その7
「忍術怖っ! ……あれ?」
「あ……、気が付いた。よかったあ」
ファンシーな部屋の中。ベッドの上。勢いよく上体を起こしつつ叫びながら、真人が目を覚ました。傍らには、椅子に腰かけている茉莉花。
「茉莉花さん? ここは? あれからどれぐらい経ちました? ランプは?」
「ランプちゃんはお母さんのところ。時間はまだ五分ぐらいしか経ってないよ。ここは私の部屋。昔と少し雰囲気も変わったから、覚えてないかな?」
「茉莉花さんの部屋。言われてみれば確かにそうですね。覚えてますよ」
――というか。これぐらいじゃあ、雰囲気が変わったとも言えない気がする。ぬいぐるみがちょっと増えてるぐらいか?
真人が懐かしさに心を安らがせていると、室内にノックの音が響いた。続いて。
「茉莉花、真人君起きたみたいだし、もう入っていいか?」
と、蜂一郎の声。
「ちょっと待って」と、茉莉花の返答。彼女は、真人に小声で「お父さん、中に入れてもいいかな?」と、確認を取った。真人が無言で頷くと、彼女は「はい、どうぞ」と、父を招き入れた。
ゆっくりと扉を開き現れる蜂一郎。その表情は慈しみに満ちていて柔らかい。
「もう平気か? どこかおかしなところは?」
「いえ、特には。まだちょっと頭がふらふらしますけど、すぐ治まると思います」
「そうか。そりゃよかった」
「ありがとうございます」
自分をベッド送りにした張本人の見舞いに、真人は純粋な思いで感謝した。あっさりとしているが、故に嫌味も感じられない蜂一郎の言い方が、今の真人には心地よかった。
「さてと。本題に入るか」瞬間、部屋に緊張が走る。真人も茉莉花も固唾を呑む。「試合としては、俺が勝ってしまったわけだが……勝負はお前の勝ちだ、真人君」
「――――――――え? あ、ほ、本当に?」
「こんな時にまで冗談を言わんよ。本当だ」
現実味のない浮遊感に襲われ、目を白黒させながら訊ねた真人に、蜂一郎はきっぱりと告げた。茉莉花は目を潤ませ口に手を当て、よかった、と繰り返している。
「それと、茉莉花もな。お前も勝ちだ」
「え、え? どういうこと?」
口に出して言ったのは茉莉花だけであったが、真人も同様の疑問を抱いた。茉莉花も勝ちとは、一体どういう意味なのか。
「意地の悪いことしてすまんかったな。父さん、お前のことも同時に試してたんだよ」答えはすぐに明かされた。「俺が真人君を殴る度、真人君が俺を殴る度、何度も顔をしかめながら、しかし一度も止めに入らなかっただろう? だからお前の勝ちなんだ。我が娘ながら、いい嫁になるよ、お前は」
それをただの親馬鹿だと言う者はいまい。茉莉花は赤くした顔を伏せている。
ところで。真人は、蜂一郎の言からさり気なく明かされた事実に驚愕していた。自分と闘っていた最中、彼が何度も茉莉花の様子を見遣っていたという事実に。
――そりゃ勝てないよ。
火傷や疲労。そんなものがあってもなくても、勝負に影響はほぼなかったと言っていい。自分はまだまだ蜂一郎に遠く及ばない。
試合の勝ち負けが勝負の勝ち負けでなくて本当に良かったと、真人は本気で安堵した。
「あ、そうだ」ぽんと手をつき、蜂一郎が再び口を開く。「勝ちと言った後で付け足すのもなんだとは思うんだが、お前達の結婚に関して、一つだけ条件を付けさせてくれ」
………………。
…………。
……。
「仮面夫婦?」
と、花梨花。
「いや、仮免夫婦」
と、蜂一郎。
夕食の準備を完了していた花梨花の元へ戻って来た三人は、彼女への事情説明をし終えたところであった。
「高校卒業まで結婚はお預け。それまで、夫婦としては仮免状態ってことで手を打った」
「なるほどね。いい考えだと思うわよ、私は。さすがに、今すぐ籍を入れるのは早計云々以前の問題が多過ぎるもの。真人君の高校に関しては任せてちょうだい。この近くの学校に掛け合ってみるわ。流石に三年生に編入するっていうのは無理でしょうけれど、二年生からなら、なんとかなるかもしれない。まだ六月だし。真人君がアメリカで通っていた学校の名前、後で教えてね。そっちにも連絡して、証明書なんかも送ってもらわないと」
こうなると強いのは男性より女性、父より母。すべてが突然の事態であるはずにも関わらず、淡々と先を進める花梨花に、蜂一郎、真人は恐れ入っていた。
「花梨、お前、なんかすごく落ち着いてるな……」
「真人君が日本に帰って来るかもしれない、って話を聞いた時から、こうなる予感はしていたもの。あなただって、『真人君が帰って来たら、娘さんを下さい、って言い出すかもしれんな』って言っていたじゃない」
「あれは半分以上が冗談のつもりだったんだが」
冗談じゃなくなってしまったからてんてこ舞いであった、と、蜂一郎は嘆息する。
「嘘からでた真ってところね。いえ。むしろ瓢箪から駒の方が的確かしら。どっちでもいいわね。そんなことより真人君。君のことはもう決まった、というか、こっちで勝手に決めさせてもらったけれど、あの子のことはどうする気?」
「あの子って、ランプですか?」
「あ、え、わたし?」
「そう。こればっかりは私や旦那だけでは決められないし。かと言って、真人君の独断にも出来ない問題だったわね。ランプちゃん、あなたはどうしたいの?」
「わたしは……」
ランプは言葉を詰まらせる。
――どうしたいんだろう?
