9章 ゴルゴダの道
9章 ゴルゴダの道
1
耳の底で足音が聞こえると、鉄製の門扉が軋む。
ユダは飛び起きた。朝日はもう成熟して、雄々しい太陽へ変わろうとしていた。その日射しと対照的な、青白い顔の青年が肩を揺すっていた。
「ユダ、どうして、こんなところで寝ているの」
ラザロだった。
ということはマリアの館の前。ゲッセマネでしばらく過ごしてから、無意識にベタニへ向かって歩いていたようだ。ゲッセマネで何らかの答が得られるかと期待していたが、結局、何も得られなかった。
でも、なぜここで寝ていたのだ? まさか、これが神の回答? 心の汚れを涙で洗い流したから、ここへ導かれたのか。
思いを後押しするかに、別の足音がした。目を向ければ、納屋からマルタが二頭のロバを引いてくる。すっかり旅支度を整えているようにも見えた。
「お前は、その身体で、どこへ行こうとするのか」
ラザロに聞いた。
「ベトロホンだよ」
「なぜ、ベトロホンへ行かなくてはならない」
「マリアもそうだったけど、もしかしてユダ、あなたもまだ見えていないの」
「見えていないだと?」
そうじゃない、曖昧だが見えているものがある。だから苦しんでいるのだ。でもラザロが言いたいのは、違うことだろう。「ラザロ、言わんとしていることは何だ」
「だって、ナザレのイエスとずっといたんでしょ。なら気がついたはずだよ、ナザレのイエスとは誰なのさ?」
二人の近くにきたマルタが、会話を聞きラザロを咎めた。
「いけません、ラザロ。私たちはその名を言ってはならないのです」
「いいんだよマルタ、ユダはもう気がつきはじめているし、真理と、神の意思を知らなくてはいけないんだから」
神の意志? 真理? そのことを考えれば疑問はたくさんある。でも、どうしてラザロが知っている。
「ラザロ、説明してくれ」
「ヨハネさ。十七年前、ユダとマリアがいなくなったときにヨハネが教えてくれた。ナザレのイエスの、真の正体をね」
「真の正体だと?」
今さら正体もない、神の子以外に何がある。
だが、なぜ二人も神の子が誕生したのかと、素朴な疑問が湧く。確かに表向きは嵐を起こす者と、その嵐を鎮めて平和へ導く者が必要と知らされた。だが、果たしてそんな単純な構図だけだったのだろうか。
だいいちルシフェルが、ヨセフに憑依しているとはいえ、こうもあっさり身を引く理由が分からない。それとナザレのイエス、以前は自分こそが神だと広言して、今は人の子だと謙虚に、いや、ひたすら人のために生を貫こうとしている。
「言ってくれラザロ、ナザレのイエスは神の子ではないのか」
「うん、神の子じゃない」
言ったきり、ラザロはマルタへ視線を向けた。
「私に、話せと言うのね」
マルタが複雑な表情を見せて考え込んだ。「だめです、やっぱり言えません。そしてラザロも言ってはいけないのです。ただ、答えはベトロホンにある。ユダ、あなたにも知る義務があるのかもしれません。一緒に行きましょう。でもそれによって、またあなたは悩むと思いますけど」
「大丈夫だよ、マルタ。真理と情け、ユダは情けを選択するって決まっているんだから」
決まっている?
イエスの謎を提示しておいて、解明させないまま新たな謎を提起する。そして、これほど悩んでいるというのに取るべき行動は、やはり決まっているのか。けどそれが、どちらなのか分からない。ただ、なるようになるだけだったら、せめてそこに自分の意思があればいいと願うことしかできなかった。
それよりもイエスが神の子でないのなら、いったい誰なのか? して、マリアはどうしたのだ、まったくいる気配がない。いないということは行進の開始、とんぼ返りでガリラヤへ帰っていることになる。
しかし何も知らされない。ユダだけがはぐれた。これが神の回答でもあるのなら、すでに終わりの鐘は鳴らされている。
砂漠で一夜を明かしたマリアは、陽が高くなる頃にはカペナムにいた。今頃イエスはペトロの家でエルサレム行きの準備をしているはずだ。ガリラヤ湖の北端、通い慣れたペトロの家へ、あと少しの所までやってきた。
闇が深い中、休息を二回だけとった。わずかな風でさえ砂が逆巻く荒野、その砂塵をさえぎる岩場を見つけて、ぽつんと五本だけ生える木にもたれかかっていた。風で揺れる木々の葉がマリアを手招きしているようにも思えたからだ。
木の根元から梢を見上げると、鳥も羽を膨らませず気配を潜めていた。しーんとして、ときおり砂が大地を滑る音しか聞こえなかった。それでも雨期だからまだいい。乾期の夏だったら鳥も住まず、潤いのまったくない暗黒の闇と化していただろう。
潤い、そうイエスこそが潤い。マリアは確信した。
熱情の神嫌いで過ごした少女時代、それをバラバと錯覚をし、思い直すとイエスにその熱情を見た。
熱情は心に不安定をもたらすと避け続けてきた。しかし熱情と情念を履き違えていたのかもしれない。情念こそが、全身を心ごと消滅に陥れて混乱を起こす元凶なのだ。人を癒しながら、イエスと過ごしていくうち熱情の深い真理を知った。
熱情とは熱い情け、ヤハウェが情け深い神なのだったと。
熱いだけに敵も多い。熱さだけしか見えない者たちは徒党を組んで排斥しようとする。でも、情けを感じる者たちにとっては潤いなのだ。
その熱情の子、イエスとの別れのときを実感していた。だから高価で買い求めたきり、塗らずにベタニアへしまっておいたナルドの香油、それを塗ろうと決意してロバの背に積んできた。
塗らずにいたのは、イエスをメシアとして認めていなかったからではない。マリアが生まれながらにして言われ続けてきた塗り油、それで自分の使命が終わってしまうのが嫌だったから。そしてまだ漠然とだが、胎内で育ちはじめている新しい生命、この意味を受けとめなくてはいけないと思っている。
ペトロの家が見えてきた。
「巡礼者と共にサリム、エフレムを泊まり歩き、エリコからベタニへ行かなくてはならない。裂けて通れない儀式が待ち受けている」
イエスは言うと、目を閉じた。
死地へ赴く行進でもある。だから、同時に二つのことを成し遂げるのは不可能だとイエスは嘆く。確かに苦渋の決断だと思う。でも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「それではラザロが死んでしまいます。お願いです、私と一緒にベトロホンへ……」
「だめだ、そんなことをさせられるか! 我らの行進を民衆が期待して沿道で待っているのだ。それなのに師をベトロホンなんかに行かせてみろ、嘘つきだと罵られて愛想をつかされてしまう」
ペトロが、マリアの哀願を無視して頭ごなしに突っぱねてきた。さらに嫌味っぽく付け足してくる。「あなたも、もと巫女だ。治す力ぐらいは持っていそうだが――」
打ちのめされた。確かに巫女時代、予見……透視能力には優れていた。多少の傷ぐらいなら治すこともできた。でもそれは、ルシフェルがいたから。今は献身的に神と民に仕え心を癒すことしかできない。
「心配することはない、ラザロはわたしが必ず助ける。だから、あなたはレビとシモンを連れてベトロホンへ行きなさい。そしてラザロを連れ帰り、ベタニアで、わたしの到着を待っていればよい」
いつのまにかイエスが、目を開けてすぐそばに立っていた。優しくマリアの肩を撫でる。シモンとレビに同行を命じたあと、通る声で神々しく話しだした。
「マリアよ、皆も聞きなさい。わたしが来たのは地上に火を投じるためだった。だがすでに火は燃えていて、その人たちの心によって、わたしの心は癒されていったのだ。だから、あなたがたや民に仕えられるためではなく、仕えるためにエルサレムに向かうと決めた。預言者の予言通りにしようと思っている」
「まさか、その預言者の言葉とは『イザヤ書の苦難の僕』なのでしょうか」
レビが口に手を当てた。顔を青ざめさせる。
信徒の中には読んでいない者もいる。わりと気性の荒い部類に属するペトロやシモン、ヤコブなんかはきょとんとしていたが、暇を見つけてはレビと一緒に読み込んでいた、トマスやフィリポなどは同様に青くさせていた。それほどの決意を秘めた詩なのだ。
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彼は苦しめられて 人に棄てられ
悩みを知り 悲哀の人であった
人が顔をそむけるまでに卑しめられ
われらも彼を心にとめなかった
げにもよ 彼はわれらが悩みを負い
われらの悲しみを背負ったのだ
しかるにわれらは思った 彼は打たれ
神にたたかれ 苦しめられたのだ と
彼こそわれらの不義のために傷つけられ
われらの咎のために砕かれた
懲罰は彼に下って われらは平安をもたらし
彼の傷によって われらは医された
彼はぶたれても じっと忍び
その口を開かなかった
屠り場にひかれる仔羊のように
毛を切る者の前の雌羊のように
だまって 口を開かなかった
過酷な裁きによって彼は取り去られた
その運命の転換を誰が思ったか
彼が生ける者の地から断たれ
わが民の罪過のために死に渡された時
人はその墓を不虔な者と共にし
その塚を悪人とひとしくした
彼は暴虐を行わず
その口に偽りすらなかったが
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マリアは頭の中で詩歌を諳んじながら、この人を信じようと再度心に誓った。
絶望の中で待ち望んでいたはずのメシア、そのメシアを担いで民はエルサレムへ行く。何のために? 裏切るため?
