はな、魔人にとって心臓なんだよ。魂と言ってもいい。魔人が魔人である限り、器を壊さねば死なないし死ねない。逆に、器さえ壊れれば、あとは簡単に死ぬ。人間のようにな。もっとも、だからこそあの器には、物理的には決して壊れないような魔法の加護が施されていたんだろうが。経年により劣化し、それが消失していたんだろうな」
――そん、な……。
後半の内容は、本当の意味で真人の耳に入っていなかった。何を言われても気休めに聞こえた。真人は打ちひしがれ、項垂れていた。そんな彼に、何とか嗚咽を殺したランプが言う。
「マサトが悪いんじゃないよ。むしろマサトだったから良かったんだよ。他の誰か――魔法使いが器を壊しちゃってたら、その人はお構いなしにさっさと願いを三つとも叶えてたんだろうし。だったら、結局わたしは死んじゃってたよ」
「ランプ、でもそれは」
「それにね。わたしが死にたくなくなったのは、マサトのお蔭なんだよ?」
「え?」
「わたしのせいで、たくさんの魔法使いどうしが殺し合いをして、死んじゃったっていうのは本当だよ。全部、思い出しちゃったから。だけど、それでもわたし、もっと生きたい! 器が壊れちゃったのを知った時は、どうせこのまま生きていても意味なんかないと思ってたから、どうでもいいや、って気分だった。だけど、マサトに会って、これからは自分のためにも生きられるかもって思ってたのに。結局、誰かの願いだけ叶えて死んじゃうだなんて、そんなのないよ……! だめ、なのかな……? わたしにそんな資格も権利も、ないのかなあ……!」
「ランプ……」
消え入るような、しかし確かな声で、心の奥底からの叫びを駄々漏らす少女。子どものあやし方にも異性の扱い方にも慣れていない真人に、気の利いた慰め方など思いつけるはずもなかった。しかし、これだけは彼にも理解出来た。
今、ランプの目から零れ落ちているものは、本来なら必要のないもの。魔人以前に、彼女はたった六歳の女の子なのだ。転んだら泣けばいい。叱られたら泣けばいい。悲しい絵本を読み聞かされて泣くのもいい。だが、自分には生きる資格がないなどという嘆きは、涙は――。
「っ」
居た堪れなくなった真人は、しゃがみ込んでランプを抱擁した。
「あ」
目を腫らしたランプが、短い声を上げる。
「きっかけと責任を取り違えんな。お前は誰も殺してないだろ? 生きる資格も権利も、俺が幾らでもくれてやる。要らないって言っても押し付ける!」
「う、ううう、うう。ふうあ!」
右手で抱きしめられ、左手で頭を撫でられて、ランプはとうとう堰を切ったように泣き始める。そこにいたのは魔人などではない。ただの六歳の女の子であった。
「お前、本当に泣き虫だよな。これで昨日から何度目だよ」
「だって、だって……うああっ」
苦笑する真人に、泣き続けるランプ。黙って二人の様子を窺っていた男も、とうとう言葉を挟んでくる。
「まったく。見ているこっちが恥ずかしくなる。泣けるね。しかしどうする? 私の記憶でも上書きするつもりか? 残念だが、そんな小細工は通用せんぞ? 人間ならばともかく、私は一応、魔法使いなんでな。その辺りへの対処は万全だ」
男の言葉に、真人はにやりと笑う。
「――俺も馬鹿だけど、お前もそこそこ馬鹿なんじゃないか?」
「なに?」馬鹿と言われ、男は眉間にしわ寄せる。その一秒が命取り。「まさかっ!」
真人の企みに気付いた男は、真人に目掛けて駆け出した。が、彼が辿り着くよりも先に、真人は素早く、ランプの耳に何かを囁いた。
「え」
その言葉を最後に、ランプの姿は掻き消えた。有無を言う間もなく。彼女の姿は消失した。