器を離れ、ランプは晴れて自由となった。
捕らえられた野生動物が名付けられたわけじゃない。むしろ正反対に、野に放たれて名前を得た。彼女は人間となったのだ。自分の生き方を自分で決めねばならない人間に。
「そう言えば。真虎に聞いたんだが、前にも一度、身寄りのない女の子を拾って来たことがあったらしいな、君は。で、自分の妹にしたんだって? 世界を回りながら、そういうことばっかりしてるのか?」
「いや、そういうわけじゃ。あれはあれで特殊な例だったんすよ」
それに、身寄りのない子どもを拾ったわけじゃない。俺があいつの身寄りを失くしちまったんだ。決して口には出さず、心の中で真人はそう呟いた。
それほど昔ではない、具体的には四年ほど前の話。彼は、一人の少女を力ずくで助けたことで、力ずくでは決して癒せない傷を彼女に負わせた。真人はその傷を癒すことを放棄し、他人に委ねる。その他人は、少女の傷を僅か半年で癒した。真人は少女を助けたかもしれないが、救うことは出来なかった。数行数頁では事の詳細を語り切ることなど出来ないが、顛末としては凡そ、そんなところの一件があった(真人が妹にしたという女の子は、そのとばっちりを受けて孤独になった子であった)。
既に乗り越え、トラウマとは言い難いものとはなっていたが、それでも忘れることの出来ない記憶であることには変わらない。現に。つい昨日も、蛇使いで炎使いの魔法使いの言葉でその出来事を想起し、取り乱したぐらいである。
真人はずっと、その一件から学んだことは『力ずくで解決できないことが世の中には幾らでもある。だから俺は、力ずくで解決できることにしか手を出しちゃならない』だと思っていた。 しかし今は違う。後半部分が違う。その決意表明の一つが、ランプ。
――いや、ほんとはもっと前から気付いてたんだ。だからあの時も自然と『今度は、最後まで面倒みさせてくれ』なんて言葉が出たんだろうな。
そんな話――真人が、身寄りのない女の子を拾ったことがある、ましてその子を妹にしていたなどという話――は初耳だという茉莉花とランプは驚きに満ちた目で真人を見つめていた。しかし、彼の表情を見る限り、容易に触れてはいけない話だということを悟り、
代わりに。ランプは先の質問に答える。
「わたしは、お父さんとお母さんが欲しい。お父さんやお母さんと一緒に暮らしてみたいです。一つのお家で」
あまりにも典型的な、しかしささやか過ぎる女の子の望みに、場の誰もが黙り込む。
茉莉花、花梨花、蜂一郎、そして真人も。彼らの何れもが、今のランプと同い年の頃合いには親と一緒に暮らしたものだ。両親とも仕事に忙しく、滅多に構ってもらえなかった花梨花や茉莉花でさえ、少なくとも一年の半分以上は同じ食卓を囲み、同じ布団で眠ったもの。赤ん坊時代に生みの親を両方失った蜂一郎にも、育ての親はいた。真人も六歳半ばまでは両親と一緒に、一つ屋根の下暮らしていた。
「はい」
沈黙の中。少年の声とともに、包帯を巻かれた腕が上がる。皆の注目が集まる。
「ランプの父親、俺が立候補します」
発言する真人は毅然としていた。最後まで面倒を見ると言ったのは自分なのだ、と。
そして。彼がそう言うのならば、茉莉花はこう言うしかない。
「ランプちゃんのお母さん、私が立候補します」
と。
「お前ら、何を言っとる。まだ夫婦としても仮でしかないのに、あまつさえ子どもなど」
「いいんじゃないかしら?」
「うおい!」
息を揃えた仮免夫婦に対して、二十年以上連れ添った夫婦の反応は対照的であった。
「事情が事情だもの。どの道、私達か茉莉達が親にならなきゃならないのよ? なら、茉莉達の方が適任だと思うわ。ランプちゃんだって、その前提で言ったんじゃない?」
そう言って花梨花が目配せすると、ランプはこっくりと頷いた。
「し、しかしだな。親になるってのはそんなに簡単な話じゃ……」
「それは私達が偉そうに言えたことじゃないでしょ」花梨花がぴしゃりと言う。「赤ちゃんを育てるってわけじゃないのよ? きっと大丈夫。こんなに出来た子だもの。きっと、ランプちゃんにとっても、茉莉達にとっても、プラスになるわ」
