6章 ユダの焦燥
6章 ユダの焦燥
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紀元三十年。
ヨルダン川の土手沿いに、長い影が二つ川面へ向かって伸びている。一つの影は細く、今一つは短かった。三十二才になったヨハネとユダである。
ユダとヨハネは小道で途方に暮れ、活力を失わせた家族を見ていた。
荷車も持たず、ロバも連れずに、とぼとぼとこちらへ向かって歩いてくる。きっと重税に耐えきれず、新天地を求めて移動する人たちであろう。夫婦はともに四十代前半、子供は十才ぐらいの少女だった。少女は、親が憔悴しているのに、一人こちらへ真っすぐな目を向けてくる。それが、なぜかミカとサラと重なって見えてしまう。
初めてキデロンの谷で会ったとき、バラバの家で再会したとき、そして別れを告げたときの、無理に気丈を繕った表情が似ていた。
この時代、貧しい者が一念発起したところで、真面目に働くだけでは何も変わらない。ましてミカとサラは女、母親が歩んだような娼婦の道か、奴隷になるしか生きるすべが見つからなかった。でも、バラバと出会ったことにより新たな道が生まれた。そして婚約をして、念願の幸せを掴みかけていた。
それが一変する。気がつくとアッバスの家はユダとミカとサラ、三人だけになっていた。
才覚を発揮して、鶏と山羊の数を増やしたことも仇になったかもしれなかった。家畜の世話と配達だけで谷へ食料を運ぶことはできなくなった。いずれユダも出ていくつもりだったし、鶏十羽と山羊二頭だけを残して、アリマタヤのヨセフにぜんぶ買いとってもらった。二人に蓄えを多少とも渡しておきたかったからだ。
ほんとうはミカとサラを、ヨセフの屋敷の使用人として雇ってもらおうかと考えていた。けれどミカが反対した。
バラバが帰ってきたときに、私がいなかったらどうするの? と。
何も言えなかった。
バラバが約束を忘れているわけではないと思っている。ただ約束を守るのは、この地にメシアが現われて自分が用済みだと判断したときだけだろう。
それにしても女が土地を守り抜くには現実が過酷すぎた。心労から、二人は病気になってしまったのだ。ユダが、ヨハネのもとへ行った直後のことだった。
「ヨハネ、あの少女の上に、きっと姉か兄がいたはずだ。姉であれば娼婦として、兄であれば奴隷として、哀しいかな他国に売りとばされたに違いない――」
ユダは、ミカとサラの生きざまを重ねて言った。がヨハネは返答してこない。
同盟からはじまった、ローマ帝国による支配は相変わらず続いている。それを反抗せずにへつらい、疲弊する民をさらに追い討ちをかける王族。律法学者たち。双方による出口のない支配によって、久しくユダヤとガリラヤとサマリアは喘いでいた。
鬱屈する民の不満は、救世主の出現と反ローマ、反王族へと駆り立てられていく。
各地で大きな動きが起きた。その視線の先は、階層を問わずして、ある二人の男に向けられた。ガリラヤのバラバと、荒れ野のヨハネだった。
ローマ総督ピラトは、ときどき山地で物資を強奪する熱心党を、最初は山賊ぐらいにしか思っていなかった。しょせん信仰集団、そんな高い戦闘能力を持っているとは見ていなかったのだ。だが一個小隊で警固する、輸送物資が襲われた時点であっさり考えを変えた。
「熱心党の首領、父の子バラバ。とてつもなく強い」と、生き残りの兵士が口を揃えて伝えてきたからだ。
反ローマを叫び、バラバは、皆が待ち望む革命を期待させていく。ヨハネは洗礼によって心の改革を訴え、真の救世主の出現を民に予感させた。
もはや二人の存在なくして、イスラエルの未来は考えられなかった。とくにヨハネの存在は、神から遠ざかるバラバとは違って、神に近づく癒しそのものであったから。
「私は、ここにいる!」
ヨハネが、とつぜん叫び声を上げた。
普段の声は柔和で、じわじわ諭す感じで耳に沁み込んでくるが、ひとたび叫ぶヨハネの声は、打楽器のように直接相手の心に響く。
家族を包んでいた空気が、途方から安堵に変わった。貧しい民の逃げる場所はない。弱者にとって、ヨハネの居場所こそが唯一の安らぎなのだ。重かった足が速まった。
このような逃亡家族だけでなく、明日への希望を求める人々が、ヨハネの説法を聴きに続々と集まった。その数、多いときで五千人はいた。支配者にとってはバラバ同様、このうえなく脅威にほかならない。
真の預言者というのは、ユダのような薄っぺらい予見ではなくて、生まれる前にあらかじめ隠された奥義を預かっているのだ。
ヨハネが言うには、聖霊と繋がってからレミエルが別れを告げてきたらしい。その代わりレミエル抜きでも、過去と未来の霊視が可能になったという。つまり本物だということだ。
それを知っているからこそ、大祭司カヤパが度々密偵を送り込んできていた。同時に、外部との接触を拒んで生きるエッセネ派の信徒も多く集まった。
彼らはあまりの興奮に、みな熱く目を濡らしていた。なぜなら最初から、ヨハネを救世主の道を切り拓く先駆者とか預言者などとは見ていなかったからだ。彼こそがメシアと認識していた。
知って知らずか、ヨハネは相変わらず質素な服装を好み、質素な食事と生活を貫いた。差し出される巨額の援助金も、無用と受けとらなかった。
「ヨハネ、少しぐらいは貰ったらどうなんだ。直弟子だけで三十人、寝食を共にする一般の信徒を入れれば、有に二百人を越す。そのほかにも絶えず二十人以上の逃亡家族、食客もいるんだぞ」
ヨハネのもとで、会計、運営を任されるユダは訴えた。
「必要ない。一度でも受け入れると、次には卑屈になる。貰ってあたり前だと錯覚してしまうのだ。金には魔力がある、それが私には耐えられない」
「だが切り盛りする私から言わせれば、これほど都合のいいものはない。労せず、皆にひもじい思いをさせなくて済むからだ」
「ユダ、欲望に執着してはならない。魂の栄養に必要なものは、金や食い物ではなく、愛だと思う。愛によって心を支配し、神と繋がりを保つのだ」
潔癖さがヨハネのよさなのだが、あまりに真っすぐすぎる。いくら人望があってもを、貧しすぎては信用されっこない。
ユダは、ヨハネと一緒にイスラエル中を行脚したことを思い出した。
特にカペナムへ行ったときのこと。そこで驚いたのはガリラヤの都会的なことだった。エルサレム近辺のユダヤ人が、ガリラヤ人を評して田舎者と蔑むのでユダもそのつもりでいた。
ところが異端の温床とも言われるこの地域、常々ユダヤ人が抱く偏見はなく、豊かな自然を背景に独自の洗練された文化を誇っていた。もちろんシリア、フェニキア、ギリシャと、異文化とともに多くの神が入り込んでいる。
しかし、いくら異文化に寛容な土地だからといっても、ガリラヤ人が強烈な個性を醸し出すヨハネを支持するか、ユダには疑問だった。聖霊と繋がっているわりには受け入れ難い冷徹さがヨハネにはあるからだ。
「ヨハネ、説法をするときぐらいは駱駝の毛衣を脱いで、亜麻の衣を着たらどうなのだ」
知らない土地だし、まずは形も必要だと感じていた。
でもヨハネは「形よりも中身だ」と言って、聞き入れない。
「これが私の姿、真実を迫るのに飾りはいらない」あくまでも質素を貫き通した。
不思議なもので、いざ説法がはじまるとユダの杞憂は吹っ飛んだ。ヨハネの叫びはガリラヤ人の魂を震わせていたのだ。心の奥底に秘めるメシア待望の情熱が、一気に炸裂した感じだった。一部のユダヤ人に惑わされても、根底は同じイスラエル人。同じ神を崇めていた。
ユダはそれ以来、影に徹した。ヨハネに内緒で資金を集めて信徒たちを養い、余分があれば貧しい民に施しもした。そのせいもあってか、拠点とするここヨルダン川沿いには、神の声を伝えるヨハネ見たさに人が溢れ返るようになった。
ただユダが気になること。それは、ヨハネが自分をはっきりメシアと呼ばないことだった。バラバが影にまわった今、その対象はナザレのイエスしかなくなってしまう。それだけに思慮が欠けているとしか思えなかった。
「それよりもヨハネ。ナザレのイエスが春に洗礼を受けてから消息を絶ったが、どう思う。もう戻ってこないつもりなのだろうか」
ユダは、唐突に話題を変えた。
ナザレのイエスが、ついにアレクサンドリアから帰ってきた。そして意外なことにヨハネへ洗礼を望んできたのである。
「そのことはとても重要なことであり、近いうち、皆の前で説明しよう」
「重要、か。大変な波乱を含んでいそうな言葉だな」
「約束通り、もう一人の神の子に洗礼を授けた。しかし暗雲は消えていない。真実は、いまだ闇の中にある。ここで判断を誤れば、すべてが無になってしまうだろう」
ヨハネが一段と目を険しくさせる。ユダには見えぬ、ヨハネの予見。だがそこに、見るに耐えられない絵が伴っているのが感じられた。
言葉に詰まっていると、先ほどの家族が土手を登ってきた。
「ああ、主よ……」と、数メートル手前でいきなり跪いた。
「立たれるがよい、私は主ではなく、洗礼者です」
ヨハネは、錯綜させた家族の思考を現実に戻させると、普段と変わらぬ口調で否定した。
「ならば偉大なるエリヤの化身、預言者ヨハネ。私どもに洗礼を!」
「それも大げさだが――悔い改めるか」
柔和な目だ。ユダには、まるで男の人生を透視しているようにも思えた。
