7章 二人のイエス
7章 二人のイエス
1
紀元三十一年、早春。
空は藍に溶け込み、可憐なシクラメンは闇の中に埋もれていた。
仄かな月に照らされた闇を背景に、人馬が一騎、さほど高くない丘の上から影を覗かせる。二騎、三騎と続く。やがて二十騎あまりの影が並んだ。
風が岩場に溜まる土を舞い上げると、中央に位置どる男の長髪が孕んで揺れた。男はイエス・バラバ。容貌は研ぎ澄まされ、昔日の面影を捜すのは難しい。ただ、ときおり見せる眼差しにいくぶん憐憫のかけらが感じられる。
バラバは三十三才になっていた。革命家として円熟しながら支配に苦しむ民の声に翻弄されていた。熱心党こそ、ユダヤ唯一の抵抗集団だったからである。
ギメルも配置についたか。
谷を挟んだ反対側からも、頭上、空高く照らす月より射影になった騎馬が十頭、下方を見下ろしていた。
カイサリアから聖地へ向かう、エルサレム西北の山地。眼下に野営する一隊がある。五十人もの兵士が警護に就き、エルサレムへ金銀と貢ぎ物を運ぶ輸送隊であった。
夜明けも近くなり、目を凝らす十数人の兵士も漫然と起きているだけで、燃やされた薪は消えかかっていた。近づく朝の気配を感じて、梟も鳴きやんでいる。静まり返った束の間の静寂。見張りの兵士に倦怠が見える。動くなら今を置いてほかにない。
バラバは馬上から配下の者に声をかけた。
「イリヤ、殺傷していいのは刃向かう兵士だけだ。哀願する者を殺めてはならない。皆にしかと伝えよ」
「承知!」
風に運ばれる短い言葉は、発したバラバの元に痛々しく響く。
できれば応戦せずに降ってほしい。しかし相手も兵士、戦うことに生を見出して生きる者たち。無理だというのは分っていた。もはや、よけいなことを考えるのは無意味。剣を抜くと、焦点を眼下の敵に定めた。
一度襲撃に成功し貧しい民に戦利品を分け与えると、彼らは次も望んだ。厳しい重税に民は生きていくのがやっとなのだ。要望に応えぬわけにはいかない。あとは惨劇の繰り返しだった。
ローマ軍と、そのローマから甘い汁を吸い続ける支配者層だけを狙った。平伏する者は赦し抵抗する者だけを殺戮した。それでも直接手にかけた犠牲者は二百人を下らない。
入党した当初、過激な熱心党を穏やかな反体制集団に戻させる目論見があった。説得をして試みもした。もともとは暴徒ではなく、確とした目的意識を持った信仰集団である。機運は高まり変貌しつつあった。
しかし、そんなバラバの思いを消し去り打ち砕いたのは、すべてがピラト登場のせいだった。
二十六年、ユダヤ州総督としてポンティウス・ピラトはイスラエルへやってきた。ローマ帝国の陰の実力者、セヤーヌスの息のかかった配下として。
双方ともにユダヤ人嫌いの、凝り固まった反ユダヤ主義者だった。そのためピラトはどういう魂胆か、着任早々ユダヤ人を蔑視するといたずらに挑発してきた。
ピラトから見れば、聖地エルサレムも僻地の都。早い話が土地にも人にも興味がないのだ。イスラエル人をうす汚れた家畜としか思っていない。だからバラバには、残忍な心で飼い慣らすつもりにしか思えなかった。
エルサレム入城の際に、こともあろうかローマ皇帝の肖像が描かれた軍旗を掲げて入城したのである。過去歴代の総督も、さすがにしなかったことだった。
目の当たりにした民衆は、聖地を汚された思いに心底怒った。やがてカイサリアにある総督邸を取り囲み、五日五晩デモを続けて軍旗を降ろせと叫んだ。
ピラトは五日目に、抵抗もせずあっさりと軍旗を撤去する。でも策士だ、家畜と決めつけた相手に降服するはずがない。早ばやと次の手を打っていた。
皇帝礼拝の柄杓を刻んだ銅貨を発行したのだ。そればかりではない。皇帝を神として崇めるよう、曲杖をあしらった貨幣をも発行していた。
しかも一年前、永遠の灯火と信じられていた七枝の燭台の炎が、とつじょ消えた。民の動揺はエルサレムにとどまらず、全土に及んでいく。
七枝の燭台とは、アーモンドの花を模った純金の常夜灯のことで、暗闇に光を与える象徴でもある。台座から伸びた一本の主軸に六本が枝分かれし、燭台の明かりも蝋燭ではなく、オリーブ油に差し込まれた芯に火が灯されていた。
その消えることのない永遠の灯火が消えたのだ。とうとう民衆は暴動を起こした。過越祭の日だった。
巡礼を装ったガリラヤ人たちが、武器を持って兵士を殺戮すると官邸になだれ込んだ。もちろん熱心党の煽動による行動だった。
ピラトは、ここぞとばかりに武力で鎮圧する。無残にも、バラバより古参の熱心党員二十名が殺され、その血は羊の血に混ぜて神殿にぶちまけられてしまった。
民はあぜんと息を呑み込み、王族たちは見てみぬふりを決め込んだ。神殿を管理するサドカイ派の祭司たちにしても苦虫を噛み潰したが、抗議もできずただ沈黙するだけだった。
叫び声を上げたのは荒れ野にいるヨハネと、神殿を同志の血で汚されたバラバのみである。
民衆も横暴なローマ帝国に対し、あまりに従順すぎる王家や律法者に大きな不満を溜め込んでいた。そのため、たとえ一過性のものであるとしても、力によるユダヤの解放を目指す熱心党のバラバと、メシアを錯覚させるヨハネを支持し熱狂した。
だがヨハネの場合は心の改革。民の心へ浸透するまでには信じられないぐらいの長い時間が必要だ。熱心党にしても、しょせんはゲリラ戦。帝国の屋台骨を揺るがすまでも到っていない。
ピラトにとって見れば、せいぜい足や腕を蚊に喰われたていどの痛手だった。却って力による、より大きな反発をもたらされてしまう。ローマ側は本腰を入れて、熱心党壊滅へ全力を傾けてきたのだ。バラバはしだいに追い詰められ、心を渇かせていく。
帝国の支配地でないがため、追えぬピラトの命を受けたアンティバスの手によって、惨めにガリラヤを追われたのだ。
道化だ。ギルガルに逃げ込むバラバを民衆は表面的に支持しながらも、荒れ野で叫ぶヨハネに救世主の姿を見ていたからだ。いくらそれがバラバの運命だといっても、信じて従う部下が気の毒だった。
それに盾となって殺されるローマ兵の多くは、支配を押しつけられた属州の兵士たちが多かった。帝国に抑圧される民といえば、肌の色が違うだけでユダヤ人と変わりがない。いくら殺戮しても彼らローマ兵の痛みにはならないのだ。むしろ同様の流浪民族同士で、殺し合いをしているようなものだった。
バラバは丘を降った。部下も続く。一気に砂塵が舞った。
逆側の丘からも満を持し、呼応したギメルが剣を月にきらめかせ駆け下りてくる。双方が真っしぐらに突っ込んだ。
頻発する熱心党の襲撃を想定していたとはいえ、夜明け直前に、不意を襲われた見張り兵士の動きは鈍い。大地に轟く馬の蹄に気づき「熱心党の襲撃だ!」と、大声で叫んだときには遅かった。バラバは至近距離にいた。
慌てて防戦しようとする見張りの兵士を斬ってすてると、弓を張る部下を残して、ひたすら中央の幌馬車を衝いた。
しかし見張り兵士の悲鳴に、仮眠していた兵士が続々と幕から飛び出してくる。必死に槍を突いてきた。
だが、まだ統制がとれていない。てんでばらばらに応戦しているだけだ。統制のとれていない軍団など烏合の衆と同じ、手向かう者を容赦なく斬りつけた。鎖状の帷子を外して喉元を狙った。見るまにローマ兵の死骸が、ばたばたと地に這いつくばる。
反対側では、そのローマ兵から魔人と怖れられるギメルが、憤怒の形相で剣を血塗らしていた。
とはいえローマ兵も歴戦の強者たち。むざむざと殺されてばかりはいない。隊長が大声で陣形を促すと、馬車を囲んで皆が槍を前方にかざした。自陣内へ熱心党の騎馬を侵入させない戦法をとった。その間、内側の兵士に着々と弓の準備をさせている。
「賊を狙わずに、馬を刺すのだ!」
指揮を執る、隊長らしき男の怒声がとんだ。
「イリヤ、火矢を射て!」
バラバは味方を遠巻きに退かせると、準備をさせていた後続の仲間に合図をした。
準備万端命令を待つ仲間と、せわしく弓を張ろうとしているローマ兵では差がありすぎる。燃えさかる矢が次々と幌馬車に刺さる。瞬く間に燃え上がった。
輸送兵士の役目は、総督に金銀、貢ぎ物をとどけるのが第一の使命。慌てて一部の兵士が消火に走る。たちまち陣形が乱れ隙が生じた。
バラバはギメルを促すと、再度、斬り込んでいく。炎に気をとられ気勢を削がれた兵士を斬った。かすり傷を受けながらも斬った。早く降参しろ――と心で叫びながら、斬って斬りまくった。
一角が崩れると強固に見えた布陣も案外脆い。しかもバラバとギメルの、敵陣を挟み込む形での接近戦。ローマ兵に勝機はなかった。
「うぬ、きさまがバラバか。我と、勝負せよ!」
地を揺るがす声とともに、正面から、赤ら顔の偉丈夫が立ちはだかった。
すでに隊長は、地獄絵さながらの血煙の中、彼らが誇りとするチュニカを朱に染めて倒れている。なら、この男は副将なのであろうか。
それにしても、身の丈四キュビットではきかない大男。ぶ厚い胸板はまるで鎧のようだった。しかも首まわりは常人の倍もあり、両肩の筋肉は幼児の頭ほど盛り上がっていた。剣先は同志の血を啜っているのか赤く滴っている。
バラバはヨハネといたときに、やはり立ちはだかってきた百人隊長カシウスを思い出した。だが、この男とカシウスとでは、すべてがまるっきり違っている。直感で知らされた。
武力では確かにこの男のほうが数倍も上であろうが、カシウスには、それを上回る執念があった。命のやりとりにおいて、その執念が勝敗を分けるのだ。
この男には、その武力以外なにも感じない。強いていうなら姑息なことか。バラバは、弓を持ち、岩陰に隠れたローマ兵士を認めた。
それも作戦というのなら、作戦なのだろう。
ローマ側にしてみれば半数近くの兵士が殺されている。戦局は大いに不利だ。バラバを倒す以外に、立て直すことは不可能なところまで追いつめられていた。
熱心党にしても死者はいないものの、重傷の負傷者が数名でていた。できればこれ以上の犠牲者をだしたくない、というのがバラバの本音だった。この最後の砦というべき副将を倒せば、あっけなく勝敗が決する。
「望むところだ、一気に片をつけてくれようか」
思惑の合致したバラバと副将は、たちまち離れて間合いをとった。
その空気はたちどころに伝播した。