愛の力では権力に通じないと知ると、手のひらを返して見限る。長いものに巻かれて傍観者、いや敵対者となって罵倒しはじめる。イエスを裁こうとするのだ。
まるでそのことを知っているかのようなイザヤの心、このままでは唯一の灯火が消えて、また地上に闇が覆ってしまう。
せめて信徒だけでも擁護しなくてはならない。ともに十字架にかけられぬまでも、年月をかけて心に十字架を背負い事実を伝えていくのだ。
と、静まる中「師よ。私たちも、死ぬのでしょうか」
トマスが悲痛に答を求める。
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あなたの死者は生き
彼のなきがらは起きる
塵に伏す者よ
さめて喜びを悦え
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イエスは、イザヤ書の一節を詠んだあと「人の死は、誰しも逃れられない。よってわたしは最後となる晩餐の日に、あなたたちに血と肉を与える」
血と肉、それが何かはマリアに分からない、けれど言葉は重かった。
緑が枯れかかる岩地を、馬の蹄が重たく響く。夜明け前にエルサレムを出立したバラバら総勢八人は、リタを右に折れてベトロホンへ続く街道をひた走っていた。
そのリタのずっと手前で夜明けを見たバラバは、迎える朝に、逆に胸を暗くさせた。
「総督を甘く見ないほうがいいぞ」昨夜の、カシウスの言葉が頭をよぎる。
「敵は熱心党、イエス・バラバのみだ」ピラトが向けた目もカシウスの言葉と重なってくる。
何かを企んでいる。分かっていながらすぐ動けなかった。馬の手配もしなければならなかったし、カヤパの屋敷へ残した二人も保護しなくてはいけなかった。とうぜんながら、ミカと二人で過ごした時間は数刻でしかない。
「私たちは地上で生きる意味も、死ぬ意味も理解しています。そのため志願して集まったのです。何が起きようとも、起こっていようとも本望です」
ミカが、バラバの緊張を和ませるかに話してきた。
生臭い場に、二人を連れてきたのは本意ではない。けれど連れて行くことこそが真理と、バラバの胸を突き動かす衝動があった。
馬は六頭。ミカはバラバに抱かれて乗り、サラはイリヤの馬に同乗している。
「ならばミカ、そなたも何か不安を感じているのか」
「はい。でもその不安は回避できぬもの。受けとめなくてはならないのです」
「回避できない?」
しまった! なら早朝ではなく、ピラトは夜駆けを命じたのか。襲撃の決行を早めて、そのうえで手ぐすね引いてバラバを待ち伏せるつもりだ。
「ナジル、飛ばせ。先にいって様子を見てくるのだ!」
先頭を走るナジルに叫んだ。「ミカ、しっかり掴まっていろ。速度を上げる」
とバラバが馬に鞭を入れようとしたとき、前方で煙が上がっていた。
ベトロホンは、ユダ地方ほど峻険ではないが小さな峡谷に囲まれた平地だった。レバノン杉、棕櫚、松などの木々が施設を隠していたし、事前にあると知らなければ見つかる場所ではない。
だが、それは逆に逃げ道が限られていることである。丘陵を抜けても広がるのは砂漠、幼児を抱えていては到底不可能な逃避道程だ。
しかし見つけられた。そして今、その施設の方角から煙が出ている。しかも黒煙、それがどんな意味なのか簡単に察知できる。
バラバは打ち消す。まだこの目で見たわけではない。希望だけを繋げて馬を走らせた。
2
楽園は、やはり死者の国さながら黒煙が垂れ込めていた。燃えさかる油と煙で不快な匂いが充満し、当事者であろうローマ兵が数人、白刃を血塗らせ蠢いていた。そこかしこに若い党員の死体が無残に転がっている。
すでに殺されてから、かなりの時間が経過しているのが分かる。流れ出た血が土に染み込み表面が凝固しかかっていた。
「赦さんぞ、ローマ兵!」
ミカを馬上に残して飛び降りた。応戦しようと剣を振りかざしてきたローマ兵を躊躇わずに斬った。
断末魔の叫びを上げる兵士の声に、蠢く他の兵士の視線がバラバに注がれた。
「イリヤとナジルだけついて来い。あとの者はミカとサラを守るのだ」
言い置くと、敵陣の真っただ中へ突っ込んでいく。
襲いかかるローマ兵を斬りまくった。その死体を跨ぎ、ギメルの住居へ向かった。もしかしたら生き延びているかもしれない。絶望の中の希望だった。
でも、そこへ至るまでの道はさらに屍の山だった。どこへ消えたのか、立っている人間はローマ兵さえおらず、惨たらしく殺された幼児と若い党員の死体だけが目につく。
槍で突かれたうえに焼かれて黒焦げになった死体。応戦して斬り殺されたのか、胴体のない若い党員の首。剣を握ったままの腕も転がっていた。また、うつ伏せに倒れる若者の身体は首から上がない、しかも黒く焼け爛れていた。
家に子供らと逃げ込み、火をつけられて、飛び出してきたところを嬲り殺されたのだと思った。もはや人間の姿をとどめているのは皆無だった。腹の底から慟哭が噴き上がる。
バラバは一人の幼児を抱え上げた。
焼けつくされていてもなお、目の辺りが埃と土で汚れていた。怯え、泣きながら惨殺されたということだ。いくら癒そうとしても、まるっきり手応えがない。切なすぎる、耐えられなかった。抱え上げ、片手で幼児の目を閉じた。
「ああ、私は救ったのではなく、あなたたちに、また同じ苦しみを与えた――」
バラバの胸から哀しい嗚咽が漏れはじめた。
と、ナジルが「ギメルの家も焼かれていました」と報告してきた。嗚咽が咆哮に変わりはじめる。
その感情を鎮ませるかに、イリヤが叫ぶ。
「向こうに人だかりが!」
我を取り戻すと、見た。手に剣や戦斧を持った兵士が洞穴を囲んでいた。その中央にカシウスがいるのは明白だ。そして抵抗するギメルも。
バラバが近づくと、気づいたローマ兵が向かってこようともせずに割れる。その隙間からギメルの姿が見えた。地に槍を突き立て、憤怒の形相で立っていた。
ギメルはバラバを見ると、目を光らせた。すでに全身を斬り刻まれ、胸といわず腹といわず、どくどくと血が流れ出ている。おそらく立っているのがやっとの状態、気力だけで持ち応えているのだろう。それが逆に神がかり的でローマ兵の士気を鈍らせていた。
固唾を呑んでバラバを見つめる兵士の間から、カシウスが口を歪めて躍り出た。
「ふ、予想していたよりも早く来たな。すべてを片づけてから待つつもりであったが――ま、よい。まずは、きさまを殺そうか。そうすればこの男、すぐに気力が萎える」
聞くやいなや、我慢の限界を超していたイリヤとナジルが「ふざけるな!」と叫んで、同時に飛びかかろうとした。バラバはそれをとめる。
「よせ、お前らでは歯が立たない」
「でも、仲間の無念を晴らせます」
イリヤのこめかみに、ぴくぴくと激しい脈が浮き立っていた。バラバは一蹴する。
「我らは自由を得たか。それは私の方法が間違っていたことの証明だ」
「しかし、この男が赦せません。この卑劣な指揮官を殺して、次はピラトを殺します」
イリヤが剣に力をこめた。
「それは、私がすべきこと」
イリヤを強引に制したあと、バラバはカシウスへ向き直った。「覚悟しろ」
「望むところだが、その前に、小僧を先に殺す」
カシウスの挑発に火をつけられたのか、イリヤとナジルがバラバの制止を振り切った。
カシウスは、それを待っていたかのように、槍を水平に払って二人をなぎ倒す。怒りにまかせて不用意すぎた。イリヤとナジルは太腿を裂傷させられ這いつくばった。
「カシウス!」
