その4
真人はまだ、加奈が示した写真を食い入るように見つめ、男の顔をどこで見たのか思い出そうとしていた。加奈は、ある一点に視点を集中させていた。そのまま、真人とランプに問い掛ける。
「ところで。あの、そんなに似てるの? 私と茉莉花さんって」
「ええ。もうソックリですよ。双子よりもソックリです」
「って、この子は言ってるけども?」
「そいつの言う通りです。誇張なしにそっくりです。ハッキリ言って同じ顔ですよ」
「へえ。じゃあ、あの人がそうかしらね?」
「え?」「ん?」
ランプと真人。二人は同時に。見知らぬ男と茉莉花が一緒に歩いていた。
「茉莉花さん、と、あの男は……」
真人はその男に見覚えがあった。一度しか見たことがないのに、その一度のショックが大きすぎて忘れられない顔。具体的に言えば、七年前に実家の前で見た顔。写真ではなく実物を見ることで、彼はようやく思い出した。
「加奈さん。もしかして、加奈さんの連れの人って、あの男の人じゃないんですか?」
「あら。よく分かったね。そうそう、あの人よ。探しに行く間もなく、あっちから来るなんてね」
ほっとしたやら馬鹿馬鹿しいやらで、加奈は大きな溜息を吐く。そんな彼女の姿を発見した男が声を上げる。
「あ、加奈!」
「もう、何やってるのよ孝平! 私はこっちだよ」
「悪い悪い」
顔の正面で右手を立て、謝る仕草をしながら、孝平と呼ばれた男が加奈に駆け寄る。
「茉莉花さん」「茉莉花さん」
手を振りながら、真人とランプが茉莉花に駆け寄る。
「真人君、ランプちゃん、心配かけてごめんなさい」
「いやあ、大丈夫ですよ。大体の事情は察知しましたから」
こうして。大した時間も掛けず、二人と三人とが再会した。
正午を十分ほど過ぎた頃、混み合った園内のレストランで。すっかり意気を投合させた四人足すことの一人は昼食をともにしていた。
「へえ。ここまでそっくりだから、何故か歳も同じだと勝手に思っていたけど、あなたの方が一つ年下なのね。茉莉花ちゃん、だっけ? 茉莉ちゃんって呼んでいい? いいわよね。それにしても。見れば見るほど、本当にそっくりね。いきなり遭遇したら卒倒しちゃってたかも」
「おい、それはなんか失礼だぞ、加奈。すみません、こんな奴で」
「いえ、謝られるようなことじゃないですよ。愉快な人ですよね、加奈さんって」
「茉莉花さん、それはそれで、今度はこっちが失礼になっちゃうよ」
どっと、四人分の笑いが起こる。茉莉花、ランプ、加奈、孝平。すっかり意気投合させた彼らは、レストランで食事をともにしていた。人違いした謝罪の意味も込め、ランプの分は自分が奢ると、孝平が言い出したから(もっとも、最初は全員分を奢ると言っていたのだが、流石にそれはと、茉莉花と真人が断った)。
「世の中、同じ顔の人が三人はいるというけれど、まさかその内の一人と実際に会うことになるなんて思いもしなかったわ。茉莉ちゃんは今、大学四年生らしいけれど、就活はどんな感じなの?」
「私は教師を目指していますので、今はとにかく教員免許取得に向けて、大学で勉強中です。卒業後もフリーターをしながら教師を目指すつもりですので、四年生とは言え、今までは結構暇があったんですが、来週辺りからは忙しくなります。九月からの実習に向けての準備も本格化しますので。加奈さんはどうなんですか?」
「私、こう見えても院生なの。大学院生。この孝平もね」
「へえ、大学院ですか。お二人とも、何か目指しているものがあるんですか?」
「俺は大学で学芸員の資格を取得したんで、今は学会にちょこちょこ顔を出しながら、博物館学芸員を目指してます。で、加奈は」
「特に何にも考えてないのよね、これが」
あっけらかんとして言い放った加奈に、茉莉花とランプは唖然し、孝平は恥ずかしそうに顔を伏せている。そして真人は。
「もぐもぐ」
我関せず。ただひたすらに肉を食べていた。
「真人、さっきからずっと食べてばっかり。ちょっとは話に参加しなよ」
「んが? んぐぐ」食べ物を口の中に大量に頬張ったままだった真人は、一気にそれを飲み込んでから答える。「(ごっくん)いやあ、七年越しの胸のつかえが取れたら、急に腹減っちまって。ええっと、今は何の話?」
「今何をしてるのか、とか、将来何になりたいのかといった類の話だよ。真人君だったっけ? 君は今、何をしてるんだい? 随分と鍛えてるみたいだけれど、ひょっとして、スポーツ選手か何か?」