「私は、あなたの父のように祭司ではありませんでしたが、釘職人であり、ときどき神殿で仕事をしていました。しかし、いくら神に携わる仕事をしようとも最下級の職種の人間。何の恩恵がありましょう。払えぬ税の代わりに、大事な娘を連れ去られてしまった」
「くっ、予測が現実に……」
無言のヨハネに代わって、ユダがつい洩らす。
「私らは嘆き、ついに悟りました。私の作った釘によって十字架刑が成り立っていることを。今悔い改めねば、未来永劫、呪われたままでしょう。残された娘を姉の二の舞にさせたくはありません。お願いです」
「釘職人が悪いわけではない、ならば剣を作る鍛冶職人というだけで地獄へ堕ちることになる。要は使用目的を履き違えている者が悪いだけ。だが、よく言った。悔い改めれば、姉をとりもどす手立ても生まれるかもしれない。共に水へ浸かろう、心から洗礼を授ける」
情愛を隠すことなく、ヨハネは率先して川に入っていく。三人も感きわまらせて続いた。
突如、夕日に映し出される赤い水面が、ヨハネと三人の場所だけを金色に満たして輝き出す。日に何十人もの洗礼を目撃するユダだったが、見ているだけで、自分の魂が洗われていくのが感じられた。
そんな緩やかに時間がすぎたときだった。闇と黄昏が入り混じる日没の中に、ユダはとてつもない波動を放つ男の姿を認めた。慄然とした気配に小動物が怯え、いっせいに小鳥が鳴く。
気づいたヨハネの目が凛と光った。
男は、まぎれもなくナザレのイエス。ユダの心に奇妙なざわめきだけを残して、一瞬にして姿を消した。今さらながら、春先に初めて会ったときのことを思い出していた。
二月初旬、ヨルダン川の水が冷たいせいか洗礼を願う者は数少なかった。ましてや夕暮れに受洗をする者など皆無である。みな説教だけを聴いて満足して帰っていく。
ナザレのイエスは、その夕暮れどきにやってきた。
土手の上から下方を眺めていたユダは、家路に向かう人々と逆の動きをする男を捉えていた。男は人体から、降りそそぐ夕日に負けぬ輝きを放っていた。
見るまに人の流れが、手前から、海が二つに割れるように裂かれた。それが当然のごとく、男は堂々と中央を歩く。群集は畏怖を感じたのだろう、道の端へ避ける。
ユダはひとめ見て、この男がナザレのイエスだと分かった。背格好から、髪の毛の長さ、肌の色、鼻の高さから口もとまで、すべてがバラバと瓜二つだったのだ。
ナザレのイエスが表舞台へ登場すれば、先駆者の使命が終わり、新たな時代のはじまりを告げる。
しかしそれは、ヨハネの死を意味することでもあるのだ。
ヨハネは、ユダにだけ常々言った。すべては見きわめてからだ、と。また、そうでなければサロメは動かぬ、とも。
だが見きわめるまでもない。ナザレのイエスの崇高さは本物だ。人間ではあるが、人間にはない気高い重みが感じられる。神と錯覚させられてしまうぐらいに。
もともと持ち備えていた神の子の霊質を、エジプト、アレクサンドリアで修練し、さらに磨きをかけてきたのだろう。妄想でしか見たことのない神さながらの尊さが覗けた。
でもどうかすると、瞬時にして呪い(まじない)をかけられたように思えた。
ルシフェルと、短い間だったが魂に触れた。そこで学んだことは肉の目は平等ではないということだ。
神的本性を見ることのできる者は、ごく限られた人間だけ。すべての人間が同時に見ることなど不可能なのだ。見えたら、その時点で人間は人間でなくなってしまう。それにいくら神の子といえ、現時点でのナザレのイエスは、聖霊と繋がっていないのだから。
だとしたら、それを見せることのできるナザレのイエスの能力は、バラバを遥かに凌ぐと納得できた。それに気づいたのは、ヨハネとユダを除いて二人の高弟だけだろう。
でも二人はバラバを知らない。神の子だと思ってやいないし、ナザレのイエスの能力を怖れているだけだ。案の定、シモン・マゴスとドシテウスが、漠然と警戒心を顕わにして睨みつけていた。
だがナザレのイエスは、居合わせたすべての民衆に震えを呼び起こした。ここ荒れ野で叫ぶ、ヨハネの預言と合致したからである。
ユダの頭に息苦しい絵が浮かぶ。ヨハネが、ナザレのイエスに平伏して立場を交代させる場面だ。分かってはいたが受け容れられるはずがない。
が、ヨハネは素っ気なく無視をした。
違う、動作は荒々しかった。対岸の少し離れた葦の茂みに、以前と変わらぬ面影を映し出すマリアが立っていたからだ。
ヤハウェだけを崇めるヨハネの立場に置けば、イスラエルの地に、多神の勢力を拡大するマリアは仇敵とも言える間柄。以前と変わらぬことこそが問題なのだ。事実サマリアは、バアル信者によって制圧された。ユダヤへの浸食も激しい。
マリア、どうして……ここにいる?
ユダは震えた。とうとう時代は二人を結びつけ、ついにこの日を迎えたのかと。
しかし、同時に別の疑問も湧いた。十五年前ナザレのイエスは、マリアとの聖婚によってバアルと繋がることになっていた。
まさか、力づくで組織を壊滅させにきたのか。
目の前を、悠然と通り過ぎるナザレのイエスを見て、ひしと改めてバラバとの違いを感じた。神々しい、あまりにも神々しすぎるのだ。その凄まじさは、何ものにも喩えようがない。
どの角度から見ても非のうちどころのない見事なまでの完璧さに、胸がときめかずに気圧され、ぐるぐると思考が掻き乱される。
ナザレのイエスはヨハネの前で一瞬だけ足をとめ、そのまま無表情に入水した。ゆっくりと向き直り、ヨハネへ呼びかける。
「わたしに洗礼を授けなさい」
静かな声だ。厳かなのに甘く、耳に入り込むだけで思わず身が溶かされてしまうような響きだった。
だがヨハネは固辞した。右人差し指を対岸へ向けて強く振り、肯こうとしない。
しかし、その指を振った葦の茂みの先で激しく水面が波立ち、飛沫が立ち上がる。マリアが手をかざして水を避けていた。
「あなたに、今さら私の業など恥ずかしい限りです」
マリアとイエスを同時に見ながら、ヨハネは、やんわりと答えた。
「よけいなことは考える必要はない。さ、ヨハネ授けるのだ――」
ナザレのイエスは重々しく言葉を続けた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、わたしは主である」
「神だと! ぼろを出したな、ナザレのイエス。だったら、ヨハネの洗礼を受けなくたっていいはずだ」
たまらなかった。バラバの謙虚さに比べて何という高慢なのだ。気がつくとユダは、叫びながら土手を駆け下りていた。
「ふ、イスカリオテのユダ。ヨハネを裏切り、わたしのもとへ馳せ参じる男。そなたは霊見が消えかかっているのを知っているようだ。なら教えるが、洗礼は自身を取り戻す手段でしかない。わたしは受胎するまでは主と呼ばれていた。つまり聖霊はわたしであり、神はわたしであるのだ。それを三位一体という」
ナザレのイエスの、とてつもない迫力に驚き、梢から白鳩が飛び立った。くるくると舞い上がって夕闇を旋回した。
「見よ、白い鳩を。まさしく聖霊、わたしの象徴である!」
ナザレのイエスは鳩を指さすと、ヨハネの返事も待たずにずぶずぶ身体を沈めていく。ちょうど膝のところだった水が、胸にまで浸かった。
あっ! ユダが声を洩らしたとき、ヨハネはナザレのイエスの横にいた。
釘職人家族に洗礼を授けると、ヨハネは彼らの泊まる場所へ自ら案内してからユダのところへ戻ってきた。二人は連れ立って歩いた。
「予見だと、私の死まで半年。ユダ、そなたも長くない。せいぜい一年半が限度だ」
「分かっている。そう考えると、お前の生きざまは立派だ。予見を徹底して貫いた。真似をしたくとも、真似ができないほどだ。それだけに焦燥がある」
「ふ、焦燥か。バラバが変転して以来感じたことがない。しかし今夜からは起こるだろうし、別の苦悩もはじまる――」
薄らいできてはいるが、未だぼんやり見える予見。そこでのヨハネは捕縛され、酒宴の興として斬首される。半年以上、地下牢に閉じこめられたあげくにだ。
でもヨハネの焦燥が今夜からはじまるのなら、教団が崩壊されることは確実なのだろう。
「教えろ。あのときずいぶん躊躇っていたが、ナザレのイエスに洗礼を授けたこと、後悔はしていないか」
ユダは言った。
「していない。エリヤの頃は神の義を示す信仰だったが、もう時代は変わった。悔い改めさせ、それとともに神の愛を訴えなければ、いけないと思うのだ」
「あの男が悔い改めると、お前は本気で思っているのか。冗談じゃない、ナザレのイエスは吹っ飛んだ考えの持ち主だぞ」
ユダは、ヨハネを睨みつけた。「神の子ならまだしも、自分が、神そのものだなんて――誰が信じる。あのルシフェルだって、そんなことは言わなかった。三位一体についてもだ。ルシフェルは、神と、天使を含めた精霊と、人間たちの霊が三位一体だと考えていた」
「そうだな。バラバも、神と聖霊と神の子が三位一体になると言った」
「なら、どうして洗礼を授けたのだ」
「可能性を、私は信じた」
「あんな奴の、どこに可能性がある」
ユダはそこまで言って、その先の言葉をとめた。ボタンの掛違いはあっても、ナザレのイエスが神の子には間違いないのだ。
だとしたら? 歩みをとめてヨハネに向き直り、その肩の上へ両手を置いた。
「そうか、バラバか。バラバが、あいつを正すのだな」
「違う、バラバではない」
「じゃ、誰だ? もう名前が浮かばない」
「マグダラのマリア、彼女こそが唯一、ナザレのイエスを正しい方向に導く女性だと考えている」
マリアだと?