バラバは、とどめを刺そうとするカシウスの前へ立ち塞がった。「赦さない」
一挙に取り囲んできた兵士を気迫で威嚇したとき「待って、バラバ!」と、背中からミカが声をかけてきた。
「場所を変えてください」
「そうだよ、まだ背後の洞窟に数十人の幼い命が生き残っているんだ。だからギメルは死ぬこともできず、その命を守ろうと死に瀕しながら立っている」
振り返るとミカばかりでなくラザロがいた。ユダもマルタもサラもいる。悲壮な目でバラバを見つめていた。
「中に、多くの子供たちが生きている? 殺されてはいないと……」
ならギメルは、バラバから委譲された子供たちを育てる約束、それを一心に守り抜こうとして倒れずに立ちはだかっていたのか。理解したとたん、すべての毛が逆立つ思いがした。
「さがれカシウス!」
引き絞った声で言いすてると、ギメルに駆け寄った。癒してあげたい。
しかしカシウスが引き退がるはずがない。素っ気なく放り置かれ却って激怒した。「戦う気がないのなら、死ね!」とばかりに、槍を突いてきた。
予想はしていた。けれど視界が涙で滲んでいた。守り抜いたギメルと洞穴内の子供たちに気を削がれていた。切っ先が見えたときには、もう避けることは叶わない状況だった。
悲鳴が聞こえた。いるはずのないユダの叫び声も聞こえた。ならば死ぬのか。
が、カシウスの槍はバラバに軽い衝撃しか与えていなかった。ギメルがバラバの危機を察知し、身代わりとなったのだ。
ユダが走り寄ってきた。ギメルはユダを見ようと一瞬顔を上げるが、すぐに折れ曲げる。
しかし腹部に食い込む槍は放さない。カシウスの槍がバラバへ向かせないためだろう。行き場のなくなった血流が口からこぼれ出た。
バラバは耐えられず、左手で槍を引き抜くと槍を足で踏みつけた。溢れ出る鮮血を手で押さえ、右手で折れ曲がった首を支えた。
マリアとマルタ、ミカとサラ、シモンとレビが、バラバを守るかに立ちはだかっている。素手で手を広げ、殺されてもかまわないという覚悟で抗っていた。
「死ぬな、生きろ! 父親になるのであろう」
ユダが嗚咽を漏らす。ギメルは血を吐きながら、切れぎれに言葉を返す。
「いいのだ、ユダ。今だから言うが、母と妹が殺されたとき、自分は窓の外から一部始終を見ていたのだ。遅く帰宅したのではない、ぶるぶる震えていた。だから強くなろうとアッバスを訪ねた」
「私だってそうだ。自分が助かりたいがために、背を向けて母と姉を見殺しにした」
ユダの嗚咽が激しさを増す。
ギメルがバラバに目を向ける。どうしても伝えたいことがあるのだろう。口のまわりを血だらけにして話そうとする。
バラバは言った。
「もういい、何も話さなくていい」
それでもギメルは言い返す。「言わせてほしい」と。
バラバは、ならせめて負担のかからぬようにと耳を近づけた。
「我ら兄弟はあなたに癒された。それなのに楽園を守りきれなかった」
バラバは心で聞き、心で答えた。
「守ったではないか、充分すぎるほどに。そのあなたの意思は、腹の子に引き継がれる。生き残った者たちが守り抜いていく」
洞穴の奥に寄り添って光る無垢な目と、身重のギメルの妻の姿がバラバにはしっかり見えていた。
「バラバ……出会えて自分は幸せだった」
小さな呟きが洩れると、ギメルは静かに目を閉じた。
カシウスが剣を抜いたのは知っている。だがもう、そんなことは気にならなかった。
ギメルがいなければ、とうに死んでいた。何より園を創ることだって不可能だった。バラバは、包囲の真っ只中にいながらも泣いた。
そこへ、後ろから小石を軋ませる音がした。
音はしだいに大きくなってくる。バラバが首を曲げて、その方向へ目を向けると、皆もいっせいに振り返った。
焼けて煤けた幼児が、覚束ない足どりで歩いていた。
「ああ……何ということでしょう。あの子は死んでいたはずの子、先ほどバラバが抱え上げていた子に間違いありません」
マルタに血止めをされていたイリヤが、信じられない、と涙を浮かべる。
「ギメル父さんが僕に話しかけたんだ。『肉体に帰れ。そしてバラバのところへ行き、癒してもらえ』と。今もさまよう魂を見つけては呼びかけているよ」
バラバには横たわる死体は見えても、浮遊する魂は見えない。だが肉から解放されたギメルには見えるのだろう。
「ギメル、意思を受けとったぞ」
バラバはギメルを静かに横たわらせると、幼児を強く抱きよせた。
「茶番だ。讃えるに値しない」
カシウスが唾を吐く。
「どうやらカシウス、お前は、とんでもない考え違いをしているようだ」
幼児の身体が癒されていくのを見届けると、ミカに預け、カシウスへ向き直る。
「ふ、やっと戦う気になったか。なら剣を向けてこい」
「お前がルシフェルの誘惑を望んだ理由を言おう。臆病なくせに兵士の家系に生まれたがために、嫌々勇士を義務付けられてきた。祖父がカイサルに仕えて槍と名誉を授与されたからだ」
「誉れある血筋――誇れることだ」
カシウスは胸を張った。それはバラバではなく、部下に伝えているようにも見えた。
おそらくカシウスは、ギメルの気概に怯みを見せていたのだろう。部下は敏感だ。命令を下さぬ隊長に不信感を抱いいた。まして片目になってからは、戦闘能力に往時の冴えは消えていた。気迫と強さを武器にして生きてきた男の末路、足掻きかもしれなかった。
それより何より、ピラトから与えられた任務は熱心党の壊滅とバラバを捕縛することである。幼児の殺戮など下されていなかったに違いない。カシウスの独断だ。
それを殺しまくったあげく、立ちはだかるギメルには怯みを見せた。部下の信頼を損なうのは当然といえよう。
「お前は人を殺して英雄になることに躊躇いがあった。父アッバスが兵士時代そうであったよう、呵責の念に捉われていた。むしろ避けられないものかと悩んでいた。でも、まわりは許してくれない。もっともっと殺して、憧憬されるまでの英雄になれと叱咤した。呵責の念と周囲の期待、そして時代の流れ。お前はその狭間の中でルシフェルと遭遇した。いや呼び込んだのだ。同じ立場を歩んできた父アッバスと、歩まざるを得ない私を抹殺することで、弱い自らを氷狼にしてくれと願った」
ローマ兵がざわついた。本物とばかり思っていたカシウスの気骨がじつは虎の威を借りたもので、いよいよ張りぼてと感じとったからだ。
「戯言だ! 私は、生まれついての殺人機械なのだ」
カシウスが弁解がましく言う。
「動揺したか。なるほど愚かさだけは生まれついてのものかもしれない。気の毒だが、私と戦うには実体が弱すぎる」
「くっ、言わしておけば図に乗りおって!」
「カシウス。あなたはルシフェルに接触するより、先にバラバに触れるべきだったんだ。そうすれば過去に起因する心の傷なんて、すぐに取り払われたのに」
ラザロが諭すように真実を告げた。
「小僧、知ったことを言うな。だったら私が非道な狼であることを証明してくれる」
何を思ったか、カシウスは剣を一閃させる。ラザロの胸を裂いた。
ラザロの細い身体が折れる。首が項垂れる。
考えても見なかった卑劣な行為。場は哀哭に塗り込められた。
ギメルに続いて、ラザロまでが身代わりとなって死んだ。
バラバは息ができないぐらい心を重くした。
これ以上、カシウスを赦してなるものか。剣を掴もうとした。と、一枚の影絵となって弟の顔が目の前にかすめる。それはだんだん神の姿と重なっていく。
ふと気づくと、癒えたばかりの幼児が寄り添っていた。ミカとサラ、マルタもユダも集まっていた。
もう、怒りを見せるなと?
