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かつて体験したもの

宿は、騒いでいる三人がいる場所のすぐ近くだった。

けれど一夜私のものとなった部屋は通りに面してはいなくて。

どうしてもあの女性が気になった私は、廊下へ出て、窓から三人の姿が見える場所へと移動した。

そっと窓を開けると、微かに三人の声が聞こえてくる。

鬱陶しそうに女性を見る男性と、その横で嘲笑うかのように女性を見るもう一人の女性。

そして二人に対峙し、必死に言葉を紡ぐ女性。


「……凄いなぁ」


その女性を見て、私はぽつりと呟いた。

今にも泣きそうな顔をしながら、けれど泣かずに、『どうして』と、『別れたくない』と男性に想いをぶつける女性。

通りを歩く人達は、ある人は憐れんだように、ある人は呆れたように、女性を見て行くけれど、私は尊敬にも似た視線を送っていた。

私には、無理だった。

あの時は、ただ愕然とするだけで、あんなふうに想いをぶつける事なんてできなかった。

声なんて出せずに、ただ立ち尽くすだけだった。

一方的に、彼から、あの女の子から、心無い言葉を浴びせられるだけだった。

視線の先で繰り広げられる光景に、記憶の中のかつての体験が呼び起こされ、重なる。

思えば、あれからまだひと月ほどしか経っていない。

こうして彼の事を思い出せば、胸の中にはまだ微かに苦々しいものが広がる。

けれどその一方で、私はもう他の男性に新しい恋をしているのだ。


「私って、結構軽かったのかなぁ?」


またぽつりと呟いて、自嘲気味に笑った。


「軽い、とは……身体的にですか? それとも、感情的にですか?」

「えっ」

「前者ならば是、後者ならば否、とお答えしますが? アカネ様」


返ってくる筈のない返事に驚いて振り返ると、いつの間にかそこにはヴェルが立っていた。


「ヴェル……ど、どうしてここに?」

「アレクセイが、部屋から出て行く貴女の足音を聞き取りましたので。外出なさるならお供をと、追いかけてきたのですよ。……あの三人が、気になるのですか?」


ヴェルは私の質問に答えると、窓の外へ視線を移し、今度は逆に尋ねてくる。


「あ……あ、あのね、別に、出羽亀してるわけじゃないんだよ? ただね、ただ……えっと、その……」


……どうしよう、何て言えばいいんだろう?

興味本意で他人の修羅場を覗き見ているなんて思われたくないけど、素直に、"私も同じように振られた事がある"だなんて、ヴェルには、言いたく……ない。


「えっと、えっと、あの、ね? その……」

「……アカネ様。話したくない事ならば、無理に話さなくて構いませんよ。アカネ様が面白半分に覗き見したりする方でない事くらいは、理解していますから」

「え……」


視線をさまよわせ、懸命に言い訳を考えていると、ヴェルからそんな言葉がかけられた。

驚いて顔を上げると、いつものヴェルの微笑みがそこにあって、胸に暖かいものが広がっていくのを感じる。


「あ……ありがとう、ヴェ」


私も口元に笑みを浮かべ、ヴェルに感謝を告げようとした。

けれどそれは、パァン!という乾いた音と、悲鳴と怒号に掻き消された。


「えっ!!」

「これは……いけませんね。止めに入ります。アカネ様はここにいて下さい」


音に気を引かれ、窓へと視線を戻した私達は、二人の女性が取っ組み合いを始めているのを目にする。

男性は女性達の剣幕に気圧されたようで顔を強張らせていたが、けれど一歩離れた場所で、対峙していた女性に罵声を浴びせていた。

その様子を見て、ヴェルは外へと駆け出して行く。

一瞬私もそれに続こうとしたけど、私が行っても何もできないだろうとすぐに思い直し、大人しくその場に残った。


「……やっぱり、凄いなぁ」


窓の外で、まだ取っ組み合いをしている女性を見て、私はまたぽつりと呟く。

私も、あんなふうに思いっきり暴れてやれば良かった。

せめて、あの元カレに一回、平手打ちでもお見舞いしてやれば良かった。

大人しく立ち尽くす必要なんて、なかったのに。

そんな事を考えながら、私はじっと、女性達の取っ組み合いを見ていた。

けれどもし時間があの時に戻ったとしても、自分にそれが実行できるかはわからないというのは、自分が一番よくわかっている。

精々が、自分の頭の中でだけそれを想像して溜飲を下げるくらいだろう。

だから私は目を閉じて、記憶の中の元カレに平手打ちをしてやった。

それで、何がどうなったわけでも、ないけどね。

目を開ければ、女性達の間に入るヴェルの姿が視界に映る。

……元カレを思い出して胸を痛めるのは、これで最後にしたいなぁ。

今の恋を大事に、今度こそ成就できるよう、全力で頑張らなきゃね!

そう気持ちを切り換えると、私は気合いを入れるかのように、一度大きく頷いた。

そして。

……それにしてもヴェル、大変そうだなぁ……。

と、懸命に女性達を宥めているヴェルを見て思い、私は一人苦笑するのだった。


通りを大いに騒がせたこの三人の騒動は、ヴェルが止め、自警団が駆けつけ、更には騎士達の介入を経て、ようやく解決を見る事になったのだった。

この回をアカネとヴェル主体にするか、振られた女性をアカネに宿へと引っ張り込ませて、アカネと女性の"あいつなんて!"的な愚痴り合い主体にするかで散々迷った結果、これになりました。


最後は、ヴェルが振られた女性を抑え、自警団がもう一人と男性を抑えて三人を引き離し、騎士達が事情聴取とお説教、という配役です。

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