ヨハネが思っても見ない女性の名を出した。だからといって、すぐに従える話ではない。マリアのことはヨハネより知っているのだ。
「正しいって、マリアは他神の巫女だぞ。かえって混乱を招くだけじゃないか。それにヨハネ、お前がいちばん嫌っていた女性のはず」
「春に見たときにルシフェルの影が消えていた。それだけでなく、バラバと繋がるラザロとマルタの姿を見て、隠されていた真性が目覚めはじめたようにも感じた。私の蝋燭は消えかかっているし、彼女に託すほか望みがない」
無理だ、ヨハネ。今後どんな不測の事態が生じるか、さらに見当もつかなくなってしまう。
ヨハネの願望じみた言葉は、ユダの焦燥と一緒くたにして、せせらぎに掻き消されていく。梟が夜の帳を深々と知らせた。
「傲慢だ! たとえ理に適っていようとも、自分には納得ができない」
「愚かな、ここまで時が動き出しているのに、なぜ見えぬのか!」
前方、焚かれる火の横から、ばちばちと炸裂音が聞こえた。といっても炎が弾かれる音ではない。論争だ、ともに身体の大きなシモン・マゴスとシモン・ペトロが言い争っていた。
ナザレのイエス、もう、はじめているのか。
危機を察知したユダは、ヨハネに目配せして一人走った。諍いを阻止しなくては、教団が完全に崩壊してしまう。
マゴスが顔を真っ赤にさせ激怒していた。腹いせに、地面に叩きつけられたのだろう、土器が砕け散っている。
「何ごとだ!」
ユダの声に、皆の視線がいっせいに集まった。
しかし昨日までとは違う眼差しだ。すでに洗脳をされているのかもしれない。妙に醒めている。
何をした? ナザレのイエス。土手で見かけてから、たった三十分しか経っていないというのに、その三十分の間で何をした。
ユダは、その場を見渡した。
中央の位置、いつもならヨハネが座る場所にナザレのイエスがいた。腕を組んで空間を見すえている。
ぱちぱちと焚き火の炎が弾ける音に合わせて、ようやくユダに視線を流してくる。その仕草は堂々たる威容だが、横柄にもとれる。マゴスが言うまでもなく傲慢だ。
けど、今は慎むことこそが肝要。ユダは、あえて気がつかぬ振りをしてマゴスを問い質した。
「シモン・マゴス、この騒ぎは尋常ではない。いかなる理由からか――」
「ふん、あまりに理不尽すぎて、答たくもないわ。知りたくば、直接ナザレのイエスに聞くがよかろう」
マゴスは眉を吊り上げ説明しようとしない。やむなく再度ナザレのイエスを見た。
ところが、ナザレのイエスはユダを見ようとしない。強烈な視線はユダを通り抜けて、ユダの背後へ当てられていた。
後ろから、ヨハネがゆっくり近づいてきた。ぴきんと、空気が張りつめた緊張に包まれる。
それをヨハネは自ら解いた。怒りを見せたわけではない、逆だ。ナザレのイエスに自分の席を譲って通路の端、座りづらい小石の上へ腰を降ろしたのだ。場から、溜息にも似たどよめきが起きる。
「おお、嘆かわしいことだ。師よ、お立ちください。そもそも諍いの原因は、あれなる自称神の子が、今宵の断食に異を唱えたことが原因でございます」
理論派のドシテウスが、落ち着いた口調で簡潔に説明すれば、マゴスが追い討ちをかけてくる。
「いやいや、それだけではないぞ。ユダも見るがよい。我が師を端に追いやり、中央に座する不遜の輩を。まるで、狡猾な狐のようではござらぬか」
同調はできた。しかし二人の目は憎しみに満ちている。それは嫉妬からくるものだと、ユダには推測できた。
ナザレのイエスさえ現われなければ、いずれどちらかに後継者の道が禅譲されることになっていた。確約をとらぬまでも二人の力は抜きんでていたからだ。
確かに二人とも弁は立つし、かなり神秘も垣間見える。けれどナザレのイエスと並び立つ器ではない。すべてにおいて能力は下回っていた。とはいっても、ユダより霊見も理論もはるかに凌ぐものがある。生まれた時代を間違えなければ、伝説的な指導者になったのは言うまでもない。
ユダはヨハネを慮り、たしなめるつもりでマゴスとドシテウスの側へ進む。それを遮るようにして、ヨハネが重たい口をひらく。
「シモン・マゴスとドシテウスに告げる。私の役目は、神の子の登場により幕を閉じた。よって私の席は、ここが相応しいかなとも思う。もう一つ、断食のこと。人が生きるのはパンによるものではない。神の口から生じる言葉によってこそ生かされるのだ。つまり、神と神の子と聖霊の言葉に従うべきである。すなわち今宵限りで断食を強制しない」
その瞬間、ユダは言葉に窮した。少数派に追い込まれてもなおヨハネを支持していた弟子たちも、糸が切れたように完全に落胆している。
いけない、だめだ。まだ早すぎる。たとえ神の子と認めても組織は別物なのだ。ユダの胸は張り裂けそうになっていた。
その危機感は、すぐさま二人の高弟へ伝わった。
「それでは、あのナザレのイエスを神の子として認めるのですか」
ドシテウスが、わなわなと目に感情を顕わにする。
「解せない、どうしても解せない。人間の本質を見抜くことに関しては、歴代の預言者の中でも卓絶し、偽善を赦さぬのが信条なはず。それなのに浅ましき狐ごときに、なぜこうもあっさりと尻尾を巻いてしまうのか」
マゴスも矢つぎばやに訴え、落ちている土器の欠片を拾うと強く握りしめた。よほど悔しいのだろう、すぐに指の間から血を滲ませた。
ユダは慎重に答を探りながら、マゴスの見解に同意した。
マゴスもドシテウスも後継者を目論んでいるが、ヨハネを押し退けてまでなろうとは考えていない。しかし問題はそこではない。究極は、ナザレのイエスが民の救世主かどうかということだ。
ユダには判断がつきかねた。ただ本音を言わせてもらえば、こんな展開など望んでいなかったということにつきる。すでにバアルを裏切り、ルシフェルと決別して、ユダに残されているのはバラバとヨハネ、二人との友情だけだからだ。
二人の友を守るためであるならば、この先、誰であっても刃向かってやる。それが例え神であってもだ。だからユダにとって運命、使命など糞喰らえだった。何より友と生きた証しがいちばん大切なのだった。
予見だとヨハネの死まで半年。バラバもユダも二年を切っている。だったらすり替えてやる。きさまと、友バラバの運命を。それによって生じるナザレのイエスとの戦いだって辞さない。
だが次にヨハネの発した言葉は、あきらかにユダの期待を裏切るものだった。
「私の、荒れ野での叫びは、すべてメシアの到来を待つものであった。そして、ついに現われた。メシアの存在を信じない者は、自身を否定し、神の存在も信じないものである」
ヨハネは、ユダの思いもマゴスとドシテウスの思惑も霧消させ淡々と言った。
マゴスが立ち上がる。
「自分は、神も神の子も信じる。しかしそれが、このナザレの男とは信じ難い。こ奴はアレクサンドリアで有名な魔術師だった。偽善者なのだ。それゆえ師の組織を乗っとり足がかりとして、イスラエルを制覇するつもりに決まっている」
とりわけ後継者レースから脱落した者の反発は大きい。マゴスは、ナザレのイエスを憎々しげに非難した。
「何を言うか、マゴス。偽善者はお前ではないか。それは俺だけでなく、皆が知っていることだ」
形勢が確立したからではなさそうだが、ペトロが黙っていられずに声を荒げた。
「うるさいぞ、ペトロ。大きな図体をした蝙蝠め! きさまこそ、節操も思想もない淫売であろう。よくも、ころころと師を変えられるものだ。犬だって三日飼われれば、主人を裏切らないというのにだ」
「やれやれ、ほとほと困リ果てた男よ。夕刻に神の子が現われたとき、真っ先に近よったのは誰であるか思い出せ」
ペトロは、マゴスを激しく糾弾した。このペトロ、単純だが強い意志を胸に秘めている。が、それだけに直情的で見えないものも多い。とユダは思った。
「二人とも、やめるのだ――」
ユダの耳に、それまでの沈黙を解放したナザレのイエスの声が響いた。
さして大声ではない。それなのに残響が耳にこだまする。ペトロとマゴスだけでなく、全員が押し黙り息をひそめた。
ナザレのイエスは手でマゴスを座らせると、自ら立ち上がった。そして一人ずつ端から順に見つめ、毒々しい言葉を放った。
「あなたがたの師である預言者について話そう。およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいないだろう。しかし神の国では、もっとも小さな者でも彼より偉大である。なぜならヨハネは、わたしとの約束を破り、追放された土くれだからだ」
放たれた内容に、ユダばかりでなく誰もが耳を疑った。言葉をまともに受けとると、一方が最上級で一方が最下級の土くれと断言しているからだ。
ナザレのイエス、お前が真に神の子であるならば、なぜ、これほどまで神の子のために道を切り拓いてきたヨハネを中傷する。神の子とは、そのていどの霊質だったのか。そうだとしたら幻滅だ。
ユダは煮えたぎる感情をナザレのイエスへぶつけた。天上ではそうであっても、ここは地上、ましてみな女から生まれた人間のはず。天上でいくら偉かろうが、地上でふんぞり返っていては説得力がない。それを、この場の者たちに知らしめたかった。
「お前は、女から生まれた者でヨハネより偉大な者はいない。と言ったが、異なことに気がつかぬか。お前も女から生まれているはずだ。ならば同じ女から生まれた同士、地上では、偉大であるヨハネより低いと見るがどうだ」
たちまち場がうねった。マゴスとドシテウスが歓喜の声を上げて賛同した。他の者は息をひそめ、ナザレのイエスの返答を待った。
その間隙を縫い、今にもユダへ掴みかからんとする勢いでペトロが割り込んできた。
「ユダめ、腰巾着のくせして小賢しいことをぬかすな! 金の計算と、ちんけな霊力だけの男に言われる筋合いのものではない。それよりも神の子が、預言者を天の住人として認めたことに感謝したらどうなのだ」
「預言者だと? 恩義ある師に向かって、そのぞんざいな口の聞き方はなんだ!」
ユダは言い返した。
「まさかメシアではあるまい、だったら預言者でしかないだろう」
「やめなさい、ペトロ、そこまででいいでしょう」
ようやくナザレのイエスが、手を広げて制した。ペトロは釈然とさせぬまま、しぶしぶ座り込む。
もはや完全に分裂してしまった。一人の人間の出現による、あっけない崩壊だ。ユダは嘆いた。
ナザレのイエスが話し出す。
「誰も新しい葡萄酒を、古い革袋になど入れたりはしない。そんなことをすれば、せっかくの新しい葡萄酒が流れ出してしまうからである。それでも、使い道のなくなった古い革袋が好きな者は、新しいものを欲しがらずに、古い残り糟を飲んでいればよいのだ。そのうち飲み応えがなくなって、すてることになるが――」