バラバは剣の行き場をなくす。代わりに、切ない咆哮を上げていた。
しかし過去の咆哮とは異質。そこには怒りもわだかまりもなく、死んでいった者たちへの懺悔、細く切ない旋律だった。だから雷鳴が轟くことも、梢にとまる鳥たちが落ちることもなかった。むしろバラバの咆哮に共鳴し、一緒に哀しみを同化させ、それを賛美に変えようと鳥たちがさえずっていた。
すると姿を隠していた牛と羊が、続々と戻ってきた。砕け散った魂を共に偲ぶかに空へ向かって鳴いた。
その行為に、ローマ兵たちの心に変化が起きた。一人の兵士が剣を投げすてると、次々と血塗られた剣と槍を放り投げ、祈り出したのだ。カシウスだけが一人、茫然と天を仰いでいる。
3
両手を麻縄で縛られ連行されるバラバを、ユダは為すすべもなく見送った。
戦う意義を見失ったローマ兵たちだ、強気に出れば逃走も可能だった。しかしバラバは自ら捕縛を望んだ。自分さえ捕まればこの地に害が及ばなくなる。そう判断したからなのだろう。
洞穴から姿を現した四十人の幼児とギメルの妻に別れを告げて、バラバはエルサレムに連れて行かれた。アントニオ城の地下牢に投獄されるのは間違いない。
その後、遅れて到着したマリアとレビとシモンが、地獄と化した焦土を眺めて絶句した。さらに遺体が並べられる光景を見ると、嗚咽まじりに泣き伏した。
ミカとサラが残って後始末を手伝うというので、ユダはラザロの遺体をロバに乗せて、マリアと共にベタニアへ急いだ。あきらかに男手が足りないので、レビには残ってもらった。
今回の一件で身に沁みたのは、少なからずの差異はあっても運命は変わらないということだ。確かにバラバの深い行為で、大惨事になるところをわずか十名足らずの死者で食いとめた。だがギメルが死に、ラザロが死んだ。ユダをとりまく者たちの運命は変わらなかった。
熱血漢の兄ギメルは正しいところのある人だが、数多くのローマ兵を殺し死に値する罪があった。しかしラザロのどこに罪があったのだろう。若い党員だってギメルと同じに人を殺した。けれど、幼児のどこに殺されるまでの理由があったのだろうか。
試練といってしまえばそれまでだが、この世では往々にして正しい者まで滅ぼされる。ラザロはユダヤの神を崇めるようになっていたし、誰憚ることなくバラバを愛していた。運命は、その愛を無残に摘みとり、拒んだ。無言で帰宅するラザロが、無性に憐れに思える。
「イエスが、必ず助けるから……」
道すがら、誰に言うでもなくマリアが呟いた。イエスとベタニアで待ち合わせをしていることを告げる。
「そうね、彼なら助けられるかもしれない。でも、ここへは来なかった。ベツレヘムの魂を軽視した。それに、たとえベタニアで生き返らせることができても、行進のついで感はいなめません」
マルタがイエスを非難する。ユダも、それに関しては受け入れざるを得ない。
それにしてもマルタとラザロは、ここベトロホンへ来る前きっぱりと断言した。バラバは神の子だけど、イエスは神の子ではないと。
そうしたら『そうね、彼なら助けられるかもしれない』このマルタの言葉は何を意味するのか。イエスが神の子じゃないと断言しているのに、マルタはそれでも治してもらえると思っていたのか。
神の子でなければイエスは何者なのだ。悪魔? 天使? ユダは、まだ答を見つけられない。
マルタへ言った。
「でもマルタ、ラザロを癒そうと思えばバラバは治せたはずだ。それがどうして生き返らせなかった。その事実も永遠に消えないぞ」
幼児を再生させたこともそうだが、何よりミカとサラの変貌だ。二人は癩が治っていた。揃って乳児みたいな艶々した肌を取り戻していた。バラバが癒したのは言うまでもない。それなのに、どうしてラザロを癒さなかった。
反論しつつ、ベトロホンへ行けば分かるとの謎かけ。その含みの意味が分かりかけてきた。
それはたぶん後世に残す復活のシナリオだ。バアルもそうだったが、イエスは三日で復活するつもりでいる。
だとしたらベタニアへ来るのも三日遅れる。なぜならラザロの死と復活は、人の子が三日後に復活するという暗示なのだから。
それをバラバは知っていた。だからイエスの道を整えるために身を引いたのだ。
4
アントニオ上の警護がいつにまして物々しい。過越祭に、ユダヤの総督がエルサレムにいる慣習があるからだった。
その過越祭。言われは脱エジプトの前、神がエジプト人に反省を促せようとさまざまな試練を与えたことにはじまる。神は、人間、家畜といわず、すべての初子を死なせた。ただし奴隷として生きるイスラエル人には害が及ばなかった。なぜならモーゼを通して逃れ方を知っていたからだ。彼らイスラエル人は自宅で子羊を屠り、血を入り口の柱と鴨居に塗っていたのだ。その血を、死を司る天使に見せて過ぎ越させるために。
しかし神は憂い、いつの日か、この過越祭にと大きな決断をした。
それは神の子ではなく、熱情を演じた存在自らが子羊になることだろう。とバラバは思うようになった。ルシフェルが人間を経験しようとするのも同じ理屈、いざ人になってみなければ分からないことも多い。ばかりかそれで三位一体の心理も解ける。
無限の神と天上の聖霊、そして地上で人として生きた神。まさしく三位一体なのだ。
そのバラバの思考は、城内に入るとすぐに飛ばされた。
すでに早馬が放たれ、バラバ捕縛の知らせはピラトの耳に届いていたのだろう。縄で括りつけられたまま大広間へ引き出されると、深夜だというのに待ち焦がれたようにピラトが歩みよってきた。
「やはり、お前がバラバだったか」と、にんまりし「これから最大級の苦痛でもてなしてやる」愉悦の表情を浮かべた。
「言うことはそれだけか」
とうに覚悟して死を見つめている。ましていけ好かない態度をとれば、どんなことがあってもバラバを十字架にかけようと画策する。願ってもないことだ。そうすればカヤパの策略もはねつけようとするだろう。神を殺させてはならないのだ。
「きさま! 八つ裂きにしても足りない奴だ。カシウス、すぐに鞭の用意をしろ」
ピラトはバラバの計算通り、」怒り心頭に頬を膨らませる。踵を返すと感情を顕わにして階段を上り椅子に腰かけた。椅子の横の台座には葡萄酒が置かれている。きっと葡萄酒片手で高みの見物としゃれ込むのだろう。
しかしカシウスが、どうしたわけか柄にもなく進言する。
「兵士は疲れております。それにユダヤでは夜に刑罰を与えてはならないそうです。明朝でしたら差し支えないので、そのときにたっぷりお仕置きをなさいませ。楽しみはじっくり堪能するものでございます。こちらもそれ相応の道具を準備しますゆえ」
カシウスが、なぜそのように提言したのか解せなかったが、渋々了承したピラトは、それでもまだ未練がましい目をさせて「ならば地下牢へ放り込め、最下層だ」と、投げやりな言葉を吐きすてた。葡萄酒をぐいと飲むと苦々しく席を立った。
明かりとりの窓もない薄暗い通路を、兵士に小突かれて進まされた。松明を持つ番兵が先導するので辛うじて見えるが、それ以外の光は一切ない。暗闇に慣れるまで数分の時間を要した。
と、牢番兵の詰め所をすぎた所でカシウスが言った。
「総督は酒が入ると残忍さを増す。そうでなくとも極悪人に対しては、さんざ鞭で打ったあと、目を抉って舌を抜くこともあった。お前の場合は感情が特別だから、明日を待たずにして首と胴が離れていただろう」
「なぜ、庇ったのか」
バラバが問うとカシウスは、いつものように口を歪ませてほくそ笑むのではなく「夜中に死なれると、寝覚めが悪くなる」と、ぶっきらぼうに答え、無表情に地下へ降りていった。
カシウスの変化は咆哮のすぐあとで感じとった。ラザロに引導を渡して、逆にラザロの想いを背負わされたのだろう。同時に家系の呪縛が薄まった。だから言葉は無愛想だが、案外和らかい。妙な小気味よさがこもっている。
バラバは縄で後ろ手を縛られたまま、泥棒などわりかし軽い刑の房舎を通り越して、さらに地下へと兵士に引っ張られていく。重犯罪は地下二階で、最下層はどうやら癩病者の牢獄らしい。
カシウスは地下二階へ着くと、兵士に牢の扉を開けさせバラバを放り込んだ。
「いいのですか、総督は最下層へ入れろと……」
兵士が心配そうな顔をカシウスへ向ける。
「かまわぬ、我ら兵士が癩病者の房へ行かないことを総督は知っておられる。最下層の牢番と奴隷の番人を呼ばなかったということは、地下二階との暗黙の了承と受けとめている」
納得した兵士がバラバを中央に座らせた。
松明の光で頭上から荒縄が垂れ下がっているのが見えた。左右の壁にも台座が据え付けられ、そこにも荒縄が固定されている。それぞれに歯車のついた取っ手が設置されており、それがすぐに拷問用の道具であることが分かる。天井から垂れている縄で身体を吊り上げて、左右の縄で股を裂く仕組みになっているのだ。
