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バラバ  作者: 鮎川りょう
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8章 エルサレムへ

 8章 エルサレムへ

       1

 ガリラヤで熟した熱い波は、南下し、勢いを増してエルサレムへ押し寄せていく。民の熱視線はその中心であるイエスに注がれた。

 ときの大祭司カヤパが業を煮やす。

 カヤパは、圧政下のエルサレムでユダヤ人を支配するアンナス一族の入り婿である。エボデと呼ばれる高価な法衣に無数の宝石を鏤めていたが、貧相な男でもあった。

 そのカヤパの眼前でイエスは事件を起こした。

 イエスを先頭に、ユダを含めた十二人の弟子たちが秋の仮庵祭にエルサレムを訪れたときである。

 度々聖地入りしては民に数々の奇跡を見せたことにより、すでに要注意人物として一挙手一投足を警戒されていた。それなのにイエスは、宮潔めと称して神殿内で商売する者たちを追い出したのだ。両替商の机をひっくり返し銀貨を散乱させた。

「ここを強盗の巣にさせてはいけない。ここは、わたしの家である」と宣言し、さらに「わたしが、それであり、わたしを信じるものは、永遠に渇かない」と言い放った。

 きっと胸のすく思いだったのだろう。民衆は心から称えた。

 逆に苦々しさを抑えきれないカヤパが、イエスへ迫る。

「ナザレの者よ。お前は銀貨を路上にばら撒いたが、それは、ローマに税金を納めてはいけない。と言っていることなのか」と、手に持っていた杖で敷石を強く突いてきたのである。

 ユダは、このカヤパ、中々の策士だなと思った。

 なぜなら行為を咎めず、矛先をローマへすり替えたからだ。じつに巧妙だと感じた。「納めるな」と言わせれば、ローマへの反逆罪が実証させられ罪人としてピラトへ引き渡すことができる。逆に「納めろ」と言わせたら、民衆の敵となりイエスの立場は失墜する。

 どっちに転んでもイエスの信用はなくなり、カヤパの地位と名誉が安泰となる。

 だが、カヤパはイエスを知らなすぎた。姑息な策略が、そのまま自分にはね返っていたのに気がつかなかった。

「この銀貨に描かれている肖像は、誰の者であるか」

 イエスは、とつぜんカヤパに質問を投げかける。カヤパは面喰う。予想外の問いかけに真意が読めず慌てる。が、群集の面前である。答えぬわけにはいかない。

「そ、それはカイサルである」と、返すのが精一杯だった。

「ならカイサルのものは、カイサルに返しなさい。しかし神のものは、神に返さなくてはいけない」

 見事だった。形としてはローマの貨幣であっても、中身は民の汗による結晶なのである。神を賛美しつつローマを拒絶した。しかも咎められることなく崇高に。

 これ以上の回答はないのだろう、カヤパは逃げ出した。しかしそれによって、改めてイエスを最大の敵として定めた。

 なぜなら大祭司を選ぶ権限はユダヤ総督ピラトにあったのだ。もし反乱でも起きようなら、たとえカヤパであっても解任される危険性を大きく孕んでいた。この瞬間、その地位を脅かすイエスを、カヤパはどうあっても赦すことができなくなった。

 シオンの丘にそびえる宮殿風の大邸宅。カヤパの屋敷内で緊急の議会が開かれた。決定すべきことは、近づく過越祭、憎きイエスの十字架刑でしかなかった。

       

 

 そんなエルサレムの喧騒をよそに、ガリラヤ湖近辺で活動を続けるイエス一行から離れ、ユダはマリアと一緒にベタニアへ向かう準備をしていた。暦は三月、過越祭までは十日を切っていた。

 マリアは、弟のラザロが寝込んでいると聞いて気が気でないらしい。病名は分からないが、床から起き上がることもできないという。話しかけても無表情で、ひどく虚ろみたいだ。細くて小さな身体が、いっそうか細く見えると嘆いた。

「だったら、私も行こう」

 イエスに同行して三年、一度もラザロと会っていなかった。それにエリコでザアカイと会談し、その足でエルサレムへ行く用事があった。

 ユダに限って、他の弟子とは違う秘密裏の行動をとることが非常に多い。というのもヨハネのときと同様に、一派の会計、資金調達を一人で担っているせいもある。

 そればかりではない。ユダを除いて他の弟子たちは、ほとんどがガリラヤ出身者。エルサレムの事情をよく知らない連中である。しかも漁師が多く、有力者の繋がりがこれといってない。

 八日後に控える過越祭、イエスは真正面からの入場の決意を示していた。だからユダが、交渉役として抜擢された。これは一種の革命である。警固も含めて準備しなくてはいけないことが山積していた。

 ユダは荷造りもそこそこに、マリアとベタニアへ急いだ。

 空は青く、日は高かった。二人を照らす影が真下に小さく映る。ロバの背にマリアを乗せ、自分の影だけを踏みしめてユダは歩いた。

「ごめんなさいね、ユダ」

 とつぜんマリアが淋しそうな表情を見せる。

「何のことだ?」

 旅に同行することなのか、過去の古傷なのか。いろいろありすぎて、それが何を指しているのかユダには読みとれない。

「ヨハネとバラバのことです。きっとラザロの病気も、ヨハネの死の後遺症……」

「違うだろう。マリアがイエスから洗礼を受けたのも、私が弟子になったのも、ヨハネの選択肢の一つだった」

 ユダは着々と事を進めていくイエスに、最近ある種の感慨を受けていた。イエスは上から目線でユダに接するが、金とか女、権力、そういう小人の欲がない。

 また、ヨハネとバラバをことあるごとに貶していたが、それも組織を一つにまとめあげるためのイエスなりの方便、と思い直している。行き違いはあったが、突きつめれば民の解放、ヨハネとバラバと思いは変わらなかった。

「でもラザロは、ユダとヨハネとバラバ、三人で過ごした時間だけが至福らしいのです。だからラザロは、今を生きていない。思い出の中に閉じこもって生きています。救えるのは、もうユダとバラバしかいません」

 マリアが悲痛に見つめ返してくる。が、少年時代。それはユダにとっても今も変わらない大事な宝だ。

「確かに、それぞれ別の道を歩んでいる。だが絆は消えていない」

「ありがとう。ラザロにしてみれば、あなたたちが温もりなのです。同じ時間を共有したことだけが幸せなの。それだけ、あなたたちに強い影響を受けたのね」

 マリアがしみじみ言う。「心の病気です。心を患わせて、徐々に身体を蝕まわせていきました」

 言い終えると、マリアの長い前髪はヴェールから垂れ、その都度ぱらりと唇にかかる。それをさりげなく白い指で耳の後ろに掻き上げる。巫女でありながら人妻、ひどく官能的な仕草だ。どことなくユダが忘れていた懐かしい温もり思い出させた。

 すぐにそれが、陵辱されて殺された姉だと分る。

 マリアの、少女から大人になっても変わらぬ目鼻立ちと仕草。ユダは息苦しさを覚え、そっと自分の心を覗いてみた。

 わずかに小さな青空が見える。

 少年時代なのだろう。そこには姉が生きていてギメルもいた。その隣で笑い転げるバラバとヨハネ。そしてユダにじゃれかかるラザロがいた。みんな暖かく懐かしい温もりだ。

 いつまでも消えないでほしい。

 なぜだか急に理由の分からない涙が目から溢れてきた。そうして少しずつ青空が広がっていく。見ると涙の先で、少年たちが必死に闇を取り払っていた。

       

 

「昨夜、数年ぶりに、ルシフェルが夢の中に現れました」

 カペナムから、ナザレを抜けて二時間が過ぎた頃だった。マリアが憂いの表情を覗かせる。

「ルシフェルが?」

 理由は分からないが表舞台から姿を消して久しい。「ほんとうにルシフェルなのか」

「私が、ルシフェルの声を聞き間違えるわけありません」

「聞き間違える? 見間違えるではないのだな」

「ええ、夢のルシフェルは声だけでした。『大事を成し遂げたら、アリマタヤのヨセフを頼って他国へ逃げろ』と、伝えてきたのです」

 マリアが慈しむように腹を撫でた。

 その仕草? まさか……子を、身籠っているのか。ユダは驚きを隠せない。

 それにしてもルシフェルは、どうして逃げろなどと言うのか。逃げろというからには追う人間がいて、かつマリアを守る人間が身近にいないという答に結びつく。

 そもそも誰に命を狙われるのか。また、その理由は?