言い終ると、すくっと立ち上がり、もう誰も見ることもせず歩き出した。すると追随者が続々と席を立った。
数名が済まなそうに、ヨハネに一礼をして去っていく。でも大部分は旧師に目もくれず、ナザレのイエスを追いかけていった。
一人だけ、ヨハネの前へ跪き「自分は行くが、赦してください」と、目を真っ赤に腫らして泣いている者がいる。バラバに育てられた熱心党出身のシモンだった。あのとき十二才だった少年は、二十七才の義侠心溢れた青年になっていた。
『ヨハネのところで学び、弟を補佐するのだ』そんなバラバの命を受けている以上、ついていかなくてはいけない。衣の袖で涙を拭い、では、と言い置いて去っていく。
気がつけば三十人いた直弟子が、半数以下の十人に減っている。皆、呆然と座り込んだままで動こうとする者はいなかった。
深い闇の中、消えかかろうとする焚き火が寂しく揺れた。燃えつくされ、ほとんど炭状態の侘しい炎になった。たまたま顔を見せてくれた友、ラザロの目が、消えかかる炎の横で怯えたように寄り添っていた。
ときおり吹く微風にいっとき仄かな赤味を増すが、友の心も、仲間の心も暖める力は残っていない。もう静かに消えるだけ。古い革袋から流れ出す葡萄酒みたいにして。
夜空を見ても星は出ていない。いよいよ暗くなった。
2
エルサレムに近いオリーブ山の麓にも、深い闇が訪れた。今夜に限り月も星もまったく姿を隠している。
東に眼を向ければ、どこか懐かしさを漂わせていた空が、ふっと絶望に覆われていた。空と大地の輪郭がなく、吸い込まれそうな一面闇にされている。
ユダ、あなたは嘆いているの……。
職台の上の蝋燭を灯しながら、マリアはどうしてか旧知の名を呼んだ。
端正な顔立ちをしていた少女も、はや三十二才。月日とともに内面も外面も成熟させていた。多少とも張りが減少した皮膚はしっとりとなって、思考も直線的ではなく、やわらかく視野が広がっている。
というのもバアル神の巫女でありながら、日増しにヤハウェに対して興味を持ち出す自分を発見していたからだ。矛盾しているのは分かっている。けれど時間が許せば書物を紐解いていた。
バアルから言われた「我らに固執することなく霊質を高め、さらに上の領域を求めよ」その言葉が信仰の幅を広げ、人間的にマリアを深く成長させたのだ。もちろんラザロとマルタの影響も大きい。
でもそれは、あくまでも真理を求める姿勢であり、頼ってくる信徒を守ることの一環であった。とはいえ強引に他信徒を改宗させてまで、もうヤハウェをこの地から抹殺しようなどとは考えていなかった。
慈愛、マリアはバラバの家にいたミカとサラの生き方を通して、深い慈愛を悟った。それが今後、マリア自身を大きく変えていくような気にもさせられる。
姉妹二人で家を守り続けていたミカとサラ、彼女たちは病気になった。純粋だったのに、いや純粋を超俗していた。それなのに、彼女たちは癩になってしまった。
マルタとラザロが一心に看病していた。けれど半年後、ついに「もう、約束を果たせない」と、泣いて二年前に姿を消した。
知ったときマリアは愕然とした。
どうして私は、無関心を装っていたの? 初めて、マリアの中で溜め込んでいたこだわりが弾けた。
信徒の前で愛を唱えていたのに、意識して、自分の中に敵と見方を勝手に作り分けていた。無視というより、二人を見殺しにしたのと同じだ。立場的に敵側の人間と決めつけて放置した。
助ける手立てはいくらでもあったはずなのだから。これを罪と言わずに何ていうのだろうか。このままでは人を救えるはずもない。性行為など一切しないのに、律法者たちから聖娼と罵られても仕方ない。
すべてマリア自身が生み出した罪、本性に反して生きてきたからこその罰。やっぱり属しているものが間違っているの?
人間というのは肉体と魂、心が一体となって構成されている。でもマリアは、心が肉体に支配されている。今に魂までもが腐ってしまう。
その答が、最近何度も見続ける幻視だった。
そこでは、マリアの魂が天へ上昇していた。まず地上近くから闇が覆い出し、マリアを肉体へ引き戻そうとしていた。
やがて空一面真っ暗闇となり、右も左も、上も下も分からなくさせられた。荒んだ人の心みたいだ。人が誰しも罪を抱いているからだと思う。厄介といえば、いちばん厄介だった。どうしても引き戻されて、いつまでも上昇できなかった。
思い返せばミカとサラが失踪してから、癩の人たちが住むというエルサレム南東、ヒノムの谷へ足を運んだり、彼女たちが育った場所キデロンの谷を捜しまわった。少しでも二人の噂を聞けば、荒れ野であろうと僻地であろうと飛んでいった。いつか捜し出して謝り、改悛したかった。
それが内面を変えたのかもしれない。マリアが変わりはじめたら、まわりも変わっていった。信徒が罪とか裁き、死後の魂のことを聞いてくるようになったのだ。
そのうち暗闇は執着、ただの低次元の幻覚だと理解できた。つい最近の幻視で、惑わされずに上昇を続けることができた。
闇を通り抜けると次の天が現われて、澄んだ空気の中に懐かしい声がとんできた。
「わたしは、そなたが下降するのを見なかった。でも今、わたしはそなたが上昇するのを見る。そなたは、わたしに属しているのに、なぜか?」
懐かしいのに、なぜか問いかける声は低い。
「私はあなたを見ました。でもあなたは、私の本質を見ることもなければ知ろうともしない。のみならず身につける衣を、自己と取り違えていました。私を、真剣に認識しようとしなかった」
「ふむ、では聞こう。身に着ける衣とは?」
声は続けざまに質問を浴びせてくる。
「物質界における肉体です」
「ならば、人の肉体は罪で汚れており醜いが、どうすれば清くなるのか」
「心によって、魂を成熟に導けばよいのです」
「ほほう、その清くなった魂はどこへいく」
声が少しやわらかくなった。
「あなたの上にある、もともとの根源へ……」
「おお、その通りだ。ではマリア、さらなる天へいくがよい」
懐かしい声は弾ませると、大いに喜んで消えた。
さらなる天へは行けずに、幻視はいつもここで終わってしまう。まだ、その段階ではないからだと思う。
けど、ユダが口癖のように言っていた変転、それが今マリアの前面に新たな道を創りはじめていた。
おそらく二つ目の天で聞こえた声はバアル、欲望に変身して試しながら道すじを示してくれた。いや、むしろ背中を押してくれていた気がしないでもない。
だったら、その先にある天へ進めと? それには、バアルの巫女を辞めなくてはいけない。
ユダ、また懐かしい顔が浮かんだ。
笑っているわけではない、懸命に何かを訴えているような顔だ。それも、ずいぶん深い哀しみを伴わせて。
もしかしたらヨハネが死ぬの? それとも、あの男が、目覚めぬままに現われたの?
外れることはあっても、予見に偶然はない。いつも空漠たる景色の中から鮮やかに浮かび上がってくる。そして一つの終わりが、一つのはじまり。それは否応なくマリアに飛び火する。ヨハネの次は、きっと、マリアしかいない。
ミカとサラを捜しにヨルダン川まで行ったとき、遠くてはっきり見えなかったけど、逆転の構図が覗けた。だから攻め込まれるのには、まだ怖れも戸惑いもある。重苦しい夜空が吉兆であればとしか願えなかった。
この半年ほど、イエス・バラバにさえ感じたことのない脅威に悩まされている。反面その脅威は、憧憬さえも感じさせるほどの絵も映し出す。肉を遥かに超越していたからだ。
迫りくる巨大な存在、その名はナザレのイエス――。
それは確実に巨大化していき、ヨハネやマリアばかりでなく、いま全世界を呑み込もうとしている。
「マリア!」
とつぜんドア越しに、弟ラザロの声がした。二十七才、変わらず純粋なのに、すっかり声が太くなっている。
ラザロは椅子を見つけると、思いつめたように座り込んだ。用があったはずなのに、マリアを見つめるばかりで一言も話さない。
表情が青ざめている。普段から血色のよくないほうだが、今日の顔色は極端に悪い。特徴のある無垢な瞳も塞がれている。どうしたのと、声もかけられないほど憔悴していた。
なら、ついに動きはじめたのね。そして次の標的は、私。そうとしか思えなかった。
ラザロは、バラバがガリラヤで何か事を勃発させると、立ち上がることもできずに寝込むことが多かった。ときには全身から血の汗を掻いていることさえあった。
最近はヨハネのことに関してが多い。今日もこんなに人を救ったと喜び、翌日にはヘロデが、サロメがと、大声を上げては急に泣き出すこともあった。
マルタが言うには、ラザロは、バラバとヨハネの生きざまを一緒に背負っているのだと教えてくれた。また、二人が映し出す苦悩と喜びをマリアに見せつけているのだとも言う。
十五年前、獅子と戦ったときにバラバと魂が共鳴したことが起因らしい。
苦悩の部分とは、二人の先駆者から投影される哀しみ。つまり後から来る者を信じて戦うバラバと、同じように信じて組織を譲るヨハネの運命のこと。
喜びとは、二人が苦悩を乗り越えるたびにラザロの目に宿る無垢なもの。それをマリアは癒しだと思った。
「メシアがメシアとなるには、バラバとユダはもちろんですが、水のヨハネと光のマリアが不可欠です。要するに水の洗礼で聖霊と繋がりを持ち、選ばれた巫女による塗油で光を伝授されなくてはいけないのです。そうして初めて存在がメシアとして認められる」
マルタは切々と続けた。「でも運命は過酷ね。強い意志を持っていても情に負け、自ら、主役の座から降りてしまう人もいる」
マルタは瞳を沈ませていた。道を外れたバラバを、いまだにメシアと信じているからだった。
人間の生きる世界は苦悩を体験する場所。たとえ聖なる存在であっても、その苦悩から逃れることはできない。打ち負ければ、そのまま交じり合ったものに引きずられてしまい、善きものの根に戻ることは容易ではないのだ。
それはバラバに限ったことではない。マリアを含め、すべての人間に言えること。この世で生きる意味が、欲望に打ち勝つか、打ち負けるか、二つしかないのだから。
「言ってラザロ、私は覚悟している。もう、少しぐらいでは驚かないわ」
マリアは思いきって尋ねた。
ラザロは、意を決して椅子から立ち上がる。
「マリア、とうとう決断の時期がやってきたんだ。明日早朝、いや数時間もすれば、ここにナザレのイエスが現われる」
やはり、そのこと。ならラザロ、あなたは、このことを吉と思うの、それとも……?