兵士が、まず左右の荒縄を、バラバの足に括りつけようとした。
「そこまですることはない、これだけで充分だ」
カシウスが松明を床に置いて、後ろ手に縛っている麻縄と、天井から垂れる荒縄を連結した。左右の荒縄には手も触れなかった。
戸惑いを感じた。「心変わりをしたか」
「分からぬ。だが――とどめを刺すのは、私だ」
松明の光とともにカシウスの声は消えた。足音が途絶えると、やがて牢獄に一人置き去りにされた。闇は深い。
5
翌日、ユダはラザロを墓に安置させると、シモンとレビを連れてベタニアを発った。
ガリラヤの巡礼者がエルサレムへ向かう道は知っている。だからカペナムから逆算すれば、今頃イエスはサリム辺りを歩いているはずだ。そうするとエリコへ到着するのは明日、そこで待っていてもいい。すべきことがユダにはあった。
「私はエリコへ着いたらザアカイの屋敷へ行く。歓迎の準備と宿の手配をしなくてはならない。そなたらは休まず歩け、サリムへ向かうのだ。そしてあと二日、最悪でも四日目の朝には、師をベタニアへ連れて来れなければ証は消えてしまう」
溢れるばかりの泉が湧き、棕櫚とレバノン杉と棗椰子、ユーカリに覆われた人類最古の都市エリコ。イエスがやってきたのは予定通り、ラザロが死んでから二日目のことだった。
夥しい数の巡礼者を引き連れていた。イエスは先頭を歩いていた。ユダはザアカイと並んで城壁の前で待った。
町の住民も、すでにエリコへ来ていた巡礼者も、興味津々に沿道へ繰り出している。「ダビデの子、イエスよ」と歓声を上げて。
だが、誰もホサナとは呼ばない。あくまでも人間の王として讃えているのだ。そのすべての答はベタニアにあるとユダは信じていた。ラザロを生き返らせてからこそ、真のメシアになると理解している。
つまり民衆も、まだ心の底で革命を期待している。行進の意味が認識できたら、そこで初めてホサナと呼んで神として讃えるのだろう。いや、もしかしたら逆に離れていくのかもしれない。現実の夢を破れさせて心を萎ませる。民衆に未来を待つゆとりなんてあるはずもないのだから。
知ってか知らずか、次の朝、イエスはいとも容易くラザロを生き返らせた。信徒も巡礼者も住民も、みな万感の思いでイエスに神秘を見た。
でもそれが結果的に反発を招く。カヤパの放った密偵も目の当たりにしていたのだ。だったらイエスを神の如く讃えるのは、エルサレム入城までだろうとユダは思った。
民衆は虐げられるのには慣れていても、立ち上がるのには慣れていない。希望には絶えず不安がつきまとう。なら希望は希望のままでいい。どうせ現実を乖離することなんてできやしないだからと、負の道を選ぶ。目にした神の奇跡と福音を胸の中に隠してしまうのだ。
その夜、マリアがナルドの香油をイエスに塗った。機会を躊躇っていた塗り油。ラザロが生き返ったことで、今が時機だと決心したのだろう。
でもユダは呆れた。今まざまざと神の御業を実視しているのに、油を塗って、また人間の王に戻すなどマリアが正気とは思えなかったからだ。確かにマリアの本懐は塗り油することであり、メシアとは油を注がれし者のことをいう。しかし、しょせんダビデに由来する人間の処世術でしかないのだ。
だが信徒たちはマリアの行為に感動している。イエスがメシアとなったと喜んでいる。なら、その興奮に水を差すわけにはいかない。ユダは立つと現実的な否定に答をすり替えた。
「この香油はナルド、三百デナリする。我らが汗だくになって働いたとしても、一年近く必要とされるほど高価なものだ。であれば、貧しい者に分け与えるべきではないか」
どんなに言い方を変えても、空気を読まない者に対しては水が差される。皆は、一様に信じ難い目を向けてきた。それはすぐに罵声へ変わる。
「ふざけるな、ユダ。愚弄は赦さん」
「師が、塗り油に値しないと聞こえたぞ」
ペトロとアンデレが立ち上がって続けざまに睨みつけてきた。空気が硬くなった。
するとイエスが「落ち着くのだ。ペトロとアンデレ、まずは座りなさい」と、二人を押し黙らせた。
「ユダ、あなたには見えないようだ。わたしはマリアから油を与えてもらって、光を与え返した。つまり、この先マリアは真理を知ることになるだろう。もちろん、あなたが知る以上の真理だ」
与え返した?
意外だった。それにはまったく気がつかなかった。言い返そうにも、まともに答を返せない。ユダは皆の刺すような視線に耐えきれず、目を落とした。気がつかないということは惨めなものだ、自尊が粉々に砕け散ったことだけを気づかされた。
その後、葡萄酒とパンを取ってイエスの厳かな儀式が終わった。自らの身体と血に例えた、使徒への相譲。聖体の秘儀でもあったがユダには別れの儀式に思えた。
人の子イエスは、確実に地上で癒しを行ってきた。だがそれは少しも人間臭くなく、絶えず天上から俯瞰させられているようにも感じられた。やはりイエスは俯瞰する側、見守るべき存在なのだと。
だったら落ち込んでばかりいず、真実を探ったユダが動かなくてはいけない。今が再度言うべきことなのだと知らされた。なぜなら神は人間に知性と勇気を望んでいるからだ。
ユダは、皆が落ち着くのを待って言った。
「あなたが誰で、どこから来たのか知っています。少しは見えているのです。それを踏まえて使徒に大事なことを話したい」
ペトロが、また怪訝そうな目を向けてきた。アンデレもヤコブも、うんざりとした表情を隠さない。マリアだけが肯くかに理知的な瞳を当ててくる。
無理もない。ユダが今から言わんとすることは、あまりに突拍子もないことで、真理を知ることになったマリア以外、普通の常識ではとても理解できないからだ。
それに、現実に目を向ければバラバを助けてイエスを殺させることでもある。組織の一員として、決して受け入れられない大きな壁が存在する。それでも話さなくてはならない。
ユダは息を整えると「師は主である――」と言った。
するとペトロに「大切も何も、あたり前のことじゃないか。ユダ、どうして今さらそんなことを話す」と、あからさまにあしらわれた。
「ペトロ、あたり前のことでも、指摘されなければ気がつかないこともある。続けなさいユダ。皆も聞くのだ」
イエスが、ペトロをやんわり恫喝する。
ペトロが口を尖らせながらも聞く耳を持ち出したので、ユダは続けた。
「ではペトロ、主とは誰のことだ」
「決まっている。塗り油されたメシア、ここにおられる我らの師、イエス・キリストのことだ」
「ならメシアとは、神か、神の子か」
「しつこいぞユダ、私はそんな愚問に答えたくない。それよりも早く、その大切な話というのを聞かせろ」
ペトロが、むっとした顔を向けてくる。質問の重要さが分かっていないようだった。だったら次に話すことは核心だ。ユダはできる限り感情を押し殺した。
「かつて預言者の言葉通りに、神の子は誕生した。名前はイエス、しかし師ではない。イエス・バラバだ――」
感情を逆撫でさせた。重い沈黙がはね返ってきた。が、それも一瞬だけで、すぐに怒りで掻き消された。
「ふざけるな!」
ペトロが苦々しげに大声を上げると、アンデレまでもが「あんな盗賊が、どうしてメシアというのか」と、首を大きく振った。ヤコブも「バラバは殺人鬼だ!」と続いた。
やっぱり理解する思考を持ち合わせていない。言わなければよかった、ユダは後悔した。
「でも――父の子と呼ばれている」
ぼそっとレビが言うと、シモンが追随した。「殺したのはローマ兵だけだ、しかも略奪したものは民に還元している」
「悪党の肩を持つな。いくら二人が熱心党出だからといっても、赦さんぞ」
ペトロが二人を射すくめた。イエスが黙って聞いているだけなので、反発する者と同調する者、ますます場は収拾がつかなくなっていく。
「師よ、二日後に過越祭を控え、大事な時期だというのにこのユダ、あまりにふざけています。叩き出してもいいですか」
ペトロがイエスに聞いた。信徒内において、常日頃から目の上のたんこぶ的なユダが邪魔なせいもある。これをきっかけに袂を分かちたいのだ。それはヨハネの所にいたときから感じられた情念に近い思い。
親分肌のペトロにとって、ユダは口うるさい蚊のようにしか思えなかったのだろう。決別は目に見えていた。
「叩き出さなくとも、ユダは飛び出していく。それまでは話を聞くべきである」
どうやら藪蛇だったようだ。イエスの一言で、場は一変した。
ユダは言う。
「あえて師をナザレのイエスと呼ばせてもらうが、ナザレのイエスは神の子ではなかった。その実体は、神そのものなのだ」
瞬間、場がまた荒れた。
「神だって?」
「そんな話、信じられるか!」
「よくも戯言をそこまで、ならば天に神がいないことになる――」
あちらこちらから非難が飛び交うと、誰が投げたのか皿が飛んできて、ユダの胸に当たった。