「俺は武道家です。今は、それ以外の何物でもありません」
「武道家って、じゃあ、もしかして武道官なの?」
「いや、武道官は二十歳越えてないとなれませんから」流れとしてはごく自然な加奈の質問に、しかし真人は困窮する。「ええっと、敢えて言うなら趣味の武道家ですかね。一応、国際武道段位は三段まで取得していますけど」国際武道段位。国連下部組織『国際武道会』が受験・授与する段級位。国際資格ともなっていて、段位が上がるにつれ、与えられる特権の質、量が増え上がる。「色々と事情があって、つい昨日まで世界中を回っていたんですよ。とりあえずアメリカで中学は卒業して、高校にも一年だけ通ったんですけど、今は学校にすら通ってません」
「え? アメリカで中学高校……? ちょっと待ってマサト。それ初耳なんだけど」
「あれ? 言ってなかったけか?」
「私も今初めて聞いたよ。どうして昨日、話してくれなかったの?」
「すみません。完っ全に忘れてました」いけないいけない、と頭を掻き、真人は詳しい説明を始める。「俺にも一応戸籍はあるんで、十二歳の時に国から通達が来たんですよ。『小学校に関してはこの際免除するが、せめて中等教育だけは修了しろ』って。で、仕方なしに、その通達を受けた時にいたアメリカのメイン州で学校に通うことになったんです。あっちの義務教育期間に合わせて、十七歳の誕生日まで。正確には、誕生日の翌日付で退学したんですけど。それが去年の十月です。八ヶ月前まで学生だったんですよ、俺。退学してすぐ、世界放浪を再開しましたけどね」
何でもないことのように語られた真人の経歴に、加奈や孝平のみならず、ランプと茉莉花までもがあんぐりと口を開けて驚愕していた。
そんな状況下、まさかの言葉で最初に口を開いたのはランプ。
「ねえ、お手洗いどこかな?」
「お手洗いね。私も行きたいと思っていたところだから、一緒に行こう」
「わかった。行こう、茉莉花さん」
「ええ。ということで。ごめんなさい、ちょっと行ってきます」
ランプと茉莉花の二人は席を立ち、奇妙な取り合わせの三人が残される。三人の中で、
「……っと、ついぼーっとしてしまってた」孝平が口火を切った。「なんというか。真人君は、俺達では想像も出来ないような人生を歩んできたみたいだね。しかし、これからはどうするつもりだ? 昨日まで(・・・・)世界中を旅していたってことは、今日から(・・・・)は腰を下ろすつもりなのかい?」
「まあ、一応」
「ということは当然、就職するか就学するかのどちらかを選ぶのが自然なわけだけど、どっちにするか、もう決めてるのか?」
「いやあ、まだ全っ然。そういうことは、何にも考えてませんでした」
へらへらとしながらそう言ってのける真人に、孝平が眉を顰めた。そして。険しい顔で重々しく口を開く。
「何にも考えてない? なら君は、これから先もずっと、ただの武道家であり続けるつもりか?」
「ただの武道家……?」
孝平の言葉に、真人は眉を顰める。孝平への反感ではなく、自分自身への気付きで。
「そう。ただの武道家だよ。学校にも行かない。仕事もしない。趣味のためだけに生きる人生。楽しいかもしれないが、そんなことでいいのか?」
「………………」
正論過ぎる正論で痛いところを突き刺され、真人は言葉を失う。
――日本に残るかどうか如きで、あそこまで悩んだ昨日の俺は何だったんだよ。俺が決めたのはこの先のことなんかじゃなくって、ただのスタート地点だったんじゃねえか。日本で残るとなれば、これまでのような生活費の稼ぎ方は出来なくなる。かといって狩りと釣りだけで暮らすことなど出来るわけもない。親父とお袋の収入を掠め取って、自分は学校にも行かず働きにも出ず、あとは悠々自適? ありえるか、そんな暴挙。
認識の甘さをまざまざと思い知らされ、真人は苦悩する。落ち込む。そんな彼に、
「ホントにね! 君ももういい歳なんだろうから、少しは先のことを考えないと」
と、加奈が追い打ちをかけるが、
「お前が言えた義理かよ」孝平に両断される。彼は肩を落とし、加奈への落胆を示してから、再び真人に向き直る。「とにかく。まだまだ親にも頼って院生をやってるような俺が偉そうに言えた義理じゃないのは分かってるけど、君にはしっかりして欲しいんだよ。加奈と同じ顔の奥さんを持って、その上、可愛い子どもまで抱えている君にはね」