心の呟きを悟られぬよう、静かに息を吸い込み、落ち着かせてから逆に聞き返した。
「予測も見当もついていました。私の対応は、まだ決めかねていますが」
「対応は難しいよ。変われば吉であり、変わらなければ凶でもあるから。ただ組織が分裂されて、ヨハネとユダに最悪の事態を生み出した」
ラザロが目を閉じて、ほぞを噛む。が、すぐに目を開けて顔を近づけてくる。「僕を、信じてくれる」と思いもよらないことを話し出してきた。
聞いたとたん腕に鳥肌が立っていた。一瞬にして全身が凍りついた。
「分かったわ、あとは私にまかせて」
マルタの言葉を背に、ラザロと二人で夜道を急いだ。町の中心を足早に抜けて、かつて何度も登った急坂を走った。それでも、ひたひたと背後から忍びよる足音が感じられて畏怖を隠せなかった。
吉か凶かも分からないうちに、とつぜん襲いかかるナザレのイエスの訪問。マリアは、確信が持てるまでラザロの意見を尊重することにしたのだ。
坂の途中に乙女心を誘う、野ばらの咲き乱れる草地があったが目もくれずに進む。小さな容器に入れた水とパンだけを持って、無言でラザロの後を続いた。
向かう先は、マルタとラザロの二人が、つい最近まで足しげく通っていたイエス・バラバの家。そして今そこにいるのはユダ。
「決めるのはマリアだけど、ユダの考えも聞くべきだ」
ラザロは、マリアが迷っていることを知っている。だからそんな状態のときにナザレのイエスに会っても、術中に陥るだけだと危惧する。ナザレのイエス自体が、まだ手探りの段階で定まっていないからだとも言った。
「敵になりつつある。いや、もうなっている。とうぜんマリアを操り人形にさせるつもりで訪れるよ。対抗策を講じなくてはいけないんだ」
ユダの伝言を、ラザロが伝えてきた。
ラザロは、ユダと頻繁に連絡をとっていたようだ。彼は教団の運営を任されていたので、エリコやエルサレムへ行った帰りにはラザロだけでなくマルタとも話し込んでいた。
また二年前まで、月に二回はバラバの家へ立ち寄ってミカとサラに食料を運んでいたらしい。思えば肯けることばかり。二人は癩になってからというもの、マルタとラザロ以外は人との接触を避け、町へ姿を見せなくなっていたから。
目撃されたのは、ときおりロバに乗った男が大きな袋を運び入れて、二、三日泊まっていくところ。それが二人を看病するユダであることは言うまでもない。あとはラザロとマルタが通う姿だけ。ユダと弟と姉は良好な関係を築いていた。
しかし、今ミカとサラが住んでいた家に一歩近づくたび、あのときの切ない記憶が甦ってくる。
人が生きるのはきれいごとではない。ましてや机上の論理でもない。信徒にいくら正しいことを説いても、実践しなくては意味がない。信仰とは布教ではなく、救済。つくづく気づかされた。
サラとミカ、私が、人として未熟なばかりに……罪なことをしました。
マリアは、空中に浮遊させていた視線を、木柵に囲まれた家へ向けて侘びた。
と、そのとき「もう、来ている!」ラザロが、家の中を満足げに指さした。
誰もいないはずの木窓から明かりが洩れていた。ラザロは速度を上げて、木柵の中央にある小門を抜けて庭へ侵入する。マリアも気後れしながら続いた。
門に手を触れると、古くなって根元が腐っていたのか、ぎいっと軋んだ音をさせて傾いた。慌てて支えようとしたが支えきれず、ばたんと音を立てて横倒しになった。
ほこりが舞い、古い木と土の匂いが混じり合って、やるせなくマリアの鼻をくすぐった。と同時に、家畜小屋に繋がれていたロバがぐひんと嘶いた。
その反響で、木窓に映る一つの影が動いて「遅かったな、ラザロ」と、ユダが懐かしい顔を覗かせた。
今日、何度となく思い浮かべたユダの顔、そこではぜんぶ深くやつれていた。それなのにマリアの口から、どうして? と、思わず疑問が出るほど精気に満ちていた。
ユダ、あなたは、しばらく見ない間に成長したのね。それもラザロと一緒で、純粋なままに。
「だけど、まだ疑心暗鬼。決めかねている」マリアは素直に言った。
ユダは返答せずに、はにかんだ。と、部屋の奥から張りのある声が届く。
「決断するべきだ。そのためにマグダラのマリア、あなたをここへ導いたのだ」
反射的に身を強張らせ、マリアは、ユダの肩越しに立つ男へ視線を当てた。
痩身で髪の長い男だった。そのうえ自虐的なまで道を追求しているのか、げっそりと頬がこけていた。なのに目が、神々しく静謐に輝いている。ヨハネだった。
ああ、間違いなく根源と繋がっている。マリアは直感で悟った。
「マグダラのマリア。真に救世主を見きわめ油を注ぎし者。ぜひとも一度会っておきたかった。いや、今夜会って業を伝えなければ――すべてが霧散してしまうところだった」
ヨハネが朗々と想いを伝えてくる。
業? 霧散? まさか、それは洗礼? なら強引すぎる。あまりに唐突すぎて深慮が足りない。理解できても、すぐには受け容れることのできない投げかけだった。
信仰に生きる身、確かに一つに固執しすぎて視野が狭まっていた。だからといって、いきなり洗礼とは戸惑いがありすぎる。
マリアは返答を控えた。急に空気が重くなった。
「さ、そんなところで立っていないで、ラザロもマリアも入るがいい。たがいに弾かれ合う水と油を、融和させるのも私の役目だ。それにさっきから咽喉が渇いて、マリアに抱かれる水瓶から目が離れなくて困っている」
場を読み、笑みを交えてユダが助け舟をだす。扉を全開にさせるとマリアを室内へ招いた。
ラザロを先に入れて「さあ」と、にこやかにユダが手を差し出してくる。戸惑いをその場に残して、マリアは慎重に足を踏み入れた。
部屋を見回した。半年近く誰も住んでいないので、倒れた門扉と同じに、さぞや室内も荒れ果てている思われたが、逆に整理され掃除されていた。
なぜ、と疑問が湧いた瞬間、マルタの顔が浮かんだ。
「ラザロ、掃除までして準備を整えてくれたことを、改めてマルタに感謝していると伝えてほしい。今宵のマリアとの会談こそが、この後のイスラエルにとって、大きな意味を持っているのだ」
ヨハネは、ラザロへ慇懃に礼を言ってから椅子に座った。
やっぱり知らなかったのは私だけ。今まで吉と凶だけにこだわっていた自分が恥ずかしくなった。
ラザロとマルタの静かな献身、ユダの笑顔、ヨハネの覚悟と、時代は大きく流れている。そこに根源からくる意思と人の生きる意味があるのなら、心を閉ざしてその流れをとめてはいけない。マリアは自分を強く戒めた。
「まずは核心の話をする前に、この時代の大きな流れを、マリア、あなたがどのように感じているのか問いたい」
ヨハネがマリアを見つめ、尋ねてきた。
その一瞬、少し離れた場所で容器を傾け、水を飲もうとしていたユダの動きがとまった。振り返り、マリアがどう返答するのか気にかけている。
しかしマリアは、逆に質問を投げ返した。
「私は流れを感知しました。けれども、その流れが清流であるのか濁流であるのかは分からないのです」
「濁流である。だが私らが道すじを示せば、川幅は広がり濁流も穏やかになる」
「でも広がるだけでは浄化はしません」
「その通り。だからこそ私らは水草を育て、支配者を悔い改めさせて、豊かな生命を根本から躍動させようと思っているのだ」
ヨハネが言わんとしている水の流れとは、ナザレのイエスであり、水草とは信仰のこと。ヨハネは、その信仰の力で水の流れを浄化させようと思っている。解答には同感だ。でも、マリアの疑問する答にはなっていない。
途中までは大きな流れの中に、ナザレのイエスの顔がはっきり見えていた。だから濁流と答えたのには、ある意味不安を増幅させたが納得もできた。確かな忠告となったからだ。
しかし水草を育てるあたりから、ナザレのイエスの存在が消え、矛先が王族にすり替わった気がする。
マリアとしてはナザレのイエスが表舞台に立った今、関心は支配者のローマや王族なんかではないのだ。ましてナザレのイエスが支配者でもあるわけないし。
「ヨハネ、あなたと私では、位置づけているものに大きなずれを感じます。はっきり言わせてもらうのなら、いま私の考える大きな流れとは、熱情の子というべきナザレのイエスです。濁流も然り。そして水草とは信仰。だったら必然的に疑問が生まれます。あなたの考える濁流とは、何を指すのですか。まさか育てようとする水草が、あなたでもないでしょうから」
マリアは言い終わると、ヨハネに向き直る形で座った。
横で、じっと様子を見ていたユダが意味ありげに笑って、また一口水を飲んだ。ヨハネが答えようとするのを制して言った。
「マリア、そのまさかなのだ。水草はヨハネであって、あなたでもある。そして支配しようとしているのがナザレのイエスだ」
「やはり……支配者はナザレのイエス。でも水草が、ヨハネと私?」
「その理由については、私が説明しよう」
ヨハネが言った。マリアを見つめて揺るがない瞳。うす暗い家の中で、そのヨハネの周りだけが不可思議に光っている。ラザロとユダが頷き合い、神妙に席へつく。
「あなたも知っての通り、ナザレのイエスは私の洗礼を受けてからしばらく姿を消していた。そこが重要なのだと思う。というのも、彼からルシフェルの影が見えないからだ」
「ちょっと待ってください。話の続きを聞く前に、ルシフェルについての考えを正しておきたい。あなたはルシフェルを頭ごなしに悪魔と決めつけているけど、そうではないのです。ルシフェルこそが光、真理なのだと私は思っています」
ルシフェルの真意はユダもラザロも知っているはず。にも拘らずヨハネに伝わっていない。マリアは思いの丈をぶつけた。
「ルシフェルが悪魔などと、私もユダも一度も言っていない。ただし、必要悪だとは思ってはいるが――」
ヨハネは続ける。「私はバラバと過ごすまで、ルシフェルとあなたが諸悪の根源だと思っていた。だがルシフェルを初めて見たとき、感慨に震えたのを今でもはっきり覚えている。それと試すようにする誘惑、それもこれも未来を見すえているからと理解している。だから、ナザレのイエスは私に洗礼を願った――」
「はっきり言ってください。あなたは、何を言いたいのですか」