「む、う。だが、茉莉花は大学、真人君は高校があるんだぞ?」
「なら、ランプちゃんも小学校に通わせればいいだけでしょう? 朝昼は学校、夕方に茉莉も真人君もいない時は大夜さんに頼むようにすれば、きっと喜んで引き受けてくれるわよ。『最近は十夜(息子)が四度目の反抗期を迎えた』って寂しがっていたし」
「(十夜君の場合、反抗期じゃなくて正常な親離れだと思うが)確かに大夜なら二つ返事で引き受けるだろうな」大夜。蜂一郎、真虎共通の旧知である女性武道家。今は、どこにでもいる世話好きおばさんである。おばさん、と本人に言うと恐ろしい目にあうが。「よし分かった。俺もお前の案に賛成しよう。茉莉花、真人君、絶対に途中で投げ出したりしないと誓えるな?」
「はい! もちろんです!」
「大丈夫だよ、お父さん」
「…………」
「うむ」
二人、いや、三人に確かな覚悟を感じ取った真虎は、それ以上の言葉を重ねない。
――もう何も言うまい。これ以上続けると、茉莉花や真人君を信用していないことにもなりかねんからな。
「さあ。話は一段落着いたし、飯にしよう。折角の花梨の手料理が冷めちまう」
「なんつうか、すごいよな。花梨さんと蜂一さん。俺なんて結局まだまだ子どもなんだなってこと、思い知らされたよ。自分から言い出した以上、こんなこと言うのも情けないけど、俺なんかが本当にお前の親になれるのか?」
「きっと大丈夫だよ。茉莉花さんだっているんだから」
「それって、俺のことは信用してないってことか?」
「穿ち過ぎだよ。マサトだって、きっといいお父さんになってくれるって信じてる」
「ありがとよ。まあ、精一杯やってみるさ」
夕食を終えて。花梨花と茉莉花は食器を洗い、蜂一郎は風呂に入り、『狭いから』と食器洗いの手伝いを断られた真人とランプは、何とはなしに廊下に出ていた。彼と彼女の人生を最大限に揺るがした三日間は、緩やかに、そして優しく終わりを迎えようとしている。
「それにしても。今までとはまるで正反対だったな。本来、わたしが真人の願いを叶える側のはずなのに。自由にしてもらったり、家族をもらったり、わたしの方が願いを叶えてもらってばっかり」
「何言ってんだよ、お前はちゃんと俺の願いを三つ叶えてくれたじゃんか」
「え? わたしがマサトの願いを? いつ?」
「自分で覚えてないぐらい、自然な形で叶えてくれたんだよ」
真人の言う通り、ランプは彼の願いを三つ叶えた。正確に言えばランプが叶えたというより、ランプとの出会いによって真人が自力で叶えたというべきものも含まれているが。
「ああ、そんなことより、ランプ」思い出したように、真人が言う。「これからはマサトじゃねえ。お父さんと呼ばないと。もちろん、茉莉花さんのことはお母さん、ってな」
「お父さん……お母さん……」どこか呆けた顔で、二つの単語を――その単語の持つ意味を噛み締めながら――繰り返し呟くランプ。呟いてから「だったら真人も、いつまでも茉莉……お母さんのことを、奥さんのことを『茉莉花さん』なんて呼んでちゃおかしいよ」
「うっ。ど、努力する」
自信なさ気ではあったが、彼の言葉に嘘偽りはない。馬鹿なくらいに素直だから、本当に努力するのだろう。
「ランプ、お父さんが上がったから、一緒にお風呂入らない?」
「うん! 入る! 今日はお母さんと一緒に入る!」
早速ランプを呼び捨てにして声を掛けた茉莉花のことを、ランプも早速『お母さん』と呼び、敬語も使わなくなっている。そのまま、ランプは茉莉花に駆け寄っていく。彼女の背中を見送りながら、真人は、
「俺が一番ダメなのかもな。しっかりしよう。もう、失敗は出来ない」
と、自分に言い聞かせた。
長い一人旅に区切りを付けた彼は、家族がいる場所へと足を運び始める。
魔人と真人の物語にも区切りがつく。
真人が叶えた魔人の願いは二つ。自由と家族。
魔人が叶えた真人の願いは三つ。どれも十代、特に十代後半の少年が望んで止まないものばかり。まずは食べ物。次に恋。そして最後に成長。




