その1
佐渡島で夜の帳が降り始めていた頃、真人は成田へ向かう飛行機の中にいた。大人しく旅客機のエコノミーシートに背中を預け、
「ZZZZ……うう、ん…………」
思い切り寝入っていた。決して、心地よさそうな顔ではない。
夢の中で、真人は記憶の中にある、七年前の自分を俯瞰していた。
今から八年前、すなわちアウヤンテプイに置き去りにされた日から三年後の夏、真人は初めて日本に帰国した。自分の力で。日本に着いた彼が真っ先に目指したのは、自分の家=真打家ではなく、茉莉花の家=蜂集花家であった。といっても、その二つは向かいどうしなのだが。
『茉莉姉ちゃん、元気かな?』
浮足立った九歳の真人が、蜂集花家の前にいる。呼び鈴を鳴らそうとして何度も指を伸ばしながらも、なかなかあと少しの決心がつかず、すぐ引っ込めるのを繰り返していた。そんなことをしている内に人の気配を感じた真人は、やましいこともないのに慌てて自分の家の塀の蔭に隠れた。そこから外の気配を窺う。
蜂集花家と真打家を隔てる道の向こう側から、少年少女の二人組が歩いてくるのが、彼の目に入った。
『あ、あれ?』
九歳真人は目を疑った。疑わずにはいられなかった。疑いたかった。
――やめろって、もう見るなよ!
十七歳の真人の悲痛な叫びは、九歳の真人の耳に届かない。
九歳の真人が見たもの。見てしまったもの。それは――見覚えのあり過ぎる、しかし最新にある記憶より三歳ほどの歳を重ねた顔をした少女。そして彼女と同い歳くらいの、見覚えがまるでない少年。その二人組が腕を組んで歩いている姿だった。
二人はキスを交わした。
「フライング・ナイトメアだ」
着陸を目前に目を覚ました真人が、からからの声で呟いた。
時刻は午後十時少し前。実に七年振りに、真人は生まれ育った町を歩いていた。
「あの駄菓子屋、潰れたんだ。前に来た時はまだあったのに。あ、本屋のあったところがコンビニになってる」
月日の移ろいは早い。モミジやイチョウの葉が色づくように、僅かな時の間に街の景観は様変わりする。但し、町は木の葉の色のようにサイクルしたりはしないが。変わり続けるばかりで元通りにはならない。
――思い入れなんてない町だと思ってたけど、それなりに寂しいもんだな。
父とともに通った銭湯。母に手を引かれ歩いた道。幼なじみと闘った(遊んだ)公園。憧れのお姉さんに連れて行ってもらった駄菓子屋。すべてが様変わり、或いは姿を消していた。
深い感慨を覚えながら歩き続けた真人は、遂に七年振りに我が家の前に辿り着いた。彼はじっくりと真打家を見据える。
「やっぱりこれ、塀のところの表札は『蜂集花』でもいいんじゃないかな」
――真打家はほとんどオマケだもんな。
と、溜息を吐きながら、彼は振り返る。その先にあるのは、正しくもっての蜂集花家。今現在、真人が自分の家に帰るよりも優先して訪ねなければならない家。包帯に覆われた右腕、右手の人差し指を、呼び鈴を押す寸での場所にまで持ってきながら、真人はなかなかあと一センチを進められずにいる。事前の電話を入れる勇気すらなかった。
「っああ! ここまで来ていつまでもうじうじしてられっか! 押してやる!」
余計な感情すべてを無理から取っ払い、遂に真人は最後の一センチを進めた。
『ピン ポーン』
無論生気などないが、しかしどこか温かみのある音が夜の町に響く。極度の緊張で息が詰まりそうになり、そわそわと落ち着かぬ真人。
「はい?」
「っっっっっっっっっっっっ!!」
インターホンから聞き知った声。それだけで真人の心臓がでんぐり返りそうになる。
「あの、その、この、のの、まさ、さささ、まさ、まさ、と、です」
「まさと? まさと!? い、今開けます!」
ガチャッとインタホーンの通話機を元の位置に戻す音が鳴り、続いてバタバタという足音。やがてそれは玄関の前で止まり、ガラスの向こう側に小さな人影が現れる。
静かに扉が開く。現れたのは、真人が数時間前に別れたばかりの童女。
「本当に、本当にマサトだ。マサト……」