まどろっこしすぎて、言葉を噛み砕けない。もっと単刀直入に言ってほしい。
しかしヨハネは、しばらく考えた後、よけい難解なことを言い出した。
「あなたは魂の上昇する、金色の夢を見なかっただろうか」
マリアは、どきっとした。「見ました。でも、どうして知っているの?」
「てっとり早く言えば、私もユダも、ラザロとマルタも見ているからだ。皆すでに、あなたと同じ天まで到達している。していないのはナザレのイエスだけなのだ」
マリアは驚きを隠せずにラザロを見た。
ラザロはマリアの動揺をよそに、うん、と首を縦に振った。ヨハネが続ける。
「この共時性のある、集合的な夢を見せているのはルシフェルで間違いないだろう。してマリア、あなたはさらに上の上の天まで到達する。肉に捉われすぎているナザレのイエスを、そこまで引き上げる使命があるからだ。つまりルシフェルは、ナザレのイエスを操ったが――余地を残した」
余地を残したということは、そこに救いを見出せとの暗示が隠されている。ひいてはそれが、ルシフェルの堕天しきれなかった人間への愛、良心とも言えるかもしれない。マリアはそう思った。
「要するに神の意思であれば何でもあり、ルシフェルはそこに疑問を感じていたのだと思う。だとしたら神の子などとまぎらわしい者を送らずに、最初から神として、堂々と人の前に姿を現せば問題は起こらずに解決した。人智を超えた事象に人は畏れ、平伏して従うからである」
「そうしなかったということは……人間自らの手でと?」
「そう、答えは至って単純明快だ。人間のことは人間が解決すべきことなのだ。すなわち神も神の子も、素の人間となって出発しろという指摘でもある。そうでなければ赤ん坊からはじめる意義もない。大洪水を起こしても、空から硫黄の雨を降らせても人間は分からなかったのだから」
「それで、どうしてバラバが情けのために身を堕としたのか。どうして、ナザレのイエスが神の子の振る舞いをしないのか。濁流が濁流のままだったら、どうなってしまうのか。すべてはマリアが鍵を握っているんだ」
じっとマリアの様子を窺っていたユダが、説き伏せるようにして口をひらいた。
胸の中を鷲づかみにされた気分だ。けれど、その一言で、ようやくヨハネによる洗礼の意味が理解できた。
ヨハネとユダは、荒々しい動きを見せるナザレのイエスを不完全だからといって封じ込めずに、手のひらの上で遊ばせている。もちろん、メシアへの期待をこめて。
「でもマリア、僕たちは怖ろしい夢を同時に見た……」
ラザロが、ふっと寂しそうな目を見せる。
「何のこと? 水草はこの先育てられるし、濁流もいずれ清流になる。すべて予定通りではないの」
「そのつもりだった、でも狂いが生じた。ナザレのイエスの力は神の子を凌駕して、あまりにも強大すぎたのだ。浄化されぬまま濁流は激流となって、すべてを呑みこもうとしている。このままでは人間はおろか、地上全体に裁きが下りるだろう」」
ユダが、ラザロの肩に手を置いた。恨めしそうに呟くと口を結んだ。愕然と食卓の上に頬杖をついて、しきりに何か言いたそうにマリアを見つめてくる。
ヨハネは、ナザレのイエスに洗礼を授けたのではないの。ならば聖霊と繋がっているはず。ではどうして、これほどまでに脅威を覚えているの。見つめるユダに聞いた。
「ナザレのイエスは間違いなく、ヨハネから洗礼を受けたのですね」
「ん、見ていたのではないのか」
ユダは、不可解に首をひねってから続けた。「受けた。けれど聖霊の象徴である白い鳩は、逃げた」
「それは、天が祝福に値するものでないと判断したから?」
「そうとは断定できないな。ナザレのイエスの洗礼に対する考えは、邪な気持ちを消そうが消すまいが、あくまでも聖霊と繋がりを持つことであって、ヨハネが主張する洗礼とは異なっている」
「異なる? どのように」
マリアは、ユダに反問しながらヨハネへ目を向けた。
「贖罪である。私の洗礼は罪を告解して改悛しなければ、聖霊と繋がりを持てないのだ」
「それだったら、どこにナザレのイエスの間違いがあるのでしょうか。同じ神の子でも、イエス・バラバと違って、ナザレのイエスは罪を犯していません。罪を犯していない神の子が、贖罪する必要などないと思うのです」
なぜかマリアは、脅威を感じながらも、根源の霊質を信じたい気持ちが強かった。
矛盾していると分かっていた。でも熱情の子を演じ、自らの境涯を堕したイエス・バラバでさえ、女神の心をあれほど動かしたのだ。メシアとなるべく神の子に罪があるはずがない。
「あなたは、神、いや神の子がその力を持って地上に君臨しようと思っているのが、罪でないと言われるか。いな、大いなる罪である。たとえ人間であっても大我を忘れ、小我に走れば罪であるのに、神我を感じさせぬ行為、赦すまじきものである。霊質が薄まり、肉欲に負けた証拠だ。あのときのナザレのイエスは、情念が完全に肉体を支配していた」
「なら、なぜ洗礼を授けたの。拒否することだって可能だったはず」
「固辞した。だが私はバラバを知っていたし、少し楽観してもいたようだ。まさか、これほどの力の持ち主だとは思ってもいなかったから」
「でも洗礼によって神の子の霊質を取り戻し、天から祝福を受けたはずです。白い鳩は現存していたのですから」
マリアには、白い羽をきらめかせて飛翔する鳩が見えていた。
「そういえばあのとき、あなたは川の上流、葦の繁みから見ていた」
ヨハネが、思い出すようにして言った。
「確かに洗礼の瞬間を、この目で見た記憶が鮮明に残っています。夕日に赤く焦がされた大地が、その一瞬、すべて金色に輝きました。でも聖霊の象徴である白鳩は、舞い降りたのではなく舞い上がった。私にはヨハネに別れを告げているようにも見えました」
「ならばヨハネ、急がなくては無になってしまう」
ユダが、ぎしぎしと歯を軋ませてヨハネを急かした。
「むだだ、我らの行動はすべて読まれている。何をしようと、ナザレのイエスの手のひらの上で遊ばれているのだから」
ヨハネの口から、思っても見ない消極的な言葉が放たれた。そんな……遊ばせているのは、ヨハネ、あなたではなかったの。
まざまざと構図が見えてきた。事実は逆だったのだ。だとしたら、ヨハネがマリアにしようとしている行為は、ナザレのイエスが目論んでいる行為かもしれない。それをヨハネは知っているのだろうか。
「ヨハネ、あなたの核心の話というのは、私に洗礼を授けることなのですね。でもそれは、ナザレのイエスが望んでいることでもあるのではないでしょうか」
「知っていたのか、マリア――」
ユダが声を上ずらせてヨハネを見た。
がヨハネは、マリアに行動を見透かされてもなお瞳を凛とさせている。
「熱情の人は、私から洗礼を受けてもなお熱情のまま葛藤している。だから肝心なことは、あなたの目が曇らずにいてくれること。油を注ぐことではなく、伝授された愛の光を認識させることなのだ。つまり私との洗礼では、より熱情との深まりを強めただけで愛とは繋がらなかった。それほどまでの強大な力、残るはあなたに託すほかに道がないのも現状である」
「この私に重大な決定を託すということですね。それがヨハネ、あなたの渇望」
「話せば長くなるが、あなたの崇める豊穣神とは、過去世において旧知の間柄。私に自然の素晴らしさを教え、心を育ませてくれた師である。でも、神と師では違うのだ。マリア、私から洗礼を受けよ。さらに深い真理を知るのだ。そうすればその先にあるものが見える」
言葉が頭へ突き抜けた。ヨハネは、バアルら神々を知っていた。なら誰であるかも想像がつく。洗礼と贖罪の意味も肯ける。バアル神たちが、初めて愛した人間こそがヨハネなのだろう。
それだけではない、ヨハネは、ラザロやユダの知りえない秘密を知っている。
受けよう。
「分かりました、この私に洗礼を授けてください」
心を掻き乱されることなく言った。
ラザロとユダが「おお!」と、小躍りして喜んだ。ヨハネは、真っすぐにマリアを正視して頷いた。
扉を開け、空を見上げると、すっかり雲がとり払われている。ユダが一面星が降る中を、皆より先に外へ出た。振り向くこともせず葡萄畑を抜けて、すたすたと東方向へ走っていった。
「ここからは、ヨルダン川が見えても道なき道です。ユダ、あなたはどこへ行くの」
マリアの問いにユダは答えず、無言で笑顔だけを返してくる。
ヨルダン川へ行くのなら歩いては行けない。どうしてロバに乗らずに走っていくの。マリアはユダの行動が不可解に思えた。
地下に水脈があるといっても、ごつごつとした岩地を掘るわけにもいかないし、雨季を前にして水源はない。それにヨハネの能力が、雨を呼びよせる力まではないと感じられたからだ。奇跡が起こるとしたら、繋がる聖霊がよかれと判断したときだけに限る。
ユダの姿が小さくなると、ラザロの切望じみた声が耳に届いた。
「マリア、僕たちに天の加護があれば、きっと思いは叶うよ。ヨルダン川に行かなくてもいいんだ。もし思いが通じなければ、間違いとあきらめるしかない。それが天命なのだから」
「つまり、この満天の星の中でひたすら雨を待つということなのね」
極端に雨の降らない初秋のベタニア、雨どころか曇る気配すらなかった。果たして思いが叶うのか、マリアは不安を募らせた。
3
ユダは月と星明りを頼りに、見当をつけていた目的の場所へ急いだ。
冬場、山羊を放牧していて偶然見つけた水場だった。なだらかな草地の先に大岩があり、その根元が削りとられたように抉られていた。野生動物たちが寄り添うようにして、憩いを満喫していたのを思い出す。
巡らす視線の先に、その大岩が見えた。ユダは一段と足を速めた。
到着すると、ないのを知っていながら窪地を覗いて水があるかどうかを確かめた。あるわけがない、水は一滴も溜まっていなかった。干からびた土くれが、石と混ざり合って割れているだけだった。
水に全身を沈めてこそがヨハネの洗礼。時代の動きを理解しても、水がなければはじまらない。ユダは、茫然と窪地の上に立ちつくした。
そこへラザロがやってきた。続いてマリアとヨハネも姿を見せる。