たがいに斬り合っていた仲間も敵も、ぴんと張りつめた空気に気づき動きをとめた。懸命の消火によって煙だけが濛々と立ち込める中、固唾を呑んで勝負を見守る。
「ふふ」口を歪めて笑うと副将は長槍を構えた。じりじりと距離を詰めてくる。
バラバは刃こぼれの見える長剣を下段にすえて、静かに動きをうかがった。
だが副将は、距離をつめても槍の射程内にも入らない。側面の弓手を気にして接近してこない。姑息な策略を持つ男というのは、一律、目の前の勝負に集中できないものなのだろう。
万が一交錯して、バラバに当たるべき矢が不幸にも自分に当たってしまうのを恐れているのだ。それに、目まぐるしく動いたために、矢が射てなくなる状況も余儀なくされる。おそらく交錯するつもりはないに違いない。
例えていうなら密かに裏切りを決めた武将。まずは自分の身の安全を確保し、それで一人愉悦の表情を浮かべて味方を欺く。そんな卑劣な人間に似ている。
けれども鎧を装着しないバラバの衣から血が滲んでいる。反して無傷の副将との勝負。誰もが手負いの狼と獰猛な虎と思わせたようだ。潜ませる伏兵を差し引いても、バラバの不利はいなめない。
そのためギメルが、殺意を露わに副将へ剣を向けた。
「退がれ、ギメル! 退がるのだ」
バラバは諌めた。
「なれど無用の勝負」
ギメルは唾を飛ばして激高する。「戦局は我らに有利に動いている。ここで手をとめて、わざわざ対決をする理由が分からない。それにバラバあっての熱心党。何があっても戦わせるわけにはいかぬ」
ギメルは執拗に食い下がる。切っ先を副将に向けたまま引き下がらない。
「負けると思うか。信じろギメル。私は誰の子だ」
「おお」バラバの一喝に、ギメルは力なく剣を戻した。
元来が心配性の男ではなかった。自分本位で、勇猛だけが取り得の人間だった。しかし、ことバラバに関しては別だと言い続けた。
「け、美しい子弟愛なことだ。何と健気なものよ。だが、あの世で後悔しろ!」
言うないなや、ひたひたと間合いを詰めていた副将が、潜ませる部下へ合図した。
風を切って矢が飛んでくる。しかし隠れている場所も魂胆も知っていた。耳を澄ませると、小さな動きで矢を躱した。
しかしそれを卑劣漢が見逃すはずがない。ほとんど同時に槍が突かれた。
しまった! まともに貫かれると判断したバラバは、身体を捩って逆に間合いを近づける。
「肉ぐらい、喰わせやる」
元より獰猛な虎相手、無傷で勝負が決着つくとは思っていなかった。致命傷とならずまでも深手は覚悟していた。
だが一瞬遅れた。バラバの脇腹に鋼の切っ先がずぶりと突き刺ささる。体内に入り込む金属の異物に激痛を感じた。見るまに鮮血が飛び散った。
「バラバ!」
ギメルが、イリヤが心痛な叫び声を上げた。
急所を躱したが、どくどくと脇腹から血が溢れていた。血流が変わり、傷口にすべての血が集まっている気にさせられる。覚悟していたとはいえ、あまりの衝撃で気が遠くなりそうだった。視点も定まらず記憶も遠のいていく。しだいに膝も泣きはじめて力が入らない。
意識がぼやけると絵が浮かんだ。
間断なく降りつける雨、吹きつける風。そこに根源の声を見出そうとしても、答えは返ってこない。一面に広がる空漠の世界を眺めていることしかできなかった。
ローマ兵に雇われた人足たちが、衣を風にはためかせて十字架を担ぎ上げる。梯子をかけた者たちと声を合わせて穴の中に立てかけた。
どすんと大きく揺れた。
その衝撃で、全体重が両手のひらと足首に打たれた釘に震動を与えた。肉が裂ける。激しい痛みが三方向から頭へ上ってくる。寒気がした。頬から首筋にかけての神経が痙攣して、歯の震えを誘発した。唇を噛みしめることもできず、震えもとまらない。
真っすぐに立てられた十字架上。横に伸ばされたバラバの両腕は、その重みでだらりと垂れ下がり、かろうじて手首に打たれた釘で痛々しく支えられている。
皮肉にも、バラバの頭上の罪状札。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれた板が、笑うかに風になびいていた。
感慨深い。
しかし弟であるならば恩寵とともに天へ昇っていくが、バラバには地の底から伸びてくる無数の手しか見えなかった。きっとバラバの魂は、上昇することも叶わず下降していくのだ。
なら、それもよし。元々地上において残忍な殺人者、深淵で新たな戦いに挑むことも使命といえなくはない。
闇にひそむ支配者の手先、無数の手よ。私を、地の果てまで引きずり込むがいい。
決意したとたん、無数の手が消えた。雨がやみ、風が収まった。空が明るくなった。
エリ……?
血がたえまなく流れているせいか思考も定まらず、やけに喉が渇く。
と見覚えのあるローマ兵が、無言で穂先に葡萄酒を滴らせた布を差し出してきた。
「飲むがよい、ユダヤ人の王」
ローマ兵は、バラバを知っているはずなのに名前を呼ばない。
「おい、ローマ兵。そいつは自分も救えぬ偽善者だ。ほんとうのメシアだったら、死ぬこともないだろうし、十字架から飛び降りていくらでも飲めるはずだ。そんな嘘つき野郎なんかに飲ませず、俺に飲ませてくれ」
一緒に磔にされる罪人がバラバを罵り、首を迫り出してローマ兵へ叫ぶ。
「かまわぬ。飛び降りて、好きなだけ飲むことを赦す」
ローマ兵はつっけんどんに言葉を返す。そして「さ、飲むのだ」と、再度バラバへ差し出してくる。
バラバは吸った。ローマ兵に囁いた。
「この肉としての生命、父アッバスと同じ槍で絶たれたい――」
「それが望みであるなら、そうしよう。もともと引導を渡すのが契約、私の運命なのかもしれぬ」
ローマ兵は慙愧に耐えぬ表情を見せたあと、いきなりバラバの脇腹を槍で突いた。
バラバは荒々しく意識を取り戻すと、十字架上で刺されたと近い所に槍が刺さっているのを見た。相手は同じローマ兵でも別種の人間だった。してやったりとほくそ笑んでいる。
「ふざけるな!」
生々しく衝き上げてくる怒りが湧いた。バラバは、むんずと左手で槍を掴んで右手の剣を振り抜いた。
太い首が大きく裂けた。卑劣漢は地響きとともに倒れた。転がる生首からも血が噴き上がる。男は即死だった。
槍傷が胸を掻きむしる。ユダとヨハネの顔が浮かび上がり、バラバ一人がはぐれていった。救世主の前菜、そうは分っていても虚しさが消えることはない。
2
一ヵ月後の夕刻。
小アジアから吹きつける風が、痩せた山裾を這うようにして噴き上げてくる。バラバは、手で傷口を摩りながら岩場に立った。
錯覚だろうか、雲の流れがやけに速い。
気がつくと東南にあるべくはずの星が一つ消えていた。逆に、北の空に輝く星が一層の光を増している。
南で何かが滅し、北で動くものがある。まさに風雲急を告げている。
ここはエリコの北、エルサレムの北東にあたるギルガルの山中。熱心党の拠点の一つだ。総勢九十人が洞窟に少し手を加えただけの家で、僧院さながらに暮らしている。冬は暖かく、夏は案外涼しく、住居としては何の問題もない。
ただ、幼い子供が数多くいる。乳幼児から腕白盛りの少年少女たち、みな両親をローマ兵に殺されたか、貧乏ゆえに見すてられてしまった子供たちだった。
教育係はレビだ。
レビは荒くれ党員の中にあって唯一の知識者。剣よりも律法の似合う男であった。将来のことも考え、戦いには絶対に参加させない。そのせいか子供らも、レビにだけは畏まってラビと呼ぶ。
しかし一年で子供の数が倍になった。今では大人三十人に対して、子供の数が六十人である。食料の確保だって容易じゃない。
だからといって文句をいう者はいないが、心配なのはローマ兵による捜索だ。ピラトに限り、子供であろうと熱心党であれば容赦ない、殺戮に走る。ヘロデ・アンティバスの所有地ガリラヤと違い、ローマ直轄支配地のせいもある。
活動には確かに便利だが、そのぶん不安が大きい。なら、子供たちを早めにベトロホンへ移さなくてはいけないだろう。
すでにバラバは、リタの東ベトロホンに、子供たちだけの施設を作りはじめていた。アリマタヤのヨセフから譲ってもらった土地であった。
敷地は広く、花が咲き乱れてケルビムのような園だ。山地であるが町でもある。ギルガルのような殺伐とした拠点とは違う。
このままギルガルで生活させたら、熱心党員と見なされるの必至だし、いずれ成長しても過激な人間になるだけだ。何としても、子供たちを殺人者にしたくない。
しかしそのことは、まだギメルにもレビにも伝えていない。
バラバは、長い髪を紐で一つに括ると想いを風の流れに浮かばせた。
夢では終わらせない。ギメルもレビもイリヤも、子供たちと接触することによって変わった。
元々ギメルは孤児だ。異父弟ユダと、世を恨みながら生きてきたのだ。とことん性根を腐らせたともいっていた。ところがイリヤたちを救い出してから善性を光らせた。たぶん愛、子供たちの無垢な愛によって恨みが薄まっていったのだと思う。
と、物見の若者が声を軋らせた。
「バラバ、誰か来る!」
薄暗い谷を覗けば、馬が一頭、灰色の砂塵を巻き上げて疾駆してくるのが確認できた。かなり急いているのか谷を真っしぐらに突き抜け、休むまもなく丘を駆け上ってくる。
「子供らを家の中へ入れるのだ」
とバラバは指示し、念のため少数の若者に弓を持たせて戦闘配置につかせた。
「何ごとだ、ローマ兵なのか?」
騒ぎに気づいたギメルが、血相を変えて近づいてきた。三十八才、張りがあって精悍だった顔つきは、年令とともに弛みが見えはじめている。
バラバは被りを振り、無言で山道を指差した。
違う、敵などであるはずがない。もし奴らだったら、わざわざ馬一頭だけで疾走してこないだろう。ローマ兵は臆病だ。数にものを言わせて押し寄せてくるしか能がない。
ギメルはバラバの表情を窺い、近づく影を見る。
「ん、賊ではないぞ。あの黄色い衣と背の低さ、どこかに見覚えがある」
ギメルは必死に凝視した。そして侵入者を確認したとたん、大声を上げた。「やや、ユダだ。あれなる男は、まさしく弟に違いない」
うむ、と、バラバは短い言葉を返し、若者たちに「敵ではない、弓を下ろせ。武装を解除せよ」と、声を大きくした。
その一言で、辺りの張りつめた緊張が一瞬にして解けていく。だがバラバの胸中は複雑だ。何のためにきた? よもや雲の動きに関係が……?