「…………………………」
思わぬ展開に言葉を失う真人と、待ちわびた登場にほろりと涙が頬を伝うランプ。抱擁するでもなく、どちらかが歩み寄るでもなく。二人ともただ立ち尽くしたまま七秒。
ようやく我に返った真人が一言。
「なんだお前か」
「あれっ!? 冷たっ!」
「ふうん。茉莉花さんは風呂入ってんのか。間が悪いんだか、良いんだか」
「早めに出るって言ってたから、もうすぐ出てくるよ」
「そっか。でも、なんでお前は一緒に入らなかったんだよ」
「留守番だよ。いつ真人から連絡が来るか分からなかったし。もしかしたら、直接来るかもしれない、ってことで。かと言って、今日明日に来る保証もなかったし、仕方ないから順番で入ろうってことになったの」
「ああ、そういうことか。悪いな、事前に連絡も入れず」
「いいよ。ちゃんと帰って来てくれたから」
魔法使いとの闘いに挑んだ時以上の覚悟をもっていたのに。現れたのがランプで肩透かしを喰らっていた真人であったが、今はこれで良かったと思っていた。茉莉花と会う前に彼女と会い、話をすることで、落ち着きを取り戻しつつあったから。
彼女の無事を自分の目で確かめることが出来たから。
「マサト、右腕、怪我したの?」
「ああ。ちょっと火傷しただけだ。大したことない。少なくとも、命に関わるようなもんじゃないから。多分」
「そうなの? ならよかった。……あの魔法使いに勝てたんだね」
「勝ったけど負けた」
「なにそれ?」
当然至極としてきょとんとした顔で訊ねるランプ。あの時あの場にいなかった者が、真人の今の発言を聞いたならば。それが誰であれ、彼女のような反応になったであろう。
「試合に勝って勝負に負けたってやつだ。お前もその内、身を持ってこの言葉の意味が分かるようになる」一度曖昧にはぐらかした真人が改めてはぐらかす。「いや、そんなことはどうでもよくなるようなすごい知らせがあるんだ! 聞きたいか?」
「ええっと……、いい知らせなら聞きたいかな」
「俺のこの顔を見ろよ。いい知らせに決まってるじゃんか」
満面の笑み。自分から勿体ぶったくせに、早く言いたくてうずうずしている。
「じゃあ聞きたい! なになに?」
意外と現金なランプ。真人からの〝すっげえ知らせ〟が、いい意味でのすっげえ知らせだと知れた途端、わくわくが止まらなくなり、食い気味で急かす。
「お前を自由にする方法が分かった」
「――ね”?」
「今の声、どうやって出したんだよ」
口蓋に舌を付けたまま「ね」。
「え、あ、どうして? あの魔法使いが教えてくれたの?」
「いんや。あいつは意地悪して教えてくれなかった。そもそも知らなかっただけなのかもしれないけど。教えてくれたのは管理者だ」
「管理者、見つけられたんだ(可能動詞)」
「ああ、見つけられたんだ(受身)」
「でも、信用出来るの? 管理者の言葉なんて」
「んー、多分大丈夫だろ。なんつうか、あいつのことは信じなきゃいけない気がする。冗談は言うけど嘘は吐かないって感じの奴だったし」
――そういえばシャンカとは正反対の奴だったな。
「ふうん……。(まあ、管理者なら、嘘を本当と信じ込ませることも簡単だけど。しかも相手はマサトだし)それで、肝心の方法っていうのは、どんなのなの?」
「それがな――」
四十三秒後。
「とんちじゃない! ずるじゃないの!?」
「ナイスリアクション」
ランプが自分とまったく同じ反応を見せたことが何故か嬉しく、真人は親指を立てる。
「でもでも! ホントにそんな簡単な方法で大丈夫なのかな?」
「さあな。そりゃ、百パーセントの保証なんて出来ない。でも。どっちにしたって、何かしらの手は打たなきゃいけないだろ。このままじゃお前、一生安心出来ないぞ」
「ううっ。た、確かに(ここままじゃ、わたしよりもむしろマサトの方が危ないし)。わかったよ。わたしも覚悟決めるよ!」
「よく言った! それでこそ男だ」
「わたしは女だよ!」
「女が男じゃないって誰が決めたんだ」
「何言ってんの、この人!?」