マリアが、不安げに言葉を洩らした。
「あなたの洗礼は、あくまでも水にこだわるのですね」
ヨハネの説法の中に『私は水で洗礼をするが、その方は聖霊と火で洗礼を授ける』との、くだりがあるからだろう。
「マリア、運命に翻弄されて流されてしまう人間は数多くいる。それは信じながらも、貫き通す覚悟がないからだ。道化と思うな、失敗を恥じてはいけない。いま眼前には選択すべき運命が二つある。さあ水か火か、どちらを選ぶか、心してもう一度決めるがいい」
ヨハネが重々しく、マリアに再度の決断を迫った。
信じればこそ横たわる二つの運命。ユダに考えられることは、このまま真実に目を塞いで生きるか、切り拓いて、打開する人生を選ぶかということだけ。
ユダはマリアを見た。
分別をわきまえ毅然としているものの、端正な顔立ちの中に、やはりまだ戸惑いを覗かせている。条件が整っていないがゆえの懸念が感じられる。
「創世記ならいざ知らず、今の人間の寿命は生きて六十年しかない。ぐだぐだ考え込んでいたら、あっという間に死が訪れてしまう。できることなら、それを踏まえて答を導いてくれ」
ユダにしても、ヨハネが雨を降らせることができるなどとは半信半疑だ。それでも信じることは大切だ。すべてのはじまりは、信じることから足を踏み出すものと思っているからだ。ユダは、荒々しく決断を促した。
「ラザロ、これを持っていてください」
マリアが、頭にかけていたヴェールを外してラザロに手渡した。窪地に向けて歩き出す。
「決心は本物なんだね」
ラザロが、にこやかにヴェールを受けとった。
「よし!」ユダは感きわまって甲高い声を上げた。
条件が整っていないからといって二の足を踏んでは、自分の幸せも他者の幸せも望めない。マリアは他者のことを考え、自己の安定をすてて、より深い世界へ向けて足を踏み出したのだ。
だから決めるとマリアの行動は迅速だった。躊躇うことなく窪地に飛び降り跪いた。それを見て、煽られるかのようにヨハネも窪地へ降りた。
「マリア、よく私を信じてくれた。悔いのない選択に感謝する」
ヨハネは目を細めて胸の思いを簡潔に伝えると、天に向かっていきなり両手をかざした。相変わらずの星空が広がる中、声を振り絞るようにして叫んだ。
「エリ(神よ)、私らの選択が正しければ慈愛を持って見守ってほしい。願わくばこの地に、この場所に、雨をどうか降らせたまえ!」
夜空に勇壮な声を轟かせ、言葉が吸い込まれるのを確認して続けた。
「また、地上を豊かにする巫女の神々よ。私は、あなたらの真意を知っている。ならマリアの内なる魂を聖霊と繋げ、より無限に近づかせることに同意せよ!」
清廉とした叫びは天に響き渡り、共鳴するかのように幾千もの星が瞬いた。ヨハネが夜空を見つめて動きをとめる。ユダも息をひそめて見守った。
数十秒が過ぎた。だが依然として月も星も輝きを見せたままで、雨雲は一向に現われない。
返答したかに見えた、あの星の瞬きは何だったのだ。ユダの焦燥がぶり返す。ヨハネは、両手を天にかざしたまま微動だにしていない。
さらにまた数十秒がすぎる。なのに雲はいまだ現われず、星はいっそうの輝きを増すばかりだった。
どうか、降ってくれ……。
ユダは天を仰いだまま、岩地へ膝を崩れ落とすようにして祈った。ラザロも跪き、胸の前で指を合わせる。四人の真剣な祈りが一つになった。
すると上空に、わずかだが黒雲が現われ月を半分だけ隠した。のみならず頭上でもくもくと広がっていくのが見えた。
「ああ、神よ――」
ラザロが、わなわなと声を震わせている。目を熱く濡らしている。
そこへ、急速に雲が垂れ込みはじめた空から、ユダの瞼に一滴の雨があたった。それはすぐ連続的な慈雨となり、やがて雨粒は爪の先ほどの大きさに変化して加速した。
目に見える景色が雨粒で白くなった。雨が窪地にだけ激しく叩きつけている。
思いは通じた。我らの考えは間違っていない。ならこれで人々が救われる。
見ると天と地に、きらめく雨の絨毯が敷きつめられている。神と人の思いが繋がっている。
ああ、これこそ、まさに恩寵。ユダは、皆に気どられぬよう泣いた。
だが、異変はそのとき起こった。
とつじょ彼方に現れた光が近づくと、すうっと雨がやみ、ヨハネの膝辺りまで溜まっていた雨水が一気に大地に浸み込み引いていったのだ。
どうして……? ユダは近づく光を凝視した。
ベタニアの方向から一人の男が、ずんずん大地を揺らせながら大股で歩いてくる。一歩近づくたびに、夜空に金光をまきちらし悠然と迫ってくる。
跪いていたマリアとラザロが立ち上がる。両手を天にかざしていたヨハネが、ふっと手の力を弛めて下ろした。
「ナザレのイエスか?」
ユダの発した声にどきりとさせ、警戒感から皆が表情を引きしめる。
もしかして急に雨がやんだのも、ナザレのイエスの能力の為した業。それも、ヨハネの洗礼を阻止するために。
「何てことだ――」
これほどまで強大だっととは、目の前が暗くなった。迫りくる異様な足音に耳を支配された。
「巫女マリア、窪地から上がるのだ。あなたへの洗礼はわたしがしよう」
ナザレのイエスは、他の者には目もくれずマリアへ言った。
マリアは答えない、答えようがなかったみたいだ。それもそのはずと、ユダは思った。
激しく降り出した雨は、あっというまに窪地にいるヨハネの膝までに達していた。双方が望み、天も共鳴した。ヨハネの水による洗礼は目前だったのだ。受けた痛傷は大きい。
「ナザレのイエス。お前はなぜ、こうもヨハネの行動をことごとく邪魔するのか!」
ユダは耐えきれずに非難した。
「ユダよ、もう少し利口であるかと思ったが、それほどではなかったようだ。分からないのなら洗礼を阻止したことについて言明しよう。が、その前に――」
ナザレのイエスは何を思ったか、ユダとの会話を中断して右手をマリアに差し出した。どうしても窪地から上げたいようだった。
マリアは躊躇い、ヨハネを見た。ナザレのイエスもヨハネに視線を移した。まさに一触即発、熱い火花が交錯するかと思いきや、ヨハネは受け流すとマリアに向かって言った。
「人の子がメシアにならなければ、必死に血の涙を流している父の子が憐れだ。マリアよ、ナザレへ行くがよかろう。私は別の道を行く」
「ほう、嫌味っぽく聞こえるが、ユダよりはずっと理解力が深いように見える。ではマリア、わたしの手に掴まるのだ」
マリアもとうとう観念したのか、差し出す手に近づくと握り返した。
ナザレのイエスはにんまりと笑み、いとも容易くマリアを引き上げた。
抱かれるようにして窪地の上に戻ったマリアを見て、ラザロが憔悴させた。立ったまま唇を噛んで、遠くガリラヤの空を見ていた。思いをバラバに馳せているふうだった。いな侘びているようにも見えた。
ナザレのイエス、お前は人の痛みが分からないのか。それとも知っているからこその容赦ない行動なのか。ヨハネを見ろ、ラザロを見ろ。彼ら二人も聖霊からの福音を受けて行動しているのだ。それを、お前はこともなげに打ちのめす。
ユダには、友の屍の上に平然と立って、芝居じみた真理を説いているだけにしか見えなかった。
愚かだ、この先、無知な者がどれほどお前に心酔しようと、そんな浅ましい男の考えに賛同しない。人のために生きるバラバを見て、人間として人間のために生きると決めたのだ。だから、今さら神の子を見すてることに良心の呵責などない。
ユダは、ナザレのイエスを睨みつけた。
「聞けナザレのイエス。お前が、いくら偉そうにしようがかまわない。自由だ。しかし形として同じ人間でありながら、その人間として、いちばん肝心なものが欠けているのを忘れるな」
「肝心なもの? 恐ろしい剣幕で何を言い出すかと思えば、異なことを。それがユダ、天上に達することができても大いに嘆く理由である。いや達するに値しない。もはや、そなたの星は道を迷わせてしまった。ヨハネにも告げる。わたしと争うのをやめなさい。あなたがたは天の国から、使命を与えられたにすぎないのだから」
残酷な言葉だった。何とか反論しようと思ったが、これっぽっちの天上の記憶もないユダにとって、それは無理であった。湧き上がる言葉がぜんぶ卑屈になり、咽喉の奥に引っかかっては消滅した。
「ではユダ、先ほどの質問に答えよう。マリアに必要なのは悔い改めの洗礼ではなく、聖霊と火による洗礼なのである。火とは天上における普遍的慈愛。つまり、そなたらも見たと思うが、魂の上昇のことである。マリアの魂を諸天球の上に昇らせ、至高天に到達させなければならない。それはヨハネには無理だ」
ナザレのイエスはきっぱり断言した。
放たれた言葉が谷間に反響して耳の中でがさごそと蠢く。ユダは、どうしようもない反発を覚えたが、何も言い返せなかった。自身の内に向かって、行き場のない怒りを渦巻かせていただけだった。
「反論がなければ、これよりマリアに洗礼を授けるが、ヨハネよ、あなたの役目は終わった。ゆえに、あなたの心に翼を与える」
ナザレのイエスは、ヨハネに向かって手のひらをかざした。ユダには見えなかったが、波動を放たせたのであろう。風が舞い、ヨハネの長い髪がなびいて、ぱたぱたと衣が孕んだ。
「これで自由だ、どこへでも飛んでいくがよい」
言い放つと素っ気なく背を向けた。
あっけにとられた。仮にもヨハネは先駆者であり預言者だ。百歩譲って感謝の言葉を述べるべきではないのか。とるべき態度はこんな空しいものではない。
ユダは言った。
「お前に慈悲という言葉はないのか。ヨハネに……何をした。答えろ、ナザレのイエス」
「使命の終わりを告げ、感謝の言葉を風に乗せて伝えた」
「感謝だと? どこがだ、少しもそう思えなかったぞ。ならば、なぜ直接言葉で伝えない。それが人間ではないのか」
「相手がユダ、そなたであればそうしただろう。しかしヨハネは、そなたとは違い天上界に住んでいた人間なのだ。風の囁く意味も、言葉の重みも知っている」
怒りが、また行き場を失った。やはり傲慢だ。この男とは決して友愛は生まれぬであろう。ユダは嘆いた。
と、そのとき静かに話を聞いていたマリアが、耐えられない口調で重たい口をひらく。