 ラザロの純な顔が消し去られ、ロバの手綱を引くユダの手が一気に湿っていく。

「しかしルシフェルのことだ。逃げろとだけ伝えたわけではないだろう」

 ユダは詰問口調で聞く。

「興味がありそうなので、言います」

 マリアはロバの首筋を撫でながら答えた。「ルシフェルは、イエス・バラバにも油を注ぐ用意をしているのです」

「何だと、嘘だ!」

 ユダは愕然とした。ルシフェルが、どうして急にそんなことを言い出すのか本心が掴めない。

 バラバが油を注がれるのは願ってもないこと。しかし時代はすべてイエスに向かって流れている。なのになぜ今さらバラバなのだ。まったく意味が分からなかった。

「もっと詳しく聞かせてくれないか。ルシフェルは理由を言ったはずだ」

 ユダは、マリアに詰め寄った。

「でもユダ、言えば、きっとあなたは私以上に悩むでしょう」

「かまわぬ、言うのだ。言わなければ、私は一歩も動くことができない」

 そう言ってユダは、ロバを棕櫚の木の幹に繋ぐと、近くの岩の上に布を敷いた。マリアに座れと促した。

 マリアはユダの手を借りてロバから降りると、腰かけた。だが話さず、ユダをじっと見つめている。

 ヴェールが風になびく。マリアは、ヴェールからはみ出す前髪を指で掻き上げるようにして押し込むと、ようやく言った。

「ルシフェルは、神からの光をすべて私へ伝授したわけではないのです。もう一人に、残りを託しました」

「それは誰だ?」

 マリアは言葉少なに続けた。

「私にも分かりません。ただ、時がくるまで、その女性をヨセフが庇護しているようです。そして油を注ぐのは、どうもヨハネの願望らしいのです」

「それは異だ。ヨハネは天上へ昇ったのであって、天上へ行けぬルシフェルとは、接点があるはずがない」

「それがあるのです。上昇した人間の魂は、再び地上に舞い降り、人間を見守ることができるのですから」

「だったらヨハネは、我らが気づかぬだけで近くにいて見守っているというのか」

「かもしれません。ルシフェルは、霊のことをもっと知らなくてはいけないと前置きしてから、私に質問を浴びせ、そのうえでヨハネの伝言を教えてくれました」

「質問?」

 何の質問だ。ユダが知っているマリアの今後は、イエスをメシアとして確立させること。その後メシアの意思を継いで布教に励むことではないのか。それらすべてを知っているはずなのに、この期に至って、いったいルシフェルは何を聞き出したいのだ。

「まずメシアとは何か? 次に、十字架を背負う意味は? と、立て続けに問いかけました」

「マリア、あなたはその質問にどう答えたのか。して、ルシフェルの返答は」

 ユダは忙しなく聞く。

 反してマリアは漠然と視線を空に合わせた。しばらく眺めてから、およそ似つかしくない鋭い目をユダへ当ててくる。

「答える前に、ユダ、あなたの考えを聞きたいと思います。というのも私より、あなたのすべきことのほうが難しくて勇気が必要だからです」

 なぜだ、なぜ答えずに、逆に難解な投げかけを振ってくる。ユダは不快な気持ちを抱きながらも言葉を返す。

「まず最初の質問だが、メシアとはマリアに油を注がれし者のことで、またダビデの血筋でもあり、イスラエルに救いを齎すことを言う」

「それだけなのでしょうか。それでは一般の民衆と、まるっきり大差のない答と思われるのですが」

 マリアは、あきらかに不満の表情を見せた。

 その通りだ。ダビデは神に愛された王であったが、単に人間の王でしかない。つまりダビデの血筋なんてユダヤ人から見れば大事であっても、神の側から見れば少しも重要でないのだ。

 なら、油の意味は? ユダは考える。

 そうか、光か。ルシフェルは光を運ぶ天使であったし、マリアはその光の伝授者。だからマリアの塗油には、洗礼と同じで特別な意味がある。すると肝心なのは次の質問の解釈だ。

「どうやら、神から光を伝授された者の塗り油を理解していただけたようです。でも問題は、その後メシアとなった者の試練です」

 マリアが、ユダの表情を見越して言った。ユダは答えた。

「十字架刑、しかない」

 十字架刑とは最たる残酷な儀式である。手足に釘を打ち込まれているため痛みはひどく、その傷に蝿がたかることもあろうし、烏が肉を突きにくることもある。最低三日は放置され、自然に命が尽きるまで延々と処刑は続く。飢えと痛みばかりか、心を苦しませることに刑の意義があった。だが同時に見せしめでもあるのだ。

 ユダに見える、その柱の数は三本。顔ははっきり見えないが、おそらくバラバだと思っている。というのも十字架刑は、あくまでもローマ式の処刑でありローマが行うからである。

 また、ローマ側にとって心底憎いのはバラバであってナザレのイエスではない。だからカヤパがどれだけ懇願しようともピラトが同意するはずがない。

 けれど、私はバラバを殺させない。ナザレのイエスを十字架刑にさせるのだ。見届けたら自分も死ぬ。それが生きてきたことの証しになる。

「ルシフェルは、私に言いました。『イエス・バラバは、ユダヤに救いをもたらすメシアが現われれば、それで使命が終わりだと思っている』と。さらに『大いに勘違いである。どちらか一人に十字架を背負わせ、残る一人を永遠の伝道者とさせる』と、告げました」

「ちょっと待て、意味が理解できない」

「そうでしょうね、私も意図が読めませんでした。ですがルシフェルはミズホラへ、と言いました」

 ミズホラ? それは神の民が住むと言われる、東方の日いづる国のことなのか。

「有り得ない」ユダは否定した。

「なぜですか?」

 マリアが言い返す。「古来より、イスラエルの民はそこを目指して旅立っています。どちらかのイエスが向かっても、何ら不思議ではありません」

 世界の果てか。ユダにはぴんとこなかった。思考を錯綜させているとマリアが岩から立ち上がる。

「遅くなりますから、先を急ぎましょう」

 歩き出すと、ラザロの無垢な瞳が浮かんだ。ユダには、何か大切なものを教えたがっているように思える。

 

       2

 

 キデロンの谷一帯は不衛生で、変わらず糞尿の臭いを漂わせている。バラバが率先して用便のための溝を掘り、排泄のたびに土をかけろといっても自然な行為といって意に介さない。

 稀に日干し煉瓦を積み上げた家も、棗椰子で葺いた屋根から泥が染み出し、それが一層惨めさを増す。

 輸送隊を襲撃し貧しい民に還元しても何も変わっていないのが現実だった。やはり人を変えるにはいっときの食の施しではなく、心の変革。それか悪の中枢に入り込んで、指導者を洗濯しなければいけない。

 バラバは視線をシオンに向ける。名ばかりの聖地だ。

 見よ、寒いのに皆裸足だ。サンダルなど履いている者などいない。サンダルを買うなら、足の痛みを我慢して食料を買う。だから谷の子供たちは慢性的な栄養失調。あきらかにシオンの子らと比べ腕や足が細い。

 ああ、差別の上にふんぞり返る者たちよ。お前らは、いたずらに姦淫を繰り返すばかりで貧しい民を見すてた。

 嘆き、バラバは石段を降りる。谷底の隠れ家へ向かった。

 人気の途絶えた谷の外れに半洞窟の建物がある。そこが隠れ家だ。バラバは扉を開けた。いつものことだが、ぷーんと異臭が鼻を衝く。ここは神殿で生贄になった子羊の皮をなめおろす、工場でもあるのだった。熱心党を離脱したバラバの生業になっている。

 しかし皮肉なことに、働けば働くほアンナス一族に利潤が転がり込む仕組みになっていた。エルサレムで生きていく限り、何をしても彼らの利益に直結しないものはない。

 不条理だ。けれどそうしなければ貧しい人たちに何も還元することができないのも事実だった。またヨセフの頼み、無下に断るわけにはいかなかった。谷の住人に仕事を分け与える利点もあったし、ミカとサラを捜し出すまで、どんなことがあってもエルサレムを離れるわけにはいかない事情もある。

 それにしても臭い。採光用の窓を開け放していても換気が悪いせいか、血の臭いと死臭はいつまでも消えない。壁という壁、家具という家具すべてに臭気が染みついていた。

「先ほどから、アリマタヤのヨセフどのがお待ちです」

 入るなり、イリヤから言われた。

 イリヤはベトロホン行きを撤回してまでも同行してきた。激しい性格だが、情けは厚い。どちらかというと、若い頃のギメルに似た熱血漢である。

 連れてきたのは五人。そのうち三人は工場で働き、残りの二人はヨセフに頼んで、カヤパの屋敷で雑役に従事させている。羊皮を仕入れに行くときに情報が交換できるようになっていた。

 だが、ヨセフの姿はどこにも見当たらない。

「ここは、なにぶん臭いゆえ、隣の工場に案内しております」

 イリヤがしたり顔で話す。

 案外、気配りを心得ている。しかし絶えず胸に短剣を忍ばせている。もしもの場合を憂慮し、常備を許してはいるものの使わずにすごせればと願わずにはいられない。できれば剣をすてさせ、まともな生き方をさせたい。

 けれど彼らは、何を置いてもバラバを信じている。バラバのためなら命を捧げようと決心している。十五年前に伝えた激を、今もって胸に刻んでいるのだ。それだけに無為に命を落とさせたくなかった。

 大きな嵐を起こせぬまでも波を立てることはできた。ローマの意識を熱心党だけへ向けさせることには成功した。今後、弟がエルサレムに入城してきても騒ぐのはアンナス一族だけだろう。ローマが弟へ殺意を向けることは絶対にない。使命は果たしたのだ。

