茉莉花を巡る前日譚
何故か頭の上が緑の葉と小枝だらけになっている中年、真打真虎。
元は真っ白だったと思われるランニングシャツは、薄茶色に汚れ、破れかぶれ。膝に手をつき、息も絶え絶えの男の子。真打真人、六歳。小学校に入学したばかり。
何の捻りもなく実の親子である二人は、自宅近くの山中で日課の鍛錬を終えたところであった。ハシボソガラスがグァと鳴き、夕暮れ空には光が一つ。
「一番星見っけ。今日はここまでだな」
「はあっ、ふうっ、へえっ。あ、ありがとうございました!」
乱れた息を整え、真人が言う。真虎は「うむ」と頷く。そして。
「じゃあ、そろそろ帰るか。母さんが晩飯作って待ってくれてるはずだ」
「うん」
二人は山を下りる。その背に夕陽を背負いながら。
街灯の灯り始めた家路を歩く親子。カーブミラーが監視する急な角を曲がると、彼らの家が見えてくる。二メートル強の塀に囲われた、敷地面積一三六坪の広大な屋敷が。もっとも、それはある意味罠である。まず土地のほぼすべてが真打のものではない――真打と親交深い蜂集花のものだ。次に、敷地の半分近くを占めて構えられた武道場は、真打と蜂集花が共有しているものである。結局のところ、真打家固有の財産は、二十坪程度の二階建て家屋のみ。塀や庭すらも彼らのものではない。
そして。そんな借り物屋敷の向かいに立つのが、件の蜂集花家である。宅地三十二坪、二階建て。真向かいの屋敷の大半を所有している張本人たちの住み家とは到底思えない、平均的な現代日本家屋。その真ん前に、一人の少女が立っていた。腰近くまで伸びた黒髪、薄黄色のワンピースといった出で立ちの少女。蜂集花茉莉花、小学五年生。
「あ、マツリおねえちゃんだ」
茉莉花の姿を肉眼で確認した真人は、それまでの疲れを彼方に放り棄て、彼女の傍へと走り寄った。真人に気付いた茉莉花も、笑顔で彼を出迎える。
向かい合う二人。頭一つ分、真人より少女の方が背は高い。
「おかえり、真人くん」
「ただいま! マツリおねえちゃん!」
直接触れてはいないが、ほとんど密着に近い距離まで茉莉花に近付いた真人は、久々に飼い主の元へ帰ってきた犬の如き喜び様で破顔した。尻尾が生えていれば振り回していたであろうこと請け合いである。
そんな息子の醜態を見るに見かねた真虎が口を開く。
「おいおい。真人、そんな汗臭い身体で女の子にくっつくんじゃない」
「あ! ご、ごめんなさい!」
父親から指摘を受け、真人は慌てて後退り、茉莉花と距離を取った。
「大丈夫、気にしてないよ。真人君ががんばってかいた汗だもん。でも、早く着がえないと風邪ひいちゃうかも。おばさんがお風呂わかしてくれてるから、ご飯食べる前に、いっしょに入ろっか?」
「うん! でも、あたまはもうじぶんであらえるよ」
「そっか、えらいね! じゃ、背中はあらってあげるね」
「うん! やったあ! じゃあ、おれもマツリおねえちゃんのせなかあらってあげる」
「ありがとう、お願いするね。とにかく、中に入ろう?」
「わかった」
「ほらほら。話と気が済んだら、二人ともさっさと中に入れ」
真虎は慣れたものであった。
滅茶苦茶に広いわけでもないが、それなりには広い、真打家の浴場。その湯船に、今は茉莉花と真人が浸かっている。子ども二人が使ったところでまだ余裕は幾らでもあるのに、わざわざ寄り添って。というよりは、片方が片方へ一方的にくっ付いて。
「真人くん、学校は楽しい?」
「うん、たのしいよ! マツリおねえちゃんもいるし」
「そ、そこまで言われたら照れちゃうな……。ありがとう」両頬を手で覆い、恥ずかしがる茉莉花。満更でもないといった反応。「でも。もっと、同じ年の子とも遊ばなきゃダメだよ?」
「トーヤとはしょっちゅうあそんでるけど」
「いや、十夜くん以外の友達ともたまには遊ばないと。真人くんに友達が少ないと、お姉ちゃん心配だな」
蒸気を吸って重くなった真人の前髪を優しく掻きあげ、ニキビひとつない彼の額を露わにしながら、茉莉花がぽつりと漏らす。それを聞いた真人は顔を伏せてしまう。
「だって。『危ないから十夜君以外とは思いっきり遊んじゃダメ』ってお母さんが言うんだもん……。そんなのつまんないよ」
「あう。ご、ごめんね」
茉莉花は、意図せずして真人に酷いことを言ってしまったことに気付き、子ども心に反省した。六歳にして既に常人の域を超えた腕力を持つ真人。しかし、彼はまだ手加減も上手く出来ないほどに幼い。なれば。彼と同等か、それ以上の腕力を持つ相手でないと、一緒に遊ぶことも許されない。残酷と言えば残酷な子ども時代。だが真人はそれ以上落ち込むことなく顔を上げ、にかっと笑う。
「いいよ、あやまらなくって。マツリおねえちゃんがけっこんしてくれたら」
「またそれぇ?」うんざりしたように茉莉花だが、真人からのプロポーズそのものにうんざりしているという様子ではない。ただ。「(挨拶みたいに軽うく言うんだもんなあ)あんまりそんなことを簡単に言っちゃだめだよ。本気にしちゃう子だっているんだから」
「おれ、ほんきだよ」茉莉花からの言葉に、立腹した様子で真人が言う。「ほんきだから、マツリおねえちゃんいがいにはこんなこといわないよ」
「ええ? ん、んんん」
異性からの真剣なアプローチ。嬉しくないはずがない。それがたとえ、四つ年下の六歳児からの言葉でも。流石の茉莉花も、伏し目がちになってもじもじとしてしまう。
赤らんだ彼女の顔。明らかに蒸気だけのせいではない。
「で、でもでも。結婚するって言うんなら、夫婦になるって言うんなら、私のことをお姉ちゃんなんて呼んでちゃダメだよ。〝お前〟って呼ぶとかしないと」
恥ずかしさを隠そうと、少女はやや大声で早口になる。
「そんなあ……。お前、なんていえないよ」
恥ずかしさを隠しもせず、男の子は小声でじれったい言い方になる。
「なら、せめて呼び捨てで」
「よびすて? マ、マツリ……ちゃん」
「〝ちゃん〟付けじゃダメだよ」
「うぐっ」
きっぱりと言われ、真人は唸る。生意気な盛りにいる男の子と言えども、彼にとって茉莉花は、ただ年上であるだけでなく、物心着く前から憧れている存在。呼び捨てにするのが憚られるのも無理はない。だがそれでも。真人は意を決する。
まるでそれが、彼女と結婚するための試練の第一歩であるかのように思えて。
大きく深呼吸。
「マ、マ、ママ、マツ、マツリ」
「はい、あなた」
言って。茉莉花は、小さな真人の頬に、唇でそっと触れた。
「あにゃっ!?」
素っ頓狂な声を上げた真人は見る見る顔を紅潮させ、湯船の中で失神した。
「ひゃっ、大変! 真人くんがのぼせちゃった!」
茉莉花は大慌てで真人を抱え上げた。今や自分を世界一の幸せ者だと信じて疑わない男の子が、彼女の腕の中に抱かれていた。