おかしなことを言っている。
「とにかく。覚悟が決まってるんならやるぞ。いいな?」
「うん。ちゃっちゃとやっちゃおう」
そこはかとなく投げやりな態度。
「肝心な期限はもう決めてんだ。אברא כדברא 俺が本気でお前を見捨てるまで、お前は器を離れて自由になれ」
瞬間。ランプの髪をお団子に結っていたリボンがぼうっと光り、彼女の髪が解けた。リボンは力なく床に落ちる。
「え、うそ……。どんなに頑張っても、絶対に解けなかったのに」
落ちたリボンを拾い上げ、掌に載せるランプ。それは、彼女が物心着いた時からずっとその髪型を支配していた銀色のリボン。探索の魔人は今、その支配から解かれた。
「これって、成功ってことでいいのか?」
真人の問いに、ふるふると矮躯を震わせていたランプはばっと顔を上げて答える。
「そうだよ、間違いないよ! やった……やったよ、マサト!」
「よかったな、ランプ!」
歓喜感動感謝感激するランプは飛び上がって真人に抱き付いた。瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。悲しみではなく、嬉しさで。
彼女を優しく抱き包む真人も、自分のことのように喜んでいる。
「そういやあ、魔人としての力はどうなったんだろうな。魔法はまだ使えるのか?」
「さあ? ちょっと待って、試してみるから。ええっと、ネコに変身します! えい!」
掛け声とともに、ランプの身体が桃色の煙に包まれる。その煙はすぐに晴れていき、中から姿を現したのは――、
「……上品そうなネコだな。まるでレディみたいな」
「わんわん!」
「…………」「…………」
見事なコッカー・スパニエルだった。
その後も、ランプは何度も『変身』を試みたが。
「成功率は五分の一。しかも連続して変身してられんのは、せいぜい十秒か。やっぱり、解放と同時に魔人の力もなくなっちまったみたいだな」
「そうみたい。魔力はそれなりに残ってるんだけど、前みたいに絶対的な魔法行使は出来なくなってる。よくて〝魔法使い見習い〟ってところだよ」
「ふうん。でもまあ、その方がむしろよかったかもな。力が残ったままじゃあ、結局魔法使いどもに狙われ続けていただろうし」
「そう、だね」
「……辛いか?」
「全然。自分で努力して得た力でもなかったんだし。これからは自力で魔法の腕を磨く」
「そっか。偉いぞ」
「えへへへ」
くしゃくしゃと頭を撫でられるランプは、満更でもない笑みを浮かべる。――風呂場へ続く廊下側の扉が開いた。
「お帰り、真人君」
ランプの頭に手を置いたまま、真人は恐る恐る振り返った。
現代の大和撫子がそこにいた。
薄手の寝間着のために、それほど大きくもない胸が強調され、湯上り故にうなじ辺りから湯気が上り、艶やかな黒髪からシャンプーの香りが漂っている。扇情的ではあるが、エロティックな雰囲気はない。
「た、ただいまです」
今度こそ、真人と茉莉花は再会した。
「あー、その、えっと、げ、元気でしたか?」
「うん、元気だったよ。真人君は?」
「はあ、まあ、お、お蔭さまで。茉莉花さんは今、何をしてるんですか?」
「私は教師を目指して、今は大学で勉強しているの。真人君は、相変わらず修行の旅を続けていたの?」
「え、ええ、一応……」
椅子に腰かけ、テーブルを挟んで向かい合って座る真人と茉莉花。二人を結ぶ線を三角形の底辺とすると、頂点の位置にはランプが座っている。彼女は十年振りに言葉を交わす二人の様子をそれぞれ見比べている。
自然な様子の茉莉花に対して、あからさまなぎこちなさを醸す真人。
「本当に久しぶりだね。真人君、連絡すらちっともくれないんだもの」
「そ、それは……色々、忙しくって」
「そっかあ。そうだよね。世界中旅していたんだもの。いちいち私なんかに連絡する要件も暇もなかったよね」
「や、そういうわけじゃ……っ!」慌てて先の言葉に何かしらのフォローを付けたそうとした真人であったが、どこか寂しげに目を伏せている茉莉花に、言い訳する気も萎んでしまう。「……ごめんなさい。無駄に心配ばっかり掛けて」