ヒソップが密生する鬱蒼とした道を通り抜けると、ユダはやってきた。ギメルと久し振りの熱い抱擁を重ね、急ぎ足でバラバのそばへ近づいてくる。
「ヨハネが死んだ。ヘロデ・アンティバスに首を切られた――」
と、押し殺した声で言うなり下を向いて、あとの言葉は続かなかった。
「やはり死んだのは、ヨハネだったか」
努めて平静を装いながらも、共に過ごした日々がまざまざと甦ってくる。成長して変わったと思うが、バラバの頭には、勝気でそれでいて友思いの懐かしい顔しか浮かび上がってこない。
王家の子孫みたいな高貴な顔立ちをしているのに、いかにも不釣合いな駱駝の毛衣。生き方はあまりに真っすぐすぎた。自ら立つといいながら、弟に、弟子も信徒も譲り渡したと聞いた。ユダもそのうちの一人だ。
「ユダ、ヨハネは弟へ洗礼を授けたか」
居た堪れずに聞いた。弟子も信徒も差し出したのだから、万一していなかったとしたら無駄死になってしまう。
「昨年、授けた。この目で見たから間違いない」
ああ、ヨハネは……先立って、宿命をまっとうした。
だとして弟は動いているのか。民はヨハネを知っていても、まだ弟のことなど知らないだろう。奇術まがいに、水を葡萄酒に変えたぐらいしか耳にとどいてこないのだ。バラバは訴えかけるようにしてユダを見つめた。
「心配するな。ナザレのイエスは、今日の雲のごとく動いた。目立たなかったのは、ヨハネの存在があまりに大きかったからだ。だが、甘んじていたわけではないぞ。星の動きと風と雲、何か感じたはず」
ユダが目を逸らせて言った。「マリアと結ばれた」
「マグダラのマリアと?」
古い記憶だが、マリアは弟を怖れていた。他神との戦いのあと、わざわざ出向いてまでバラバを説得しにきたほどだ。では、たがいに妥協点を見つけ共通点を見出したのか。
「二人の間に情けが存在しているかどうかは分からない。けど、然るべきところから導かれたもの。偶然ではないと思う」
確かに偶然ではないだろう。だが、そこにルシフェルが介在しているかが重要になる。
「どうだ、弟とマリアにルシフェルの影はあったか」
単刀直入に聞いた。
「ない。しかし、マリアが儀式でしかないナルドの香油をナザレのイエスに注いだら、二人を見限る」
ユダは、弟にヨハネとの関係を切り裂かれたとも聞く。それで二人に恨みを抱いているとは思えないが、あきらかにヨハネの死に動転している。
ギメルが、肩に手を乗せて労わろうとしたが、ユダは払いのけると続けた。
「油を注がれて、ナザレのイエスがクリストになったとしても、そんなもの支配者であると広言しているだけだ。ヨハネを殺したアンティバスも、ピラトでさえも塗り油されているのだ」
ユダは目に嘲りの色を浮かべて憤慨している。言葉も荒くなった。そんなもの形式だけ、としか思っていないみたいだった。
「落ち着け、ユダ。洗礼でも塗り油でも、大事なことは施すほうに権威があるかないかだ。今のところヨハネ以外の洗礼に価値があるとは思えないし、ヨハネ以上の預言者はいなかった。その支配者の象徴とされている塗り油も、預言者を気どる偽善者が施したのだろう。しかしマリアは元来が巫女、魂が昇華されていれば充分権威はある」
バラバは言った。
結果的にヨハネは定められた道を歩いた。マリアも宿命づけられた道を選択しだしている。バラバにしたってそうだ、もう充分に嵐を起こした。あとは弟が民を癒してユダが憎まれ役を全うすれば、予定通りにことが運ぶ。
気がかりなのがルシフェルの真意。
ユダは、ルシフェルの影が二人にちらついていないと断言した。だったらルシフェルはどこにいる。
「ヨハネは、マケルスで殺されたのだな」
問い質す感じで聞いた。
「そうだ。ヨハネの首を望んだサロメも、後を追うように死んだ」
「サロメまでが?」
だったらリリス、お前はそれほどまで一途だったのか。バラバは情念を通り越して、その想いに怨念さえも感じた。
この世で人間として生きていくのには、必ず魂の縁のある男と女がいる。サロメとヨハネもそうなのだ。偲ない本懐を遂げたサロメが、次の機会で真剣に魂を悔い改めなければ、延々と宿命に泣かされ続ける。
バラバもまた然り。心を共鳴させた女性を独りよがりの感傷で置き去りにした。ばかりか、一度たりともミカと会おうとしなかった。レビとイリヤを使って様子を見に行かせただけ。
人間の男ほど身勝手な生きものはいない。会わずに我慢することさえも、浪漫と位置づけてしまうのだから。
思考をサロメからミカへ移行させていると、ギメルが「立ち話はこれぐらいにして、そろそろ中へ入ろうじゃないか。若い者も入れずに困っている」と、背を押してきた。
そういえば暗い、黄昏は消えていた。
ユダを交えて、ギメルやレビらと昔話に花を咲かせて食事を済ませた。その後、皆でバラバ専用の洞穴に入った。石灰岩を削って寝床を作り、そこに棗椰子の葉を幾重にも重ねただけの殺風景な部屋である。
バラバが蝋燭の灯りを点けると、ユダは岩の腰かけを見つけて座った。ギメルとレビとイリヤは、バラバが椅子に座るのを確認してから車座になった。
「そういえばマケルスに、アリマタヤのヨセフがきていたと連絡があったぞ。しかもそれは、斬首の当日だったともいう。ヨセフは、ヨハネとサロメ、両方の死に立ち会ったことになるな」
ユダが、意味ありげに言った。
「ヨセフどのが、マケルスへ?」
熱心党というより、バラバを陰で支援するアリマタヤのヨセフ。生い立ちも実生活も謎の多い人物だったが、ヨハネとの関わりはないようにも感じていた。でもピラトと交友があるのだから、アンティバスと親交があっても不思議ではない。
そうはいっても斬首の日というのが気になる。
「自分も、ヨセフどのに会うたびに思う。正直あれは、妖怪であるな」
「妖怪? どうしてですかギメル。土地と家畜を提供され、我らは恩義を感じなくてはならないのに、その言い方ではヨセフどのに失礼です。私はユダがいなくなってから、何度かミカのところへ行きましたが、二人はヨセフどのが食料を届けてくれると喜んでいました。もちろん親身になって世話していたのはラザロとマルタでしたけど」
ギメルの言葉にレビが剥きになって言い返す。そして付け足した。
「そのマルタとヨセフどのは、まるで知己のようでした。たまたま居合わせたとき、言い争いもしていましたが、言葉の端々に深い思いやりがヨセフどのから感じられました。決して妖怪などではありません」
ギメルが、にやっと笑う。違う回答を期待していたようだった。
バラバも、ヨセフに関しては言いたいこともあったが、ギメルの思わせぶりな態度に黙って聞くことにした。
「レビ、お前はかなり知性が高いと思っていたが、どうやら理論的な知識でしかないな。では聞くぞ、お前はバラバをどう思うか」
ギメルが目を向けてくる。
「どうって言われても、バラバは兄であり、父でもあるから……」
レビは言葉を詰まらせた。
「妖怪でもあるか」ギメルが意地悪く問い質す。
「ギメル、あなたはどうしてそんなことを聞くのです。そのように考えたことも、思ったこともありません。ただバラバが、私たちのために道を断念したことについては悔やんでいます」
レビが言った。
「その通りだよ、ギメル。自分たちは、堕ちるところをバラバに救われたのだから――」
イリヤが追随した。
「ギメル、何か言いたいことがあるようだ。吐き出してみたらどうなのだ」
先入観というものは怖ろしい。出生が出生だけに父の子と別格視されることもあったが、妖怪扱いされることだって事実だったのだ。
それを踏まえてバラバが言うと、ユダも「私も聞きたい、言ってくれ」と、ギメルにせがんだ。
「もちろん言う。けど、決して笑ってくれるなよ」ギメルは前置きしてから、どっと噴き出した汗を衣の袖で拭い、ゆっくりと回想しはじめた。
「ずいぶん昔の話だが、エルサレムの近くで、バラバとヨハネがローマ兵に襲われていたときのことだ。知らせを聞いて、絶対に間に合わぬとあきらめていた。父シモンも、バラバもヨハネも殺されてしまっていると観念した。しかし時を、いや運命を操作していた者がいたのだ。自分とレビとシモンは天翔けていた」
「そういえば……そうでした。私たちに『ギメルに知らせるのだ』と、馬を用意したのはヨセフどのだった。その不思議な感覚に、今でも思い出すと胸が高鳴ってきます。まして疾駆時、すべての時がとまっているのに、私たちの馬だけに羽が生えているようでした」
レビが目を輝かせる。
そのときのことはバラバも覚えていた。確かに静止した時の中で、ギメルたちの乗る馬だけが疾走していた。
「時間を操作しただと?」
考え込んでいたユダが、とつぜん頬を震わせる。身を乗り出してきた。
「ユダ、霊感が強いわりには鈍すぎるぞ。だがそれで自分が何を言いたいのか、ようやく分ったであろう」
「まさか、アリマタヤのヨセフとルシフェルが結託した?」
「そうではないぞ、ちょっと違う。言ってみれば同一なのだ。ヨセフどのとルシフェルがな。だから自分は、ルシフェルとは会ったことも話をしたこともないが、ヨセフどのを通じてルシフェルの匂いを判断できるようになった。しかも、じつにバラバと似た匂いを放っているとな」
「つまりそれは、アリマタヤのヨセフがルシフェルに憑依されているというのか」
ユダが、放心させた目をバラバに向けてきた。
出目からして謎につつまれた男、アリマタヤのヨセフ。ルシフェルが何のために憑依したのか分からないが『マケルスで会おう』と、ヨハネとの約束を守ったことは確かになった。
なら、ルシフェルが関わった人間の行く末を見届けるのも、今後のヨセフの生きざまとなる。
「もしかしたら、ルシフェルはこの先実像を見せないかもしれない。弟もマリアも、ヨハネもユダも、それぞれ与えられた道を選択したからだ。あとは最後を静かに見守るだけなのだろう。それとユダが危惧するルシフェルの憑依だが、低級霊の憑依と違って、いくつもの天を越えた天使でもある。心配することは何一つない。むしろヨセフどのの長所が引き出されて、好転していく可能性が高い」
「おかしいぞ、バラバ、それではルシフェルが神と同じ品格になってしまう。ルシフェルは神と真逆だから、ルシフェルではないのか!」
ユダが声を荒げた。
「敵対者であるといいたいのだな。だが、よく考えてみることだ。この地上はルシフェルの及びもつかない醜い悪に満ちている。その中でルシフェルは、前へ進もうとする人間に手ひどい試練を与える。だから自身に与えられた不幸や怒りを他者に向ける者が、ルシフェルをそのように思うだけだ」
「そうだとしたら方法が違うだけで、目指すものが神と同じになってしまうではないか。そのうえ、もう何も変化が起きないとルシフェルは楽観しているのか。冗談じゃない。これからだ、これから大きな嵐が起きて、ルシフェルと我らは真価を問われるのだ」
「でもユダ。話を聞いている限り、それはルシフェルではなく、たぶんに自身の問題だと思うのですが……」
レビが語尾を沈ませながらも、強く否定した。