 だったら強制的にベトロホンへ行かせるべきだったのか。

 しかし彼らは、バラバを知った時点で命をすてていた。だからこそ覚束ない足どりで、あの逃避行の中を必死に追いかけ、移住を決めてもベトロホンで暮らすことを拒んだ。

 バラバは考えることをやめた。

 やがていつかは戦わずに生きる時代がやってくる。剣など無用になるときがくるだろう。そのための捨て石。自らの命とともに彼らに対しての情けをすてた。

       

 

 隣へ向かった。

 ここでは地域に暮らす女性たちが二十人ほど働いている。イリヤたちがなめした皮を、製品に仕上げて城下町へ売りにいくのだ。衣料や革袋などの縫製をしていた。

 正面の扉を開けると、入り口付近にいた若者がはたと一瞬身がまえた。すぐにバラバだと確認をして、ほっと笑顔を弾けさせる。ナジル二十四才、ラザロ似の純な青年である。

 その横にいたヨセフが、バラバを見て表情をほころばせる。つかつかと歩みよってバラバの手をとった。

 厳つさを残したまま、老境に差しかかったという感じであろうか。どことなく父アッバスに風貌が似ている。晩年の父よりも全体的に大柄で、髪の毛もずっと白い。ギメルの言うルシフェルと共通する匂いもあるが、父により近い。

 バラバは丁寧に食卓へ誘導させ、ヨセフを椅子に座らせる。外は明るいのに室内は薄暗い。ナジルが真鍮の燭台を持ってきて明かりを灯した。

 ヨセフが感慨深げに話し出す。

「たった今、ベトロホンから馬で来たのだが、ギメルの変わりよう、このヨセフ、驚きましたぞ」

「如何様に、でござりましょうか」

 丁寧に言葉を返すバラバは聞き上手でもあった。寡黙と錯覚していたが、そのじつ聞き上手であっただけなのだ。今でも相手の話をよく聴き、たとえ年少の相手でさえ自分よがりの話に終始することはなかった。

「あなたも知っての通り、ギメルは、わしの末娘と一緒に暮らしております。が、どうやら二人に子が授かったらしいのです。それが好影響を与えた。責任感がより芽生えて、施設を見事なまで統率し、若者たちの立派な教師になっておる」

 ヨセフは顔に満面の笑みを浮かべた。ギメルの成長を我が子のごとく喜んでいる。

 一般的なユダヤ人の結婚は、たとえ婚姻の契約を交わしてもすぐに暮らすことはできない。一定期間別々に暮らし、そのうえで愛を深めなくてはいけないのだ。むろん身体を交わってはいけない。

 親が子供の結婚相手を決め、子供が従う。親の意思がそれだけ絶対だということである。だが、二人は婚約と同時に暮らした。ヨセフは有識者でありながら、それにまったく当てはまらなかったようだった。ただの有識者ではないからだ。無防備に破顔する目が証明していた。

「ギメルが、父に?」

 知らなかった。が、よいのですか……と言葉を濁した。

「なぜ?」ヨセフがバラバを見返してくる。

「まず、失礼があったらお許しください。いつも疑問に思っていたのです。援助ばかりか、ご家族で行う献身。いささか度を越しているように思われます。なぜ、これほどまでに我らを支えてくれるのでしょう。ぜひとも理由を、お教え願いたい」

 本心なのか、それとも操られているだけなのか、ルシフェルの真意も聞き出したかった。

「うむ。じつは、いつかは話さねばとずっと思案していた。ならば、ちょうどよい、話しましょう」

 ヨセフは椅子から立ち上がり、両手を腰の後ろへ持っていくと歩き、思いあぐねるように蝋燭の火を見つめた。

「贖罪と、考えてくださらぬか……」と、ぽつりと話す。

「贖罪と? それは、謎に包まれた半生のことでしょうか。あるいは二心を持っているとか」

「二心? それには答えたくないが、不満ですかな」

 ヨセフは決まり悪そうに言った。

「いいえ、ただの憶測です。気に障ったらお許しください」

 バラバは謝罪した。でも二人の間に横たわるルシフェル、そのことを抜きにして、これ以上素通りすることはできない気もしていたからだ。

 ヨセフは重い沈黙のあと、ようやく押し殺した声で話す。

「わしが貿易をするようになったのは、今から三十年以上も前のことだろうか。ちょうど満天の星が輝く晩であった。そのとき、とつぜん空から一粒の光がこぼれてきたのだよ。いや、注がれたというのが正しいのであろうか、以来わしは事業に成功し続けた」

「ローマ相手の貿易ですね」

「その通り、あなたに隠し事はできぬようです。では、正直に申しましょう」

 ヨセフは真顔に戻すと、遠い記憶を探るかのように再び燭台の灯りを見つめた。「今でこそ海運業をしているが、それ以前は、ギリシャ、ローマ、ヒスパニアと、地中海を股に駆けた海賊であった。あなた以上に殺戮を重ねてきたかもしれん。でもある日を境に、すぱっとやめた。たぶん二十七才だったと思うが、ユダヤの空に弾けんばかりの星が集まった。わしは甲板から不思議な思いで空を見上げていた。そのときなのだ、書物の世界にしか登場しない天使が舞い降り、光を注いできたのは……」

 ヨセフが潤みを隠すようにして目を閉じる。

「その、天使の名は?」

 バラバが声を荒げると、イリヤともう一人の若者が、扉を開けてすっと入ってきた。聞き耳を立てながら奥の部屋に消えた。

 そこへ、なぜか離れた所で耳を傾けていたナジルが「我らも、天使に救われました。きっと同じ天使かと――」と、不意に感情を乱して叫んだ。

 開け放たれた奥の部屋からも、イリヤたちが仕事の手をとめて一斉にヨセフを見た。身体を迫り出してくる。

 まさか……? 皆の眼差しを見て、胸が狂おしいほど高鳴った。ヨセフと、この若者らのすべてが、ルシフェルに導かれて自分の元へきた。

 ヨセフが戸惑い、続く言葉を躊躇っている。

「かまわぬ、続きを話すがいい」バラバはナジルに言った。

 ナジルは、我が意を得たりとばかりに話し出す。

「イリヤも私も、皆もそうなのですが、前途に絶望して死のうとしたとき天使が舞い降りてきました。『死んではならない! じき、もう一人のメシアに会えるから従うのだ』と。私らはギメルに拾われたのではなく、あなたを待ち望んでいたのです。だからヨセフどのの話を聞いているうち、間違いなく同じ天使だと思いました」

 ナジルは同意を求めるようイリヤらを見る。それぞれが、思いの詰まった頷きを何度も繰り返した。

 ヨセフが、しばらくの間を置いてから言った。

「ふむ、して、その容貌は――」

「肩まで垂らした金髪は優雅で知的、そのうえ勇ましくもありました。残念ながら瞳は見返すことはできませんでしたが、おそらく大天使ミカエルかと」

 残念だが、違う。確かに、挫けた人間の心を鼓舞するのはミカエルの特性だろう。が、ミカエルは最も神に似た天使である。

 すると、不意にヨセフがイリヤとナジルら三人を手招きした。間近で諭すように言った。

「人と人との繋がりが妙であるよう、人と天使の繋がりも奇妙な縁で結ばれておる。そなたらと、わしを救った天使はミカエルではなくて、ルシフェルなのだよ」」

 イリヤとナジルらが顔を見合わせる。天使がルシフェルと聞かされ気の毒なくらい憔悴させている。イリヤが唇を噛んで、折れかけた心を繋ぐかに言い返してきた。

「きっと、そうなのでありましょう。しかし彼から、悪意が感じられませんでした。ルシフェルは、皆が言うような堕天使ではないと直感させられました。というのも我らは一度死んだ身なのです。その運命を正しい方向へ、新たに導いてくれたのですから」

「うむ、ならば二人も、わしの話を聞くがよい」

 イリヤの思いを聞いて何か期するものでもあったのか、ヨセフは部屋中に響くよう話し出す。

「二心を抱いたことはないが、確かに、わしの心にはルシフェルが憑依している。でも操作されているわけでもないし、する気もないようだ」ヨセフは、そう前置きすると改めて懐古し出した。「船の上で天使は言った。『財力を蓄えたら、ユダヤへ戻ってメシアを捜し出すのだ。幕引きに備えよ』と。わしは、はて何のことだろうと不思議に思ったのだが、肯けるものがあった。なぜならわしの胸には、生まれたときから奇妙な痣があるのだ。一つの星に寄り添う三つの小さな星。この目で確認したが、ギメルの胸にもやはり同じ痣があった」

 えっ? と、皆がどよめき、ヨセフの胸に視線を向ける。

 逆にヨセフは、バラバの胸に鋭い目を当て表情を窺ってきた。バラバは慌てて衣を正す。

「今さら隠さなくても、初めて会ったときに確認しておりましたぞ。ナザレのイエスにはなかったので愕然としましたが、ベタニアに、もう一人神の子がいるとニコデモから聞き、小躍りしたのを思い出す。そして十六年前、あなたがアッバスどのを癒しているとき、わしは群衆の中にいたのです。はだけた胸から主たる痣が覗けた瞬間、わしは言葉を失い、全身を感激に濡らした」