「私の方こそごめんなさい。意地悪な言い方しちゃって。そろそろ、お風呂入る? パジャマは、お父さんのを貸すから」
「いや、寝間着は自分のがあるから、タオルだけ貸して下さい」
「わかった。ちょっと待ってね」茉莉花は椅子から立ち上がり、部屋の隅に積んでいた幾着かの寝間着の中から山吹色の物を抜き出し、座ったままの真人に手渡す。「タオルは脱衣所の白いカゴの中にたくさん積んであるから、適当に使って」
「はい、了解しました。ありがとうございます。じゃ、お借りしますんで」
言って。椅子から立ち上がり、足元に置いてあった例のボストンバッグから、上下群青色のジャージを取り出す真人。
「ちょっと待って! わたしも一緒に入る」
言って。椅子から飛び降りるランプ。
「一緒にぃ? 俺は別に構わないけど……そういやお前、着替えあるのか?」
「あるわけないよ」
「なんで威張ってんだ」
あっけらかんと答えるランプに、真人は呆れて嘆息する。茉莉花は、そんな二人の様子を微笑ましく思いながら、言う。
「ランプちゃんには、私が子どもの時のパジャマ貸してあげる。捨てずに残していたはずだから、二人がお風呂に入っている間に探しておくよ」
「だってさ。早く行こ行こ!」
そそくさと。意気揚々と浴室へ向かおうとするランプの襟首を、
「こらっ!」真人が引っ掴んだ。「風呂だけじゃなく寝間着まで借りるってのに。ちゃんとお礼を言わなきゃ駄目だろ」
「……はい。あの、ありがとうございます、茉莉花さん」
真人に襟首を掴まれたまま、しゅんとして頭を下げるランプの姿は、見る者の同情を容易に誘う。無論、茉莉花も例外ではない。
「そんなに気にしなくって大丈夫だよ。真人君、こんな小さな子に怒鳴っちゃ駄目だよ」
「小さかろうが大きかろうが、叱る時はしっかり叱らないと駄目なんです。中途半端な叱り方をすると、また『つんでれ』だなんだと下品なことを口走るようになりますから。さあ、行くぞ、ランプ」
「あーん、放してぇ」
やはり襟首を掴まれたまま、ランプはずるずると引き摺られていく。茉莉花は真人の背とランプの顔を同時に見送りながら、どうしてツンデレが下品なんだろう、と、心の中で呟き、
「あの二人、まるで親子みたい」
と口に出して言いながら微笑んだ。
蜂集花家浴室。
真人はシャンプー(男物のリンスインシャンプー)容器のポンプをシャコシャコと押して、中身を手の上に出している。湯船に浸かってその様子を窺っていたランプが、何でもない様子で彼に話し掛ける。
「ねえ、マサト。包帯取らないの?」
「ああ。風呂でも取らなくていい包帯なんだとよ」
「ふうん。ねえ、マサト」
「なんだよ」
「茉莉花さんのこと、好きなの?」
シャンプーの容器が破裂した。
「な、なななななな、なに言ってんだだだだ、おおおお前はははは。ばかばかばしい!」
わしゃわしゃ――いや、がしゃがしゃと、否、がしゅがしゅと。浴室に響くほどの音を立てて頭を洗い、動揺を誤魔化そうとする真人。髪にはプラスチック片が幾つも絡み付いている。常人の頭皮なら血まみれになっているところである。
「その反応は、もう白状しちゃってるようなもんだよ」呆れ返ったランプが、顔面に飛沫したシャンプーを拭い取りながら言う。「で、茉莉花さんのどこを好きになったの?」
「うぐぐっ。そんなの分かるかよ。物心着いた頃にはもう好きだったんだから」
「なにそれ、刷り込み? ひよこじゃあるまいに」
「初めての風呂で溺死したいのか、おのれは」小馬鹿にしたようなランプの態度に若干のムカつきを見せる真人。「理由はわからなくても好きなんだよ。それじゃ駄目か?」
「いいんじゃない? どうでも」
「冷たっ!」
ランプなりの仕返しは見事なほどに成功し、満足した彼女は、
「でも、それならどうして告白しないの?」親身な態度に切り替える。「旅してる間の十年間も、ずっと好きなままだったんだよね? なのに、電話の一つもしないなんて」