「その通りだ、自身の内側にある神の神秘。意志は自らが握っている。それに、まだ終わったわけではない。ユダの言うように、この先、とてつもなく大きな嵐が待ち受けているに違いない。だからといって、望まない展開をルシフェルに向けたら負けだと思う」
バラバは、そこで話をとめてイリヤに水を持ってくるよう言った。イリヤは思うところを感じたのか走った。
「昔、隠れて見えない巨大な多面体の箱の色を、ルシフェルらに教えてもらったことがある。私は上面と側面しか見えなく、反対面と下面を気づかされた。だが、それだっていくつかある真実の一つにすぎず、真理ではないと分かった。真理とは、見えない箱の色ではなく箱の中身なのだから」
また、その真理とは受肉した神の子が人の罪を背負って死ぬことでもない。それで人の罪が消えてしまったら、人間として生きる意味がなくなってしまうからだ。罪を贖い、犠牲となって死んでいく神の子に何を感じるかだ。感じる者だけが、隠されて見えない真理を知ることができる。
けどバラバの場合は、また違う。人の罪ではなく、自分の犯した罪を贖わねばいけないのだ。それはローマ兵を殺し続けたことだけではない。バラバが生まれてきたがために殺された子供たちや、襲撃の際に命を落とした同士らを贖うことだ。
バラバさえ生まれてこなければ落とすはずもなかった命、使命を果たしたからといってどうして天上へ戻れよう。
救いは、次に生まれるときもまた縁に導かれて同じ場所で生きることが可能なこと。そのときは一生をかけて懺悔するつもりでいる。
イリヤが戻ってきた。壷に入れた水と小さな容器を持ってきた。
「すまない」バラバは礼を言ってから受けとると、おもむろに立ち上がった。否定していても、見せなければいけないこともあるからだ。
「弟が、マリアと婚礼を挙げたことまでは知らなかったが、その席で水を葡萄酒に変えたことぐらいは耳に入っている」
イリヤから受けとった壷の水を、皆に見せながら容器へ注いだ。
「この水を葡萄酒に変えるのは容易いことだ。ましてや、ヨハネのもとから連れてきた信徒の心を酔わすのは、もっと容易いことである」
神の子だから、肉親だから正しいのではない。友と誇れる人間に素晴らしい男がいた。バラバは、最後を見届けてあげられなかった悔いを抑えて、レビを近くに呼びよせた。
「ヨハネもできたことだが、しなかったことである。さ、レビ、飲んでみるがいい。どんな味がするのか――」
レビはおずおずと、舐めるようにして口をつける。と、口に含んだ瞬間、目を瞬かせた。これは? と困惑した様子で、バラバの顔を覗き込んできた。
「どうしたレビ、自分にも飲ませろ」
好寄心に駆られたギメルが、レビから容器を奪いとる。鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐと一気に飲んだ。
「おお、これは水ではなく、まさしく葡萄酒であるな」
満面に笑みを浮かべて、飲み干した容器をかざした。
「代えてきたな」
ユダがイリヤを睨みつける。弟への、本意でない恭順が輪をかけて心を折らせているみたいだ。
「ち、違います。自分は普通の水を瓶から汲んできただけです。わざわざ葡萄酒を壷に入れたりはしていません」
「だったら、私にも飲ませてほしい」
ユダは、ギメルに視線を移した。
「かまわぬが、容器の葡萄酒はぜんぶ胃の中に入ってしまった。信用できないのなら、自分で壷から注いで見たらどうだ」
訝しげに見つめるユダに、ギメルは素っ気なく言葉を返す。
バラバもヨハネも、今まで業を使ってこなかった。ただ一度、父アッバスがカシウスに斬られたときに癒しの業を使ったが、ユダはその場にいなかった。マリアの館で咆哮を上げたときにも、ユダは悶絶していて、何が起きたのかはっきり覚えていない。
「ユダ、壷の中は普通の水だ。容器の中の水だけを葡萄酒に変えた。それと、なぜ私がこのようなことをしたのかも言おう。それは弟が、まだ完全に目覚めていないからだ
「まず、水について浮かぶ人間がいるはずだ。レビ、答えるがいい」
レビに答を迫った。
「もちろん、バプテスマのヨハネです」
そう、言い換えればカナの婚礼の水のことでもある。
「なら、ヨハネから洗礼を受けた弟が最初にすることは、弟子たちの心から完全にヨハネを消し去ることでもあった。そのためには水を消して、自分へ心酔させなければいけないと考えたのだろう。それが弟の、まだ未完全の証でもあるのだ」
「でも、そうするとナザレのイエスは、足掻きながらも足を一歩踏み出した。とも考えられますが……」
レビが答を返してくる。
「うむ、間違いなく足を踏み出している」
希薄な情報量の中で暮らしていても、多少の情報は把握していた。だから弟が十二使徒を選出し、その中にユダとシモンが入ったこともとうぜん知っている。だが、その使徒の中に、弟が完全に目覚めていないと知るものは少ない。ことによると教えがぶれて、解釈に戸惑うことも出てくるはずだ。
ユダは、亡くなってもなおヨハネを拠り所にしているし、おそらく反発して運営にだけしか力を入れていないのだろう。シモンにしても義侠心の塊、、真理を知るにはずいぶん時間がかかりそうだ。
だとしたら、弟を完全に目覚めさせるのはやはりマリアしかいない。
レビも一緒に送るべきだった。バラバは後悔した。
見送ったのは、弟を警固する者をまずは必要と感じたからだった。武にも長じて信義に厚いシモンに比べ、レビの才質はまったく違う異彩を放っているし、時機尚早と判断した。
霊的に純粋なため、どちらかというとラザロに本質が似通っている。内なる自己に無垢な霊質が宿っているのだ。ヨハネの元に残り、弟はもちろんユダともシモンとも衝突するのは目に見えていた。それだけに躊躇いがあり、ギメルにも相通じる力を備えたシモンだけを送り出した。
が、今なら堂々とレビを送り出せる。そしてヨハネを見放した呵責から、心を苛ませるユダとマリアを支えてもらいたい。
「して、ユダ、バラバの家を守っていたミカとサラがいなくなっているが、どうした? レビとイリヤは会って話をしたらしいが、自分は会うことが叶わなかった」
葡萄酒を一気に煽り、顔をほんのり赤くさせたギメルが壁に寄りかかって足を投げ出した。バラバの心の内を知って、それで問いかけているのだろうが頃合いが悪すぎる。
思うに、ユダはヨハネの死によって自虐的になっている可能性もある。きっと教団内でも孤立しているのだろう。だからこそ安らぎを見出しにここへきた。友と兄と仲間がいるからだ。
それを責め立てる感じで問いつめれば、ミカとサラの消息に責任を痛感しているユダは、ますます孤立してしまう。
ユダへ目を向けることはできなかった。二人の名前が出た瞬間に顔を伏せてしまった。バラバが、いちばん責任を感じなくてはならないことだったからだ。ひどい仕打ちだと非難するユダの視線が、頭の上から突刺しているようにも思える。
「バラバ、どうして人を介さず、自分で会いに来なかった。ミカとサラは、いつかお前が迎えにくる。それだけを支えに生きてきたんだぞ。でも病気になって、この私でさえも、今どこにいるのか分からない状態だ」
ユダは拳を強く握ると、その理由を吐露した。「なぜ、と理由を知りたいか。それは、二人の病気が癩だからだ」
「癩!」
バラバは反射的に高まった声を上げた。
まさか、返す言葉が見つからない。癩とは生きる屍、その言葉は、心の奥深くへ食い込んだまま占拠していく。
でも、じき自分の使命の終わりも感じる。なら残りの生涯をかけて償えばいい。胸に秘める重大な決意を明日話したら、真っ先に捜しにいこう。
「確か凶報山の麓に、癩病者の住処があると聞いた」
ギメルが、憔悴を見かねて肩に手を置いてきた。
「捜し当てて、どうするというのだ。もし私が女で、恋い慕う男が捜しにくると知っても会う気持ちはない。どうして自分の醜い姿を見せられる。相手の心情を察すれば、会わないほうが賢明だと思うぞ」
ユダが、無駄だと反論する。
「治せませんか、バラバ。水を葡萄酒に変えたあなたです、そのぐらいは容易いことだと思うのですが」
イリヤが切々と訴えてきた。
元よりそのつもりだ。しかし葡萄酒と人間では根本的な意味合いが違う。
病気とは、その人の罪を赦すことである。人を悪戯に殺戮してきたバラバの、いったいどこに癒す権利があるというのか。人を癒すどころか、罰を受けねば道理が成り立つはずがないのだ。見つけても治せるかどうかは自信がない。
ただ、想いは変わらない。たとえ癩であっても愛した女性、必ず見つけ出して一緒に暮らしたい。もちろんサラとも。
それを口に出すこともできずに夜は更けていく。夜明けが、果てしなく長く感じられた。
翌日は澄んだ青空の中に、手でちぎったような白い雲がまばらに浮かんでいた。バラバは朝食を済ますと、広場へ全員を集めた。
いつもなら思い思いに休息をとったあと、それぞれに割り当てられた仕事をすることになっていた。集団生活というのは、そのような規則正しい歯車の中で成り立っている。だから予測外のことが起きると不安になるものだ。
ましてギルガルで生活する熱心党員は、カナの党員と比べて若者が数多くいる。三十代のギメルとバラバを除き、二十代前半と十代後半で構成されていた。
とはいえ安穏と暮らしているわけではない。ローマに目の仇にされた環境に身を置き続けている。今日一日がどんな意味を持つのか、一人ひとりが理解していた。明日のために生きていても、その明日が必ずやってくるとは限らない。戦いに負ければ土に還るしかないのだ。
ざわつく若者を見ながら、バラバは沈黙を破った。声を張り上げた。
「今、ガリラヤでメシアが誕生しようとしている。誕生すれば、我らの戦いも終息に向かう。よってギルガルを解体する。今日より一週間以内に五名だけを残して、ギメルを父とした熱心党員二十五名と、すべての子供をベトロホンへ移住させることにした」
とたん地鳴りのようなどよめきが起きる。まさに寝耳に水なのであろう。皆、それぞれ隣にいる者と顔を見合わせ大きな口を開けた。
苛酷な環境の中にいると、身近の小さな変化には感情を表せても、あまりの大きな変化にはぴんとこないものだ。実際イスラエル全土で、メシアによるうねりが起きているわけでもないし、ベトロホンが若者と子供たちの理想郷だとも知らない。
バラバは、ざわめきを制すると続けた。
「すでに土地は買ってある。粗末ながらも家も建てた。三日後には柵もでき上がって牛が運ばれてくる。鶏もいるのだ、めいめい世話をしろ。そして木を植えよ、花を咲かせて実を生らせろ。収穫は、すべてお前たちのものだ!」
言い終わった瞬間、やっと年若い少年たちから歓声が上がった。中には抱き合って喜び合う者も数多くいた。レビは昨夜の余韻を引きずっているのか、目頭を熱くさせ、万感の思いに胸を震わせている。
バラバは、そのレビの顔に視線を当てた。
「レビ、お前は熱心党を離れ、ユダとナザレへ行くがよい。ナザレのイエスの弟子となるのだ。それこそが信仰者の生きる道だ」
ユダは驚いていた。
今の熱心党にとってギルガルは行動の中核、カナは本拠地にしかすぎないのだ。そしてギメルとレビは、バラバの行動と信仰の両翼である。それを無理やり、片方を隠居させてベトロホンで子供たちの父とし、もう片方はナザレへ旅立たせる。