「お、奥さん!? 子ども!?」
何気ない、故に悪気もない孝平の言葉に、真人はこの上なく激しい動揺を見せる。つい寸刻前までの落ち込みなど、どこ吹く風。
「あ、あれ? 違った? てっきり、若い身空で子どもをつくってしまった男女とその娘って組み合わせだと思っていたんだけど」
「私もそう思ってた。子どもをずっと放ったらかしにして、昨日やっと帰ってきたばかりの酷い父親だとばっかり。それにしちゃあ、娘の名前も変わってるし、顔も、どっちにも全然似ていないし。下手したら余所で作った子どもかも、とも。違うの?」
「ちちち、違いますよ!」
「でも、あなたと茉莉ちゃんは付き合ってるんでしょ? 間違いなく」
「いや間違ってますよ! 俺達は、そんなんじゃあ……」
強く否定しながらも、否定しなくてはならないことが悲しく、真人の語気は徐々に弱くなっていく。そんな彼を、加奈と孝平は、若干の憐みを含んだ目で見る。真人は完全に見透かされていた。そこへ、茉莉花とランプが揃って帰って来る。
「お待たせました!」
「ごめんなさい、食事中に。お待たせ……どうかしました?」
「別に」「別に」「別に」
「じゃあね。今日は貴重な出会いだったわ。またいつか、機会があったら会いましょう」
「ええ。さようなら、加奈さん」
「バイバイ、加奈さん!」
「じゃあな。まあ、なんだ。強く生きろよ。俺の見る限り、脈はどくどく波打ってるよ」
「だといいんですけどね。ありがとうございます」
出会った二組は分かれ、別れていく。遊園地での休日は始まったばかり。
「いい人達だったですね。さてと。今度は何に乗りますか? さっきはランプの希望を聞いたし、次は茉莉花さんが乗りたい物にしましょう。いいよな、ランプ?」
「うん、いいよ。茉莉花さん、何に乗りたい? 乗り物じゃなくっても、色々あるけど」
「えーっと、そうだねえ」茉莉花はガイドパンフレットのページを捲り、園内のありとあるアトラクションを確認していく。急流滑り、ジェット・コースター、3Dムービーシアター、そして数々のカートゥーン・ライド(アニメや映画の世界を模したライド)……一日では到底周り切れない数の呼び物に耳移り――もとい、目移りする。「真人君は、何か乗りたい物ないの?」
自分が真っ先に乗りたい物を決めかねた茉莉花は、選択を真人に委ねようとしてそう言った。だが真人は、その発言を、彼女の遠慮だと解釈して返答した。
「俺は、最後に観覧車だけ乗れれば満足です」
「観覧車……」
ランプが呟く。ネコ科じみた聡さを持つ真人の耳にも、辛うじて聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で。果たしてその声は彼の耳に届かなかった。
一方、茉莉花はくすくすと優しい笑いを浮かべてから「真人君、けっこうロマンチックなところがあるんだね」と言った。
「そ、そうですか?」
真人は、茉莉花の見当違いを指摘することもなく照れた。彼の実際はロマンチックなどとは縁遠い。遊園地の締め=観覧車という、ステレオ過ぎる単純思考の持ち主なだけ。
如何に幼い頃から世界を旅して見聞を広めたつもりの真人であっても――慣習的なことはともかくとして――こと娯楽に関する彼の杓子定規っぷりは、十代のそれとは思えぬほど固着している。映画にはポップコーン。大学生は麻雀。
結局。三人は、それほど多くのアトラクションを満喫することをしなかった。ただ歩いているだけでも十二分に楽しい、遊園地の雰囲気を楽しんだ。ふわふわした足取りで先頭を歩くランプと、彼女の後ろを茉莉花と並んで歩く真人。六時を過ぎた辺りで、ようやく空の色が橙色に変わり始める。
「もうこんな時間か。名残惜しいけど、次で最後にしないと」
茉莉花は左腕の腕時計を見て、残念そうに俯き、元気のない声で呟く。
「えー、でもまだ暗くなってないよ?」
「それはそうだけど。今日はお父さん達が帰って来るし、あんまり遅くまでいられないの。ゴメンね」
「残念だけど仕方ないっすね。じゃあ最後は」
「観覧車だよね!」
どういうわけか。ランプが一番張り切った声で叫んだ。
三十六のゴンドラが時計回りにゆっくりと進む観覧車。遊園地の剛毅な王様をジェット・コースターとするならば、観覧車は優雅な女王様だろう。その女王様の足元には、それなりの列が出来ていた。