「なぜ、信じない」睨みつけると、ペトロが悪びれずもせずに言った。
「思い出したぞ、ユダ。お前は確かバラバの親友だったな。それで死刑寸前のバラバを、神の子だといって助け出したいのだろう。しかも助けるには暴動しかない。師に宣教ではなく、革命を呼びかけているのだ」
「違う、どうして真実に目を塞ぐのか。なら私は、これから神の子でなく神を売りにいく」
ユダは情けないと思った。だったらもう迷わない。
「為すようにしなさい。それが裏切りだとは思わない。ただしユダ、あなたはわたしを捜せるだろうか。わたしはここにいない、あるべき所へ行く」
「なら、そのあるべきところへ、神殿兵を二十人ぐらい連れていきます。でもそこへシモンを連れていかないでください。もと熱心党員でもあり、問題をこじれさせたうえ命を落とす可能性があるからです」
「では、ペトロとヤコブ、ヨハネを連れていきましょう」
ユダは晩餐を途中で抜けると、大祭司カヤパの邸宅に向かった。ナザレのイエスを売ることを完全に決意したのだ。
その道すがら、あの三人は、主が祈りを捧げている隙に逃げる。と思った。いや三人ばかりでなく、おそらくマリアとレビと、シモンを除いた全員が逃げてしまうだろうと確信していた。
シモンのように地獄絵図を見てきていないし、神と神の子に対しての信仰心はマリアとレビに比べると脆弱だからだ。だがそれでいいのだ、罪の意識はより強い信仰心を芽生えさせる。彼らは、それで変わっていく。
6
大きな祭というのは人の意識を高揚させる。そんなとき得てして心に魔が入る。普段なら静けさの中に取り残された城壁の外であるのに、焚き火を囲み、焼かれた羊肉を頬張る巡礼者で溢れていた。その中に、気前よく葡萄酒を分け与える一団がいた。
「騙されるな、ナザレのイエスは偽預言者だ。我らを煽って、死地へ巻き込もうとしている」と叫びながら、次々と各天幕を廻っては葡萄酒を手渡していた。
カヤパの意を汲んだ扇動者たちだ。彼らは死を過ぎ越させる代わりに、民衆に罪を植えつけている。
ユダは、そんな彼らの横を憮然と通りすぎてゲッセマネへ向かった。後ろに三十人の松明の行列を従えていた。
「ナザレのイエスがいたら、抱きついて我らに知らせろ」
山道に差しかかると、神殿兵を盾にした祭司が威嚇するようにがなり立ててきた。
「そんな必要はない。ゲッセマネには師、一人しかいない」
ユダは語気を強めて言い返す。
「きさま、まさか我らを嵌めるつもりではないだろうな。五万人の先頭に立って入城してきた男だぞ。それが一人でいるはずがない」
誰もがそう思う。ユダもそう思いたかった。だが実際、一人しかいないだろう。ゲッセマネは神秘的な場所、神の声も悪魔の声も聞こえるのだ。
いったん悪魔に取り憑かれてしまえば、ペトロであろうとヤコブであろうと恐くなって逃げ出す。悪魔たちにとって、恐怖心を引き出すぐらい容易いものはない。
「行けば、分かるだろう」
ユダが裏切ろうと裏切るまいと、もう舞台の幕は上がっている。ペトロたちは、神と気がつかずに神を見すてる。完全に決意したはずなのに、ユダは迷い嘆く。あまりに神が哀れだと――。
それでも積み上げられた石垣の切れ目を抜けてオリーブ山へ入った。若木の一群を通り越して、高さ二十キュビット以上もある老木群へ向かった。つい先頃、真夜中にユダが辿り着いた場所、イエスは必ずそこにいる。直感ではなく実感だった。
「分かって進んでいるのか」
疑心暗鬼に問いかけてくる祭司を無視した。大股でずんずん歩いた。置かれた祭司らが慌てて追いかけてくる。
夏の終わりにオリーブの収穫は済んでいる。でも搾油所の脇からは、かすかにオリーブの香りが漂う。ユダは、この後二度と嗅ぐことのないであろう、その匂いを胸に刻みつける。初々しい緑と、熟した黄色の実を想像して目に焼き付けた。
搾油所を過ぎると感傷はすてた。殺風景な林を掻き分け奥深くへ進んだ。すると、ひときわ威厳を放つ老木の根元で瞑想しているイエスを見つけた。一人だ、やはりペトロもヤコブもヨハネもいなかった。
その瞬間、祭司と神殿兵がざわめき立った。
「あいつがナザレのイエスか。ふん、高そうな衣装を身につけているが、仲間から見すてられた、憐れな預言者そのものではないか」
「黙れ、その汚い口を慎め」
吐きすてると、ユダは走った。薄目を開けて淡々と立ち上がろうとするイエスに抱きつき、額に接吻した。強制されたからではない。イエスが一人でいたことの衝撃が強すぎて、胸が熱くなったからだ。いなくなることは予想していた、だけど見たくなかった。
「ああ、主よ。赦してください」
無意識に言葉が突き上げる。死を見届けてから、ユダも死のうと決めた。それも、もっとも主から呪われる方法で。
腰に縄をがんじがらめにされてイエスが引きずられていく。ユダは来るときは先頭だったのに、帰りは最後尾をとぼとぼ歩いた。
そしてまた天幕の密集する場所に差しかかった。ユダの心とは裏腹に陽気な宴が続いている。この巡礼者たちの半分以上は、入城の際、イエスをホサナと讃え棕櫚の葉を振って歓迎した連中だ。あとの半分はイエスと一緒に行進をしてきた者たちだった。
巡礼者たちがイエスを目にする。宴が一瞬とまる。ユダは、皆が擦りよって哀しむ前触れかと思った。下手したら悲しむあまりに暴動が起きてしまうかとも心配した。しかし、意に反して巡礼者たちは冷淡だった。
すでに葡萄酒一本で篭絡されていたのかもしれない。一人が石を投げつけると「罪人め!」と罵る叫びが聞こえ、立て続けに飛礫の嵐となった。さすがに大きな石は、すぐそばに神殿兵と祭司がいるので投げない。小さな石だけが飛んできた。
ユダは心苦しかった。せめて使徒が周囲を固めて防いでほしかった。松明に浮かぶイエスの額から血が流れていたのだ。
カヤパの屋敷へ着いた。
夜更けだというのに議員が招集されて、緊急裁判が開催されることになった。神殿に従事する露天商らも続々と駆り出されて集まってきた。カヤパは満面に笑みを浮かべ、篝火が焚かれた明るい中庭に人が埋めつくされるさまを見ている。
「お前の役目は済んだ、約束通り銀貨を与えよう。さ、この先はもう必要ない、立ち去れ!」
カヤパは袋に詰めた銀貨をユダに投げつけてきた。まるで蝿を追い払うかに侮辱的な目を見せた。
「お望みどおりに消える。だが、この後どうするのか聞かせろ」
胸の涙を気どられぬように言った。金が目的だったわけじゃない。ユダには、その後のほうが肝心だった。
「殺す――」
「裁判にかけて石打の刑を宣告するのか。それでは惜しまれるだけで、あなたに非難が集中する。もっと効果的な手段を選ばないと、ナザレのイエスに貶められた地位は挽回できないはずだ。聞くところによると、あなたは十字架刑をピラトに望んで断られたと、もっぱらの噂だが」
「ほう。裏切り者だけあって、やけに詳しいものだな。で、何だ。魂胆があるなら言ってみるがいい」
カヤパが身を乗り出してきた。
「すでに民衆は、あなたの画策によってナザレのイエスに失望しはじめている。民のために戦ったバラバだけを熱望するようになった。そこでイエスの身柄をローマに委ねて、バラバを釈放させるのだ。毎年、過越祭には罪人が恩赦で赦されることになっているし、バラバを釈放させることができればカヤパ、あなたは民衆から熱狂的に支持される」
カヤパは考え込んでいた。狙いはイエスの抹殺、殺し方にこだわっていなかったのだろう。
「では、なぜ石打の刑ではだめなのか、決定的な理由を説明する」
ユダは含みをもたせてカヤパの顔を覗き込んだ。「申命記に『木にかけられた者はすべて神に呪われる』と書かれている。あなたが正しいことを証明すべきだ」
ただ殺すだけなら、石打の刑に処せればよい。だがカヤパが、それだけでは気がすまないことを知っていた。だからこそユダは、冒涜と侮辱に対する最も効果的な処刑法を提示した。それはローマ式の十字架刑でしかなかった。
「その通りだ、神に呪われた者がメシアであるわけがない」
カヤパは目を異常に光らせて、肯いた。
そしてすぐ大祭司の登場を今かと待っている中庭へ向かった。ユダは通用門から中庭へ出て、群集の最後方の場所に位置どり様子を窺った。手には銀貨の入った重い袋と、使用人に無理をいって貰った麻縄を握っていた。
カヤパは、中庭に用意された特設の壇上に立った。その壇上の横には縄に縛られたままのイエスがいる。
「まずは、ナザレのイエスの罪状を確認する」
中庭を見渡すと、大声を上げて群集を黙らせた。
静まると、若い祭司が取ってつけたような罪状を延々と述べた。