いくら何でも、その決定には疑問符がつく。三十人しかいない組織から五人だけ残して、いきなり全員が消えてしまう。ほんとうに大丈夫なのか、不安になった。
それにナザレのイエスが真のメシアになる確率は、皆が思うほど高くない。野心はいまだ消えていないのだ。いつも身近にいるユダがよく知っていた。
バラバ、視線の先に何を見ている。何が見えるのだ。
ユダの疑心をよそに、バラバは淡々とベトロホンに移住する人員の名前を発表していく。ベトロホン組はギメルを除くと、ほとんどが十代の若者で構成されていた。そのせいもあり名前を呼ばれると、嬉々として返事をしていた。
ユダはゆっくりと辺りを見まわした。
レビの心境は複雑なのだろうが、バラバの考えを最も理解している。ギメルだけが不服そうな表情を見せていた。どうしても離れたくないみたい
「一つだけ、質問を許してほしい!」
ついにギメルが叫んだ。皆の視線がギメルに集まる、
「ナザレのイエスがメシアになったところで、民の暮らしが変わるとは思えない。ローマによる圧政は変わらないのだ。力で対抗しない限り、イスラエルは不幸なままだ。それゆえ我らが活動を停止させてしまえば、いったい誰が貧しい人々を支えるのか」
ギメルの激情に、それまで歓喜していた皆が押し黙る。ユダも同感だと思ったが、静かに状況を見つめた。
バラバが、ゆっくり口をひらく。
「皆も聞くのだ」と、動揺を見せはじめる若い党員に伝えたあと、ギメルに向かって言った。
「ローマさえ倒せば、果たして幸せがくるのだろうか。束の間の平和が訪れるだけで、幸福はやってこない。ギメル、あなたは錯覚している。平和と幸福は違うのだ。どんな状況でも幸せは創り出すことができる」
そこまで言うと、バラバはギメルの方へ歩いていく。肩に手を置いた。
「この若者と少年たちを、まず幸せにさせるのだ。それは剣による戦いよりも難しい。そして、あなたがいなければ楽園は成り立たない。子供たちは殺人機械になるか、路頭に迷ってしまうのだ」
バラバの言葉がとぎれた瞬間、洞穴の中から、幼い少年たちが続々と飛び出してきた。
みなギメルの元へ走っていく。「父さん!」と叫びながら。一緒にベトロホンへ行く、若い党員までもがギメルの側へ集まっていった。
ユダは昨夜のことを思い出す。
夕食のときに、子供たちとじゃれ合っていた微笑ましい光景。ギメルの接し方は、厳つい容貌から想像もつかない父の姿そのものだった。無骨に見える反面、これこそが、ほんらい持って生まれた姿なのかもと感じた。だからベトロホンで再出発するのは隠された父性の一環だ。
ただバラバと数人の若者が心配で、素直に喜べないだけだと思う。カナにも党員が残っているし、もともと不器用こそがギメルの特徴。そんな簡単に割り切れる性格ではない。
ギメルは目の縁に少量の涙を溜めている。魔人の目に涙。だからといって、意にそぐわぬ別れを嘆く涙ではない。ギメルは知っているのだ。バラバの凄惨な死を。通じ合えばこそ為しえる感覚。ユダは、兄であるギメルと合い通じることができなかった。バラバが少し羨ましいと思った。
人を魅了して、なおかつ惹きつけてやまない不思議な魅力がバラバにはある。それは、人の上に立つ人間ならではの指導者的資質だと思っている。度量さえもないユダには、縁遠い才覚だった。
興奮の余韻が続く中、もう一度ギメルを見た。少年たちに囲まれながら、四十才に手の届かんとする壮年が、あきらかにバラバの運命を知り憂えている。が、少年の頃に感じたぎらぎら尖った眼差しは消えていた。むしろ穏やかな今日の雲のよう、澄んだ青空をより青く引き立たせてもいた。
愛、口先だけでなくバラバは育ませたのか。ならローマとの戦いの一方で、幼い魂らと気の遠くなるような触れ合いを実践してきたのだ。それも贖罪に変わりはない。
だったら、ユダの予見に浮かんだ十字架。あれは、もしかしてナザレのイエスか? バラバの身代わりに、ナザレのイエスがメシアとなって処刑された――。
というのもバラバは近づく死を覚悟しているが、十字架刑を望んでいないと思うからだ。
「ユダ、人というのは、つくづくやることが多すぎる。たかだか二、三十年生きただけでは人を幸せにできないものだ」
昨夜、寝しなに囁きかけてきた。
ミカとサラを捜し出すことも理由の一つだが、実がむすぶまで、人間らしく生を全うしたいからにほかならない。
反してナザレのイエスは、ゴルゴダでの処刑を望んでいる。とうぜんのごとく、神の子としての復活を信じているからである。
二人のうちの一人が、必ず処刑される。それは間違いないのだが、どちらなのかユダは分らなくなっていた。若い時分の予見と違い、最近の予見は特に判然としないからだ。
昔、ヨハネから「お前の予見は早熟、決して判断を見誤るな」と、苦言を呈されたことがあった。
そうなのかもしれない。力が底を突きはじめている。なら早急に事を運ばねば、道化となってしまう。強く自分に言い聞かせた。
終わりのはじまりがいよいよ近づいた。猶予はあと一年、こんなところで立ちどまっているわけにはいかない。何としてでも阻止しなくてはいけないことがある。
そのためだったら謗られても平気だ。絶対に土壇場で変転させてやる。別に自棄になっているわけではないし、開き直ってもいない。もともとの気持ちだ。バラバが道を定めたように、ユダにも覚悟が生まれた。
朝のきらきらとした陽射しが、しだいに強くなり、それぞれの想いを連れ去り南へ移動していく。陽はまた昇ると分っていても、そのあとを空しく追いかけるユダがいた。
エルサレムの暑かった夏が過ぎ去ろうとしている。
夕陽に照らされ、赤茶けていた城壁がくすみ出した頃。郊外にある丘の墓場と呼ばれる場所から、のそのそと数人の癩者が這い出してきた。
その這い出す動作で首にぶら下がる鈴が鳴る。いつのまにか十数人の癩者の群れとなった。
満足に歩けない人もいるのか、ふらついた拍子に道端の骨を蹴飛ばした。すて去られた癩病者の墓場である、禿鷲や鼠に喰いちぎられた死者の人骨が、至る所で野ざらしにされていた。
丘の麓にある、たった一つの井戸。不気味な幽鬼の集団が、鈴を鳴らしてゆらゆら向かう。汚れきった衣で、男女の区別も年令の違いも判別できない。ただ、かろうじてヴェールらしき布が頭にかけられているため、二人の女性がいるのはじっくり見れば分かる。でも、そこかしこの破れた衣の穴から素肌が見えているが、もう汚れた衣と同化し肌とは思えぬものだった。
ここ数年、この黄昏どきに誰かが癩病者たちに食物を与えていた。尊い行為であるのに市民たちからは喜ばれていなかった。癩病者など死ねばいいと、誰もがが思っていたからだ。
人間扱いされないうえ、家畜以下の仕打ち。すべて病気を移されたくないという卑しい考えからきていた。が、行為に文句をつけて阻止しないところを見れば、相当の実力者の息がかかっていると思ってもいい。
二人の女性は、謎めいた男から手渡されたパンと果実を受けとった。礼を言ってから、また鈴を鳴らして這い出してきた洞穴へ戻っていく。中には入らず、入口の近くに腰かけた。上空の星を見ながらパンを口にするつもりだろう。
「もう疲れた。このまま死にたい……」
一人が言った。
「あきらめてはだめ。心を折ってしまったら、楽しかった思い出までくすんでしまう。信じることが大切なのよ」
「でも、ラファエルなんて、エルサレムにいるのかしら。癩が治った人なんていやしない、それでも行くの?」
「行くわ。だって正しい心を持っていれば、ラファエルでなくメシアが現われて、いつか必ず……」
二人は姉妹なのだろうか、薄闇の中、幽霊のような青白い顔を浮かばせている。昼間、洞窟の中に隠れて出歩くことがないせいもある。
ユダヤの法律では癩を病む者は死者として扱われていた。殺されないまでも隔離され、癩の群れの中で住むのを定められていた。また、首から鈴をぶら下げることも義務づけられている。
彼らの唯一の希望は、羊門の側にあるベトサダの池。その池が、風でさざ波を立てると病人たちは競って水の中へ入る。ベトサダの池の水を動かして、ラファエルが癒しを行うと信じられてきたからだ。
いつ、波が立つか分からない。だから病人たちは一日中池のそばにいて、波が立つのを目を凝らして待っている。だが癩者たちに与えられる時間は、市民の多くが寝静まった深夜しか権利がない。近くにいるだけで空気が濁ると、石を投げつけられるからだった。
二人は羊門の方を向き、その先にあるギルガルの空を哀しげに見ていた。
3
駆け足で夏がすぎる。
ここガリラヤは、エルサレムと違って肥沃な土地、緑溢れる風が吹いていた。湖で獲れる魚と自然の果実に人の食は満たされ、放牧された羊たちが草原で満腹感を味わっている。きびしい徴税さえなければ、まさに天から恵みを受けた理想の大地であった。
だがエルサレム近辺に住むユダヤ人からは、異邦人の巣窟と呼ばれて蔑まされている。
土着したギリシャ人によるヘレニズム化のせいもあるのだが、それとは違う他民族による混血も多く、自然、反抗運動の盛んな地域だったからである。
秋の収穫も近づき、そのガリラヤ人、ユダヤ人、サマリア人で構成されるイスラエル人にとって、重要な仮庵祭が目前に迫っている。
ユダは胸をはずませていた。
カナの婚礼。その際、水を葡萄酒に変えたことによってメシア誕生の噂が一気に広まり、説教をするたびに数千人の民衆が押しよせるようになったからだった。
民衆だけでなく、信徒も着実に増えていった。マリアとヨハネの組織を、ナザレのイエスがそっくり引き継いでいたからでもある。ユダから見れば略奪とも思える行動だったが、反論する者は誰一人としていない。ナザレのイエスには、それだけ威圧する威厳があった。
ここカペナムにあるガリラヤ湖畔でも、ひとめイエスを見ようと、群衆の数、五千人近くまで膨れ上がっていた。
もっと集めてやる。そしてメシアにはさせず、ユダヤ人の王にとどめるのだ。矛先を祭司や律法者からローマへ向けて見せる。そうすれば、否応なしにローマも立ち上がらざるを得ない。
だったら、この五千人の民衆に武器を与えれば――いや過越祭に集まる、十五万人すべてに武器を渡すのだ。いよいよ、ナザレのイエスも革命家の首領でしかなくなる。
ユダの妄想がどんどん膨らんでいく。ナザレのイエスが目覚めぬまま、三十年間封印していた奇跡の能力を惜しげもなく発揮し出しているからだ。
悪霊に取り憑かれた狂人を正気に戻したり、中風で寝たきりの男も治した。イエスの衣に触れただけで癩さえも癒されるのだ。
ふ、武器などいらないかもしれない。このまま力を見せ付ければ自然暴動を呼び、おそらくローマ兵たちは剥きになって捕縛しようとするだろう。下手すれば、十字架より前に殺すかもしれない。
もっと、もっと噂を広めてやる。友であるヨハネを踏み台にして勢力を拡大したナザレのイエス、ユダはどうしても赦すことができなかった。