「ナザレのイエス、あなたの真の望みは何なのでしょうか。一説にはユダヤ人の王として、イスラエルに君臨するとも言われていますが、それが真実なのでしょうか?」
「はっきり言おう。あなたに塗油してもらうことである。だからといって、王になることが目的ではない。救世主となり、イエス・キリストとして生まれ変わり、後世まで教えを広めることにある」
「おお、なら私が油を注ぐべき相手は、あなたなのですか」
王になることが目的ではない。その言葉にマリアは、腫れ物を消し去った気分にでもさせられたのか、おずおずと顔を覗き込んだ。
ユダとラザロは、見るに見かねてヨハネを見た。
ヨハネは漠然と冴えた星空を眺めている。だが、心は萎んでいないようだ。ことさらに双眸の光を強める姿は、いまだ凛々しく、見るからに他を圧倒させる精気を漲らせていた。
心強いほどだ。それがラザロに伝わったのか「違うよ、この人じゃない。マリアが塗油するのはイエス・バラバなんだ。だから洗礼を受けるのならヨハネか、イエス・バラバでなくてはいけない」と、心をナザレのイエスに傾かせるマリアを制した。
ナザレのイエスは、すぐさま言葉を返す。
「無知を持って、神の話を覆うのはラザロであるか。ユダと同じに、心に霧がかかっているようだ。ラザロよ、あなたの語ることは女々しすぎる。愚かな者の戯言である。幸いを受けるのに、わざわざ災いを受けることもないはずだ」
返答は的確だが強い毒を感じた。そのせいか普段けっして怒ることのないラザロが、ぶるぶると身体を震わせた。ユダも憤ると吠えていた。
「何だと! ヨハネの洗礼を、お前は災いと一蹴するのか。ばかめ、それこそ神の計りごとを冒涜する言葉。ついに言ってはならない言葉を吐き、ぼろを出したな。愚者はお前だ!」
ユダの激しい剣幕に、ナザレのイエスは言い返さず、谷を眺め沈黙させた。かといって、気勢に押されて黙りこくってぃるわけではなさそうだった。
口を閉ざすがゆえの緊迫、重み、唯の言葉の応酬にならぬよう計算しつくし間を置いているのだ。
その証拠に、ナザレのイエスのまわりだけ静けさが漂っている。興奮で、ひとしきり頭の中を上気させているユダにとって、むしろその沈黙は、桁違いの静謐さをも感じさせられてしまった。
草原を風がすべる。風は草の切れ目で乾いた砂埃を巻き上げると、緩やかに吹き抜け彼方に去っていく。ナザレのイエスは、ようやくユダに視線を当ててきた。
瞬間、ユダは身を貫かれていた。まるで獅子に睨まれた小鹿のようでしかなかった。思わず死を覚悟させられて背筋に震えが走った。どっと汗が噴き出す。
ナザレのイエスは勝利を確信したかに話し出す。
「ユダよ、ヨハネよ、あなたがたは地の塩だ。だが塩が風味を失えば、何によって再び塩味がつけられるだろうか。もはや何の役にも立たず、道にすてられて地を汚し、足で踏まれるだけである」
ふ、神の子から見れば我ら二人は地の塩か。霊質を垣間見せられたかと思えば、すげなくまた侮蔑。ユダは哀しくなった。
けれども地に蒔かれようが塩は塩。ほんらいの効力を失うことはない。震えがより大きな反発となった。
そこへ、追い討ちをかけるようにして続けてきた。
まず、汝、なお一つ欠く。とヨハネに発してから、ユダとラザロにも目を向けた。
「汝らは世の光なり、また、人は燈火を灯して枡の下に置かず、燭台の上に置く。かくて燈火は、家にあるすべてのものを照らすなり」と。
要するに、光としてナザレのイエスを認めていながら、なぜ告解して弟子にならぬのかと迫っているのだ。また信じぬ者は無用の者と卑下している。
ふざけるな! ユダは、ヨハネとラザロに目配せし、マリアだけを置いて去ろうと決めた。
「ユダよ、我が洗礼を見ずして立ち去るか」
ユダの背に、ナザレのイエスの声が突き刺さる。
言葉の痛さにぴくりと反応した。ここまで貶めて、さらにこのうえ洗礼を見届けろなどと、いったい何を考えているのだ。ユダにしてもヨハネにしても、気力を失ったがまだ心を死なせてはいない。よもや息の根を完全にとめて、その力の前に傅けとでもいうつもりか。
「ばかにするな、気でも違ったのか」
ユダは理解し難い壁を感じながらも、憤然と振り返る。が、イエスはユダを見ていなかった。マリアのそばへ行き手をとっている。せっかく振り向いたのに拍子抜けがした。
「マリアよ。あなたはバアルの巫女として、民を救うという星の下に生まれた。しかしそれでは、あなたの魂は救えない。また民の気分を変えることができても、魂を救うことまではできないであろう。わたしのそばで学びなさい。わたしの足に油を塗り、異教の神々が足もとに傅いたことを証明しなくてはならない。さらに復活を見届けるのだ」
「そこにおいての塗油の意味も、神の子と結ばれることも知っています。でもそれが、ほんとうにあなたなのでしょうか?」
マリアは遠くガリラヤの夜空を眺め、迷いながらも縋りつくような目を見せた。
一見、逆転されたかに見えるマリアの思考。けれど根底にあるのは、真理をきわめて民を救うことなのだと、ユダは知っていた。
バアルでは第一段階の天しか知ることができなかった。それでは民の心も魂も救えないことを確信した。だったら戸惑いをすてて進むしかない。それがヨハネの洗礼を受けようと思った覚悟だったからだ。
ただ、ナザレのイエスの心は錯綜している。ルシフェルの残した根源への反発が、かなりの部分で見受けられる。それを改善させるには並大抵の努力では無理だろう。
だが、マリアに隠されているものも目覚めさせつつある。ユダにはマリアが聖母に見えてならなかったのだ。もちろん錯覚だと理解しているが、女性なら誰しもが持っている本質、マリアが開花させはじめていることは事実だった。
するとナザレのイエスは笑み、揺るぎなく見える眼差しをマリアに返した。
「わたしが、それである――」
その瞬間、マリアがよろよろと膝を崩れさせた。見出せずにいた使命の相手を、やっと確信できたからだろう。目が潤んでいた。
ついにヨハネが口をひらいた。
「人の子よ、勘違いしてはならない。私には、はっきり見える。あなたは復活しない。錯覚するだけでメシアとはならないのだ」
「ほう、それはどういう意味であるのか」
ナザレのイエスは瞬きもせずに、粘りつくような視線をヨハネにぶつけた。
「ならば答えよう。それは、生きかたと死にかたの問題である。たとえ神であろうと神の子であろうとも、肉として生きてまったく罪がないといえようか。ましてや、あなたには外にも内にも敵がいて、その敵を倒すのに力を注ぐのだから。つまり最後には十字架を背負い、罪を購わなくては成就ならないのだ」
「そのことであるなら、わたしにも見えている。わたしは磔にされて三日後に復活する」
「いや、しないのだ。あなたは十字架を背負うこともできずに見すてられる。そこまで見えているのなら知っているはずだ。ゲッセマネで光の神が赦さなかったことを。光の神が赦したのは、父の子イエス・バラバだけだ。バラバは十字架を背負って死に、罪を購って、人々の心にいつまでも生きる。それが地上における、真の永遠なる復活なのだ。あなたは、すぐに人から忘れられる」
言い終えたヨハネが、ぐっと唇を噛みしめた。星を見て目を真っ赤にさせた。ナザレのイエスは声を出さずに目を瞑ると、静かに首を振っていた。
「大丈夫です、ヨハネ、私がそんなことはさせません。必ずメシアに導きます」
凍りつくような緊張の中、弦楽器から一本の弦が弾かれた。立ち込めた緊張を消し、真摯な余韻を残して場をやわらかく包んでいく。
ヨハネを支えていた糸が、マリアの奏でた言葉によってぷつりと切れた。
「マリアよ、そこまでいうなら、ユダを連れていくがよい。ユダは変転の星の下に生まれた男。自らを犠牲にして、邪を善に変える力を備えている。うまくいけば、ナザレのイエスもメシアに変わるかも知れない。それと人の子に別れの言葉を手向けよう。ラザロを愛で動かして見るがいい。彼もまた証し、復活の象徴である。己の内にひそむ古い自我をみごと再生させるのだ。そうすればあなたはマリアの言う通り、主として復活を成し遂げられるかもしれない」
水は、あえて油の下に沈んだ。
「ちょっと待て、ヨハネ。どうしてこの私が、ナザレのイエスに傅かなくてはいけないのだ。それは無理な注文だ。いくら友の言葉でも聞けるものと、聞けないものがある。私は友を守って生きると決めているのだ。仮にナザレのイエスの弟子となっても、いざとなったら裏切ってしまうだろう」
ユダはそこまで言って、はたと気がついた。ヨハネ……お前の狙いはそこなのかと。
「ユダ、私はナザレのイエスのそばにいることに決めました。あなたにも、自分の進むべき道が見えているはずです。この場で共に洗礼を受けましょう」
旋律が一転、執拗にユダを誘う。
きっとマリアは、ユダがヨハネから洗礼を受けてないことを知っている。ということは、どんなにもがこうと予見に映し出された凄惨な死から、逃れられないことも分かっているのだ。
ならばかまわない。回避せず、堂々とナザレのイエスを裏切ってやる。それも究極の場を設定して。
「いいだろう。二人が望むのなら、私はナザレのイエスの弟子となる」
が、その前に聞いておきたいことがあった。
「あなたの名において洗礼を受けた私は、最後の最後、果たして自分の意志で動くのだろうか」
「わたしの意思で動く。そなたは、真のわたしを包むこの肉体を犠牲として、いっとき妄想の中で、すべての弟子を超える存在となるだろう。しかし犠牲となるのはこの肉体だけで、わたしの魂は祝福され、天へ昇っていく」
ナザレのイエスは、高圧的に朗々と未来を説いた。神の子がメシアとなるべくユダの存在を認めているからだ。そればかりでなく、マリアの母性に心を和らげていた。
ユダとマリアは、ナザレのイエスの前に跪いた。
友との別れがやってきた。見届けるとヨハネはくるりと踵を返して、場から去っていく。ラザロがあとを追った。
ユダの胸に傷心の棘が突き刺さったまま、ナザレのイエスによる洗礼がはじまった。見たこともない光が一面に輝き、遠ざかる二人の友の背を寂しく照らした。