「一つ、ナザレのイエスは安息日を破って仕事をし、人々と交じり合い、しかも断食を貶して律法を汚した。二つ、彼は罪人とともに食事をするばかりでなく、民衆の指導者を非難しては民の信仰を迷わせた。三つ、神殿の崩壊を予告した。四つ、民族の父でもある我らが祖先アブラハムより偉大だと暴言を吐き、そのうえアブラハムが生まれる前から自分が主であるなどと、赦しまじき発言をして侮辱した。五つ……」
途中まで静かに聞いていたカヤパが「待て!」と、とつぜん中断させた。
「三つ目まではすでに報告を受けており、議事録に記録済みだが、四つ目については聞きずてならぬ。民族の父より上位だというナザレのイエス、お前はダビデの子であり、主でもあり、メシアでもあるのか」
イエスへ威圧的に迫った。
「イスラエルの父は一人だけしかいない。アブラハムではなくて、わたしがそれである。なぜならわたしは、そこから来たからだ。それを信じないのは、神に属していないからとしか言いようがない。また、どうしてメシアをダビデの子というのか。ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、神の子の父であろうはずがない。それとサドカイ派では復活はないとするが、ある。そして神とは霊である。しかも死者の神ではなく、生きている者の神である」
イエスの言葉にカヤパは唸るだけだった。それは民衆も一緒だ、静まり返って聞いた。
「罪状の続きを読み上げろ」カヤパの声が力なく響く。
「それでは神殿での破壊行為、ならびに冒涜についての罪を問います。彼ナザレのイエスは、神殿を強盗の巣呼ばわりにして神を冒涜した」
雪辱に駆られるカヤパの邪念が、再び目に宿ってくわっと光った。イエスを睥睨した。
「ふふ、その罪は重いぞ。崩壊の予告では妄言と見逃したが、行動に移した神殿冒涜、死に相当する重罪だ。なんびとであっても逃れられない。よってここに、ナザレのイエスに死刑を宣告する!」
その一言で群集がどよめいた。
が、カヤパは「静まれ!」と一喝して、再度黙らせた。
「今回、純粋な民を洗脳しての行進、これはイスラエルの消滅を招く行為であり、とうてい赦し難ききもの。立派な反乱罪でもある。だから、ナザレのイエスを石打に処すのではなくローマに委ね、その仲間たちも捕えることに決めた。ただし、民に施しを還元したイエス・バラバだけは、何としてでも過越祭における恩赦で釈放させたいと考えている」
群集はたちまち熱狂した。圧政者という、外の敵と戦いを繰り広げたバラバ。見えるものしか見えない民衆にとって、そのバラバが解放されるかもしれないのだ。彼らは狂喜した。
こまではユダの思惑通りだったが、なぜか釈然としないものを感じた。カヤパがまだ話しているみたいだが、中庭が騒然として遠くにいるユダには声が消されてまったく聞こえない。イエスの姿も興奮する群集に隠されて見えなくなった。
このような結果を主はどのように受けとったのか、割りきれない思いを揺らして、もう一度だけ姿を見ようとした。皆が「バラバ!」と、叫んで猛り立つ光景を見ながら、ユダは最後方からじりじりと前へ出た。
すると顔を青くしたペトロが、大きな身体を丸めて飛び出していくのが見えた。よく見ると、近くにヤコブもヨハネもアンデレもいる。脇目も振らず一目散に逃げ出していった。
心が宙に彷徨った。願っていたとはいえ、あまりに計画通りに事が運ぶのが怖かった。
捨て置いてユダは、群集の隙間からイエスを見た。壇上から降りたカヤパに唾を吐きかけられていた。その瞬間、胸の中に悔いと哀しみを充満させた。
ほんとうはイエス、いや主を愛していた。
思いがけず、声が嗚咽とともに吐き出された。
彼らは神を十字架にかけるつもりだ。
イスラエルの神が、そのイスラエル人の手によって殺されてしまう。バラバの頭の中に移入してきたユダの心情で、カヤパの屋敷の状況が鮮明に映し出された。
漠然と自分が十字架にかけられるとばかり思っていた。しかし一握りの指導者の思惑によって、根本から覆させられている。
やがて訪れる最終審判。バラバは自ら子羊となり、人間の未来を少しでも変えようと思って肉となった。だから神の子は一人のはずだった。でも驚くことに双生児となってまでも、神自身が人間として誕生してきていた。
その真理を知った今、神を十字架にかけさせてはいけない。そんなことをすれば人類は自らの身体に腐った釘を打ちつけることになる。
十字架にかけられるのが神だと思ってもないからだ。ローマ人も然りだ。
では、なぜ神は人間として生まれ、人間として十字架にかけられることを望んだ? もしや外面だけしか見えない、いや見ようとしない人間たちに、その内面を見させようとする気持ちからなのか。一理ある。だがそれだけの理由ではないだろう。
最終審判の前に、これから起きる十字架の絵を一ユダヤ地方の事件としてでなく、世界中の人間に問いたいからだ。だから世界の支配者であるローマの手に委ねた。ローマが変わらなければ罪は重い。神はイスラエルとローマの改心を望んでいる。
心を漂流させていると、牢番がやってきて鍵を開けた。
「イエス・バラバ、出るがいい。いよいよ処刑の開始だ」
牢番の後ろに立つカシウスが言った。
暗い牢獄の中、松明を持つ警固の兵士を従えたカシウスは、真新しいチュニックの上に金刺繍を縫いつけた深紅のマントを羽織っている。ひげもきれいに剃って、右目の眼帯も新品を装着していた。
「ナザレのイエスとは憐れな男よ」
カシウスが聞こえよがしに呟いた。バラバは、返答もせずにカシウスの横顔を見つめる。
「大祭司カヤパは、ナザレのイエスがローマに反逆をしたわけでもないのに、政治犯だと決めつけて身柄をローマに預けにきた。だが総督は、もう肝心の張本人を捕縛しているし興味も薄れている。『ガリラヤの反逆者は、ガリラヤの領主、ヘロデに裁かせろ』と、言って引き渡した。ところがヘロデは、なぜか宝石の鏤められた法衣を着せて送り返してきた」
「確かにカヤパとヘロデの、どうしても十字架にかけたいという魂胆が見え見えだ。だが、過越祭には恩赦がある。そこで釈放させれば、ピラトは悩まずに私を殺せる」
バラバは言った
「ふ、総督は面倒くさくなったのか、二人一緒に十字架にかけるつもりでいる」
「ばかな。カシウス、お前はナザレのイエスが誰であるのか知っているのか。あの方は……」
「言うな! 私には関係のないこと。とめる権限もない」
とうとうユダヤ人は、自らの手で解決しようとせずにローマに一任した。擦りつけたといってもいいのだろう。自分の手を汚さずに、他人を使って憎い者を排除しようとした。それで知らん顔は通せない。いずれ天罰が下る。
他人に自らの父を殺してくれと依頼しているようなもの。それを妻に置き換えても夫に置き換えてもいい、素知らぬ顔で生きられるはずがないのだ。
慌ただしく二階の大広間へ引かれていくと、ピラトの横に弟、いや神がいた。
ユダによく言われたが、なるほど、醸し出す雰囲気が同一と感じられないでもない。水に映した自分の顔を見ていないので、何ともいえないが、おそらく似ているのだろう。ピラトとカシウスが改めて驚いている。
それよりもバラバ同様、さんざん鞭を打たれたのか、首すじと足先に蚯蚓腫れが痛々しく走っているのが気になった。
「ふふ、似ている。まさに生き写しだ」
そんなバラバの感情をよそに、ピラトは、バラバと神を見比べてにんまりと笑った。微笑というより、どちらかといえば子悪人が奸計を企んだときの、歪んだ引きつりに近い。マリアの館にいた老執事を彷彿させる。
「窓の外を見るがいい、羊と狐がわめいている。ばかな奴らだ。ユダヤの王を殺して、殺人者を釈放させろというのだからな。煩わしいので二人まとめて殺そうとも考えたが、あの勢いでは暴動の怖れもある。それで一計を案じた」
ピラトは話の腰を自ら折ると、兵士に目配せした。
「やめよピラト、その者の罪はすべてローマにあるのを忘れたか」
すると、無表情を貫き通していた神が重々しく言った。
「ほう、聾唖者だと思っていたが、ユダヤの王は喋れるようだ。だが、つくづく立場を理解していない言い種である」
「ならばピラト、あなたが知りたがっていた真理、それを今教えよう。わたしとイエス・バラバは、かつて誰も目にしたことのない場所からやって来た」
「ほざけ! それは自分の内にある世界、妄想というやつだ。だから私の世界は私しか知らぬ。とうぜん、きさまらの世界を知りようがない」
「どうやらピラト、あなたは勘違いをしている。そしてわたしも勘違いをしていた。しかし知りたがっていただけあって、どうやら少しは見えているようだ。あなたが感じた内にある世界とは、妄想ではなく内にいる霊のことなのだ。求めているのなら、臆せず、完全なる人を取り出して、わたしの眼前に立たせなさい」