不安といえばマリアとレビだけ。二人は踏み台にされた友の屈辱よりも、人としての生き方、真理の解明に重きを置いている。ユダの心を見透かしていそうだし、何よりナザレのイエスの改心に心血を注いでいる。
でもそれは、必ず起こすのだ。
今現在、民からヨハネ以上の注目を集めている。すべてユダの描いた絵図通りに着々と進んでいる。革命だ! 打っても、誰一人反応しない言葉を、ユダは切なく何度も繰り返した。
眺めれば空が青い。けれども、いつなんどき雲に遮られてしまうか、ユダの不安は大きかった。それは歯痒くなるほど、人を牽引していく能力に欠けているからだった。
五千人の聴衆が、ナザレのイエスに向かって真剣に耳を傾けている。初秋の日射しを一身に浴びて、朗々と話すナザレのイエスの背中で、湖面が燦燦ときらめいていた。あたり前のことながら威風堂々としてメシアに見える。
バラバ同様背が高く、ふさふさとした黒髪を額から半分に分けていた。その髪が、ときおり秋光で亜麻色に変わる。雰囲気はバラバと同じだった。レビもさぞや、初顔合せをしたときには驚いたことだろう。
容貌も骨格も一緒、長髪を紐で括るか、括らないかの違いしかなかった。二人の生きかたに根本的な違いがあるはずなのだが、神々しさは変わらない。
一時間ほどの説教が終わりイエスが休憩を取りはじめたとき、数人が駆け寄ってくるのが見えた。
「カヤパの手先か?」ユダは動く。
ヨハネが死んでからというもの、律法学者たちの目は執拗にイエスに向けられるようになった。彼らは怒っていた。理由は安息日を守らないからだという。
詭弁だ。イエスを本物と認識をし、危うくなった自分らの立場に脅威を感じているだけだ。現に崖から突き落とされそうになったことだってある。石打ちの宣告が大祭司から出されていたのだろう。
石打の刑とは、寄ってたかって石を投げつけ罪人を死に至らしめることだけとは限らない。高い崖から突き落とし、即死させることも立派な石打ち刑なのだ。
でも駆けよってきた男たちに、そのような殺意は感じられない。が念のため、ユダは先回りをして立ちはだかった。
今のユダにとって、イエスは大願を成就するための大事な宝なのだ。誰であっても邪魔されたくない。どんなことをしても迫害者は阻止する。
イエスのためではない、自分のためだ。悲壮に手を広げ行く手を塞いだ。男たちの足がとまった。
「通せ、ユダ! 我らはヨハネの弟子として、どうしてもナザレのイエスに聞きたいことがあるのだ」
よく見ると、男たちはシモン・マゴスとドシテウスらであった。確かにヨハネの弟子たちに間違いはない。
しかし質素な生活を貫いていたヨハネに比べ、二人の服装は奇麗すぎた。純白の衣の上に、それぞれが赤と青の衣を重ね着し、襟には金色の刺繍を施しているのだ。まるでサドカイ派の祭司としか見えなかった。ヨハネの弟子と大声で名乗るわりには、あきらかにヨハネの教えと食い違っている。
まして、どこか態度に慇懃さが見えたし、表情の端々に毒も感じる。もしかしてマゴスとドシテウスは、悪霊などの類にでも憑依されているのか。とさえ思考を飛躍させられた。
ユダの脳裏にルシフェルの面影が浮かんだ。でも違う。ルシフェルに憑依されると怖いまで崇高になる。このような下卑た表情にはならないのだ。
彼らはまがりなりにも宗教者。暴挙に出るとは考えられないが、万が一の場合もある。ドシテウスの話術は凶器でもあったし、マゴスは魔術を使うと噂されていたからだ。
「話なら私が聞こう」
ユダは別の意味で危険を感じ、声を上ずらせた。
「退け、ユダ!」マゴスが声を軋らせる。
「そうはいかない」ユダは言い返した。
「ならば、どうあっても通さぬというのだな――」
マゴスは韻を含んだ語尾を強める。と、次の瞬間「ええい、裏切り者のお前なんぞに邪魔されたくない。邪魔だ!」
マゴスは呪文を唱えると、ユダの肩を手のひらで軽く突いてきた。それだけで、ユダの身体は二十キュビット弾き飛ばされた。魔術を使ったのだ。したたか背中を木に打ちつけられた。
騒ぎにイエスが気づく。ユダを見て、それからマゴスとドシテウスを見た。
空気が立ちどころに変容した。
ユダは何とか立ち上がると、再度マゴスの前に立った。群衆もイエスとマゴスの一挙手一投足を見つめ出す。
そこへ「やめてください、マゴス」と、線の細い声が飛んだ。
誰かと思えば、アンデレが青ざめた形相でやってきた。
イエスの弟子たちの中でも、大人しい部類のアンデレである。相当の勇気を振り絞らなければできない行動だった。しかしそれも軽く一蹴させられる。
「ふん、ここにも裏切り者がいたか。引っこめ! 節操も信念もない奴らだ。お前もユダと同じように、吹き飛ばしてくれるわ」
マゴスはユダにしたように、手のひらを広げてアンデレの肩を突こうとした。
気性の荒い男だ。その攻撃性から、民衆の一部から悲鳴が起こる。誰もがユダの二の舞になると思ったようだ。
「マゴスよ、してはならぬ!」
と、イエスが決然と叫んだ。低く、重厚な声だった。楽器に例えるなら打楽器、一瞬にして辺りをを静まらせた。
「ばかめ、遅いわ」
マゴスが下卑た言葉を吐きすてた瞬間、イエスが目から強い光を放つ。
「きさま……俺の腕に、何をした!」
マゴスの腕はだらりと下がって動かない。両腕は、見るまに真っ赤に腫れた。
「怒鳴らずに謝るのだ。ユダにした行為、アンデレにしようとした行為。わたしを冒涜しているようにしか思えない」
イエスが悠然と近づいてくる。マゴスは口を歪めて嘯いた。
「冒涜だと? 偽善者のくせして気でも違ったのか。それに見ろ、俺には聖なる力があるのだ。お前と同様、いや、それ以上のな」
「そうであろうか、わたしには、少しもそうは思えない。大方どこぞで邪悪な力を会得したにすぎないのであろう。わたしの力とは根本的に違う」
マゴスの顔色が変わった。小心者が、ずばり核心を見透かされたときの狼狽した顔つきだった。
勝負がついたなと、ユダは思った。あとは燃えさかる焚き火に水をかけるようなもの、勢いよく灰を噴き上げれば、すぐにもしゅんとなる。
「何だと! どこが違う。俺は水を葡萄酒に変えるどころか、そこらに転がっている石ころだって、すべてパンに変えることもできるのだ。それだけではない。病人だって治せるし、死人だって甦らせることができる。なのに、どこが違うというのだ」
マゴスは民衆に聞こえるよう、わざと必要以上な大声を上げた。ユダには蝋燭が消える寸前の喘ぎにしか思えなかった。
しかし民衆は、そこまでの心理は読めない。
「おお!」と、歓声を返し、たちまち騒然となった。
神にしかできぬと思ったことが、救世主のみならず、名も知らない一介のヨハネの弟子にもできるというのだから期待を膨らませたようだった。
「では教えよう。人間に限らず、動物や植物、そのうえこのような石にさえ神秘的な熱量が備わっているのである。マゴス、あなたは力を溜め込んで放つという、ほんの一部分を会得したにすぎないだろう。しかしわたしの力は、究極ともいえる聖霊の為せる業なのである」
イエスが噛み砕いて説明するのだが、マゴスは理解しない。
そこへ民衆の一部から、マゴスに奇跡を見せろとせがむ声が上がった。たちまち大合唱となって轟き、叫び声は湖面に反射して山々へこだましていった。
気を取り直したマゴスは自らの腕に渇を入れ、腕の腫れを消す。群集が瞠目する中、勝ち誇ったように両腕を天にかざした。煽られて、いよいよその気になったようだ。ヨハネさえ言わなかったことを、イエスに向かって話し出した。
「俺は水の洗礼者、バプテスマのヨハネの遺志を継ぐ、預言者シモン・マゴスだ。師ヨハネは、ナザレのイエス、お前をメシアとは認めていなかった。唯一、認めたのがこの俺だ」
「ばかな、ヨハネがそんなことを言うはずがない」
ユダが思わず否定すると、イエスが声を出して笑った。
が、その笑い声が消えると、二人の姿は忽然と目の前から消えていた。何が起きたのか? 皆、首をまわして行方を捜した。
「あそこだ!」
ペトロが指さした。二人は湖の真ん中にいた。湖面に立ち、イエスが手をかざした状態でマゴスと浮かんでいた。
「奇跡だ!」
群衆が驚嘆の声を上げる。騒然と波打ちぎわへ移動する。
二人はしばらくの間、穏やかな湖面から一メートルほどの距離を置いて浮かび、対峙していた。イエスの真理を問う声が水面を滑って陸地にとどく。マゴスのあたふたと返答する声も、間を置いて伝わった。
いくら修行先が一緒でも、ものが違うな。まったく相手にならない。
ユダは一人含み笑いをして、ペトロへ言った。
「すでに勝負はついている。その舟を漕いでマゴスを助けるのだ。いつまでもメシアの振りしていても無理がある。とうてい岸まで泳げまい。放っとけば溺れ死んでしまうぞ。たとえ事故でも、殺してしまえば民の心は離れる」
「それはそうだ。よし分った」
ペトロは、急いで船を湖の中央へ向けた。と、同時に、イエスの声が湖面から響く。
「ではマゴス、岸まで歩いて戻ろうではないか。あなたも能力者なのだから、歩くなり、飛ぶなり好きにするがよい。もし戻れたなら、続きの話を存分に聞こう」
「待て、乱暴なことを言うな。俺は水の上を歩く術など試したことがないのだ」
マゴスが哀れみを乞うようにして、イエスを見る。ユダには、それがひどく卑屈に思えた。
「何を言うか、マゴス。肉体を空に浮かすというのは初歩の術。聖霊と繋がっていなくても、訓練すれば誰にでもできる業である。ヨハネの後継者と豪語するそなたが、よもやできぬとは言うまい」
マゴスの哀願を無視すると、イエスはかざしていた手を下した、優雅に水面を歩き出す。
「まずい、ペトロ急ぐのだ!」
ユダは声を軋らせる。
船は、あと一歩のところまで近づいていたが、とても間に合いそうもなかった。マゴスはペトロに手を振って助けを求めつつも、水飛沫を上げて顔を沈ませていく。
民衆はペトロに引き上げられるマゴスを見て、溜息にも似た失望を浮かばせた。湖面を悠々と渡るイエスを見て、改めて本物の救世主と確信したようだった。
一方、ペトロに救助されて岸へ戻ったマゴスは、船から降りる直前、水と一緒に汚物を吐いた。
「何だよ、汚ねえな。吐くのは水だけにしてくれよな」
ペトロの毒舌が民衆の嘲笑を誘う。羞恥心からか、マゴスはその場を逃げ出した。
マゴスの醜態を見てもなお、ドシテウスが腕まくりをしていた。
ユダは感情を抑え、低い声で伝えた。
「頼む、ドシテウス。これ以上ヨハネの品位を傷つけないでほしい。お願いだから、何も言わず立ち去ってもらえないだろうか」
ユダの忠告にドシテウスは耳を貸さず、逆に、群集へ聞こえるほどの声を張り上げた。
「ナザレのイエスよ、よく聞くのだ。マゴスも私も、つきつめれば君の兄弟子にあたる。そこに傅くユダもアンデレもそうだ。そして、わずか一年で師を足蹴にした、シモン・ペトロもヨハネの弟子だった。それが聞くところによると、君はヨハネの弟子になったことを後悔していると聞いた。いったいどういうことだ」
マゴスと違い、魔術を使わぬドシテウスは、ヨハネの次に真理を悟っていると目されていた。そのせいか泰然として巌のように堂々とした口調だった。とにかく声が朗々としていて甘いのだ。ユダは、イエスがどう答えるか心配した。