「んー、思っていたほどは混んでないね。まだ夕方だからかな? 夜になるとすごい行列が出来るらしいんだけど」
観覧車から眺める夕暮れの景色もオツなものだが、夜中にはライトアップした夢の国を眺めることの出来る、テーマ・パーク内の観覧車の人気は、やはり帳が落ちた後の夜に集中する。圧倒的に。
「まあ、空いてるに越したことはないじゃないっすか。早速並びましょう」
「そうだね」
「並ぼうならぼう!」
カップルか家族連れ、或いは若い女性ばかりからなる友人グループしかいない列に、そのどれでもない奇妙な組み合わせの三人が並んだ。もっとも。赤の他人達は、彼らに対して、孝平や加奈と同じ判断を下していただろうが。
列はほとんど休みなく動いたが、その速度はカタツムリのように緩やかだった。十分二十分と無為な時間が過ぎ、ようやく真人達の前に、彼らを迎えるゴンドラが回ってきた。
その瞬間、
「あ!」ランプが叫び、「ごめん、急に尿意が。悪いけど、二人だけで乗って」と言いながら、列を外れた。
「おい、何言ってんだよ、ランプ」
「そうだよ。どうしても我慢できないんなら、私達も一回並び直して」
「ダメ! 乗るの!」茉莉花の言はランプの剣幕で中断された。彼女は尚も叫ぶ。「二人は乗るの! 二人で乗るの! 絶対乗るの! 今乗るの! じゃ!」
と。言いたいことだけ捲し立て、ランプはとたとたとその場から走り去って行った。トイレのある場所とはまるで違う方向へ。真人達はただ呆気に取られてランプを見送った。
「あの、お乗りになられます?」
「……あ、はい。乗ります」
従業員の女性の声で我に返った真人はそう答え、先に茉莉花をゴンドラに乗せ、続いて自分をその中へ入れた。
「……」「……」
真人と茉莉花を乗せたゴンドラはゆっくりと動き、既に円の四分の一を描いていたが、二人は押し黙ったままでいた。当然、彼らはどちらとも、ランプのお膳立てに気付いてはいた。しかし、気付いていたからこそ、口を開けなかった。
特に真人の葛藤は相当なものだった。
だが。〝このまま自分が黙っていれば、茉莉花が口火を切ってくれるかもしれない〟などという戯けた切願をしている自分に気付けた時、彼の意は決した。
「茉莉花さん」
「なに?」
びくっと体を震わせ、引きつった声で答える茉莉花。小動物じみた怯えすら垣間見せる彼女に、真人の覚悟も二の足を踏みそうになるが、彼は何とか自分を奮い立たせる。
「俺、茉莉花さんのこと好きです」
「そう」そのまま茉莉花はしばし沈黙する。真人は彼女を急かさず、次の言葉を待った。やがて彼の希望通り、彼女は再び口を開いた。「私、今までに三人、真人君以外の男の子から告白されたことがあるの」恋の告白に対しての過去の告白を、真人は目下黙って聞き続ける。「だけど三人ともお断りしたの。どうしてだか分かる?」
「――三人とも、好きじゃなかったから?」
「それもあるかもしれない。だけど、それだけじゃない。三人の内の一人――最初の一人は、私も好きだった人だから」
真人の胸の内に、気味の悪い嫉妬心が渦巻いた。茉莉花が過去に誰かと付き合っていても、それこそ破瓜を経ていても、そんなことは覚悟の上のはずだった。だが、過去に好きだった人がいるという明確な発言が彼に与えたダメージは、彼の想像よりもずっとえげつのないものであった。
「好きな人からの告白を、どうして断ったんですか?」
口惜しさを強引に押し留めながら、彼は真相に迫ろうとする。茉莉花も彼の決意に答えて、真相を口にする。果たしてそれは。
「その人よりも真人君の方が、私を好きでいてくれていると思ったから」
「え――」
あまりにも意外な答えに、真人は困惑する。わけが分からないといった風に。実際、訳が分からないままだただろう。その後の補足がなければ。
「今考えるととんでもない自惚れ屋だけど、当時の私は『きっと、世界で一番自分を好きでいてくれているのは真人君だ』って、本気で信じてたの」
「――――」
その告白に、真人は言葉を失った。例え当人であっても、彼女の言葉を肯定も否定も出来なかった。何故なら真人は、世界中のどんな女の子よりも茉莉花のことが好きであったが、世界中のどんな男の子よりも茉莉花のことを好きだったかどうかは、分かりようがなかったから。