 ヨセフが、バラバの前にゆらゆらと進み、その足もとに跪く。当時の記憶を完全に甦らせているのか、枯れた頬に青年のような赤味が差していた。

 それを見たイリヤたちも、続々と跪く。作業をしていた女性たちまでもが、一心に胸の前で指を組み出した。

 部屋の中は、うねり返る慈愛でしっとりくるまれた。沈みかかる夕日がやけにきれいで、谷底の町を茜に染めた。今日に限り、闇の訪れはないようにも思えた。

       

 

 イリヤたちは作業場の片づけに戻り、女性たちは家路へ急いだ。平穏な一日の終わりである。なのにバラバの頭には十字架の風景がもの悲しく通りすぎていく。

 ヨセフが察して、肩に手を置いてきた。

「わしは、あなたとルシフェルの約束を知っております。それにはまず、失われた伴侶を捜し出さなくてはいけません」

「どうして、それを?」

 バラバは、ヨセフの中に初めてルシフェルを見る。

 儚い約束。それは、まずバラバが人として生き、次にルシフェルが、自身が光を注いだ女性の子として生きる。いずれにせよマリアかミカの胎内に命を宿らせることになる。

 が、約束は果たせそうもない。

「残念ですが……」

 バラバは詫びてから「まだ隠していることが、あるはず」と、一縷の希望をつなげた。

 いると予測される癩の谷へ、毎日のように捜しに行っている。それなのに捜し出せない。

「巡り会うべき人と、巡り会えないほど空しいものはありませんからな。だからといって希望をすててはいけない。この意味が分かったら、これを満足といわずに何と表現できようか」

 ヨセフが返答を曖昧に濁すと、日は完全に沈み、谷底の町を黒く塗り潰す。だからといってバラバは希望を沈ませたくなかった。

       

 

「ところで、これからわしはカヤパと会う予定ですが、どうでしょう。一緒にシオンへ行きませぬか」

 ヨセフが意味深な言葉を放りかけてくる。

「あなたと一緒に、カヤパの屋敷へ?」

 バラバは耳を疑った。今エルサレムはイエスの話題で持ちきりだったからだ。熱狂しているといってもよかった。

 特に奇跡の評判。病人を治すばかりでなく死人をも生き返らせた。人の心から悪霊を取り払い、湖面を歩いたともいう。一目、是が日でも見ようと行く先々で人が集まっているらしい。

 それは、モーゼの律法を第一とするカヤパから見れば大問題だった。一つには、取り巻く民衆の多くが弟のことを主と呼んでいるからだろう。

 ファリサイ派ならずとも主とはただ一人である。せっかく、ここエルサレムからバアルを追い出したのに、またもや新たな教祖が現われたとしか考えられなかったに違いない。

 その心に追い打ちをかけるかのよう、バアル神の巫女マリアが弟子として控えていた。熱心党員だった者も数多くいる。それは先鋭的ユダヤの民とバアル信徒たちが、弟の元へ集結したという周知の事実でもあるのだ。

 噂だと、一行が神殿で諍いを起こしたとき、カヤパはすぐさま神殿兵とヘロデの兵を動員して追いつめたらしい。が、弟は嘲笑うかのように逃げる。けれど逃げながらも説教は忘れない。カヤパの憂うつが憎悪に変わっていく。

 熱心党単一なら好まれずとも、ローマ以外から恨まれることは皆無だった。だからといってエルサレムの町を大手を振って歩いたことはない。お尋ね者に変わりはないのだ。城外の村や谷は別として、町中を歩くのは羊の皮を引き取りにいく必要があるときだけだった。

 名前を伏せているせいもあるのだろうが、今まで疑われたことは一度もない。取引相手が、よもや熱心党のバラバだとだとは思ってもいないせいもある。それもすべてヨセフの信用のお蔭だ。

 だが、場所がカヤパの屋敷であれば別問題だと思う。アントニオ城と正反対の位置にあるとはいえ、ローマと繋がっている者もバラバを快く思っていない者も少なくない。もし露見すれば、バラバのみならずヨセフの身に危険が及ぶのは必至。たがいに死を覚悟しなくてはならない。

 バラバは返答した。

「かまいませんが、意味をお聞かせ願いたい」

 ヨセフは柔和な目を向けてくる。

「むろん下調べはしておりますぞ。あなたの顔を知っている者は、律法学者のみならず、サドカイ派の祭司にさえ誰一人いなかった。それを知ってからというものの、いつかはと機会を考えていたのです」

 確かに言われれば、その通りかもしれない。強奪であれ襲撃であれ、すべて闇に紛れて行動したからだ。でも、あえて危険を冒してまで行く理由が見つからないのも事実だ。それに、何のための機会かも理由がつかめなかった。

「ピラトも来る予定だから、護衛は、百人隊長カシウス」

「なんと――」

 思っても見なかった名前がヨセフの口から告げられた。ピラトとカシウス、一方は敵国の支配者であり、一方は父を殺し、ルシフェルと唯一契約したローマ兵である。真意が掴めず窓辺に立った。

 すっかり暗くなった夜道を、群れからとり残された羊のようにして歩く人たち。闇に怯え背をまるめて帰路を急いでいる。初春の寒さが哀切に一層の輪をかける。

「どのみち賽は投げられておる」

 ヨセフの言葉が、ずしりと重くのしかかってくる。そんなとき、またゆらゆらと目の前を、なぜか顔の見えない十字架の絵が通りすぎていった。

 

       3

 

 時を同じくして、ユダは城壁の隙間からキデロンの谷を見下ろしていた。

 雨で潤んだ野山は緑に満ち溢れているのに、ここだけは恩恵がない。くすんだ谷の岩肌は牢獄の門に思え、ゲッセマネのオリーブ林でさえ血の沼に見えてしまう。野犬の遠吠えだけが現実を知覚させる。

 来たるべく過越祭まであとわずか、流れが悪い方向へ傾きかけている。と、ユダは感じていた。それなりに目まぐるしくは活動していた。まずベタニアにマリアを送りとどけてから、ラザロに会い、エルサレムに入らずにエリコに戻った。そこには徴税人の首領ザアカイが住んでいたからだ。

 ザアカイもユダの協力者の一人である。民から重い税を取り立てる人であったが、やはり性根はユダヤ人だった。

 彼は、深い罪の意識に苛まれていたのだ。ユダは見逃さなかった。すぐにイエスの言葉を伝えると、ザアカイは髭だらけの顔を涙で濡らして心から感服した。

 さすがに徴税の仕事をやめるということはしなかったが、有りあまる金の一部を差し出し自由に使ってほしいとユダに手渡してきた。

 一泊して、翌朝ザアカイの屋敷を後にすると、その足で気忙しくギルガルへ向かった。もちろん熱心党の拠点だ。バラバの潜伏先を知りたかった。どうしてもラザロに会わせたい気持ちが強かった。

 だが若者の返す言葉はつれない。

「いくらユダでも、バラバの居場所を教えるわけにはいきません」

 しつこく聞き返しても、返答は一緒だった。

 たとえバラバと暮らさなかったにせよ、知らないはずがない。若者にとってバラバは、変わらぬ憧れの象徴なのだから。

 やむなくユダは、エルサレムにやってきた。まだ、今夜中に行かなくてはいけない場所がある。急がねばと、シオンの丘へ足を向けた。

 と、そのとき早馬が一騎、物凄い速さで丘を駆け上っていくのが見えた。

 赤いマントを翻し、兜の頭に、やはり赤い飾り物をつけた正規のローマ兵だ。一直線に、総督官邸へ向かって駆け抜けていった。

 ユダの脳裏に嫌な予見が去来する。兄ギメルの泣き顔が浮かんできたのだ。即座に気のせいだと頭を振って打ち消した。

 妄想だ……ギメルなら、ベトロホンで子供らに囲まれて楽しく過ごしているはず。それにギメルが泣くはずがない。必死に否定した。

 ユダは気を取り直し、シオンの丘にあるザドクの屋敷へ足を進ませる。

 が、踏み出した瞬間、その足が縺れた。ばたりと倒れ、石畳に手を突いた。ギメルの涙が血に変わっているのだった。くっきりと浮かび上がり、ユダを見つめて哀しげに訴えている。

 これは、何を意味するのだ? 胸がざわめいた。

 ただ言えることは、確実に何かが起きようとしている。

 だがユダには、どう対処していいか分らなかった。

 よろよろと城壁に手をかけ立ち上がる。前方でローマ人の歩哨が二人、ユダを胡散臭げに睨みつけていた。

 歩きはじめたユダの後ろから、別の二人連れが足早に過ぎ去っていく。黒い外套を着た男は貴族なのだろう。一見して品がある。なら、もう一人は使用人か用心棒だ。殺気を放ちながら慎重に歩いている。