「色々あんだよ、色々。だいたい、俺は告白どころかプロポーズだって百回ぐらいしてるぞ。全部華麗にかわされたけどな」
「プロポーズって。それ、全部子どもの時の話でしょ? 今こそ、もう一度アタックしてみなよ! わたしも協力するから」
人の恋路を面白がって遊びにしようとするなと怒鳴ろうと、真人はランプを睨みつけようとした。が。彼女は至って真剣な表情で真人を見つめていた。
「……いいんだよ。余計なことしてくれなくっても」以下、小声。「それに……今は茉莉花さんだって、ちゃんとした恋人とかいるはずだしな」
頭を流そうと、シャワーを右手で掴みながら、真人はぼうっと呟いた。
真人とて、七年前の少年と茉莉花が今も続いているとは思っていない。しかし、それでなくとも茉莉花は今や二十一歳。恋人ぐらいいるのが普通だということは、浮き世離れしている彼にでも分かっていた。分かっていながら悔しくて、そんなことで口惜しがってしまう女々しい自分が更に悔しかった。
「恋人は今いないって言ってたよ」
「しまった! 風呂場で小声は意味なかった!」なにせ響く。「……って、おい! その情報はマジか!?」
「マジだよ。本人から直接聞いたんだもん」
思わず真人はガッツポーズした――右腕で、十八年弱の人生史上最も強いガッツポーズを。勿論、シャワーの首は折れた。ホース状となった元・シャワーの管から噴出した湯が真人の腕に降り注ぐ。包帯をした腕に。
「がああ! しみるしみるしみる!」
「あーあ」
ランプの間延びした声が、浴室内によく響いた。
「本当にごめんなさい」
風呂上がりの真人は、茉莉花に深く謝罪していた。シャンプー容器のポンプ部分とシャワーの首を両手のひらにそれぞれ乗せて。
「そ、そんなに大げさに謝らなくっても大丈夫だよ。お父さんも割としょっちゅう壊しちゃうから、直すのは慣れてるもの。でも、これからは気を付けてね。今度は真人君が怪我しちゃうかもしれないし」
「は、はい! ありがとうございます!」
天使の如き茉莉花の優しさに十年振りに触れた真人は、彼女への好感度をますます上昇させる。カンストしていたはずなのに。限界突破して。ただ。
――あんなもんで怪我するわけねえんだけど……いやいや、そういう問題じゃないな。誰だよ、この天使を天国から地上に突き落としたのは! いい仕事するじゃねえか!
突破し過ぎて、――一時的にとは言え――元々おかしかった頭がさらに輪を掛けておかしくなったのは、悲劇としか言いようがない。
「ところで真人君。今日はうちに泊まっていってくれないかな?」
「……何故に?」
ラブコメの主人公ほど鈍感ではない真人は、茉莉花の申し出の意味を勘繰ってしまう。
「さっきお母さん達から、今日は帰れなくなった、って電話があったの。男の子が一人家にいてくれるってだけでも心強いし……駄目? お母さん達の寝室を使ってもいいって許可はもらったから」
「ああ! そういうことですか」(って、当たり前だよな。ランプもいるんだし。何考えてんだ俺は)「勿論、構いませんよ」
「ほんと? ありがとう」
真人の了解を得て、茉莉花はにっこりと笑う。と、そこへ。洗面所で髪を乾かしていたランプがやって来る。
「あの『瞬乾ドライヤー』って凄いですね! もう髪乾いちゃいましたよ」
嬉々としたランプの報告で、茉莉花の顔が同様の色に染まる。
「え、あれ使ったの? 大丈夫? 火傷とかしなかった?」パタパタとランプに駆け寄り、彼女の髪に触れながら、茉莉花が言う。「よかった、大丈夫みたいだね。実は、あの瞬乾ドライヤー、お母さんの会社の試作品なの」
ほっと胸を撫で下ろし、解説する茉莉花。きょとんとするランプ。そして。
「へえ。『ミツバチ』の新製品候補ですか」懐かしがる真人。「それにしても。まだ、社長自らテストしてるんですね」
「うん、それがお母さんのポリシーだから。正式な製品化までにはまだ後半年ぐらい掛かるみたいだけど」
「あのう、えっと、さっきから何の話? ミツバチって、何? あの蜜蜂?」