「ヨハネは偉大だった。だが、その浅さを見抜けず、最後まで残った弟子にまともな者はいない」
「君も、その弟子だったはずなのに、師の中傷を言えた柄だろうか」
イエスの返答に、邪まな笑みを浮かべ、ドシテウスは鼻息を荒くして言葉を弾いた。
「以前にも一度、あなたに言ったはずだ。わたしは救世主として生まれ、ヨハネは単にその使いなのだと。理解できないのであれば、もう一度イザヤなり、エリヤの預言書でも読み直すべきであろう」
イエスはあっさり切りすてた。ドシテウスは言葉を返せず臍を咬んでいる。
民衆から感嘆の声が生まれ、イエスを神格化する気運が強まっていく。
ユダの思いは複雑だ。イエスとはまだ二年の付き合いだが、ヨハネとは二十一才のときから共に暮らし、想いを語ってきた仲だったのだ。
決してヨハネは、単なる使いなどではなかった。ただ自分でも言っていたのだが潔癖すぎた。その潔癖さゆえに立場を自覚していた。
「まず私が先に死ぬ。そして三人が、同時に同じ地で死に遭遇し、一人だけが生き残る」
ユダには、その三人が誰であるか分かっていたが、生き残る者の名が読みとれなかった。託した預言はユダの予見とは違い、まるで投げかける暗号のよう難解な言葉だった。
「ではもう一つ聞こう。君は、師ヨハネから洗礼を受けた。ならば師の洗礼とは、天からのものであったのか、それとも人からのものであったのか、答えよ」
ドシテウスが形成挽回を狙い、まくし立てた。
ユダは辟易した。けれど質問の内容は巧妙だった。絶妙といってもいいほどの作為を感じた。
イエスが天からのものだといえば、天が定めたヨハネの後継者と認めたことになる。ヨハネがメシアとなるのだ。別にユダとしては救世主が何人いようと関係ない。けれど民衆はそうはいかない。
ユダヤ人にとって神とは、唯一ひとりしかいないのだ。イエスがヨハネを救世主と認めれば、イエスは唯の弟子になる。待ち望んでいた者ではないと自らが立証したことと一緒だ。また逆に、人からだといえばヨハネを愚弄し、自身にも権威がなくなる。
ばかりか民衆の心を捉えてやまなかった預言者を、絶対に愚弄してはならないのだ。ユダヤ人を目覚めさせ、敢然と一人荒れ野で叫んだたヨハネを、みな神格化した目で見ていたからだ。
ユダは、イエスをやるせなく見つめた。そして自分の理念が、情によっていとも簡単に変えられてしまう脆さも発見した。バラバの影響なのか。
知ってか知らずか、イエスは淡々と答える。
「天からのものである」
瞬間、民衆から溜息が洩れ、辺りが騒然となった。口々に言葉にならない言葉を発し、顔を見合わせていた。
するとドシテウスは、大声を張り上げて民の動揺を断ち切った。
「はっはは、似非メシアよ。これで、師ヨハネこそが真の救世主であることを認めたか。引っ込め! 今すぐナザレへ帰って大工の仕事に励むのだ。それが君には、いちばん良く似合う。私こそが、真の救世主たるヨハネの意を受け、正統に引き継がれんとする者だ。みな私に従うのだ。偽救世主などに騙されてはいけない」
くしくも雲が太陽を隠す。辺りは暗くなり、イエスの存在を淡くする。ねぐらへ向かう烏の大軍が横切り、確とした真実を見出せぬ民の不安を、いよいよ募らせた。
それこそドシテウスの思う壺だった。鼻高々にイエスを見下した。
がドシテウスの立つ場所は、足元の不安定な崖の上ともいえた。ユダには、ドシテウスの真下に絶望の淵が口を開けているのが見えた。
イエスは首を振り、分からぬのなら、分かりやすく説明しよう。と静かに話し出す。
「ドシテウスよ、あなたは勘違いしているようだ。確かにヨハネは聖霊と繋がっていた。でも、わたしはヨハネの洗礼により繋がったのではなく、甦らせただけなのである。ゆえにわたしとヨハネでは、神と天使ほどの差があることを忘れてはいけない。それに悪いが、あなたと比べるものはない。強いて言うならば、熟した葡萄と排泄物ぐらいの差であろうか。よく聞くのだ。わたしの洗礼は水ではなく、神と聖霊による洗礼である!」
イエスの答えに、ドシテウスが一転、膝から崩れ落ちた。
ある意味、当然のことと言えた。ドシテウスは、純粋な目でものごとを見ていないからだ。ほんらいあれほどの知識と真理を知りつくしていれば、ひとかどの指導者になり得たはずなのに。やはり嫉妬なのであろうか、ユダは心を暗くさせた。
負けを認めたら、泣けばいいのにとユダは思った。心の汚れは泣くに限る。泣けば、涙ごと嫉妬も驕りも、人の内面に忍び込む悪心も洗い流してくれる。
もはやイエスは、ユダもドシテウスも見ることはなかった。岸辺に向かって歩き、大岩の台座に立った。民衆へ向かって優しい口調で話した。
「偽預言者に警戒しなさい。彼らは羊の皮を纏って、あなたたちを誑かそうとするが、正体は強欲な狼なのである。サタンとなんら変わりはない。あなたがたはわたしを信じれば、彼らの結ぶ実を見て、その正体を見分けることができる。茨から葡萄を、あざみから無花果を取ることができるだろうか。すべての良い木は、良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶのだ」
群集がドシテウスを睨んだ。かなりの痛みを感じる手厳しい視線である。蹲るドシテウスを見ながら、何よりイエスに戦慄を覚えた。
イエスは聴衆を見渡した。聴衆が、端から順に気圧されていく。
シモンもさすがに驚きを隠せないようだった。それは同時に、バラバと見比べているのかもしれなかった。シモンはバラバと十一年過ごした。対してイエスとは、まだ二年も経っていない。それでもその差を感じさせない威容をイエスは放っている。シモンならずとも心を動かされるのは、無理からぬことだった。
きっとシモンは感服しているのだ。べつに、いけないことではない。現にバラバは殺人者であり、表向き、イエスは救済者であるのだから。
でもユダは寂しかった。イエスの存在が大きくなればなるほど、バラバとヨハネがかすんでいく。
イエスの視線がユダに当てられる。まるで午後のうららかな日射しのよう暖かく、思わず溶け入ってしまいそうだった。あまりに和らかくて、秋光に微睡む羊みたいな気分にさせられる。
ユダは目を逸らした。逸らさなければ受け入れて、ユダがユダでなくなり、本質ごとすべてを変えさせられてしまう。そんな気がしたから。
イエスが言葉を続ける。
「わたしは光である。わたしに従う者は、けっして闇の中を歩くことはない。目を逸らさずに、わたしを見つめなさい。見つめる者だけに、命の光を与えよう」
聴衆が膝を立て、わずかでもにじり寄ろうとした。空気は完全にイエスに支配されていた。ドシテウスを除いて、目を逸らせたユダ一人が浮いている。
皆がみな聞き耳を立て、肯きながら熱い視線をイエスに返している。言葉に酔い、心を奪われて覚醒されていく。逃げるようにして姿を消すドシテウスのことなど目に入っていないだろう。しょせん調味料、主役を引き立たせたら用済み、忘れてしまっているようだった。
いつのまにか陽が西へ傾きはじめた。気がつくとイエスは、集めさせた石ころをパンと魚に変えて、五千人全員に食べさせていた。
他の弟子たちが、次々とイエスによって繰り出される奇跡に驚愕しているのに、ユダ一人が、特別な感情を抱かずに醒めていた。
もはや何でもありなのだ。イエスは自らを光、メシアと宣言した。ある程度は想定していたことだ。これぐらいの奇蹟で驚いていたら、前へ進めない。この先何が起ころうともごく自然に受けとめ、振舞っていくしかないのだ。
ユダは逆転という目的のため、胸を切なくさせながらもイエスの勝利を前向きに受けとめた。
思い違いだと知っていたが、過ぎ去った日々が暮れゆく夕陽と被り、まるでヨハネのような気がした。ヨハネは俯きかげんにユダを見つめ、湖面にいっぱいの涙を溜めていた。
日の沈んだ湖からの、ひんやりとした風がユダの頬をつんつんと撫でた。
4
次の日。ユダは、イエスらとともに船に乗ってガリラヤ湖東端に向かった。めずらしくマリアとレビも同乗した。
理由は誰も知らなかった。けれどもイエスが「あなたたちに見えぬものを、心で見せて、感じとってもらいたいことがある」と、強く勧めたからである。
澄んだ青空の下、船はゆっくりと岸を離れていく。進行方向の頭上に、水鳥が優雅に飛んでいた。ときおり急降下して小魚をついばむと、また舞い上がる。
その水紋が浮かぶ中、船は進む。ペトロは両手を突き上げて、大欠伸をさせている。ユダは船縁に座り、イエスの心を考察した。
今度は、何の劇を見せる。
群衆はいない、であれば対象は信徒だろう。そのためにマリアとレビを同行させたのか。考え込んでいたら、イエスがユダを見て笑った。
「ユダ、よけいなことを考えすぎないほうがいい」
そのせいなのか、湖の中央までくると打って変わって天候がおかしくなる。とつぜん突風が吹いてきたのだ。帆が大きく孕んだ。空が黒雲に覆われ、暴風が帆を揺るがせる。船体は大きく傾き船内が水浸しになった。
帆が裂ける。欠伸をしていたペトロが、目を白黒させてイエスに叫んだ。
「先生、大変です。船が転覆してしまいます。助けてください」
アンデレも震えて祈り出す。シモンはさすが元熱心党員、臆することなく、風の中心を睨みつけていた。
ユダは空を見た。この上空だけだった。数百キュビット先は澄み渡り、真っ白な雲が浮かんでいる。
イエスが平然と言う。
「あなたたちは霊というものに対して、どう思われるのか」
アンデレが首を傾げ、祈りを中断して考えている。答えようにも考えがまとまらないようだった。
マリアとレビはイエスと同じものを見ているのか、顔を見合わせて頷き合っている。逆にペトロは、目にありありと不満の色を浮かべ、再度、声を上ずらせて叫んだ。
「いいかげんにしてください。私たちが、ここで死んでもかまわないのですか」
ユダも理解できた。この急激な天候の異変は、病んだ霊の為せる業なのだ。イエスを怖れるあまりに動揺した、悪霊の起こした所業にほかならない。
死んでなお現世に執着し、怨念の塊となって、上昇すべき魂を浮遊させた人間霊。しだいに魔に魅入られ、操られて悪しき霊となった。悪を善と、暗闇を光と錯覚させられている。
なら、イエスであれば鎮められる。
そうか。イエスは、その力を我らに見せつけるためにここへきた。
力の誇示、ユダは辿り着かせた思考に渇きしか覚えなかった。マゴスとドシテウスと同様、叩きのめして追い払うのだろう。
しかし、今日はマリアとレビを連れてきている。二人は求道者、そんな浅はかな慢心では納得しない。これは見ものだと、ユダは思った。
察したのか、イエスがユダの目を冷ややかに見て船首に立った。強風をものともせず、空に向かって手をかざした。
「聞け、迷える霊よ。鎮まるのだ!」と、天にも轟くような声で一喝した。
くしくも裂けた黒雲から反発が起きる。見えない者にとっては風の唸りぐらいにしか思えないが、底辺に哀しい旋律を伴う侘しさを、ユダは感じとっていた。
怖がっている?