「誤解しないでね。そこはまだ理由じゃなくて切っ掛けの部分。真人君に気を遣って断っちゃったとかじゃないんだよ? 理由はただ、怖くなったから」
「怖くなった?」
「そう。怖くなった。馬鹿馬鹿しい話だけど、『この人は私を好きだと言ってくれるけれども、それは一体どの程度の〝好き〟なのか』それが分からなくって怖かった。もしかしたら衝動的な告白に過ぎなくて、一日寝たら私のことなんかどうでもよくなってるんじゃないか。そんな馬鹿馬鹿しいことを本気で心配するような子どもだった」
「俺は――俺は、ずっと好きです。茉莉花さんのことを、一生、一番好きです」
「どうして」茉莉花の目から涙が零れそうになる。「どうして私なの? どうして、十年間も放ったらかしにしておいた私なの! 今さらどうして!? ごめんなさい。無茶苦茶なことを言ってるのは、自分でも分かってるの」
茉莉花の涙腺はついに決壊した。とめどなく溢れ出る涙。だが真人は彼女を抱きしめるどころか、指一本触れることなく、
「茉莉花さんしか好きになれなかったから」
と、彼女に答えた。
「……私は、自分から告白もせず、勝手に嫌われることを勝手に怖がって、かといって自分から相手に好かれようとする努力をまったくしない。そんな女だよ?」
「俺だって同じです。好きだ好きだと言うばかりで、茉莉花さんに好かれようという努力をしたことなんか、これまでただの一度だってなかった。それどころか、これまでずっと怖がって逃げ回ってた」
そこまで口にして真人は気付く。ああ、そうか。そうだったんだ。自分と茉莉花は、どこか似ている。自分と似た相手を好きになるなんて、俺も茉莉花さんもとんだナルシストなのかもしれない、と。だがすぐにそんなことはどうでもよくなった。
理由なんて無意味だと、ランプに言ったのは自分じゃないか?
「私、真人君のこと、好きだと思う。昔と違って、今は男の子として好きだと思う。でもそれは、十年の積み重ねじゃなくって、この一日足らずだけでそうなったの」
つまり、かつての彼女は、真人を異性として意識していなかった。この一日弱で彼を好きになったのだ。何故好きになったのだろうか。
一人の女の子を救うために命懸けで戦った勇ましい少年の話を聞いたからか。
十年振りに再会した少年が逞しく成長していたからか。
ローイ君との握手を促してくれたさり気ない優しさに惚れたから。
或いは、一回り以上年下の、年端もいかぬ女の子への嫉妬か。
結局のところ。それらの内どれが本当の理由なのかは分からないし、すべてが本当の理由なのかもしれかったし、どれでもないのかもしれなかった。
「茉莉花さん。訂正します」
「え?」
「俺と結婚して下さい」
「え、ええええ!?」
告白からプロポーズへのまさかの段階飛ばしに、茉莉花は、それまでの重たい雰囲気を吹き飛ばすほど豪快で素っ頓狂な叫び声を上げた。
「今日一日を、お見合いだったと考えればいいんですよ。だったらもう難しいことは何にもない。お見合いの結果、俺は茉莉花さんが気に入った。気に入り過ぎた。後は、茉莉花さんの返事次第ってわけですよ」
先のことを考えず、その場限りの思い付きで言ったわけではない。むしろ、将来を見据えたからこその発言。孝平や加奈との出会いがなければ、この発言はなかっただろう。
「は、ははは……」引きつった顔と乾いた笑いを浮かべながら、茉莉花は悟った。この機を逃せば、自分に恋人など一生出来ないかもしれない。夫などもってのほか。真人の強引さが、神様がくれた奇跡的なものにすら思えた。だからこう言う。「ふつつか者ですが、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
満面の笑みを浮かべ、真人は頭を下げた。
真人と茉莉花の乗ったゴンドラは一周終えてゴールインし、スタート地点に着いた。長い行列が出来上がっていた。
「足元、気を付けて」
「ええ」
二人がゴンドラを降りた時、ランプは彼らのすぐ近くにまで来ていた。目敏く彼女を見つけた真人は、ちょいちょいと手招きして、自分のすぐ近くへと呼び寄せる。ゴンドラの中で何があったのかを知らぬランプは、当然、自分の企みが成就したかもどうかも分かっておらず、何とも言えない表情のままそれに応じた。
歩み寄ったランプに、真人が呼びかける。
「ランプ」
「ふ?」
「お前大好き!」
「みゃあっ!?」
真人は高々くランプを抱き上げた。