 小さな布を巻いた頭から、紐で括られた長い髪が肩まで垂れていた。背がすらりと高く、後ろ姿だけなのでよく分らないが、なぜか懐かしい男の温もりをユダは思い出していた。

       

 

 通称、糞の門と呼ばれる門をくぐり抜けたバラバとヨセフは、松明も持たず真っ暗な石段を登っていく。

 それにしてもさっきの男、ユダに似ていた。暗かったし、確認するまもなく行きすぎてしまったが、なぜ単身ここにいるのか知りたかった。

 そんな思いを引きずりながら、右に神殿、前方にシオンの丘と、四方向に交差する一角にさしかかった。そこだけは壁に掛かる灯りが舗道を照らし、丸く切り描かれる石畳をかろうじて認識できる。けれど金箔を張った重厚な神殿の扉も、紫と緋色の花に覆われた亜麻の垂れ幕も想像できるだけで見えない。

 足元に、石と石の間から枯れはじめた雑草が数本覗かせている。人の足でくの字に踏みつけられても、健気に咲いている。細く薄い月が、何を思うのか淡い光で照らしていた。

 ちょうどそのとき、シロアムの池の方角から羊門へ向かって歩く、全身黒づくめの一団を見た。壁に沿って影のように蠢いていた。異様だ。

 交差路は広い。だがバラバの立つ場所は、左右の建物が道に迫り出していて狭い。それでも幅四キュビット、すれ違うていどなら何の問題もない通路である。

 頭から黒い頭巾を目深に被った六、七人の集団は、バラバとヨセフを認識すると目を光らせた。

 一瞬、緊張が走る。反射的にヨセフを庇い、壁を背にした。けれど相手に殺気は感じない。逆に怯えにも似た戸惑いが跳ね返ってくる。

 緊張が溶けていく。それでも、いきなり壁に押しつけられたヨセフは状況を把握できずに、バラバの背中で身を硬くさせている。

「悪意は感じませんが、今しばらく、そのままで待ってください。念のためです」

 ヨセフを壁に押しつけたまま行きすごすことにした。

 ヨセフがバラバの背中越しに顔を出す。

「ああ、彼らは癩病者たちだ。心配ない、ベトサダの池に行くのだろう」

 昼間、自由に歩けぬ彼らは、夜になるとベトサダの池へ行く。池には、主の使いが息を吹きかけて、水を動かすという伝説がある。その水が動くとき、どんな病気も治すという儚い望みを信じているのだ。

 バラバには嘘だと分かる。天使がわざわざ池の水を動かさなくとも、まこと治してあげたいのなら、直に身体に吹きかけてやればよいことだ。なぜなら池に行きたくても、行けない重病人は永遠に治らないことになるからだ。

 だが苦労して辿り着いても、彼らの苦難は続く。

 池には目の悪い人や足の悪い人たち、さまざまな病気を抱えた人々が今か今かと水が動くのを群れて待っているからだ。隔絶された世界に閉じ込められた癩病者たちが割り込む場所はない。遠くから、じっと水の動きを見つめるだけ。それすら見つかれば、石を投げつけられて追い出される。

 だから彼らは水が動いても近づかない。ただ希望があることを自らの胸に刻んで、いつかはと、願うだけなのだ。

 怯える集団はバラバの視線を避けて、急いで歩く。しかし骨と皮だけになった足は、いうことを聞かない。

 真ん中にいた女性が後ろから押されて足を縺れさせると、数人が雪崩を打って、バラバの所へ転がってきた。とっさに手を広げ、先頭の女性が階下に落ちるのを防いだ。

「いけません、汚れます!」

 差別され続けた長年の習性なのだろう。女性は助けられたことより、バラバに触れてしまったことを怖れていた。

「心配するな。触っただけでは移らない」

 しかし「汚れています、汚れています」と女性は、下を向いて同じ言葉を繰り返す。

 バラバは、痩せ細ったその女性を抱え起こした。悪瘡で老けて見えるが、意外や年令はイリヤといくらも変わらないように思えた。

 とどうしたわけか、女性がバラバの衣を掴んで咽び出した。

「そなたは、なぜ泣くのか?」

「分かりません。でも、泣けてくるのです」

 弱々しい声が返ってきた。

「まさか?」

 しゃがみ込んで、女性の顔を凝視した。

「もしや、そなたはサラか?」

「私は、私は……」

 その問いに、否定も肯定もせず女性は突っ伏した。だがそれは肯定していることと同じ。ならミカもいるかもしれない。

 すると、一人の女性が集団から後ずさりした。わなわなと手を口に当てて身を硬くさせた。

「ミカ、なのか?」

 名前を呼ぶと、女性が頭巾の奥の瞳を濡らして、膝を落とした。

       

 

「僕は、ベトロホンへ行かなくてはいけない」

 ラザロがマリアの手を振りほどいて、床から起き上がろうとした。

「だめ、行かせないわ」

「マリアがいくらとめようとも、僕は行くよ。これが使命、生きてきた証なんだ」

「でも、行けば……あなたは死んでしまう」

 マリアにはベトロホンが何を意味するか分かっていた。知って、生かせることなんてできやしない。

 マルタへ視線を移すと、とめようともせず唇を真一文字にむすんでいる。この表情を見せるときのマルタは、すでに考えを決めているときだ。

「マルタ、聞かせて、あなたはどう思うの」

 マリアは、ここしばらくベタニアへ戻れなかった。その間、二人はじっくり話し合っているはず。

「このまま放っておいても、ラザロは死ぬでしょう。だから一緒に行こうと決めました」

 隅の机に目を向ければ、大きな布袋に何やらぎっしり物が積み込まれていた。きっと水や、消毒に使う葡萄酒とか薬草が入っているのだろう。

「見えているのに、それでも行かせるつもりなのね」

 マルタを責めた。

「ラザロは裕福な家に生まれたことが、何の意味を持つのかずっと考えていたみたい。結局、ミカとサラを救えなかったのだから。つまり、ラザロの病気は二人を救えなかったことの自嘲。ユダとマリアがヨハネを見限り、ナザレへ行ってしまった閉塞感。そしてイエス・バラバへの想いによる心の逃避。この諸々のすべてが身体に巣を喰っているの」

「分かるわ。けれど、それはイエスが癒せると思う。彼は変わった、以前の熱情はすっかり消えている。今では自分を神の子と言わずに、人の子と宣言しているの」

「違うのです、マリア。私もそうなのだけど、人にはそれぞれ繋がりがある。たとえ根源は同じであっても、触れ合うべき人間の魂は決められているの。だからどんなに素晴らしい人でも、心の奥底で同じ旋律を奏でられるとは限らない」

 マルタとラザロは、いまだにバラバとヨハネを心の糧としている。でも、だからといって違う音色に共鳴しないとは限らない。だって二人は、根源が同じだと知っているから。

「マリア、あのときの魂がベトロホンへ集結するんだ。レビもシモンも、イリヤもナジルも来る、ミカとサラだって来るんだよ」

 魂が集う? ということは、悪夢の再現が起きるということなの。

 今イエスは、過越祭へ向けて行進の準備をしている。ガリラヤからは回り道だけど行って行けないことはない。

「私は、これから馬でカペナムへ向かう。そしてイエスを連れてベトロホンへ行くわ。マルタお願い、明日の出立は必ずロバで行って。そうすればイエスが間に合う。悪夢は防げるの」

       

 

 ユダはザドクの屋敷へ急いでいた。

 ザドクは、アンナス一族に激しい対抗心を燃やしている。カヤパを失脚させて大祭司に返り咲きたいと願っていた。

 金、青、紫、深紅の刺繍を施したエボデといわれる大祭司の衣装。胸にイスラエル十二部族を表す宝石が鏤められている。ザドクは、それを着たいのだ。ユダはそんなザドクの妬みを知っていた。

 街路の陰に、またローマ兵が立っていた。

 このところの、エルサレムの物騒さのせいもある。立ち寄った商店で話を聞くと、夜陰にまぎれて裕福な律法者の屋敷に忍び込む若者と神殿警察の小競り合いが頻発していたらしい。それが、いつしかローマ兵を巻き込んだという。

 盗賊の類と噂されるが、ユダには熱心党のせいにも思えてならない。バラバはギルガルで、しばらく行動を慎めと言っていた。しかし、そうはいかないのが若者たちだ。特にイリヤ、ベタニアで暮らしていたときには幼すぎて気がつかなかったが、ギルガルで再会すると一癖も二癖もある男に変貌していた。

 ユダが感じるのだから、ピラトが熱心党の仕業と感じないわけがない。ましてやローマにおいて、ピラトの後ろ盾であったセヤーヌスが失脚したのだ。息のかかった者たちが相次いで処刑されたと聞く。とうぜんピラトも、その対象であるのだ。

 しかしながら才に長けた男、持ち前の政治力で生き延びようと決めた。となれば、イスラエルの治安を守ることだけがピラトに残された道。熱心党の壊滅だけが自身の命を守ることに繋がる。

 ザドクの屋敷に着いた。

 広い屋敷だ。代々続く祭司貴族、その積み重ねられた歴史も相まって石積みの塀も高い。伸び上がっても跳び上がっても、中を覗くことは不可能だった。ユダは辺りを窺い、門を叩いた。