未知の単語『ミツバチ』に困惑しながらも興味津々なランプが、真人に訊ねる。
「蜂の種類の話じゃない。茉莉花さんのお袋さんが社長をしてる会社だよ。知らなかったのか? 世界的な大企業だぞ。世界中のテレビの半分はミツバチ製ってぐらいだ」
「へえ! 茉莉花さんのお母さん、そんなすごい会社の社長さんだったんだ!」
「え、ええ。まあね……」
やたら大仰に感嘆するランプとは対照的に、茉莉花の反応はどこか虚ろ。それを見て、真人は自分の無神経さを呪った。
一県の知事以上の多忙さを誇る、世界的大企業の社長を務める、茉莉花の母。子どもの世話に割ける時間は多くなかった。本来ならその代わりに娘の面倒を見るべきである父親にしても、妻を補佐するため、あまり茉莉花には構ってやれていなかった。だから幼少時の彼女は、両親ともに多忙な時は真打家に預けられることが多かった。
嫌な思い出ではなくとも、辛い思い出であったことは間違いない。
「……ランプ、今夜は茉莉花さんと一緒に寝ろよ」
「え」「え」
ランプと茉莉花。二人は同時に真人を見遣る。目を見開いて。
「そんなに驚かなくても……。横になりながら考えたいこともあるんで、今夜は一人で寝たいってだけですよ」
「そう。私は構わないけれど、ランプちゃんはそれでもいい?」
「うん。茉莉花さんがいいなら」
「じゃ、決まりだな。でもその前に。ランプ、ちょっとこっち来い」
「え、なに?」
真人の手招きに導かれてきたランプに、真人は小声で耳打ちし、釘を刺す。
「いいか、風呂ん中でした会話は全部、俺とお前だけの秘密だからな。茉莉花さんに余計なこと喋んじゃないぞ」
「えー、どうしよっかなあ。もし言っちゃったら、どうする?」
駆け引きでも持ちかけるようにからかう口調のランプに、真人は真顔で、
「引き千切る」
「引き千切る!? なにをっ! どこをっ?」
「捻じ切る、って手もあるか」
「結果変わってないよ! 結果ちぎれちゃってる! わたし、ちぎれちゃってる! わかった、わかったから! 何にも言わないから、怖いこと考えないで!」
「よし! 頼むぞ、信用してるからな!」
「こんな脅迫めいた信用ってないよ」
「サラ金だって、貸す方も借りる方も信用を建前にしながら脅迫し合ってるだろ」
「上手いこと皮肉ったつもりかぁ!」
指切りが分からなかったランプでも、『サラ金』という言葉は分かるらしい。やはりヤクザ絡みだろうか。
「ふうっ」
蜂集花家、夫婦の寝室。部屋の大半を占める大きなダブルベットに、真人一人がポツンと横たわっていた。二つ隣の部屋では、茉莉花とランプが眠っている。
ほんの数分前まで、真人と茉莉花は互いの近況を語り合ったり、思い出話に花を咲かせたりしていた。しかし。肝心要なこの先のことについては一切話をしなかった。二人を一緒に眠らせるために真人が言った『考えることがある』は、方便であり、事実でもあった。
――明日からどうすっかなあ。
また旅立つか否か。旅立つとすれば、ランプを置いていくか連れていくか否か。考えなければならないことが山積みで、真人はなかなか寝入ることが出来ずにいた。
旅に終わりはないというが、区切りは付けないといけない。明確な目的もなくただ旅を続けていることに、真人とて空恐ろしさは感じていた。
そもそも自分が昨日の今日まで旅を続けていた理由は何だったのか。思い返してみても理由は一つしか浮かばなかった。七年前、真人があの残酷な場面を目撃していなかったら――彼の帰りがあと一日でもずれていれば、或いは、先ず自宅に帰っていれば。彼の現状は、今とは百八十度違うものとなっていた。どっちにしろ武道家にはなっていただろう。だがそれ以前に。小学校にも復学して、人並みの人生歩んでいたはずだ。
――今日まで旅を続けていたからこそ、ランプを助けられたんだし、それはよかったにしても。いや、だからこそ。この辺りが潮時なんじゃないか?
真人は今、自己の人生を左右する重大な局面が訪れていることを痛感していた。