ピラトは神から目を逸らした。内にいる霊とは、神から息吹を受けており、神の一部でもあるのだ。それを引き出せない以上、まともに目を合わせている勇気がなかったのだろう。
言葉を詰まらせると「早く衣をすり替えてしまえ!」と声を軋ませた。
すかさず四人の兵士がやってきた。有無を言わせず、汚れたバラバの衣と神の法衣を脱がせて取り替えていく。
「どうだカシウス、妙案だとは思わぬか。これでイエス・バラバとナザレのイエスの区別がつかぬであろう」
ピラトは息を荒くさせたまま、カシウスにぎこちなく笑いかけた。バラバだけに流し目を送って、神を見ようともしなかった。
しかしカシウスは「どうなのでしょうか。私には一目で、憎い男と、そうでない男の区別はつきます。だからこれだけでは、見る者が見ればすぐに分かってしまわれるかとも――」と、曖昧な言い方ながら否定した。
返答は、ピラトの顔を青ざめさせた。
「なら、どうせよと?」
「イエス・バラバの顔と、ナザレのイエスの顔を鞭で傷つけるのでございます。そうすれば、たとえ身近の人間であっても区別がつきかねます」
ピラトと違ってカシウスは、かなり内の霊を引き出していた。引き出していればこその苦渋の進言、バラバには痛いほど理解できた。
バラバと神は、石段を降りた広場に連れて行かれた。捕縛された次の日に、バラバが情け容赦なく鞭で打たれた場所だった。椅子と卓が設けられ、卓の上にはさまざまな種類の拷問道具が並べられていた。
「そなたは、相当バラバが憎いのだな」
ピラトの問いかけに「さて、どうなのでしょうか」と、カシウスは否定も肯定もしなかった。ただ「私以外に、決して彼を殺させません」と、語気を強めた。
バラバもまた「この男に、殺されるのが運命なのかもしれない」とさえ、思いはじめていた。カシウスも、ルシフェルから自分の弱さを焙り出されて覚醒されたのだから。でもバラバと同じで、人を殺めた罪はどこかで償わなくてはいけない。それも自分の死をかけて。
砂利の上に神と並んで寝かされた。兵士の足音がする。しゅっと空気が切り裂かれると、乾いた音がして顔に強烈な激痛が走った。頬に当たって撓った鞭が、弾かれて蛇のように揺らいで行きすぎた。
痛さを噛み殺す間もなく次の鞭が飛んできた。口を閉じてほとばしる悲鳴を堪えるが、つい身体が反応してしまう。打たれるたびに足がぴくぴく痙攣した。
仰向けで顔に鞭を受けるというのは、恐怖心が先立つものだ。それに背中や手足と違って痛みが直接頭に響く。筋肉を強張らせて痛みを和らげることもできないし、そのままの打撃をそのまま受ける無防備な箇所だ。
五発目で目がかすんだ。意識を遠くさせると、同じように鞭を受けているはずの神が、悠然とバラバの心の中へ話しかけてきた。
「わたしは、そなたがルシフェルと約束をする前に、それほど人間が気になるのなら、一度、人間になってみよと伝えた。弱さを知らねば、強さなど無力だからである。そうしたらルシフェルは言い返してきた。あなたが先になるべきだと。そこでわたしは一計を案じて、元々そなたしか生まれる予定でしかなかったのに、双子として人間になった。ただ、アッバスが取り間違えたのが誤算であったが」
言葉に引きずられて絵が浮かんだ。鞭は続いているが痛みを忘れていく。別に神が操作して、無痛にさせているわけでもなくて麻痺しただけだ。
「支配する者と支配される者、わたしが選ぶのはこの時代でしかなかった。十字架上の処刑によって、支配されるユダヤ人がどう動くか、また今後、支配する者たちにどんな変化が起きるのか見ものである」
鞭を支配する男の声が、遠くに聞こえた。「いいだろう、もう充分だ」
ずきずきと、鼓動に合わせて頭に痛みを知覚した。首すじにぬるっとした感触がある。それを手で拭おうとしたら血の霧で視界が赤くなった。広場へ連れて行かれても民の顔が赤く滲んでいた。
神の、バラバへ投げかける心の声はとまらない。二人の別れが近づいたからなのだろう。それがたまゆらなのか、永遠なのかは分からない。けれどバラバの行き先は贖罪の道だ、天に戻らず地に堕ちる。二度と会うことはないとも感じていた。
「我が子よ、生きてミズホラへ行くのだ。やはり、わたしが死ぬべきだ。ルシフェルとの約束を果たすがよい」
「なりません。もう、いいのです。生き残ったことが前提ですから、ルシフェルも分かってくれるはず。そんなことよりも、人類に神殺しの烙印は押させられません」
神を殺させてはならない。
ギメルとヨハネとアッバスの顔が懐かしく甦る。それと共に沿道で佇む、ミカとサラ、ユダの顔も浮かんだ。かけがえのない宝を、理屈でなく身を持って教えてくれた人たちだった。
「喜べ、イエス・バラバ。お前は盗賊ではなく、ユダヤ人の王として死ねるのだ」
夜が明けていた。処刑の開始を告げたピラトは、バラバの背に皮肉を浴びせてきた。すでにイスラエルの要望に応じて、バラバと入れ換えた神を釈放していた。
「あなたはナザレのイエスから真理を教えてもらったが、では私が、隠された真実もついでに教える。ナザレのイエスは神の子ではなかった。神――そのもの、だったのだ」
石段の途中で振り返って言った。
「ナザレのイエスが、神だと? ふふ、ユダヤ人は死の直前まで笑わせてくれるわ。だとしたらさすが辺境の地だ。ローマの生きる神、皇帝とは雲泥の差だ」
「英雄と神は違う。しかもローマの皇帝は汚れた英雄。比べようにも、比較するものがないくらい低次元の対象だ。強いて言えば屍肉を漁る烏か」
「ふん、それにしてはユダヤの神の微力たるもの滑稽だ。その烏に振り回されて、阻止する力もなかったではないか」
「そう思うかピラト。歴代のローマ皇帝は、果たしてどのような死に方をしたのか。力で勝ちとった権力は力で滅ぼされる。後ろ盾であったセヤーヌスも暗殺されたであろう。あなたもどうなるか分からないぞ。私には見える」
「な、私も殺されるというのか……」
思い当たる節があるみたいだった。そのせいかピラトの身体がふらっと揺れた。かなりの衝撃を受けている、
「イエス・バラバ。ナザレのイエスが言っていた真理とは、どうやって引き出す……」
目を泳がせて聞いてきた。逃れたいと切望し、不安から藁にでも縋りたい気持ちなのだろう。
「生きざま、それがすべてだ」
カヤパと変わらない、自分よがりで日和見主義的なピラトの生き方。それを指摘すると、再び背を向けた。痛みのためよろよろしていたが、一歩ずつ降りていく。
「待ってくれ、バラバ。あなたは何者だったのか――」
「人の子だ」
肉から引き出された声が言った。
無から自然に生じたわけではない。神の子もルシフェルも人間も、みな神の創造物、すべて神の息吹を内に秘めている。ピラトだって、引き出せずに方向を見失っているだけ。
「行こうか、イエス・バラバ」
石段を降りきると、カシウスが小さく目礼をしてきた。ぶっきらぼうのわりには、やけに人を思いやる感情が流れ込んでくる。
カシウスの一つしかない瞳が、人情味溢れたギメルそっくりになっていた。気がつくと、赤く閉ざされていた視界がひらけて青空が覗けている。
私は人々を救えなかった。でも最後に一人の人間を変えた。そのカシウスが、新たにまた別の人間を変えていけば、確実に輪が広がる……。
信じよう。バラバは広場に置かれた角材を担いだ。澄んだ空にくっきりと浮かび上がるゴルゴダの丘、処刑場へ向かって大きく足を踏み出した。
「また、いつか会えるか?」
気の遠くなるような未来のことを、カシウスがはにかむようにして聞いてくる。
魂は縁で繋がれ、そこへ新しい生命を運ぶ。肉の心と魂が清らかに同化するまで、何度も。敵視だって試練、もし来世があるのなら友かもしれない。
「ああ、会える」
短く洩れた言葉は、さわやかな風に乗ってゴルゴダの丘へ流されていった。
了
おかげさまで『バラバ』を書き終えることができました。
稚拙であるのに、読んで頂けた方に心から感謝します。ありがとうございました。
この作品は、イエス・バラバが父の子と呼ばれているのに、多くの福音書や映画では単に盗賊としか描かれていないことに疑問を感じたことがはじまりでした。
大天使ルシフェルに関してはミルトンの『失楽園』をベースにして、自分なりのオリジナリティを出したつもりです。
マグダラのマリアも福音書では娼婦と蔑まされていますが、復活の後にフランスへ逃亡します。そこにはアリマタヤのヨセフの存在が見え隠れしていました。ポイントして『マリアの福音書』を押さえましたが、実像とはかけ離れているかもしれません。
ユダもそうです。謎の多い人物ですが、単なる裏ぎり者ではないと確信していたので視点主人公として葛藤させました。
アッバスとギメルとミカとサラは、創作上の人物でしかありません。ただ、彼らには感謝しています。
そして、それ以上の感謝を、読んで頂けた方に感じています。
心から。