 何の反応もない。やむなく、もう一度叩こうとした。すると「二度も、叩かなくともよい!」と門番が、覗き窓から声を尖らせた。ユダの埃にまみれた衣と安っぽい素材を見て、いかにも貧乏人と瞬時に判断したに違いない。態度は横柄だ。

「ユダだな。主人から聞いている。ゆえに伝言だけを言う」

 くぐり戸を抜けて現われた門番は、目尻の垂れ下がった貧相な男だった。痩せて妙にちんちくりんなくせに、手に持つ槍だけが辛うじて威厳を保たせている。

「主人は、カヤパさまの屋敷へ出かけた。お前とはこの先、もう会う予定は一切ないらしい。早々に立ち去るがよかろう」

 するっと背後から、不意に内臓を掴みとられた気にさせられた。もしかしたらと頭の片隅で想定していたが、しばらく声がでなかった。

「でも、機は熟しました。来月の過越祭には、必ずや描いた理想が叶うはずです。ぜひ、お目通りを」

 それでもユダは力説した。しかし空しくいなされてしまう。

「ふん、そんなこと、もういいのだ。帰れ! 当座の路銀を主人から預かっているのでくれてやる。二度と顔を見せるな」と、にべもなく追い払われた。

 このところ、ヘロデ・アンティバスまでもがカヤパの要請に応え、イエスの追及に血眼になっている。ザドクは立場の不利を計算したのだ。地位に不満はあっても生活には満足していた。だから家門崩壊には耐えられない。大祭司奪回の夢は我慢して利をとった。

 確かに今、権力者の中ではアリマタヤのヨセフとニコデモ以外、すべて敵に回ってしまっている状態である。ここで妙な騒ぎを起こしたら身の破滅と判断したのだろう。

 去年の暮れ、ヘロデの兵に追われたとき「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかしわたしには、枕するところがない」と、イエスは嘆いていた。

 今にして考えると、イエスを死刑にさせることしか念頭にないカヤパが、ヘロデに続いて、ザドクにまで圧力をかけたとしか思えない。逆らうなら考えがあると脅かして顔の前へ人参をぶら下げる。結局は同じ穴の狢だと知っていたからだ。

 なら、議会で石打ちの刑にほぼ方針が決定する。正式な通達は明日の最高法院を待たなくては決まらないが、動くことはないだろう。

 でもユダには、それだけで満足するカヤパではないと思った。彼だけ執念が違うのだ。治安に気を揉むピラトを巻き込んで、民衆の前で堂々と叫ぶだろう。

「扇動者ナザレのイエスを、十字架刑へ!」と。

 ザドクが離反してしまったし、反対しているのがニコデモとヨセフだけではカヤパの絶対優位は動かない。しょせん元来が貴族、ザドクは機を見るに敏感だったのかもしれない。何ともお粗末な結果である。

 それにしても――とユダは思う。ユダヤ人にとってローマこそが敵であるのに、どうして支配者はこぞって二人のイエスに標的を定めるのか。

 カヤパも然り、ザドクも然りだ。すべてが保身のせいなのだろうが、己の内に巣を喰う悪に気がついていない。

 本音を言えば、ユダだってイエスは好きじゃない。しかし民の気持ちを考えれば、最近は本物であると確信する気持ちが強い。好むと好まざらず、一つ奇跡を行うごとに確実に魂が清められていくのが分るからだ。もはやナザレの大工などと悪口する者は、祭司と律法学者しかいない。

 その無意識の傾倒に、イエスとの会話を思い出した。

「もし最後の最後で、私が動かなかったら、あなたはどうするのか」

「ユダ、あなたはすでに認識しているはずだ。わたしがメシアだ、と」

「だったら、裏切った私はどこへ行くのか」

「好きなところへ行くがいい。天の国以外なら引く手数多のあなたなのだ。わたしはそれに関与するつもりはない」

 つまり見放すということ。分かっていながらイエスの言葉が身につまされた。

 やっぱり、真実、友と呼べるのはバラバとラザロ、それに死んだヨハネだけだ。みんな一人の男のために埋没してしまった。

 薄情すぎるエルサレムの現実。イエスに突き放された気持ちと重なって、ユダを夢遊病者のように歩かせていた。

       

 

 希望はいつか叶う。十数年の時を経て双方の見た目は著しく変わっていたが、魅かれ合う魂は清かった。

 ミカの潤んだ瞳からは、見すてられた記憶を消して、楽しく過ごした生活の断片だけが映し出されていた。

 バラバは「やっと逢えた……」と声を絞り上げ、両手で顔を覆うミカの肩に手をかけた。

「触ってはなりません、私は汚れています」

 かまわない。バラバは抗うミカを強く抱きしめる。

 と、そこへ背後から殺伐とした声が飛んできた。

「離れろ、青年。そいつらは癩、触れてはならぬ!」

 振り向くと、護衛を連れた貴族風の男が手に石を持っていた。従者は今にも投げつけようとする体勢だ。

 シオンの方角からやってきたのは間違いない。ならば目的地はカヤパの屋敷、ヨセフと同じで招待された大議会の議員であろうか。

 そんな空気を和ませるかにヨセフが言った。

「おお、これはザドク公。わしらもカヤパ様の屋敷へ向かう途中でございますが、その前に少し余興を見ていきませぬか」

「あっ、お前はヨセフ。そんなところで何をしている。見て、石も投げずに戯れておれば、そなたも癩の片割れと勘違いされてしまうぞ」

 ひょんなところでヨセフを見つけ、一瞬、投げつけようとした手を緩めたが、ザドクは再び強く握る。従者も主人に倣う。

「手から石を離すのだ。わしは石を投げつけろとは言っていない。余興を見ろと言ったはずだ!」

 ヨセフの口調が変化した。

「余興だと? 神から呪われた奴らと抱き合う青年、それの、どこが余興なのだ」

 ザドクが鼻で笑う。

 それを受けて、ヨセフは肩をすくめた。バラバに視線を投げてくる。かまわないから好きにせよ、との暗黙の了解ともとれた。バラバはザドクに言った。

「この女性を見よ、どこが汚れているというのだ!」

 バラバは、遠ざかろうとするミカを再度抱き寄せた。顔を隠す頭巾をとって、ザドクと護衛の男へ見せた。月の光が、壁の灯りが、ミカの顔を強く照らした。

 瞬間、静寂が辺りを覆う。息を飲む音すら聞こえない。二秒、三秒と過ぎて、やっとザドクと従者が顔を見合わせる。

 と突如、おお! と地鳴りのような歓声が湧いた。悪瘡で覆われていたミカの醜かった皮膚は、生まれたての乳児みたいに艶々していたのだ。

 ザドクが、呻き声を上げて後ずさった。

 一方、どよめきの意味が分からず、きょとんとさせたミカは両手で頬を撫でる。そこで初めて、自分の身に何が起きたのか気がついた。

 それでも信じられず、すぐに手を広げて、手のひらと腕とを立て続けに見つめた。そして理解すると笑顔を弾けさせるのではなく、泣いた。

 ミカの涙はとまらない。思いの丈をこめて十七年ぶりの涙を溢れさせている。バラバを見つめ、仲間を見つめ、衣を太腿までたくし上げた。染み一つない綺麗な素足だった。

 次の瞬間、とうとう感きわまったのか「ああ、主よ……」と叫び、跪いた。

 ところが「ふん」と声を吐きすて、ザドクは姿を消した。再生よりも家門の保持に興味があるようだった。

 その代わりに癩病者の人だかりができた。みな口々に「救世主よ、私にも――」と、喉を嗄らしている。

 やがて一人の老婆がバラバの前へ進み、無言で頭を垂れた。見れば黒ずんだ衣から覗く下肢は痩せ細り、醜い瘡瘡で無残に変形していた。

 頬はこけ、たるんだ皮膚の上に膿を持った疱瘡が幾層にも重なり、人の原形をとどめていなかった。哀しみがバラバの胸に、このうえなく移入した。

 この老婆は、どんなにか蔑まされ、屈辱に耐えてきた。

 自然と目頭が熱くなった。優しく微笑むと手を差し伸べた。

 まず老婆の涙を指で拭い、足を摩り、頭に手を置いた。すると下肢全体に光が発生し、見る見る曲がった足が真っすぐに甦った。同時に、汚く膿んだ悪瘡が消失していく。

「奇跡だ、まぎれもなく救世主だ!」

 声と共に我も我もと、バラバの前へ跪く。バラバは、泣きじゃくるサラを癒してから全員の身体に指先で触れ頭を摩った。

       

 

 もう、なるようになれ。いくらユダが足掻こうともこの大きな動きが変わるわけではない。ふらふらとした足どりでシオンの丘からゲッセマネへ向かった。

 前方に見える白亜の大神殿。横に最高法院の開かれる旧ハスモン家の宮殿があって、左方にはアントニオ城がそびえている。そのアントニオ城の門前には篝火が焚かれ、物々しい兵士が配置されていた。