咄嗟にシモンが武器もないのに身がまえた。アンデレとペトロは、何か感じているみたいだが、きょとんとしている。マリアとレビは瞳に最大限の慈愛を込めて、霊たちを癒すように祈り出した。
すると霊の姿が、くっきり見えた。彼らは差別され、虐げられて罪を犯した人間霊だった。悔いることも、然るべきところに向かうこともできない哀しい憎悪の集団たちだった。何人もの意識が一つの塊となって憤怒していた。
「来るな、これ以上、近づくな! 偉そうにするナザレ人よ、出ていくのだ」
と風に乗せ、張りのない声で叫んだ。
イエスは、やや声を低く落として問いかけた。
「言いたいことがあるなら聞こう、訴えるがいい。対処しよう」
「訴える? 訴えてどうなるというのだ。救う気もないくせに戯言を言うな、これでも喰らえ!」
霊たちの行き場のない感情が、思わぬ反発をもたらせた。
とたん雲がちぎれて飛んできた。凍りつかせた凶器と化している。さっと身を躱したイエスをすり抜け、ユダへ向かってきた。
「まずい!」と思ったが、身体が上手く反応しない。
シモンが慌ててユダを押す。黒雲は船縁を砕いた。板が割れ、過ぎ去った後には、人の顔二つぐらいの穴があいていた。
ペトロが腰を抜かした。
「レギオンよ、わたしは、あなたらを知っている。臆病ゆえに悪魔の手先となった霊たちだ。これ以上、悪さをすると、二度と地上に戻れぬ深遠の淵へ堕とすが、よいか」
イエスが容赦なく言い放つ。すると、立ちどころに哀願する声が聞こえた。
ユダには、霊たちの荒ぶった感情が治まっていくようにも思えた。霊たちは終わりを望んでいた。誰かに存在を理解してもらい、そして打ち砕いてほしかったのだ。イエスの恫喝もだが、マリアとレビによる祈りの効果は絶大だった。
「お願いだ。それだけは、それだけは……」
と泣き叫び、姿を消した。
太陽が顔を覗かせ青空が戻っていた。穏やかな水面を、魚が飛び跳ねている。
振り向くと、ペトロとアンデレが祈っていた。マリアとレビは、すでに祈りを終えて立ち上がっている。
イエスが二人を見て笑った。その気配にペトロが目を開けた。
「先生よ、ひどいではありませぬか。なぜ、祈りを捧げている私を笑うのですか」
ペトロは、幼児のように口を膨らませている。イエスは答えた。でも少し難解だった。
「あなたを笑ったのではない。あなたがたが自らの意思によってではなく、あなたの神を称えるために祈りを捧げていたからである」
ペトロが意味をつかめず小首を傾げた。けどユダには、イエスが何を言わんとしているかすぐに分った。
イエスは神ではなく、自らを指して言っているのだ。だから、あなたがたの神とはイエスのことだ。
「師よ、あなたは神であり、神の子です」と、声を震わせながらアンデレが言う。
「どうしてあなたがたは、わたしを分っているというのですか? ほんとうのことを言いますが、いかなる世代でも、わたしを分かる人はいないでしょう」
イエスが言った。ユダは心で反発する。ヨハネも知っていた。バラバだって。
けど、そんなことは言えない。
「あなたが誰で、どこから来たのか知っています。でもまだ人として神でもなく、神として人でもない。単なる人としての人。あなたの口からでる言葉も、そこから生まれていない」
気がつくとユダは、思ってもいないことを口走っていた。それを聞いてレビが、よせとばかりに衣を引っ張った。
「ほう――」と、見下すかにユダを見つめ、イエスはまた話す。
「とても、そこまで真実を知っているようには思えぬが、ユダよ、そなたを、そこへ引き上げるのは誰であろうか」
「それは……」
言葉につまった瞬間、ユダに裏切りの絵が浮かび上がる。
裏切ることによって、自分の魂が引き上げられるとは思わない。でも、いったい誰を裏切るのか。ユダは、ずっとイエスだと思っていた。
しかし違う。反目しているわりにはイエスに対して、思った以上に忠実な生き方をしている気がするのだ。だとしたら、目の前にいる不誠実極まりない神の子に甲斐甲斐しく恭順し、友であるバラバを裏切るのか。
ああ、バラバ。神の仕組んだ絵の中に埋もれた神の子。お前はすでに父である神から見放され、今また弟から切りすてられた。
ユダは、バラバが不憫だと思った。この先、神の示した光はナザレのイエスだけに当てられる。もうどう生きようが、二度と日の目を見ることがないように感じられた。比べるにも、ナザレのイエスとの運命、力の差は歴然。いかんともし難い事実だ。
心をへこませるユダを見て、イエスは言った。
「ユダよ、レビもシモンも聞くのだ。あなたがたの見た生贄の牛は、あなたがたに道を誤らせる人なのである。すでに無限は、わたしに光を与えた。いいかげんに頭から亡霊を消し去るべきだ」
三人が三人とも黙った。シモンが切り出した。
「イエス・バラバは恩人、自分に道を誤らせたとは思いません。けれども、師、あなたには光の道が開かれているのを感じます」
シモンは無口なほうだが、義を人一倍重んじる男。共に過ごしたバラバの悪口を、たとえイエスが望むことであっても、絶対に言う男ではなかった。それが、軽んじた。
「イエス・バラバ、だと!」
ペトロが語気を荒げた。「その者は、盗人で殺人鬼ではないか。愛を知らしめる我が師と道を相反する男だ。それをシモンは、誤っていないというのか」
「ペトロ、あなたは前々から短気な人間です。なぜ真実を知りもしないで、まるで敵対者であるかに言うのですか。それともあなたは、イエス・バラバがどのような経緯で生まれてきたのか知っているとでもいうのでしょうか」
レビがペトロを諌める。
「殺人鬼の経緯なんかに興味はないが、父の子と、自ら評する不遜な輩だ。同じガリラヤに生きる者として迷惑このうえない。まして犯罪者と、我らの師を一緒にされたくはない」
「でもペトロ、知ることは必要です。知って、初めて理解できるものもあるのですから。イエス・バラバは、自ら最大の罰を受けることを望み、必死に道を整えているのです。いたずらに風聞を信じぬことが賢明かと思います」
今度はマリアが言った。
「よけいなお世話だ。すぐにも、その耳障りな口を閉じろ!」
吐きすてペトロは、マリアとレビを睨み上げる。
火のある所にしか煙は立たない。しかしヨハネならともかく、バラバはローマのお尋ね者だ。人の噂ほど怖いものはない。ユダは場の空気を変えるため、ペトロを無視してイエスに問いかけた。
「神の描いた絵に生きた人の子は、いったいどのような実りがあるのですか」
「人間は、やがて死んでしまうものだ。だが御国の時を成就した霊魂は、永遠に天に上げられる」
「なら外された、かの人は、何をもたらすのでしょうか」
ユダはやり切れず、続けざまに問いかけた。その時点でペトロのことは忘れていた。何を置いても、イエスの本心を知りたかった。回答に真実が見えれば、それはヨハネの供養にもなるし、バラバへの慰めにもなるからだ。
「実りを得たければ、岩の上に種を蒔くことはない」
「岩の上に、種を蒔く?」
シクラメンは石灰岩質の岩場に群生し、可憐な花を咲かせる。また、種とは神の言葉のことである。つまり神の言葉に背いたバラバは仇花ということなのか。
誰が信じるものか。何としてでも健気な道を選択したバラバに報いたい。あと半年、ユダは自分の命の長さを知っている。死など怖れていない、だが目的が成就されないのは怖ろしい。
「種は、神の掌中にあるのですか」
ユダが言うと、ペトロが割り込む。
「そんなこと、あたり前だ。お前は、何を今さら尋ねるのか。我われ人間は神によって生かされているのだ。掌中にあるのが自然に決まっている。むしろ使命と感じて喜ぶべきだ」
アンデレまでもが、ユダの顔を覗き込むようにして話す。
「とっても言いづらいことなのですが、どうか怒らずに聞いてください。ユダ、あなたは神を愛していないようにも感じます。どうしても、そう思えてならないのです。どうなのでしょうか?」
アンデレの優しい口調が、茨のような棘となってユダの胸を刺す。
私が神を愛していないと? でも否定できそうもない。
が、アンデレの尋ねる神とは、そもそも存在である神なのか、それとも人間界にいる、神の子イエスのことなのか?
イエスであれば、はっきり言ってやる。たとえ存在の世界から来ようが、愛していない。
「済まないアンデレ。どうも迷いがあるようだ。それが疑念を感じさせる要因だと思う。これからは気をつけるから赦してほしい」
ユダは心に仮面を被せた。
それを見てイエスがまた笑った。声は高らかに響き、天へ翔けていった。気づくとユダは失意の底に沈んでいた。