 きっとピラトが来ているのだ。カイサリアから総督が来ているときだけ、この丘の一帯は緊張感に漲る。ユダでなくともぴーんときた。

 彼らにとっての敵は治安を乱す熱心党のみ。だから五日後の過越祭、イエスのエルサレムへ行進の噂が流れているのにピラトは動じていない。

 右の頬を打たれたなら、左の頬を出せ。そんなイエスの態度を、あくまでも弱者の行進と高をくくっているからだろう。

 しかし、それだけではないこともユダは知っている。

 去年の秋のことだ。イエスがエルサレムで辻説法をしているとき、右目に黒い眼帯をした兵士に付き添われ、美しい貴婦人がやってきたのだ。兵士の容貌から、すぐにも力ずくで蹴散らされるかとユダは感じていた。が意外や、そんな態度を露とも見せず、兵士も貴婦人も静かに聴き入っていた。

 後々その貴婦人が、総督ピラトの妻クラウディアと分かった。

 きっとイエスが歩けない人を歩くようにさせたり、血のとまらない女性の病気を治したりとか、はたまた死人を生き返らせるなどの奇跡の噂を聞いて、居ても堪らず話を聴きにきたのだと思う。というのもクラウディア自身が、目が見えなくなるという奇病に冒されていたからだ。

 厳つい護衛の兵士に手を引かれて歩くクラウディアの姿は、一見威厳に満ちている。しかし見る者が見れば内面の不安が顔に滲み出ていなくもない。

 イエスの説法が終わると、クラウディアは前へ進む。まだ完全に見えなくなっていないにしろ、足どりは頼りなく感じる。

 案の定、転んだ。

 護衛の兵士が血相を変えて駆けより、抱え上げようとする。

 がイエスは「必要ない」と、手で兵士を制した。クラウディアに向き直る。

「あなたが誰であるか、問うつもりはまったくありません。しかし、心を頑なに閉じていては、見えるものも見えないでしょう。さ、わたしに触れなさい。それが神の愛に触れることとなり、罪が赦される」

 クラウディアは迷うことなく立ち上がる。イエスの手を掴んだ。

「貴婦人よ、目を大きく開けるがよい。広がる青空を見るのだ。このエルサレムとローマの空は一つに繋がっている」

 それだけ言えば充分だった。クラウディアは泣いた。ローマの方向へ目を向けて泣いた。おそらく見えるようになったからだ。

 以来、ローマからの圧力はいっさいなくなった。

 一般にローマの貴婦人たちは、奥ゆかしいユダヤ人女性と違って自分の意見をどこまでも夫相手に押し通すし、都合が悪くなると部屋に閉じこもって無言の抵抗を見せる。それで最後には、夫の意見を捻じまげてしまうのだ。

 クラウディアが必ずしもそうだとは思わなかったが、効果は絶大だった。それにより矛先は、バラバ一人に向けられたのも事実だったのだから。

 ここぞとばかりに奇跡を見せつけたイエス、反して、同等の力を秘めているのに起こそうとしないバラバ。いったいどうしてなのか。思いを友に向けていると、ユダは何かを踏みつけていた。

 拾い上げてみたら、鈴だった。それも一つではない、六、七個は捨て置かれてある。

 もしかして癩病者の鈴?

 ユダの脳裏にミカやサラの面影が浮かんだが、打ち消した。

 そんなわけがない、あろうはずがないのだ。とぼとぼ羊門を抜けて、一面暗がりのゲッセマネに足を踏み入れた。仄かな月明かりだけで何も見えず、まるで足元が覚束ない。

 それでも、そよそよとした風がオリーブの枝を揺らせ甘い香りを漂わせてくる。その匂いに導かれるようにして、ユダは大きな古木の下に伏した。

 ユダは激しく泣いた。泣きながら、神に訴えた。

「もし、ここに神がいるのなら言葉を与えてください。私はいまだに迷っています」

 しかし返答はない。

 自分が無性に憐れに思えた。ユダは涙を拭ってオリーブの木にもたれかかると、夜空を見上げた。上空の月までもが雲間に隠れていた。

 

       4

 

「用を済ませたら、すぐ戻る」

 できるのなら離れずに、抱きしめたまま、空白の十七年間を埋めたい。しかしヨセフの護衛も約束も守らなくてはいけない。隠れ家を教え、そこにイリヤもナジルもいるから安心して待つように伝えた。

 ミカとサラが名残り惜しそうに立ち去っていく。それを見届けると、へなへなとバラバは石段に座り込んでしまった。どうにも体力が消耗して、立ち上がることはもちろん、指を動かすこともできなくなっていたのだ。

 反面、心は晴々としていた。人を癒すことは自身を癒すことでもある。思いがけず治癒の感慨に温められて、ベトロホンへ移した子供たちに触れると同じ至福に満ちていた。

 だが夜空に光り輝いていた数個の星が、とつぜん流れ落ちた。

 吉兆かと思いつつ、気がつけば背すじに震えを覚えている。

 考えれば殺人者。二千人もの人を殺した悪の化身なのだ。一人二人、癒したからといって簡単に赦される罪ではない。

「心配なさるな、あなたは善行を積んでいる」

 知ってか知らずか、ヨセフがバラバの肩をそっと撫でた。

「買い被りです殺人者の烙印は永遠に消えません」

 頭を振って否定した。

「何を申される。わしは、はっきり感じた。あなたを選んでよかったと。まぎれもなく父の子だ。あなたを父の子と呼ばずして、誰を呼ぼうや!」

 温厚なヨセフが、珍しく顔を紅潮させる。

 が、バラバは、ぶっきらぼうに反発する。「弟が、いるではありませぬか」

「うむ、ナザレのイエス。しかしわしは、二人の主に兼ね仕うること能わず。そなた一人を守るべく、糧として生きる」

 ヨセフは言い切ると口を真一文字に結んだ。その表情からは何があっても揺るがない決意が感じられる。

「よけいなことは考えぬことだ。さ、そんなことより、そろそろ参ろう。カヤパが首を長くして待っておりますゆえ」

 優しく促され、再びカヤパの屋敷へ足を向けた。

 交差路は人通りもすっかり途絶え、壁にかかるオイルランプの灯りがもの悲しく石畳を照らしていた。

       

 

 カヤパの屋敷に近づいたとき、石畳を踏む足音と共に影が三体見えた。

 向こうも気がついたのか、さっと一つの影が動いて二つの影の前へ出た。凍りつくような目で睨みつけてきた。

 油断をしていたわけではないが、機先を制されて紐で括っただけの髪の毛が逆立つ。鬢までが針のように天を向いた。ヨセフを背に追いやることしかできなかった。

 この睥睨を忘れるはずがない。男はカシウスだ。

 とうぜんカシウスも、バラバだと気づいているだろう。戸惑う二つの影を手で押しとどめたきり、微動だにしない。

 しばらくの間、無言の睨み合いが続く。

 とヨセフが、バラバの背中越しから相手へ声をかけた。

「おお、ピラト総督にクラウディア妃でございましたか。わしはヨセフ、アリマタヤのヨセフです」

「ヨセフだと?」

 反応したピラトが、カシウスの腕を払った。身体を迫り出してくる。

「この者が急に踏みとどめ、殺気立たせたから、てっきり熱心党でも現われたかと思ったぞ。クラウディア、暴漢ではないから心配は無用だ。何のことはない、そちもよく知っているヨセフであった」

 ピラトに手を引かれて、クラウディアが暗闇から姿を見せる。

「しばらくですヨセフ、では、あなたもカヤパの屋敷へ行かれるのですね」

 優雅に会釈すると、バラバに視線を移してきた。

 が、その瞬間「どうして……あなたが?」と瞳を凍りつかせた。

「ん、どうしたクラウディア」ピラトまでもが、バラバに奇異な目を当ててきた。

 ピラトの妻などに会ったこともない。なら、あきらかにバラバと誰かを間違えている。それは弟しかいないだろう。

 バラバの考察に同調するかのよう、低い声がクラウディアの浅慮を切りすてる。カシウスが隻眼を血走らせてにじり寄ってきた。

「この男はナザレのイエスではありません。こ奴は――」

「カシウスどの、無用な諍いの種は蒔かぬほうがよかろうと思いますぞ。すでに、かの者との契約は切れており、この地に残ったのも自分の意志であったはず」

 ヨセフの、ヨセフとも思われぬ反論に、カシウスは言葉途中で地団駄を踏む。槍を石畳に激しく突き立て、ぎしぎしと歯を噛んだ。

「待て、待て、いたいどうしたのだ。クラウディアといいカシウスといい、この者とどんな経緯がある。して誰なのだ、カシウス説明せよ」

 ピラトの呼びかけにもカシウスは答えない。ただ、一言「私は総督と妃を守る」とだけ言った。命令系統への忠実、激情を抑える理性は持っているようだった。石畳に突き立てた槍はバラバへ向けたままだ。

 緊張の迫る中、クラウディアが話す。

「では、私がカシウスに代わって説明します。たがいが目に不安を抱える身、私とカシウスはナザレのイエスに会ったのです。そして私はあなたも承知のように癒され、カシウスは拒絶されました。『今、あなたを癒しても真理は見えないから』と。そのナザレのイエスと、この者を、私が同一人物と錯覚しただけなのです。他意はありません」

「ほう、真理――とな」ピラトは考え込んでから「ま、よい、時間も時間だし急ごう。ヨセフ、一緒に参れ」

 ピラトはヨセフに言った。

 バラバも続いた。

       

 

 元々がヘロデの第二宮殿でもあるカヤパの屋敷は、想像に違わぬ大邸宅だった。門番を先導に、丹念に研磨された石畳の中庭を抜けると、神殿に劣らぬ豪華な扉の前へ出た。

「ピラト総督にクラウディア妃、ヨセフさま、お待ちしておりました」

 衛兵に通され、執事に案内されて、バラバとカシウスは並んで後を続く。

 すでに主だった議員が続々と集まっていた。異国の作品と思われる石膏細工や、金銀で施された装飾品を鑑賞しながら、壁一面にかけられたフレスコ画の前で思い思いに雑談している。それがピラトを見たとたん、ぴたりと口をつぐんだ。

 ヨセフはニコデモを見つけると、笑みを投げかけ歩み寄っていく。ピラトとクラウディアは金箔の扉の先へ案内された。食卓の上に白い布がかけられ、眩しいぐらいに輝く金食器には豪華な料理が盛りつけられていた。

 ピラトを見て、絢爛な法衣を着た男が愛想を振りまきながら出迎えた。卑しそうな顔立ちの中で目だけが異様にぎらついている。きっとカヤパなのだろう。

 しばらくしてヨセフと共に室内へ入ると「護衛の者はこちらへ」と、食卓から十キュビット離れた壁際に立たされた。椅子も料理もない、カシウスが横にいた。

 皆が料理と葡萄酒に手をつけるのを見て、さっそくカヤパが切り出した。

「あのナザレのイエスが、五日後の過越祭に行進を目論んでいる。また、その数は五万人とも聞かされた。もちろん武器を持った熱心党員がかなりの数紛れ込んでいる。そこで、あなたがたに質問をさせていただきたい」

 カヤパはぐるりと室内を見回し、ザドクの所で視線をとめた。

 大議会は七十一人、三つの集団から成り立ち、ザドクはもと大祭司の家系であるからその中枢に属している。ちなみにヨセフはサドカイ派の富裕層と扱われ、二番目の会派である。ニコデモに至っては律法者で構成する権限の及ばない最下層だった。

「ザドク公が教えてくれなかったら、我らは、呆然と血の海になるエルサレムを見なくてはいけないところだった。では聞く。今現在、そこにおられるピラト総督の温情によって神殿は治外法権化されているが、ナザレのイエスと熱心党が反乱を起こせば、神殿においてのすべての儀式はもちろん、神殿自体を失う結果に導かれてしまう。つまり、サドカイ派もファリサイ派も禁じられ消滅するのだ。そこでピラト総督に、ナザレのイエスとイエス・バラバの処刑をお願いした。彼ら二人は、見つけしだい処刑したい。異議のある者は立たれよ」

 カヤパの独断的な宣言に、ヨセフが立ち上がろうとする。それを気づかれないよう、ニコデモが慌ててとめた。しかし一人の議員が「そうだ、死刑だ!」と叫ぶと、たちまち場は合唱となってヨセフの思いは掻き消された。

 ピラトが、皆が静まり返るのを見て言った。でもどこか、うんざりした表情に見える。

「何度も言うようだが、暴動さえ起きなければ引き続き神殿と宮殿の支配ならびに権威を認めるつもりだ。よって興奮に水を差すようで悪いが、ローマとしては、ナザレのイエスが武器を持たずに行進してくるぶんには動かない。ただイエス・バラバには、それが当てはまらない。我らの敵は熱心党、イエス・バラバのみだからである」

 クラウディアの影響力もあるのだろうが、ピラトは議員たちに吐きすてるように言った。

 それは両指導者の考えが、ある意味、真っ向からぶつかる結果ともなった。カヤパが苦虫を噛み潰している。狙いはバラバより、あくまでも弟だからだ。

 一方ピラトは、弟の行進がそのまま反乱に直結しないと踏んでいる。実際、熱心党内においても、カナの一部の強硬派が不穏な動きを見せているだけで、今回の行進が熱心党の総意ではない。

 反感が渦巻く中、ピラトがバラバに毒のある笑顔を向けてきた。いずれそれが白眼視に変わるのが見え見えなほどに。

「ふ、きさまも最悪の宣言をされたものだ」

 カシウスが、口を歪めて含み笑いをしてきた。そしてそのまま給仕して歩く二人の若者へ向かって顎をしゃくった。

「目つきの悪い使用人が二人いるが、あいつらも熱心党員だな」

 妖しい動きをしたら串刺しにする、と言わんばかりに槍の柄を強く握った。

「心配するな、ただの密偵だ。彼らに与えた任務は情報収集、襲撃は命じていない」

「ならばよいが、あまり総督を軽んじないほうがいいぞ。きさまがイエス・バラバであることを、薄々感づいている」

「ほう、では命令が出たら殺そうと、それで私に密着しているのか。それともルシフェルに逃げられて、そのうえ弟に素気なくされたので、真理を知りたくなったか」

「真理だと? 天使から聞いたが、それをいちばん知らぬのはイエス・バラバ、きさまだと教えられている。だいいち、そんなもの知らなくとも私は生きていける。仮に、もし真理があるとしたら、それは、きさまの死でしか有り得ない。しかも皇帝カイサルから拝領した、この槍で息絶える死だ――」

 真理、それは一つであっても人によって意味合いが異なる。まったく興味を示さない者もいるし、示したくとも生きるのに精一杯で、真の道理にまで目を向けられない者もいる。

 またカヤパやザドク、富に支えられて生きている彼らは、その真理まで捻じまげようとする。それでも民は気がつかない。真理が漠然としすぎて生きるための崇高な指針となっていないからだ。

 一般の民が立ち入ることのできない神殿の聖所、そこには契約の箱に石版が秘されている。つまり、みな存在を知っていても見ることも叶わない。それが貴族のための都合のいい信仰に成り代わっている現実と、バラバには思えた。

 ならすべての民に、神を身近に知らせるにはどうしたらいいのか。

 それがカシウスの言った、カイサルの槍で殺される神の子の死。十字架なのだと確信した。ユダヤ人指導者と、その支配者ローマによって抹殺される神の子、そのできごとが後世まで語り継がれなければ意味がない。その事実こそが真理なのだから。

「おい、聞いているのか」

 カシウスが返答してこないバラバに焦れている。場に気を配りながら、横目で睨みつけてきた。

 だからといって敵意は感じない。バラバを殺すことが、唯一カシウスの目的であっても、より相応しい場所があることを知っているからだ。

「きさまを考え込ませてしまったようだが、得心がいかぬようなら理由を説明してやる。じつは、さっき早馬が知らせてきた。早ければ明朝、遅くとも昼までには一個小隊でベトロホンへ行く」

 一挙に、意識が覚醒される。血が沸騰した。

 ベトロホンは熱心党とは関わりのない場所。クムランのエッセネ派と同じで自給自足が原則であるし、十分の一税もしっかり払っている。それがどうして攻撃の対象とならなければいけない。

「行っても無駄だ、そこに熱心党員はいない」

 努めて冷静に言った。矛先を他へ向けたかった。

「確かに残党だけみたいだ。しかし、すでに決定は下された。そこで騒ぎを起こせば、バラバ、きさまを捕縛できるからな」

「その情報を、なぜ教える?」

「知れたこと。こんなところでは殺せないが、そこでならきさまを堂々と殺すことができるからだ」

「確かに、そんな情報を聞けば私はベトロホンへ行くだろう。だからといって思惑通りに事が運ぶとは限らないぞ。もし事前に危険を知らせて、そのまま逃げたらどうする」

「きさまは逃げない、いや、逃げられぬのだ。この戦いは、人間にとって歴史から消える小さな争いでしかないが、そのぶん逆に大きな意味合いがある」

「ベツレヘムの再現と言いたいのか」

「そうだ。あのときの魂は人間として生まれ変わって、今かろうじて生き残っている。天使が言うには、きさまがまた見すてるようなことがあれば、イスラエルは消滅すると断言した。つまり明日撤退しようとしても、撤退後に数人の魂が遅れてやってくるのだ。粋のいいのは一人だけで、あとは半病人と求道者然とした頭でっかちの弱そうな男。ふ、半病人の姉と、悩んで腑抜けになった裏切り者もいるか。きさまは、それでも見殺しにできるのか」

 それはラザロとマルタ。バラバを守るために立ちはだかってくれた、二人の面影が哀しく揺れた。シモン、レビ、ユダの顔も続いて浮かび上がる。

 足元から冷たさが這い上がってくる。沸騰していたはずの血が凍りついていく。運命が筋書き通りにやってきた。念願だった再会の喜びが一瞬にして薄れていく。



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